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日蓮大聖人・池田大作

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第1章 幼児教育――信頼の世界  

「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)

前後
9  子どもを立派な後継者に
 岡野 よく分かりました。
 それにしても、戸田先生が亡くなった時のことは忘れられません。
 小学二年生の時でした。その日、私が家に帰ると、部屋の中は、電気もついておらず真っ暗でした。
 いったいどうしたのだろうと思って、家に入ると、母が一人で、泣きながら題目をあげていました。
 「どうしたの?」と聞くと、「戸田先生が、お亡くなりになられたの……」と。私はびっくりしました。あまりにも悲しそうな母といっしょに、題目をあげました。
 ですから、二年後の池田先生の会長就任を、両親が心から喜んでいたのを忘れられません。
 当時、私は九歳でしたが、日大講堂で行なわれた会長就任式に、父に連れられて、姉といっしょに参加させていただきました。
 政森 それはすばらしいですね。あの式典に、子どもも参加できたのですか。
 岡野 周りを見渡しても、ほかに子どもは見当たりませんでした。(笑い)
 実は父が、とても大事な会合と聞いて、「大事な会合だから、大事な娘たちといっしょに参加しよう」(笑い)と、私たちにピンクの、とっておきの服を着せて、連れていってくれたのです。
 母は二階で、父と私たちは三階席でした。母が二階席から見上げると、大人たちに交じって、ピンクの服を着た私たちの姿が目立ったそうです。
 子ども時代の最高の思い出であり、人生の原点にもなっているんです。ですから、両親には本当に感謝しています。
 池田 ご両親は、広宣流布という崇高な人生の目的を、大事なお子さんたちに受け継がせていこうというお心だったのでしょう。
 その結果、岡野さんは、こうして創価教育の本舞台で活躍されている。岡野さんの姿それ自体が、ご両親の勝利の証明です。政森さんも、お母さんの信心があってこそ、今がある。
 子どもを立派な後継者に育てることが、自身も、子どもも、福徳の人生を歩んでいく根本の軌道なのです。
 私たち学会員の立場で言うなら、子どもに厳然と「学会の心」を教えていくことです。
 それを忘れて、世間的な名聞名利や、見栄に流されてしまっては、結局、親も、子どもも、不幸になってしまいます。
10  言葉でなく行動で示す
 政森 はい。私も、そのことを、いつも心がけてきました。
 ささいなことですが、子どもが小さい頃、会合に連れていく時は、いつもきれいな服に着替えさせてから行くようにしていました。きれいな服といっても、立派に着飾るということではなく、洗濯した服ということですが。
 「これから、大切な学会の会合に行くのよ」と声をかけながら、着替えさせていたのですが、学会活動の大切さを体で覚えていったようです。
 しばらくすると、「さあ、会合に行くわよ!」と言うと、洗濯した服に自分から着替えるようになりました。(笑い)
 岡野 やはり、子どもに最も説得力があるのは、「言葉」よりも、大人の「姿」であり、「振る舞い」ですね。
 池田 そのとおりだね。
 立派な言葉や教訓を、どれほど費やしたとしても、大人の行動がそれに伴わなければ、なんにもならない。かえって子どもたちの不信感を強めるだけです。
 言葉で教えようとしても、なかなか身につくものではない。自分自身の行動で示し、振る舞いで教えていくことこそ、最高の教育です。
 岡野 以前、ネパールのマテマ駐日大使が、池田先生について語っておられた言葉が印象に残っています。
 「ただ考えるだけでは哲学者にすぎない。ただ行動するだけでは、実行者にすぎない。『考えること』と『行動すること』の両者が“よき結婚”をしてこそ、偉大な人格者となるのです。SGI会長こそ、その人です」と。
 先生の振る舞いを鑑にして、教育者として成長していきたいと思っています。
 政森 昭和五十三年(一九七八年)七月、池田先生は五年ぶりに鳥取に来られました。この時、会員のために全力で行動される先生の姿を、中国方面女子部長として間近で拝見したことが、私の原点になっています。
 この時、先生は中国方面の学会歌「地涌の讃歌」をつくってくださいました。
 岡野 昭和五十三年といえば、宗門問題の最中。新しい前進を期そうと、全国各地で次々と新しい愛唱歌が生まれた年でしたね。
 政森 そうです。この年の五月、広島に来られた先生に、「ぜひ新しい『中国の歌』を」とお願いしました。
 一応、青年部の有志で歌詞の案をつくり、お見せしました。
