Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創価ルネサンス大勝利記念幹部会 「人間のための宗教」を勇んで世界へ

1991.11.30 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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9  教皇は信徒奉仕のしもべ
 「カトリックでは、教皇は信徒に奉仕する″しもべの中のしもべ″と位置づけられてきた。したがって信徒蔑視べっしの考え方は、まったくない」「その点からいえば、日顕法主も信徒の″しもべ″であって当然であろう。だから私は『しもべよ、いばるな!』と言いたいほどである」
 「カトリックでも、(信徒が)教皇や司教(高位聖職者)にひざまずいたりすることは、第二バチカン公会議(一九六二年から六五年)前後からなくなっている。現教皇もそのようなことを要求してはいない」
 「現在の宗門が、″法主本仏論″のような主張を唱えること自体、信徒に奉仕する″しもべ″の自覚がない証拠といえる」
 また「葬儀などの儀式においても、信徒を金もうけの手段にする現状は、宗教の堕落そのものといえる。宗門では、信仰の根本よりも、儀式が中心となってしまっているのではないか。その堕落を助長させた僧侶の養成自体に問題があったとしか思えない。こうした日顕法主ら宗門の現状には、怒るというより、悲しくなってしまう」と。
 「日蓮正宗の僧侶は、これほど学会員に支えられて裕福になっているのである。にもかかわらず、彼らは信徒一人一人のことを、政治家が数える″一票″のようにしか考えていないのではないか」
 「日顕管長は、在家出身ではなく、親子二代にわたる″エリート管長″だそうだが、血統を云々うんぬんすること自体、日本的発想の、おかしなところである。日本人は、なぜそんなに″血筋ちすじ″が好きなのか、理解に苦しむ。仮に親が立派だとしても、子供も立派とは限らない。カトリックでは逆に、特別な血統がないところから、いろいろな人材が出ている。
 現在、ローマ教皇も、伝統を超えて、イタリア人だけでなく他の国からも出ている。いずれにせよ、教団に限らず、団体は常に″新しい血″を入れないと、社会から隔絶かくぜつした組織になってしまう。
 現在の日蓮正宗の宗門は、一部の僧侶による閨閥けいばつづくりが進み、一種の閉鎖社会になっているようだ。このような宗門は″新しい血″を入れて、構造の変化と体質の改善をせねばならないと考えているのは、私一人ではない」
10  信徒が聖職者の逸脱の歯止めに
 「カトリックには、信徒評議会や信徒団というシステムがあり、教団運営にも参画している。そしてまた、これが聖職者の逸脱を防ぐ働きにもなっているとする見方もある。
 評議会の構成は、二十年前ごろなどは世界中の信徒から選ばれた代表十五人と、枢機卿すうききょうを含めた聖職者十五人の合計三十人であった。評議会内では、聖職者は、議決権を持たない″顧問″のような立場であり、最終的には信徒の発言と議決によって物事が決定される。評議会の信徒代表のメンバーは、教皇庁に対して、全世界の教会の在り方について自由に意見を言うことができる」
 すなわち、カトリックでは、このように、信徒の意見を教団に反映する″信徒尊重のシステム″が確立されている、というのである。
 (″少数の聖職者″の独断ではなく、″大多数の信徒″の総意と利益を尊重する──それが世界の大勢である。また在家中心という大乗仏教の精神にも合致しているといえよう。
 ところが宗門においては、こうしたシステムがないばかりか、この十数年間、かえって信徒を抑圧し、法主に権限を集中させる体制を着々とつくり上げてきた。
 また宗門の「C作戦(創価学会分離作戦)」においては「創価学会の法人責任役員の過半数を、日蓮正宗管長の指名する僧侶が占めることを命じます」等の″信徒団体乗っ取り″の謀案が明記されており、仏法的にも、良識的にも、人権上も、まったく″逆行″の体質が、社会の人々の眼前に浮き彫りになった)
 「教皇の出費は、バチカンの国務庁によって決められ、それ以外の金銭は、教皇には渡らない。
