Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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高等部、中等部合同総会 「南条時光」の外護の信心に学ぶ

1986.8.4 「広布と人生を語る」第9巻

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9  この行智らの策謀による熱原法難で、多くの信徒が次々に捕らえられた。南条時光は、法を護るために、ついには幕府の迫害を覚悟で捨て身の戦いをする。それは「正法」のために身命を賭しての背水の陣であった。
 こうした奮闘に対して、日亨上人は「南条家は御遺文に見えぬとても、事件の萌芽発生より後々の尻拭ひまで、即ち建治元年より弘安四年まで前後七年の大苦労であった」(南条時光全伝)と記されている。
 先にも述べたが、日蓮大聖人は、このとき、時光の信心をめでられ、「上野賢人殿御返事」としたためられているように、「上野賢人」との最大の称讃をされている。そして、この御書で「此れはあつわら熱原の事の・ありがたさに申す御返事なり」と仰せられているのである。
 法難に対して、時光は真剣に戦った。逆に、法難のときに退転する人はあまりにも多い。それは、まことの信心、信念ではない。
 いつの時代にあってもそうである。他の宗教団体では、難とともに衰微し、崩壊してきた歴史が多い。しかし学会は難があるたびに発展してきた。これは強信なる人が多いからである。どうか、諸君もこの強盛なる信心の道を後継しゆく一人ひとりであっていただきたい。
10  青年に託す後継の道
 弘安三年、こうした戦いのなか、時光は弟の七郎五郎をともなって身延の大聖人にお目通りしている。このとき弟の七郎五郎は十六歳であった。
 優美な姿で剛健な気質をそなえた、偉丈夫の七郎五郎を御覧になった大聖人は、「あはれ肝ある者かな男や男や」とめでられている。そして兄の時光とともに日興上人のもとで、これから広宣流布の戦いに大活躍するであろうと、期待されていたにちがいない。
 しかし、残念なことに、お目通りした三か月後に七郎五郎は急逝してしまう。これも、私には深い意味があると感じられてならない。
 日蓮大聖人は、この七郎五郎の訃報に接し、ただちに筆を執られている。
 上野殿御書に「南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」と仰せである。
 大きな期待を寄せられていた七郎五郎の死去を、大聖人が深く嘆かれ、その死を”夢か幻か”と慨嘆された御文である。その後も、若き後継者の逝去を深く無念とされたのであろう、七郎五郎の死を悼む御書は、十編にものぼっている。
 わずか十六歳の青年の死である。その死去に対し、御本仏みずから十編もの御書を著され、くり返しその死を悼んでおられるのである。大聖人は、どれほど強く、若き後継の門下を信じ、頼りとされていたか――。
 私は、後継の青年に限りない期待を寄せられた大聖人の御心情を、深き感動をもって拝してきた一人である。私には、広布の未来を託しゆく青年諸君が大事で、大切で仕方がないからだ。
 むろん、ご両親にとっても、諸君は大切な存在である。とともに、「永遠の法」たる仏法を奉じた諸君は、人類の未来の、恒久平和、広宣流布のための至高の存在といってよい。諸君のこれからの活躍は、五十年、六十年、さらには七十年にもわたるものとなろう。妙法流布をめざす、その間の諸君の活躍が、どれほど尊く、重要なことであるか。私は、この一点を見つめながら諸君に訴えておきたいのだ。
11  熟原の法難の余韻が残る弘安四年、今度は時光が病で倒れた。法難による疲労もあったかもしれない。期待するすばらしい後継の青年である。大聖人は、それはそれは深く心配なさった。ただちに、「いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候」「是にて待ち入つて候べし」と御手紙を書かれている。
