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日蓮大聖人・池田大作

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勤行・唱題とは 信仰は人生のエンジン! 唱題でエンジンをかけよ!

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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24  「数珠」の意味
 ―― お数珠に意味はあるのでしょうか。
 池田 数珠は、基本的には、房が三本ある方を右手に、二本ある方を左手にかけ、真ん中でよじって用いる。三本の房は頭と両手。よじったところはお臍。二本の房は両足――数珠は、人間の体をかたどっているとも言われる。
 小さな珠は百八個ある。百八の煩悩、すなわち″悩みのもと″になる欲望などを表している。これよりさらに小さい四つの珠は四菩薩を表す。四菩薩というのは、法華経に説く地涌の菩薩の四人のリーダーのことです。
 ―― 上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩ですね。
 池田 それぞれ深い意味があるが略します。上行菩薩の本体は日蓮大聖人です。すべての人間を永遠に救いきっていくというのが四菩薩の力です。要するに、数珠には、御本尊に勤行・唱題することで、すべての「悩み」を「幸福」のエネルギーへと変えていける――そういう意義が込められているのです。また両手を合わせるのは、妙法との「境智冥合」を意味するし、十の指を合わせるのは「十界互具」を表す。十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)の各界がバラバラではないということです。バラバラではないからこそ、仏界の力が九界の現実生活のうえに表れてくるのです。
 ただし、数珠とか仏壇とか、お線香とかは信仰の「形式」の面です。形式は、時代や場所によって変わるし、変わってもかまわない場合が多い。
 大事なのは信仰の「中身」です。そして御本尊を信じて勤行・唱題する(自行)。また人にも妙法を教えていく(化他)。この実践は永遠に変わらないのです。
25  「本尊」とは「根本尊敬」の意味
 ―― 「本尊」とは、どういう意味でしょうか。
 池田 「根本尊敬」という意味がある。「根本として尊敬する対象」です。
 無宗教という人にも、何か、心の底で、いちばん尊敬しているものがある。その人がいちばん大切にしているもの、それが本尊です。
 口では何と言おうと、ある人は、「お金」が本尊になっている。ある人は「地位」が本尊になっている。ある人は「恋人」や「家族」が本尊になっている。ある人は「知識」が本尊になっている。また、漠然とした神とか天とか真理とかを本尊としている人もいるでしょう。
 根本として何を尊敬して生きているか――本尊によって人生が変わってしまう。
 日蓮大聖人の仏法では「仏の生命」を本尊とする。大宇宙と一体の永遠の大生命を本尊とするのです。しかも、その本尊とは、決して、遠いところにあるのでも抽象的なものでもない。自分自身の生命そのものでもある。
 日蓮大聖人は言われている。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」――この御本尊は、まったく別の所に求めてはならない。ただ、我ら凡夫が御本尊を信じて持ち、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉体の中にいらっしゃるのである――と。
 自分自身の中にも、永遠の大生命がある。胸中に御本尊がある。最高の人間尊敬、生命尊重の思想です。その胸中の御本尊を呼び顕すために、大聖人が御自身の生命を一幅の御本尊として顕してくださったのです。
 勤行・唱題は、ある意味で、いちばん、簡単な修行です。滝に打たれるとか、特別な苦行をするわけではない。大聖人の仏法が「最高に優れている」ゆえに、「最高に簡単な修行」で、仏界の生命を涌現できるようになったのです。機械だって技術が進めば進むほど、操作は簡単になる。
 一方、自分の生活の場で行う修行であるゆえに、惰性になりやすいし、続けるには、これほどむずかしい修行もないかもしれない。しかし「毎日、少しずつでも続けよう」と挑戦していけば、自然のうちに、自分の生命の中に「幸福への道」ができあがっていく。不幸の方向へ流されない「生命の防波堤」ができていくのです。

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