Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 豊臣秀吉による半島侵略  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

前後
8  秀吉の言動を利用した日本軍部
  さて、秀吉は軍を再編成し、一五九七年、ついに第二次朝鮮侵攻を開始します。「丁酉再乱」です。
 結局、この戦争も、李将軍らの大活躍と、秀吉自身の死によって終末を迎えます
 少々気味の悪い話ですが、韓国人が秀吉を憎む理由の一つとして挙げられる、残虐なエピソードがあります。
 秀吉は当初、討ち取った敵の首を塩漬けにして名護屋城に送るよう命じていましたが、その数が大変多くなったため、途中から鼻を切り取って送れと命じました。
 現在、京都の豊田神社近くにある「耳塚」は、実はこの時のおびただしい数の鼻を供養した「鼻塚」であると言われています。耳が含まれているという説から、「耳塚」と呼んだのかもしれません。
 また、日本軍が手柄のために、生きた人間の鼻まで切り落とし、乱のあとしばらくは、鼻のない人が多くいたという話も伝わっています。
 池田 あまりにも、残虐な話です。
 朝鮮国が、善隣を篤く願い、両国の「信」を希求したのに対し、秀吉は極限の「暴力」で報いてしまいました。
  しかし、韓国人としてもっと許しがたく思うのは、二十世紀に入り、その秀吉の言動を利用し、自分たちの正当化を図った、「韓国併合」当時の日本の軍部だろうと思います。
 併合直後、『京城日報』を指導していた朝鮮総督府の徳富蘇峰は、半島の実情を調査しながら、文献に「すべての朝鮮人は、秀吉の侵略を記憶しており、今日の状況に禍を残している」という趣旨を記録しています。
 「禍を残している」という表現から分かるとおり、少なくとも徳富自身は、半島の生身の人びとのことを比較的理解していたと考えられます。
 しかし、この文献は、結果的に日本の軍部によって巧妙に利用された節があります。
 つまり、緊急避難でもなく、正当防衛でもない、大義名分もない残虐極まる侵略の罪を、豊臣家だけに背負わせたのです。
 現状の植民地支配に対し、弁明にもならない弁明を弄したのです。
 池田 権力の邪知です。だからこそ、未来を担う青年は真実の歴史を学んでいかねばなりません。
  結局、歴史を見据えるにも、愛情が必要になってくるのではないでしょうか。
 すべての人に対し真心からの愛情を持ち、苦痛に耐える人を常に援護しようという心がなければ、真の歴史の検証などできないと思うのです。
9  陶工たちを連行した「焼物戦争」
 池田 秀吉が行なった侵略戦争は、「焼物戦争」とも呼ばれるようですね。この戦争で、貴国の多くの陶工たちが日本に連れ去られたといいます。
 その中には、日本で初めて磁器を焼いたと言われる李参平イチャムビョンも含まれていた。今の「有田焼」の、発展の基礎をつくった人です。
 それどころか、九州の名窯のほとんどは貴国からの陶工が開いたものであるといいます。
 陶工ばかりではなく、多くの学者や技術者も連れてこられたと聞きます。
  そのようですね。
 島津藩だけ見ても、連行してきた朝鮮人は二万人を超えるという記録もあります。
 池田 優れた文化人が多く含まれていたでしょう。結局、侵略はしたものの、文化レベルは貴国に及ばなかった。
 以前、『聖教新聞』のインタビューに答えていただいた韓国現代舞踊の第一人者・金梅子キムメジャさんは、「九州の祭りで見た神楽が、韓国の「農楽」にそっくりだった」という旨のお話をされていました。
 貴国から、多彩な文化がもたらされた一つの証左です。
10  両国の学者たちの交流
  文化人・知識人たちは、九州だけでなく、京都や江戸にも、連れて行かれました。連行された知識人の中で最も有名なのは、おそらく姜沆カンハンでしょう。
 姜沆は、丁酉再乱の際、一家ともども日本の藤堂高虎軍の捕虜になり、伊予(愛媛県)に抑留されます。脱出はすべて失敗。しかも縁者を次々と病で亡くし、失意の日々を送るようになります。
 そんななか、日本の近世儒学(朱子学)の開祖と言われる藤原惺窩と親交をもつようになります。
 二人の交流によって、日本の儒学が発展したと言われているのです。
 池田 当時のわが国の学者が、儒教だけでなく、姜沆との対話をとおして、平和の思想を学んでいったことは有名です。
 それが、後に江戸幕府の人びとを感化し、貴国からの文化の通信使の招聘にもつながったと言われています。彼がようやく帰国できたのは、秀吉の死後でしたね。
  ええ。姜沆は一六〇〇年、漢城に戻ることができました。その後、日本での見聞と対日国防策をまとめて「肴羊録」に著し、これは当時の日本の様子を知る貴重な文献となっています。
 一方、藤原惺窩の門下には一六〇四年、林羅山が入り、深き師弟関係を結びました。翌年、林羅山は初めて徳川川家康に謁見して、それが発端となって幕府の文教を任されるようになり、家康の没後も秀忠、家光、家綱らに重用されます。
