Nichiren・Ikeda
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第20巻 「信義の絆」
信義の絆
小説「新・人間革命」
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8 信義の絆(8)
山本伸一たちが北京に到着した二日の夜には、北京大学の主催で、一行の歓迎宴が行われた。
会場は一行が滞在する北京飯店であった。
席上、北京大学の首脳は、伸一の一行が、図書贈呈式のために北京を訪問したことに深く感謝の意を表し、こう語った。
「山本会長は、今年五月末から、わが国を友好訪問され、帰国後も、実に多くの文章を発表してくださいました。中国と日本の両国人民の相互理解と友情を増進させるために、さらに貢献をされたのであります。
これらの文章のなかに、山本先生の中国人民に対する真摯な感情を、はっきりとうかがうことができます」
伸一は、中国の素顔を日本のみならず世界中に伝えようと、既に中国訪問中から、依頼を受けていた新聞や雑誌の原稿執筆に取り組んできた。そして帰国後も、睡眠時間を削って、ペンを執ってきたのである。
一切の仕事を終えた深夜、執筆に励み、根を詰めたために、肩は凝り、首は痛み、腕が上がらなくなったこともあった。
しかし、彼は黙々とペンを走らせた。
ペンの力は強い。まことの言論は虚偽の闇を払い、真実の光を注ぎ、人びとの心に勇気の太陽を昇らせる。言論の勇者は百万の大軍に等しい。
伸一は、第一次訪中の折、北京での答礼宴で「私たちのこれからの行動を、見てください!」と語った。
その具体的な現れの一つが、この原稿の執筆であったのである。
中国の関係者は、その言論活動に着目し、高く評価していたのだ。
北京大学側の歓迎に応え、伸一がスピーチに立った。
彼は、関係者の真心の歓迎に対し、丁重に御礼を述べた。
そして、創価学会の前身は、教育改革を掲げた「創価教育学会」であり、学会は一貫して教育の向上、発展に尽力してきたことを語るとともに、教育の重要性について言及していった。
「私自身、教育こそ、最後の事業であるとの信念から、最大限の努力を払ってまいりました。
なぜならば、創価学会の目的は『平和』と『文化』の推進にあり、そのために最も重要な意義をもつものが『人間教育』であるからです」
9 信義の絆(9)
山本伸一は、「教育」と「平和」の関係を論じていった。
「世界の恒久的な平和の建設、民族と民族の協調、国家間の平等互恵、人間が人間らしく生きていける社会の創造というものは、『教育』の基礎の上に行われるものであります。
教育こそ、常にみずみずしさと新しい飛躍へのバイタリティーを社会に豊かに満たしていく、人間文化の泉であると、私は固く信じております」
ここで彼は、創価大学について語っていった。
「私が創立した創価大学は、『人間教育の最高学府たれ』『新しき大文化建設の揺籃たれ』『人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ』の三項目をモットーに掲げています。
このモットーは″若い世代が常に民衆の側に立ち、新しい未来を切り開いていってほしい。民衆を守り、平和を守り、平和な世界へより大きな貢献をしてもらいたい″という、私の期待と希望を込めたものであります。
この精神は、北京大学の精神にも通じているでありましょう。
私たちは、『平和』という共通の目標のもとに、未来を開く教育交流を通して、日中両国の青少年が世々代々の友好を維持、発展させていくよう、一層の努力をしていくことを、固くお約束いたします」
平和は、人類の悲願である。本来、それを実現していくことこそ、最高学府の最も重要な使命であるはずだ。
たとえ、どんなに優秀であっても、世界の民衆が戦争や飢餓、貧困、差別などに苦しんでいることに無関心で、痛みさえも感じない、冷酷なエリートしか輩出できないならば、それは既に教育の破綻である。
ゆえに、人間教育が一切の根本となるのだ。
人間をつくれ! 慈愛と正義の心を磨け!――そこに教育の立ち返るべき原点がある。
伸一は、平和など、至高の目的のために、すべての大学、学生が結ばれていくべきであると確信していた。
彼が提唱した「教育国連」構想も、国やイデオロギーの壁を超えた、世界の平和を創造する学生のスクラムをめざすものでもあった。
歓迎宴では、平和教育や教育交流をめぐって、談論の花が咲いた。
10 信義の絆(10)
翌十二月三日、山本伸一の一行は、北京大学のロシア語館で行われた図書贈呈式に出席した。
これには、北京大学の首脳、学生、また、廖承志会長をはじめ、中日友好協会、国務院、北京市の関係者ら百人ほどの人びとが参加した。
「真心を込めて、贈呈させていただきます」
伸一は、贈呈する五千冊のうちの、主立った数冊の書籍と、贈書リストを、北京大学の代表に手渡した。