 信徒が信仰心からバチカンに出したお金は、すべて教皇庁財務局に入り、教皇が勝手に手をつけることはない。教皇には、財務局から質素な生活費、および公務執行費程度しか支給されていないのが実情である。教皇個人が、日蓮正宗のように、信徒からの供養を勝手に使えるなど、絶対に考えられないし、許されない。
 正宗の宗門は、昔、小さな教団だったので、金銭に関しては、いわゆる″どんぶり勘定″だったのではないだろうか。創価学会による発展とともに、宗門はそうした体質・構造を変えるべきであった」
11  宗風改善の要求は当然の権利
 「(宗門による一方的な登山方式変さらによる)売店の大打撃や、バス会社の副社長が自殺にまで追い込まれたことなど、大石寺の目の前にいる人々の生活を、宗門では、どう考えているのか。これらの人々は本来、大石寺の門前にあって、宗門にとっても、ありがたい存在の人達であったはずである」
 「宗教とは、信仰をもとにしたものであって、企業ではない。創価学会員は、日蓮大聖人への信仰を奉ずる信徒であって、″株式会社日蓮正宗″の平社員などではないはずである」
 「信徒の代表たる総講頭の発言は、大変に重みのあるものである。たとえ法主であろうと、信徒の総意によるものには、耳を傾けるのが当然であろう」
 「また、僧侶の金銭感覚の堕落、信徒蔑視の体質があれば、信徒がそれに対して意見を言い、宗風を正すよう要求するのは当たり前のことである」
 「宗教においては、『変わらざるもの』は何か、『変化すべきもの』は何かを見極みきわめることが大事だ。すなわち、普遍性と特殊性をわきまえることが、宗教発展につながるのである。カトリックにおいても、社会の多様化に伴って、現代という時代への対応・適応が必要になってきた。現代では、独善的・閉鎖的ないき方は通用しないのである。
 その意味で創価学会は、信仰の根本の部分は堅持し、普遍化しながら、布教の姿勢については、現代に適応させようと努力してきたから、今日までの発展を築くことができたのだと思う。
 創価学会員が各地の旧(ふる)い社会の因習を打破してきたように、宗門の僧侶たちが、自ら″広宣流布″に尽力し、血のにじむような努力をしていれば、この点も当然、理解できるはずである。
 ″日顕宗と化した″といわれる宗門の実態を見聞きするにつけ、驚くばかりである。仏法でいう『増上慢』そのものの姿を現出しているとしか言いようがない」
 ──良識の声、正義への励ましの声として、紹介させていただいた。
 こうした識者の意見をふまえて「世界宗教の条件」をまとめてみると、次のようにいえるのではないか。
 (1)民主的な″開かれた教団運営″(2)「信仰の基本」には厳格、「言論の自由」を保障(3)「信徒参画」「信徒尊敬」の平等主義(4)「儀式」中心ではなく、「信仰」中心(5)血統主義ではなく、オープンな人材主義、(6)教義の「普遍性」と布教面の「時代即応性」。
 創価学会はこれらの要件を満たしている。
12  すべては御仏意、飛躍への「好機」
 罷免ひめん、解散勧告、破門と、他のところなら悲しくてつらくて夜も眠れないだろう出来事が続いているが、学会は、全国的・世界的に、どこへ行っても歓声と笑い声ばかり。頭は大丈夫かと心配する人もいるくらいである。
 仏法は一切を変化と説く。また信心ある限り、根本的にはすべて御仏意ごぶっちと拝される。現在の変化も、二十年、三十年という長い目で見ていくことが大事である。
 学会の僧俗和合への努力が、今、報われていないことは、まことに残念なことである。しかし多くの識者からも指摘されているように、宗門が今のままであれば、時とともに荒廃し、宗門内で収拾のつかない状態になることは目に見えている。僧侶のなかからも、危惧の声は多くあがっている。
 本当にそうなれば、大変なことだ。向こうの内紛を、こちらに転嫁されて、大切な同志が、今まで以上に利用され、苦しめられ、傷つけられかねない。それだけは絶対に避けねばならない。
 そうなる前に、宗門のほうから、学会に「無関係の団体」と通告してきたことは、深い意味のあることであろう。後になって、危ないところだったと、はっきり分かるにちがいない。
