Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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4 家族制度の崩壊
「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)
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池田
そうした核家族化、世代の断絶のもたらす損失に対する認識が強くなるにつれて、日本では、たとえば近代的な公共住宅でも、老夫婦との同居を前提にした間取りをもつものがつくられるようになっています。世界的な傾向として、近代は小家族化の方向に歩んできましたが、ふたたび大家族化していく可能性はあるとお考えでしょうか。
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デルボラフ
ドイツでも日本でも、ふたたび大家族制にもどることはないと思いますが、ただ、三世代が一緒に一つの間接的な共同体を形成しうる可能性はあると思います。たとえば、いまドイツで、若夫婦が家を建てるとしますと、老夫婦が泊まれるように設計のなかで配慮し、別居と同居をじょうずに結びつけている場合もあります。
私の教え子の一人がこの道をとりました。彼は、最初、子どもの世話の助けが必要なあいだは、自分の親と一緒に住んでいました。自分が他の大学に招聘されたときには、二階建ての家を新築し、その後、祖父母と同居しました。「両親が子守り役を十分に果たしてくれたので、私たちとしても、これからは両親の面倒をずっと見てあげなければなりません」と彼は言っていました。
まわり道のようではありますが、少なくとも、三世代からなる家族が生まれる可能性が、ここに見られます。これは、祖父母や子どもにとってもさほど悪い解決策ではないと思います。
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池田
同感です。親は子どもを献身的な愛情をもって育ててくれた存在です。こうした恩に感謝する気持ちを失ったならば、それは人間性の大切な何かを失っているということです。
仏教でも儒教でも、東洋の倫理思想は、親への報恩を重要な徳目として説いてきました。これはおそらく西洋の倫理思想においても、程度の差こそあれ、同じであろうと思います。私は老いた親への報恩は、人間の尊厳という根本問題にかかわっていると考えています。
ところで、家族の崩壊という現象は、親子のあいだだけでなく、夫婦関係にもおよんでおり、それは離婚率の増大という数字に顕著にあらわれています。日本においては、第二次大戦後、夫婦とその子だけによって構成される核家族化が進行してきた結果として、まず世代間の隔絶がはなはだしくなったことは、すでに指摘したとおりですが、この核家族の中心である夫婦の絆も弱体化しているのです。
元来、核家族化は、夫婦の絆を強めることになると期待されていました。たしかに老人たちと同居すれば、夫婦は老人たちに気を使わなければならず、とくに日本の場合、嫁と姑との確執は、ほとんどの家庭に見受けられた深刻な悩みでした。
ところが核家族化によって、こうした確執はなくなったものの、別の深刻な悩みが生ずるようになったのです。それは、夫婦のつながりが相互の愛情関係だけになり、しかも、たがいに相手方にのみ責任を求めようとするわがままから、愛情がうすれたり、相手への不満が強まったりすると、適切な助言をしてくれる人もいないまま、別居や離婚に走ってしまうようになったということです。
私は、現代の先進諸国に共通に見られる離婚の増加、家庭の崩壊という現象に対して、深く憂慮せずにはいられません。すでに、その面でもっとも深刻化しているのはアメリカであるといわれていますが、日本もアメリカを追う傾向にあり、ソ連でも、かなり深刻になりつつあると聞きます。形式上、離婚を認めないカトリック教国は別にして、ドイツなどでは、この現象はどのように受けとめられているのでしょうか。
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デルボラフ
日本の場合と同様、近代以前はヨーロッパ諸国でも、たいていは親が縁組みを決め、それも人間的・人格的観点というより、経済的観点が中心でした。つまり、合理性が感情よりも重視されていたわけです。
今日では、いわゆる「恋愛結婚」があたりまえで、離婚の可能性が高くなったとしても、頭から否定すべきではありません。もちろん、情熱がさめてから相手に失望したり、結婚をあたかも誤りであったかのごとく無効にしようとする若い夫婦がずいぶんおります。おっしゃるとおり、こうした状況は、若い新郎新婦が結婚のまえに、またそのあとでも、祖父母のような経験豊かな年配者に相談したり、助言を受けたりすれば、部分的にさけられるものです。