 ”医者にも早くかかって、ともかく早く病気を治しなさい。そして一日も早く参詣し、元気な姿を見せてほしい。私はここで、あなたの来るのを待ちわびていますよ”との、まことにあたたかいお言葉である。このお言葉をみても、大聖人が若き時光を、どれほど大切に思い、期待されていたか。その御心情が、私には身にしみて迫ってくるのである。
 この大聖人の激励に、時光はひとたびは全快する。しかしそれもつかのま、翌弘安五年には再び大病を患うのである。このとき時光は二十四歳。また大聖人御自身も、持病でお悩みになっていたころであった。
 大聖人は五老僧の一人である日朗に代筆させて、時光の病気平癒を願い、その書(伯者公御房消息=昭和新宝日蓮大聖人御書にある)を日興上人を通して時光に送られている。
 その大要は、まず「南条七郎次郎時光は身は小さき者なれども日蓮に御志し深き者なり」――時光は、身分こそ高くはないが、日蓮大聖人への信心の志深き、立派な若者である、と。
 また「たとい定業なりとも今度ばかり閻魔王助けさせ給えと御誓願候」と。たとえ定まった宿命の病であったとしても、閻魔王も、このたびばかりはこの大切な時光を助けたまえ、絶対に死なせてはならない、と誓願した、と仰せなのである。なんと深き大聖人の御慈愛であろうか。
 しかも大聖人は、代書ではなお満足なされず、三日後に病をおして御自ら筆をとられ、全魂の一書をしたためられる。これが有名な「法華証明抄」である。
 かくもたび重なる御本仏の激励――大聖人が、どれほどまでに時光のことを思っておられたか。広宣流布の人材ともたのむ青年を、どれほどまでに大切にされておられたか。あらためて、その御心情が、私には惻々と身にしみ感じられてならない。
 私もまた、諸君に期待する以外にない。諸君の先輩には、幹部になりながら心傲り、誓いを忘れて、広布の前進から去っていった人もいる。これからも出るかもしれない。私は、そうした濁った大人たちが何を言おうと、また何をしようと、いささかもとらわれることはない。私には信親し愛する大切な君たちがいるからだ。私は、純粋なるわが高等部の諸君、また中等部の諸君に心から期待している。
12  「法華証明抄」で時光を激励
 「法華証明抄」は別名「死活抄」ともいわれ、南条家に賜った数多くの御幸のなかでも、とりわけ重要な意義をもっている。日蓮大聖人御自ら、同抄の冒頭に「法華経の行者 日蓮花押」(御書1586㌻)とお認めになっておられることからも、その重要性を拝することができるであろう。
 この「法華証明抄」が著された弘安五年は、大聖人が御入滅になられた年である。今まさに今世での御生涯を終えようとされる大聖人の、一人の若き青年信徒を思われる、あまりにも深き大慈大悲のお姿――この御本仏のお姿を、私どもは絶対に忘れてはならない。
 また、同抄の冒頭には、「末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば法華経の御鏡にはいかんがうかべさせ給うと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なり」と。
 この御文の大意は、末代悪世に生まれて法華経を信じ、三類の強敵を受けながら折伏・弘教を行じゆく人は、過去世で十万億の仏を供養した功徳によるものであるとの仰せである。
 法難に身命を捧げて戦いぬいた南条時光への、この日蓮大聖人の御心は、もったいなくも、現代にあっては、私ども創価学会の幾百万の同志への御称讃でもあると、私は信ずる。広布のため日夜、献身的に戦う人こそ最高に尊い人である。過去世に十万億の仏に供養した大功徳を確信していくべきである。また、その大福運は子孫末代にあまねく輝きわたっていくことを確信していただきたい。
 「しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫・武士の家に生れて悪人とは申すべけれども心は善人なり……天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ、又鬼神らめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか
 この御文は、大聖人が時光を悩ます鬼神を厳しく叱っておられるところである。ご存じのように時光は、武士という殺生を業とする身分に生まれてきたがゆえに、一応、悪人といわれるかもしれない。しかし大聖人は、時光の強盛な信心と法華経流布に捧げた不退転の姿を通し、「心は善人なり」と称讃の言葉を贈られているのである。
 そして、時光の成仏は、もはや決定している。そこで天魔・外道が病によって時光の信心をぐらつかせようと試しているのであろうか。しかし、命は限りあることである。驚くことではない、とあたたかく励まされている。最後に、病魔を厳しく叱られ「日蓮が言をいやしみて後悔あるべし」と、この御書を結ばれているのである。
 こうして大聖人が、それこそ魂塊をとどめて激励・指導されたおかげで、時光は五十一年の寿命を延ばす宿命転換を成し遂げ、その生涯を広宣流布に捧げたわけである。
13  時光は大聖人御入滅後も、二祖日興上人に真心からお仕え申し上げ、報恩の誠を尽くしている。このことは堀日亨上人の『南条時光全伝』にも書かれているとおりである。晩年は入道して「沙弥大行」と名のった。ときに五十八歳であった。私も現在、五十八歳であり、令法久住に生きぬいた時光の心情に共感をおぼえる。時光は任官して「次郎左衛門尉入道大行」と称して、正慶元年(1332年)、七十四歳でその生涯を終えている。
14  時光の生涯について、もう一歩深めて諸君に申し上げたい。
 先ほども申し上げたように、青年指導者である南条時光は、十六歳のときに自ら身延の沢を訪れ、大聖人にお会いしている。そして、お目にかかった後、すぐに御手紙をいただいている。
 その御手紙の追い書きには「人にあながちにかたらせ給うべからず、若き殿が候へば申すべし」と仰せである。
 つまり時光はまだ若い。往々にして年寄りはずるくて、くさみがあり、保守的で、大仏法を説いてもなかなかわからない。求道心にとみ、みずみずしく吸収していく若い人々と話をしていきなさい、との意味である。
 このことを通しても、大聖人、また日興上人が、後継の人材を育てるうえで、どれほど細かい気配りをしているかがうかがわれる。
 日亨上人も『時光全伝』で、時光を「本宗唯一の青年信士」と述べられている。すなわち、日蓮門下で第一の立派な青年信徒であったと讃嘆されているのである。
 南条時光は、すでに両親が入信していた。今でいえば幼い時から信心した”二世”にあたる。その意味で、諸君も現代の若き”南条時光”として大いに成長していただきたいと、私は念じている。
15  大聖人は、父の跡を継ぎ強盛なる信心を貫いている時光に、このような御手紙も送られている。
 「こうへのどの故上野殿をこそ・いろあるをとこと人は申せしに・其の御子なればくれないきよしをつたへ給えるか、あいよりもあをく・水よりもつめたきこおりかなと・ありがたし・ありがたし」との有名な御文である。
 その大意は「亡くなられた兵衛七郎殿は情に厚い父親であった。その御子息であるあなたも、御父のすぐれた素質を受け継がれたのであろう。心が清らかで、あたかも”青が藍より出て藍より青い”との道理のごとくであり、氷が水より出来て水より冷たいようなものである。ありがたいことである」との感嘆のお言葉をたまわっている。
16  妙蓮寺の変遷について
 総本山大石寺の近郊にある妙蓮寺は、伝えによると南条時光の屋敷をそのまま寺院となし、今日に続いているといわれる。時光の夫人・乙鶴の法号が妙蓮であったことから、これをそのまま寺号と定めたとされている。
 現在の本堂の建立は、私が発願させていただいたものである。
 この妙蓮寺は本堂が大正のはじめに取り壊され、そのままになっていたが、その本堂が六十年ぶりに新しく建立されたのは、昭和四十九年の三月二日であった。
 妙蓮寺は、総本山からも近く、心和むところでもあったところから、私も幾度か参詣させていただいた。その当時の御法主上人は第六十六世日達上人であられた。