 林羅山もまた、早くから朝鮮の朱子学者の書物を愛読し、少なからずその影響を受けていたといいます。
 池田 徳川川家康については、私が対談した歴史家のトインビー博士も、高く評価されておりました。
 「朝鮮通信使」を復活させた功績は、誠に重要です。
11  「朝鮮通信使」の復活
  家康は一六〇〇年、関ケ原で勝利すると、すぐに、対馬藩主・宗義智に対して、朝鮮国との和平交渉を命じていますね。
 この一点で、家康と秀吉の人間的な度量の違いが鮮明に表れます。
 かつて、宗義智は、本意でなかったとはいえ、秀吉軍の先兵隊になってしまったと思っていたのに裏切られた、という朝鮮側の不信は、根深いものがありました。
 四年後にようやく、朝鮮からの使節が日本に向かいましたが、偵察の目的が強いものでした。
 使節は将軍・秀忠と、駿府(静岡市)に隠居していた家康に謁見しました。この時、家康は倭乱の際には関東にいて、兵役に参加していない旨を告げて理解を求め、日本にいた捕虜を多数、釈放しました。
 さらに二年後の一六〇六年、朝鮮王朝は国交回復の条件として、「家康から先に、朝鮮に国書を送ること」「先の倭乱で王陵を暴いた犯人を差し出すこと」の二点を通告。日本側はこれを受け入れ、ついに一六〇七年、「朝鮮通信使」が復活します。
 池田 秀吉の侵略と対比して、なんと寛大な条件でしょう。
 ここでもまた、貴国の「大きさ」がうかがえるというものです。
 鎖国制のもと、通商の相手国は清(中国)とオランダだけでしたが、この通信使も「信」を「通」わす特別な友好使節であったと聞いています。
  そのとおりです。ただ、正確には、最初の三回の名称は「通信使」ではなく「回答兼刷還使」でした。「回答」とは日本からの国書に対する「答え」であり、「刷使」とは捕虜を「連れ戻す」という意味です。
 池田 なるほど。この「朝鮮通信使」実はもっと古い時代、日本でいえば室町時代からあったとも聞きました。
 済州島出身の高得宗コドウクチョンも十五世紀中ごろ、通信使として室町幕府に派遣されていますね。
12  五百年にわたる友好関係
  高麗がモンゴルの支配下で弱体化し、海賊・倭冠が盛んになると、室町幕府に取り締まりを要請するための高麗の使節が日本にやって来ました。
 つまり、倭冠は両国の悩みの種であると同時に、一面では「友好交流の促進剤」でもあったのです。
 「通信使」という言葉を初めて使ったのは、朝鮮王朝の成立後、一四二八年の使節からのようです。
 池田 予想以上に古いおつき合いだったわけですね。
  ここで強調したいのは、「通信使」が誕生してから十九世紀末までの四百数十年間、いえ、高麗時代から考えれば五百年以上の長きにわたる間、長い目で見れば韓国と日本は極めて友好的な関係であり続けたという事実です。
 多人数の使節団単位では、すべての通信使を数え上げても二十回ほどでしょうが、当然、使節はそれがすべてではなく、小規模のものなら数え切れないくらいの記録が残っています。
 秀吉の侵略の話が多かったので、逆説的に聞こえてしまうかもしれませんが、こんなに長い時間をかけて、こまめに使節を行き来させた国と国は、他にないのではないでしょうか。
 秀吉の侵略はむしろ、長い友好の時代の中で、ほんの短い期間で最悪の関係となってしまった、特殊な事例とも捉えられます。
 加えて二十世紀の前半は、両国が最も不幸な関係に陥るわけですが、それもこの友好の時代に出べたら、長さとしては「十分の一」にも満たない期間なのです。
 池田 寛大なお心です。私もお会いしたき貴国の元文化相の李御寧イオリヨン先生は、「朝鮮通信使」をはじめとする韓半島との文化の往来が、江戸時代の日本を「武力主義」から「文化主義」へと変えていったと考察されていました。
 具体例として挙げておられたのは、関ケ原の戦いの時、日本には十万丁の鉄砲があったという事実です。
 十万丁といえば、当時の「ヨーロッパのすべての鉄砲」を集めた数より多い。
 その日本が、江戸時代になって、鉄砲を使わなくなりました。
 李先生は、こう指摘されています。それは幕府が、「文化主義」「教養主義」に、生きる道を見いだしたからである。刀や鉄砲を使わなくても、「文の力」で治めることができるーーと。
 その劇的な変化の背景に、韓半島との文化交流があったと指摘されているのです。
 歴史を検証すれば、悠久の友好の時代は、確かに長く続いていた。
 ただ、両国民が、それを「忘れつつある」時代となってしまった。
 もう一度、受け継がれてきた友好の絆を呼び覚ますには、「朝鮮通信使」の歴史を、もう少し掘り下げて検証することが必要ですね。
  そうですね。
 とくに「朝鮮通信使」の往来が、最大の規模で
 行われるころーー雨森芳洲と申維翰シュンユハン、そして新井白石らが織りなす交流史は、もう一度深く、語り合いたいと思います。

1
8