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日蓮大聖人・池田大作

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近代史とキリスト教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
9  さらに最近になると、現代の心理学と社会学が、倫理的・社会的な事柄に関する基本的なキリスト教の前提に挑戦して、功を奏しております。もしかりに、中世のキリスト教徒が、現代キリスト教の教説と実践を見聞することができたなら、当時のキリスト教の教説・実践の多くが、いまや見分けもつかないほど変貌してしまっていることに驚くでしょう。中世キリスト教の、たとえば、宇宙学・地球学・生物学・社会学・心理学上の仮説と呼ばれていたものが、いまやほとんどあらゆる分野で権威を失墜していることは確かです。
 本書の、どこか別の箇所でもすでに論じたように、西洋で宗教が凋落したこと、また宗教が私生活を中心とする領域に遠く追いやられたことについては、私は、何にもまして、社会構造の諸変革にその原因があったと信じています。
 社会の運営に関しては、キリスト教は、もはやほとんどの西欧諸国で重きをなさなくなっています。政治的存在としてのキリスト教の凋落は、教会が自ら自由に操作できる財源が先細りしていることと、経済秩序に対する教会の影響力が失われていることに、正比例するものです。あらゆる教会の聖職者は社会的地位を失い、同時に財政的な報酬の面でも、かなり苛酷な困窮に苦しんでいます。これらはすべて、キリスト教の変貌したありさまを明らかに示すものです。
10  では、キリスト教にあって、いまなお生き続けているものは何でしょうか。たしかにヨーロッパでは、少しずつ教会の土地や建物が売り払われて他の目的に使われ、聖職者の数も減ってはいますが、それでもなお、キリスト教は、多くの西欧諸国で、制度上、かなりの位置を占めています。しかし、道徳的な問題について法律が施行されることがなくなるにつれ、キリスト教は、もはや法律の運用には、さして影響力をもたなくなっています。
 教育の面では、いくつかの国々で、専門的な宗教学校の制度の中にまだその存在を示し続けています。しかしこうしたケースでも、やはり技術・技巧を割高に珍重し、宗教的知識を割り引きして評価する昨今の風潮にあっては、“キリスト教教育”の意義も大いに希薄化しています。イギリスでは、学校での宗教教育が法律上必要とされていますが、これも死文化しつつあります。もちろん、アメリカでは、宗教教育は、たとえ最小限のものであっても、公共教育の制度内では禁止されています。
11  教会は、いまなお各種さまざまな社会的・福祉的な行動や活動の発起人になっています。キリスト教は、他の宗教に比べて、常に組織的構造が強力で、教会がほとんど公共施設なみに配置されているため、教会自体が地域共同体における生活での、明らかな中心拠点となっています。このことは特にアメリカについていえることですが、ヨーロッパでも、教会の礼拝式への出席率が低いスウェーデンのような国々においてさえ、当てはまることです。
 しかし、ますます都市化し、工業化し、きわめて流動的になった社会では、多くの人々がもはや勤労区域を居住区としていないため、共同体生活それ自体が大幅に縮小しています。ほんの特定のグループ、特に老人や幼児たちにとってのみ、地域共同体、というよりはその名残ともいうべきものが、生活を営む場となっているわけです。
 しかも、これらの、ほとんど家の中に引き篭りっきりの人たちにとってさえ、テレビという媒体を通じて、より広い世界が、家庭内にも、日常生活の思考構造の中にも、侵入してきています。しかし、教会はいまなおそうした人々の欲求を何とか満たしており、そしてまたおそらくは、共同体生活とはこのようなものだったはずだという証ないしは思い出という形で、郊外から通勤している、より幅広い層の人々の欲求をも、どうにか満たしています。
12  知的見地からいえば、神学者たちが活発な論議を続けてきたにもかかわらず、一般大衆も、特定の知的階層も、教会の主張することにはさほど関心を払っていないようです。マス・メディアも、キリスト教についてはせいぜい当たらずさわらずの報道をするだけであり、マス・マーケティング、消費主義、営利企業、金融、都市・社会行政体などのあらゆる分野が、教会の存在など、ほとんど気にしないで機能しています。
 私的生活にあっては、キリスト教は、なおいくぶんかの活力を保っています。教会が最も多く利用されるのは、通過儀礼のためと、悲嘆を和らげたり慰めを与えたりするためですが、これらの面では、身上相談所その他の機関による競合がますます激化し、ますます効率的になっている状況の中でも、なお教会は機能を発揮しています。これは、限定的な役割でしかありません。しかし、国民生活、公共生活の万般にわたってその及ぶ範囲が際立って萎縮しているとはいえ、キリスト教の影響力が、もはや消滅してしまったということはできません。
13  池田 科学の発達によって、伝統的なキリスト教で真理とされてきたことが、偽りであるとされるようになっていったことは、西洋における科学と宗教の闘争史という、一つの歴史を形成しています。科学が発達し始めた一つの出発点は、聖書が述べていることの正しさを証明したいという点であったにもかかわらず、科学が明らかにした事実は、結果的に聖書の虚妄性を証明することになったわけです。
 もちろん、古い時代に立てられた宗教が、すべてについて真理を根拠にしていなければならず、現代の科学的証明によって裏付けられるべきであるなどと要求すること自体、無理なことでしょう。しかし、少なくとも、科学が真実ではないと明らかにしているような問題は、その宗教にとって、根本的なことでないことが必要で、宗教が扱っている根本的なものは、科学的証明や批判の埒外にあるのでなければなりません。
14  仏教の場合、たしかに、その世界観においては科学的に認めがたいものもありますが、それが批判され、否定されたからといって、仏教の宗教としての根本的なものは、少しも傷つきもしませんし、揺らぐこともありません。ですから、仏教は、科学と争う必要を認めないのです。
 仏教が根本的に説いているのは、この世界がいつ、どのように創られたか、とかいったことではないのです。人間の心の世界の問題であり、たとえば、貪りや瞋りなどに囚われて行動すると不幸を招く因になる、といった生命の法理です。これは、世界の歴史や社会形態がどうであるかによって制約を受けるものではありません。
 キリスト教も、もちろん、本質的な人間の生き方についての教えを核としていると思いますが、全智全能の神を立て、その教えの不可謬性を守らなければならないということから、科学がそれに対して否定的な事実を明らかにした場合、人々が神への信頼を揺るがす恐れがあるとして、これと厳しく対決せざるをえなかったのでしょう。そして、その頑なさが、かえって宗教の側への、人々の支持を減少させることになったのではないでしょうか。
15  (注1)教皇インノケンティウス三世(一一六〇年―一二一六年)
 教権を極度に拡大したローマ教皇。在位は一一九八年―一二一六年。第四次十字軍を起こし、イギリス王ジョン、フランス王フィリップとも抗争して屈伏せしめた。
 (注2)ローマ教会の最高権能
 中世教皇権はインノケンティウス三世の時代に帝権をしのぐとともに、教皇への権力集中、典礼教会法のローマ化が徹底され頂点に達した。教会改革、異端審問権も教皇の手に集中した。
 (注3)ルター(マルチン)(一四八三年―一五四六年)
 ドイツの宗教改革者。ローマ教会の免罪符販売を批判し、九十五カ条の抗議書を公表。教皇から破門され、宗教改革に乗り出す。『新約聖書』をドイツ語に訳した。
 (注4)パウロ
 キリスト教の使徒、大伝道者。初め熱心なユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害したが、天啓を受けて回心し、ローマ帝国内の伝道に努めた。六四年ごろローマで殉死。本名サウロ。

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