 先生は、それをご覧になり、赤鉛筆をもって直そうとされたのですが、なにしろ、元の詞があまりうまくできていなかったのです(笑い)。とうとう、その時は完成せず、帰京されました。
 それから二カ月後の七月十九日、先生は関西から岡山に来られました。岡山文化会館に入られるなり、「さあ、この前の続きをやろう!」とロビーでそのまま、歌詞の添削を始めてくださったのです。
 しかし、その日も完成しませんでした。
 翌二十日の夕方、鳥取の米子文化会館を訪問。
 代表との懇談会が終わり、夜になると、外はすばらしい満月でした。
 一切の行事を終えられた先生とともに、会館の庭で、飛び交う蛍を観賞した思い出は、忘れられません。
 人工的な明かりは一切なく、あるのは、満月と、満天の星空と、蛍の光だけ。
 そこで先生は、「さあ『地涌の讃歌』をつくろう」と言われ、原稿と懐中電灯を持ってきて、その場で最後の直しを入れられたのです。そして、とうとう完成。
 見せていただくと、すべて、先生のオリジナルの作詞になっていました。はじめ、三番までしかなかった歌詞は、最後には四番にまでなりました。
 岡野 ドラマチックな誕生の瞬間ですね。
11  一人でも多くの人に何らかの思い出を
 池田 私も、あの時のことはよく覚えています。
 中国方面の皆さんが、喜んで歌っていただけるような歌をと、一語、一語、魂を込めてつくりました。
 政森 翌日は、なかなか会えない鳥取の同志に、できるだけ会ってあげたいとの先生のご配慮で、自由勤行会が連続して開催されました。
 知らせを聞きつけて、会館には、県内中から集まった同志が入りきれないくらい詰めかけたのです。
 一回では終わらず、午前、午後と全部で四回の勤行会が行なわれ、すべてに先生は出席してくださいました。
 とても暑い日で、たしか三七度を記録したと記憶しています。会館のクーラーを全開にしても、会場を埋めた方々の熱気で、部屋はまったく涼しくなりません。
 私は先生の後ろのほうにいたのですが、先生は流れる汗もぬぐわず、同志を激励されていました。髪の毛からは、汗がぽたぽたと肩にしたたり落ちていました。
 この日午後には、二カ所の個人会館も訪問され、また島根の友との懇談会もしてくださいました。
 先生はほとんど休息もとらず、勤行会を終えてもなお、本会場に入りきらない方々のもとへと、あらゆるところに足を運び激励されていました。
 そしてまた、屋外の仮設テントでは、自らスイカを切って、みんなにふるまってくださいました。
 猛暑のなか、少しも休まれることなく、同志のために行動される先生の姿を目の当たりにし、とにかく感動の連続でした。
 池田 あの時は、本当に暑かったね。(笑い)
 一人でも多くの人に、何らかの「思い出」をつくってさしあげたかったのです。
 今は活動の舞台も世界に広がり、なかなか各地にお邪魔できませんが、今もその気持ちは、まったく変わりません。
 一番、苦しんでいる人、最も困難なところで戦っている人、そうした方々を思い、スピーチし、筆を執る毎日です。
12  母の一念は“奇跡”をも起こす
 政森 のちのことになりますが、私が中国方面の婦人部長になる時、この大任をまっとうできるかどうか、悩みました。
 しかし私は、鳥取で会員のために尽くし抜かれた池田先生の勇姿を思い起こし、「そうだ! あの先生のお姿を忘れてはならない! 先生の万分の一でも、私も会員の方々のために働かせていただこう!」と心を決めることができました。
 池田 私のことはともあれ、人々のために尽くす――その生き方こそが、子どもの心に鮮やかに投影され、無言のうちに種を植えていくのです。このてい談も、同じ思いで取り組んでいます。生活と戦いながら、懸命に育児に取り組む方々のために。
 先ほど、紹介したハンコックさんは、お母さんについて、こうも語っていました。
 「母が結婚した当時、黒人は将来に何の希望ももてない時代でした。みんな自暴自棄になり、いつも家庭不和や夫婦げんかばかり。子どもがぐれて、警察沙汰になったり、麻薬に走る家庭も多かった。
 そうしたなか、母は、大きな夢と将来への展望をもっていました。
 今の生活を脱皮し、有意義な人生を送りたい! 子どもにもそうさせたい! そういう夢です」
 ハンコックさんのお母さまは、人種差別の激しい、アメリカ南部のジョージア州で生まれ育った。
 日本に住むわれわれとは比較にならない、大変な環境であったにちがいない。
 しかし、それでもお母さまは、「大きな夢」と「将来への展望」を持ち続けた。
 子どもたちのために。家族のために。
 ハンコックさんは、「母がしたことは“奇跡”だ」と言われた。
 母の一念は、“奇跡”をも起こすことができるのです。
 皆さんもお子さんたちが「大きな夢」と「将来への展望」を抱いて、強く生き抜いていけるよう、励まし続けていってください。

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