 これは、自讃するつもりではけっしてないのだが、また御法主上人のお言葉を自ら申し上げるのはもったいないことではあるが、諸君も同じ心で外護の誠を尽くしていただきたいという意味から、事実は事実として伝えておきたい。
 昭和四十九年三月二日の妙蓮寺・本堂落慶入仏法変の折、第六十六世日達上人が奉読された慶讃文がある。
 「それ妙蓮寺本堂の地は 宗祖大聖人より上野賢人の佳名を給わった南條時光の邸宅の その遺址の地なり(中略)
 大行尊霊は大聖人の大檀越の一人にして 大聖入滅後は謗法に屈せず日興上人を授けて大石寺を建立し 日蓮正宗の基礎を造れる大篤信の賢人なり
 この大行尊霊去りて 六百四十二年昭和四十九年 今また大行尊霊に継ぐ大篤信の偉人あり そは法華講総講頭池田大作なり 今やこの人により宗門は 総本山を初め各本山及び末寺に到るまで 廃れたるを起し 新寺を建立し 信徒は日々に増大し 一躍大宗門の名により世界に周知せらるるに至る
 之れ池田大作の信心の威徳 功績のいたす所にして 全く 昭和の大行尊霊とも云いつべし 日達 妙蓮寺本堂新築再建慶讃の式に当り 御宝前に 総講頭池田大作の徳行を称え 御本仏の冥加を得て 願わくば此の功徳を以て普く一切に及ぼし 宗門一層の隆盛と広宣流布並に世界平和を希う」――。
 信徒として御法主上人の称讃ほど光栄なことはない。広布後継の使命ある存在である諸君たちは、どうか、もったいなくも御法主上人より讃嘆され信頼されたこの創価学会の大道を永遠に歩みゆかれんことを、心からお願いしたい。
 この三月二日の落慶入仏法要には、私は残念ながら参列できなかった。フランス社会党の執行委員で、有名な社会運動の理論家であったジル・マルチネ氏との会談があったためである。このことを今でも申し訳なく思っている。
 私に代わって、当時、副会長であった故北條浩第四代会長に参列してもらった。そして私は、この法要の四日後、北・南米への四十日間にわたる海外指導の出発の前日であったが、新築なった妙蓮寺本堂に参詣させていただいたのである。
 そのさい、妙蓮寺の御住職であった故漆畑日広尊能師がたいへんに喜んでくださった。また、庭に白梅を記念植樹させていただいた。その折のことは、今も忘れることはできない。
17  法要の日の日達上人の慶讃文は、記念碑としてそのまま妙蓮寺の境内に建立させていただくことになり、昭和四十九年の十月九日に除幕された。
 この記念碑の裏面には、
  うぐいすも 桜も祝う 妙蓮寺
 という、拙ない句であるが、刻ませていただいた。この句の脇書には「本山妙蓮寺第四十四代 漆畑尊能師に捧げる」とある。
 漆畑尊能師は昭和三十年から妙蓮寺の第四十四代の住職を務められた。また静岡北布教区宗務支院長、正本堂落慶法要委員、宗祖日蓮大聖人第七百遠忌局委員などを歴任された。そして第七百遠忌の少し前の昭和五十四年七月に七十六歳で逝去されたが、正宗の興隆に多大な貢献をなされた方であった。
 妙蓮寺は宗門屈指の古刺であり、「富士門流八本山」の一つとされたが、残念なことに近世以降、大石寺とそれほど深い交流がみられず、さまざまな変遷をたどってきた。明治九年(一八七六年)に身延派を含む本迹一致派が「日蓮宗」と称したため、妙蓮寺を含む日興門流の八山は、大石寺を中心に「日蓮宗興門派」と一時、名のった。ところが、大石寺に反する本山も多く、ついに明治三十三年(一九〇〇年)、大石寺は離脱して「日蓮宗富士派」と称した。そして、明治四十五年に「日蓮正宗」と改称したのである。
 昭和二十五年になって、ようやく妙蓮寺だけが日蓮正宗に帰一した。本来の、日興上人が血脈付法され、南条時光が貫いてきた正宗の清流に戻ったのである。
 この帰一運動に真剣に尽力なさった一人が漆畑尊能師であった。現在、妙蓮寺は、私もたいへんに親しくさせていただいている吉田日勇尊能師が御住職をされている。
 また、この妙蓮寺の境内に、日華堂が再建され、去る五月二十五日には御法主日顕上人の大導師で落慶入仏法要が営まれている。この日華堂は妙蓮寺開基の日華上人にちなみ建立されたものである。