 私どもには、信心がある。団結がある。すべてが御本仏・日蓮大聖人の御仏意であると確信し、″大安心″で進んでいただきたい。大聖人が私どもを守ってくださっているのである。
13  信仰・原典・平等──新教の3特徴
 学会は今、「宗教改革」を進めているが、ヨーロッパの十六世紀に始まる宗教改革──それは、中世の暗黒の闇を大きく破り、宗教のみならず、社会、時代を大きく動かしていった大事件であった。その理想は何であったのか。当時の堕落した旧教(カトリック)から分離独立した新教(プロテスタント)は、いかなる特徴をもっていたのか。
 それは、次の三点などである。
 (1)人間の救済は、儀式などの形式にあるのではなく、個人の内面の信仰による。
 旧教では、教会が行うミサ(パンとぶどう酒をキリストの肉と血であると信じて食べる聖体拝領を中心とする儀式)などに参加することを重視する。それらの儀式は、功徳を生む善行であり、救済への力となると考える。
 これに対して、新教は、内面の信仰を重視する。儀式をただちに功徳を生み出すものとはせず、各人の信仰によって救済されるとする。
 (2)キリスト教の原典・聖書が信仰の基づくべき唯一の根拠である。
 旧教は、その時々の教皇や教会の考え方に権威を置き、伝承や哲学的解釈を交えながら、しばしば聖書から逸脱した都合のよい教えを説いた。
 新教では、あくまで聖書のみが根本であるとし、それに反する教えを認めない。改革者ルターは、当時、ラテン語(当時の″学問語″)であった聖書を、ヘブライ語・ギリシャ語の原典から直接、自国語のドイツ語に翻訳し、民衆が分かるものにした。
 (3)信者は、一人一人が信仰によって″直接、神に″つながっており、聖職者の介在は特に必要ない。
 当時、旧教では、聖職者と平信徒の間には、身分の上下があるとした。その階級序列は神によって定められたものであると。
 (キリストの母・マリアや「余剰よじょうの善行」をもつとされる聖人を崇拝し、その功徳にすがっての罪のあがないを説く。この考え方が、宗教改革の一因となった悪名高い「免罪符めんざいふ」の販売の背景になった)
 新教は、信仰者すべてが、聖人や聖職者などのとりなしがなくとも、神と直結できるとし、万人が祭司さいしであるとする。神のもとの平等を強調する。
14  戸田第二代会長「学会は御書を通して大聖人と直結」
 かつて戸田先生は言われた。
 「旧教は僧を通じて、神と通じさせた。これは、いわば化儀けぎ(宗教の儀式的側面)に流されて化法けほう(法理的側面)を忘れた姿である。逆に新教は、バイブル(聖書)を通じて神と通ずるというように、化法を重んじた」と。
 形式主義におちいって法を軽んじた旧教を厳しく見つめておられた。このことを踏まえて、もとより次元は異なるが、学会のいき方についてこう述べられている。
 「われわれ学会は、御書を通して、日蓮大聖人と直結していくのである」と。
 戸田先生は、鋭く本質を見抜かれておられた。偉大なる先覚者であられる。
 私どもは大聖人を信じているのである。途中の介在者を根本として信じているのではない。この点を間違ってはならない。そして大聖人の仏意仏勅ぶついぶっちょくのままに「大法弘通ぐづう慈折じしゃく広宣流布」の大願をかかげて、行動し続けている。だれびとも、大聖人と私どもの間に介在させる必要はない。また、介在させてもならない。
 あえて指導者の使命をいえば、大聖人と信徒を直結させるための手助け──それ以外にないはずである。僧侶が、間に立ちふさがって、自分を尊敬せよというのは本末転倒である。
15  大聖人は「報恩抄」にこう仰せである。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」──日蓮の慈悲が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年のほか未来の果てまでも流布するであろう──と。
 根本は、大聖人の「大慈悲」によって、広宣流布は進められていく。その聖業を担う私どもの誉れは無上である。
 また、大聖人は「御義口伝」に次のように仰せになっている。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」──今、日蓮が唱える南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏させるのである──と。
 大聖人の仰せのままに進む人は、だれでも成仏できるのである。「成仏できない」と主張する人は、大聖人に弓を引く者である。
 大聖人は「末法一万年」「万年の外」と仰せである。七百年など、まだまだ始まりにしかすぎない。いよいよ万年の未来へ、広宣流布への新しき、そして、壮大なる希望の出発をしたい。
16  五老僧は御書を軽視した。「本師根本」ではなく、いわば「自分根本」であった。現在の宗門は五老僧のようになってしまった。
 日興上人はどこまでも「御書根本」であられた。私どもこそ、日興上人の正統の門下なのである。
 日興上人の仰せに「本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し」──(かつてインドの釈尊の言葉が中国語や日本語に翻訳されたように)大聖人が使われた日本の尊い言葉についても、広宣流布の時には、かなを用いて書かれた御書を訳して、インドへも、中国へも流布していくべきである──と。
 この仰せ通り、御書を正しく翻訳し、世界中に流布しているのは、我が学会だけである。
 学会は、この日興上人の御精神のままに御書根本に進む。宗祖・大聖人も日興上人も必ずやお喜びくださり、御称賛くださっているにちがいない。
 日興上人の御遺誡ごゆいかいには次のようにある。
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」──その時の貫首(法主)であるといっても、仏法に相違して、自分勝手な教義を唱えれば、これを用いてはならない事──と。
 私どもは、日興上人の厳誡げんかいのままに毅然と行動していきたい。
17  「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」
 大聖人はまた、次のように仰せである。
 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」──この御本尊もただ「信心」の二字におさまっている──
 信心がなければ、御本尊のたいはあられるけれども力用りきゆうは現れない。
 こちらの強い信力しんりき行力ぎょうりきが、御本尊の仏力ぶつりき法力ほうりきあいまって、功徳が厳然と現れるのである。「信心」と「実践」のないところに、もはや仏法の生命はない。
 また、このようにも仰せである。
 「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす
 ──南無妙法蓮華経とだけ唱えて、仏になることが最も大切である。ひとえに信心の厚薄によるのである。仏法の根本は信を源とするのである──と。
 成仏は、信心の厚薄によるのであり、あくまでも強き信が根本である。他の特別な権威等によるのではない。また「切る」「切る」といっても「心」は切れない。私どもの大聖人との「信心の血脈」は、だれびとも切ることなどできない。切る資格や力のある者など、絶対に存在しない。
 戸田先生は御本尊のない、″地獄″のごとき牢獄で二年間を過ごされた。そして、あの偉大なる境涯を開かれた。
 そのころ、本山はどうであったか。一番、大御本尊の側にいながら、大謗法によって厳しい罰を受けたのである。
 一切は、信心の厚薄による。信心のある人が必ず勝つのである。
18  どうか、皆さまは、「世界一の朗らかさ」と「世界一の勇気」をもって、「世界一の創価学会」の建設へ進んでいただきたい。そして、大勝利の七十周年をともどもに迎えたい。
 最も大功徳を受けられる、今この時に、悪縁に紛動されて、悔いを三世に残してはならない。学会によって知った、この幸福の人生の軌道を踏みはずしてはならない。どこまでも学会とともに、だれよりも幸福な、だれよりも楽しき人生を切り開いていっていただきたい。
 きょうは本当にご苦労さまでした。風邪などひかれませんように。重ねて御礼申し上げます。

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