Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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なぜ祈りが叶うのか 努力、努力の延長に「祈りが実現」

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
14  どこを見て?
 ―― 「小さい頃、御本尊様の『妙』の字を見ながら祈るんだよ、と言われました。どうしてですか」と聞く友もいます。
 池田 御本尊を見ているというのは、宇宙を見わたし、見おろしているようなものだ。御本尊というのは、簡単に言うと、宇宙の原動力、本体を顕されたものです。だから、御本尊のどこを見ても、宇宙全体を見ているのであり、同じです。
 ただ、拝みやすいのは真ん中あたりを見ることだろう。かつて、私も、先輩からは「『妙』は頭を表しているのだから、そこを見て拝んだらよい」と、言われたことがある。(妙は頭、法は喉、蓮は胸、華は腹、経は足を表すとされる)
 拝みやすいところを見ればよい。
 経典にも「端坐して実相を思え」(法華経七二四ページ)とあります。私たちの立場から拝すれば、「実相」とは御本尊であり、「思」とは信心です。
 端坐して(きちんとした姿で)御本尊に向かい、御本尊を信じて題目を唱えていく――そういう、ひたむきな信心の姿勢こそ大事であって、どこを見て拝みなさいとは、御書に書かれていない。窮屈なきまりなど、ないのです。
 ともあれ、祈りの仕方を自由自在にしてもらっているのは、日蓮大聖人の慈悲です。本人の自主性、性格、立場等、さまざまな境遇を考えて、伸び伸びと信心していきなさい、という大聖人の大きな御境涯です。経典や御書にない形式を押しつけてきたのは、後世の悪い坊主の権威・権力でしかない。
15  御本尊は紙ではないの?
 ―― 「印刷された御本尊が人間のさまざまな問題を解決できるのか」という疑問があるので、祈れないという人には。
 池田 御本尊は印刷かもしれない。しかし、厳然と「力」がある。お金の千円札も印刷です。卒業証書も印刷だ。大臣の辞令も印刷。大事な書類も、みな印刷だ。しかし、何らかの「力」をもっている。
 紙は「物質」であるが、御本尊に書かれている文字は、大聖人の「心」です。「魂」です。
 末法の御本仏である日蓮大聖人の魂を、墨に染め流して書かれたのが御本尊です。(御書一一二四ページ、趣意)
 色心不二、つまり、「物質(色)」と「心」は一体なのです。そこに生命がある。御本尊には仏の生命がある。紙を拝んでいるのではないのです。
 ―― 「文字」の力は、不思議ですね。たとえサイン一つでも、その文字には、その人の性格や福運や、さまざまなことが含まれています。
 池田 教科書も印刷だが、そこに書かれている文字を読み、知識を得て、さまざまな発見をしたり、新たな考えを持つことができるようになる。
 たとえば、看板に「東京駅」と書かれていれば、その漢字三文字の中に、東京駅のさまざまな機能が含まれている。新幹線の発着や東京の玄関という機能も入っています。もちろん、「東京駅」という文字がなくとも、看板がなくとも、東京駅は存在し、その機能は存在する。しかし、皆がその看板を目印として、わかりやすく、たどり着ける。
 ―― 御本尊は、私たちが大宇宙と交流するための、偉大なる文字なんですね。
 池田 携帯電話も、ただ電話を持っているだけでは使えない。電波と電波をつなぐ中継基地がなければ使えない。
 同じように、御本尊が宇宙との中継基地として、宇宙と自分を通じさせていけるようになるのです。
16  祈りは具体的に
 池田 ともあれ、祈りは「具体的」でなければならない。漠然とした一念であっては、「的」を見ないで「矢」を放つようなものだ。
 また、祈れば何とかなるだろうというような、甘えた一念ではなく、「何としても実現していくのだ」という、強き強き叫びがこもっていなければならない。全身全霊をかけた真剣勝負の祈りが、御本尊に通じないわけがない。
 また、自分のことだけでなく、友のこと、家族のこと、さらにはクラスのこと、社会、人類のことまでも祈れる信心になっていけば、その分、大きな自分になっているのです。
 私が三十二歳で会長になって、まず祈ったのは「豊作でありますように。飢饉がないように」「大地震がありませんように」の二点でした。
 また、あるときは「広宣流布のために、自分が大難を一身に受けていこう」と祈った。そして大阪事件(一九五七年=昭和三十二年)では、祈りの通り、無実の罪で牢へ行きました。
 ―― 祈りの次元が全然、違うという感じがします。
 池田 みんなが、まねをする必要はない。また、そんな簡単なものではない。ただ、何を祈っているかに、その人の境涯が表れる。その境涯を高めるために、「祈り」という崇高な修行があるのです。
 そして、祈った通りの結果を出すために、だれよりも真剣に行動していく。そこに「信仰即人生」の正義の軌道がある。その軌道を、毎日、たゆみなく歩んでいく人は、年とともに、どっしりとした「大樹」のごとき自分自身になっていくに違いない。

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