ただ、そのような感情的錯覚だけが、いま東西を問わず増大している離婚問題の唯一の原因ではありません。いまの人は百年まえの人よりも寿命が長くなっていますし、教育を受ける機会も増しているため、よりいっそう精神的に成長できる状態にあります。この場合、男女ともに画一的に成長する必要はまったくありません。おのおのの教育程度や興味に応じて個性豊かに成長してよいのです。
さてここに、いわゆる「中年の危機」という問題がおこってきます。つまり、若くして結婚した夫婦は、子どもが一人前になるころでもまだ比較的若く、しかも残りの人生を自分のためにも使えるため、結婚生活の初期のころにできなかった多くのことを取りもどすことができると考えるわけです。そこで、もっと深く自分をわかってくれる別の相手を見つけるとか、または、もっと満足できる別の仕事を探すかになるわけです。
ここで、あるオーストリア人の外交官の例をあげますと、彼は大使館に勤務している関係上さまざまな国をまわり、妻や子どもたちに変化に富んだ経験を積ませることができました。ところが、妻のほうが離婚を申し出たのです。理由は、すべてを「夫の目で」見ることが急にいやになり、自分の好きな芸術の道を一人で追求したい、ということでした。
このような場合、在来の宗教・道徳的価値観がもはや拘束力を失っている以上、教会の禁令も、聖典上のタブーも、離婚を阻止することはできないのです。
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池田
私が考えるに、男と女が結婚して、夫が夫として、妻が妻として生活していくということは、とうぜんのことながら、どちらにとってもはじめての経験でしょう。そこには、たんに男女間の愛情だけではなく、家庭生活をいとなむうえでの責任がそれぞれに課せられ、それをたがいに助言しあいながら全うしていこうとする、忍耐と思いやりが必要です。それによって困難を乗り越えられることもありますが、ときには、二人だけの努力や知恵ではおよばない場合もありましょう。
そうしたときに、幾多の経験を積んだ老夫婦の助言は貴重な知恵を授けてくれるはずです。かならずしも、それは、夫あるいは妻の両親でなければならないわけではありませんが、大多数の人にとっては、そのような血のつながりのある先輩が、悩みごとも打ち明けやすいし、真剣に心配もしてくれるでしょう。
夫婦の離婚は、そのあいだに生まれた子どもにとっては、まさに重大問題です。もし、それが死別といった不可抗力による場合は、子どももそれをやむをえないこととして受けとめ、かえって残された片親に対する同情と愛情を深め、人間的にもいっそう深みを増すことさえ少なくありません。しかし、もし、それが子どもには納得のできない、夫婦相互のわがままなどによる場合は、大人に対する、さらには人間そのものに対する子どもたちの不信をつのらせ、その人格形成に深い傷を残すことになるのではないでしょうか。
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デルボラフ
両親の離婚が、成長期の子どもにとって、ときとして、どんなにつらい体験であっても、それが唯一の、もっともな解決策である、というような状況もあります。たとえば、夫婦がいつも衝突していて、子どもをおのおの自分の側につけようとしているときには、「悲惨な結末」のほうが「結末なき悲惨」よりもたいていの場合はましなのです。両親が別居したほうが、子どもたちにとっては家庭内の雰囲気もすっきりする場合もあります。
ただ、その場合、子どもたちは、母方と父方のどちらと一緒に住みたいのか、決めなければなりません。一方に決めれば、他方との接触はときどき訪問するくらいになるわけで、その覚悟はしなければならないでしょう。
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池田
たしかに、離婚したほうが夫婦にとっても、また子どもにとっても、かえって大きな不幸を小さなものにできる場合もあることは認めます。しかし、夫婦は自分たちのつくった家庭が自分たちだけのものではなく、二人のあいだに生まれた子どもたちにとっては、おそらく自分たちよりもずっと大きな価値をもつ世界であることを考えてあげなければならないし、そのうえでの決断であるべきだと思うのです。
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エリクソン
(一九〇二年―九四年)アメリカの精神分析学者。ハーバード大学教授。青年期の課題としての〈アイデンティティ〉論を提起。
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