 以上、漆畑尊能師のことを含め、妙蓮寺の歴史について少々申し上げた。というのも、漆畑尊能師は品格に優れ、また正法正義については厳正な方であった。だが、妙蓮寺が日蓮正宗に帰一するさい、多くの関係者から「大石寺からお金をもらった。だから帰一するようにしたのだ」との悪口を言われている。世間にはかならず妬みから陰湿な悪口を言う人々がいるものである。
 しかし、そのようなことはいっさいなかったと、はっきりと私は申し上げておきたい。この妙蓮寺の帰一がなって、千葉の保田の妙本寺、宮崎の日向定菩寺など名刹が帰一するキッカケがつくられたのである。その意味で、漆畑尊能師のお名前を後世にお残ししたいがために、本日、若き諸君に話しておくのである。
 妙蓮寺の本堂落慶のさい、漆畑尊能師は七十歳の老僧になられていたが、「きょうは生涯のなかで最良の日です。この寺から宗門興隆の波をつくってまいります。池田会長にはほんとうにお礼の言いようもありません」――このように仰せくださったとうかがった。それは今もって私の胸中に残っている。
 ともかく、漆畑尊能師は富士吉原の貧家に生まれ、早くも五歳のときに出家されている。その後、種々のご苦労をされたが、最後まで正宗の僧として立派な生涯を送られた。そして、日達上人より「上人号」を賜り、当時、総監であられた現御法主日顕上人からも弔辞のなかで「共の功績たるや甚だ大であり、宗門僧俗一同仰いで亀鑑と為すべきであります」とたたえられ、みごとに生涯を飾られたのである。
18  身延離山は末法万年への大法興隆のため
 さて、再び日興上人と南条時光の麗しい絆についてふれておきたい。
 私の大好きな文でもあるが、堀日亨上人は、日興上人御年三十歳、時光十六歳のころのお二人の姿について「青春気鋭のキビキビした法談が梅花と共に複郁と妙香を放った。大石寺の成るも母胎はそこにある」と仰せである。
 ともかく、すばらしい僧俗、師弟の姿であった。この文には、妙法流布の未来へ進みゆく気高い青春の薫りを感じてならない。未来を決定づけるのは若い人々である。若い人に期待をかける以外にない。
 大聖人の御入滅後も、身延には日興上人がおられた。この身延の土地を持っていた地頭は波木井実長という武士で、大聖人から何通かの御手紙をいただいた大信者であった。
 ところがこの波木井実長は、身延の学頭であった民部日向の軟風、邪義におかされ、立像の釈迦仏の造立、箱根・伊豆山の両権現と三島神社への参詣、念仏福士の塔の供養、九品念仏の道場建立という四箇の謗法をおかしてしまう。時が変わると、軟風におかされ、世間に迎合して退転していく。この原理は昔も今も同じであるといえよう。
 すばらしいと思っていた幹部でも退転してしまう。草創期にともに講習会で信心を鍛錬しあった青年部員の少なからぬメンバーも、退転してはならないと誓いあいながら、時とともに退転している。ほんとうに人の心は、はかなく移ろいやすいものである。諸君は断じてそうなってはならない。
19  師敵対の民部日向と、四箇の謗法をおかした波木井実長のために、身延の霊地も、謗法の山と化した。そのため日興上人は、大聖人の正法正義を純粋に伝えていくために身延を離山されるのである。
 そのとき、時光は日興上人に、今の大石寺、当時「大石が原」と呼ばれていたこの地にお迎えしたいと申し上げる。日興上人はたいへんに喜ばれて、末法万年の大法興隆の礎をつくり上げるとの御決心で移られたのである。ときに正応三年(1290年)、時光は三十二歳であった。ここに、末法万年への正法の清流が新たに流れ通いはじめたのである。
 これからの広宣流布の流れを考えるとき、諸君はよくよくこの歴史の教訓を胸に刻んでいただきたいのである。
 かりに多くの先輩が世間に迎合し退転していったとしても、この時光の精神を堅持した若き高等部、中等部の諸君が、かならずや新しい広宣流布の天地を開いていくにちがいないことを私は信じ、期待するのである。

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