その瞬間、大きな拍手がわき起こった。
続いて、北京大学の学生代表に、創価大学の学生からのメッセージや論文集、また、この年の十月に行われた、創価大学の第一回「中国語弁論大会」のテープなどを贈呈したのである。
さらに、北京大学の付属小学校の児童には、日本の小学生の描いた絵や書道の作品を贈った。
高価な贈り物は何もない。しかし、互いの考えや思いを理解し合うには、最もふさわしい贈り物であったといえよう。
伸一は、どうやって若い世代の、心と心を結び合わせるかを真剣に考えていたのだ。
彼は、あいさつのなかで、図書贈呈への思いを語っていった。
「人類の未来を担う中国、その中国の未来を担う英知の殿堂である北京大学に、書籍を贈呈したいとのささやかな私の好意を快く受け入れていただき、かくも真心こもる贈呈式まで設けて、お招きいただいたことに、大いなる感激を覚えるものであります。
お贈りするこれらの書籍に、日中両人民の友好平和を願う一市民としての、私の真心を込めたつもりであります。
どうか末永く存分に、この書籍を使っていただき、学生の皆さんのお役に立つとともに、中国と日本との平和友好の絆の一つともなれば、これに勝る喜びはありません」
良書は、青年の精神の滋養であり、また、異文化を理解し、世界を知る最大の教師となる。
トルストイは「良書を読むことは善に対する意欲をかき立てる」と述べている。
伸一の胸には、日中の青年が、互いに深く理解し合い、友情に結ばれ、共に肩組みながら未来に向かって進む光景が、ありありと浮かんでいた。彼はその日の到来を、強く確信していたのだ。
11 信義の絆(11)
山本伸一は、あいさつのなかで、世界各国を訪問して、自分が最も真剣に取り組んできたのが、その国の教育施設の見学や、教育者、学生との対話であることを述べた。
それは、″教育″は人類の未来を決定するカギになるとの、確信に基づくものであった。
さらに伸一は、かつて日本の学生たちの集会で、「日中国交正常化提言」を行った真情について明らかにした。
「中国とは、どんなことがあっても、友好を堅持しなければならない。二度とあの悲惨な戦争を繰り返してはならない――これは戦争によって肉親を失い、苦しんできた私の、若い時代からの信念でありました。
私は、学生たちに、こう訴えました。
『諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。
この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である』
私は、この信念のもとに中国を訪れました。
また、私が贈本させていただいたのも、この信念から教育交流を通し、相互理解を深め、力を合わせて輝かしい未来へ進んでいきたいと念願するからにほかなりません」
学生たちの瞳が光った。日中友好への伸一の烈々たる思いが、胸に迫るスピーチであった。
皆、厳粛な思いで、話に耳を傾けていた。
最後に彼は、こう話を結んだ。
「日中両国の明るい未来のために、また、アジアの平和と人類の繁栄のために、さらにさらに、皆さんと力強く手を携えて、前進していくことを固く約束し、私のあいさつとさせていただきます」
大拍手が起こった。
誰もが感動の面持ちで拍手を送っていた。
伸一は、世界の平和のために、ただただ誠実に行動し抜いてきた。彼の話に、皆が、その「心」を感じたのだ。
「誠実」への共感に国境はない。「誠実」こそが、人間を結ぶ心の絆となるのである。
12 信義の絆(12)
山本伸一に続いて、北京大学側から丁重な謝辞があった。
北京大学の学生の代表は、創大生から贈られた論文などは、「中日両国人民と青年の友情の象徴であり、それはまた、日本の友人の温かい厚意の結晶であると思います」と語った。
そして、日本人民は、中国人民のよき友であり、世々代々、手に手を取り合って、永遠の友好を築いていきたいと述べ、次のように訴えた。
「私たちは、山本会長をはじめ、ご列席の日本の皆さんが、日本人民と日本の青年、また、創価大学の学生に、私たちの気持ちを伝えてくださることを希望しています。
皆さんは、日本の人びとの、中国の人びとに対する友情を携えてこられました。
ここで私たちは、皆さんが中国人民と中国の青年たちの深い友情の気持ちを持って帰られることを祈っております。
本日、山本先生ご一行が、再び北京大学を訪問され、五千冊の図書を贈呈されましたことに、重ねて心から感謝申し上げます」
伸一は、賛同の拍手を送ると、決意のこもった強い語調で言った。
「尊い友情のお言葉、ありがとうございます。
皆さんの、その友好のお気持ちを、日本の人民に、なかんずく青年に、必ずお伝えすることをお約束申し上げます」
また、北京大学の付属小学校の児童代表は、喜びを満面にたたえ、「日本の小さなお友達が中国に遊びに来るように伝えてください」と言ってあいさつを締めくくった。
図書贈呈式の後、伸一たちは、北京大学の図書館を視察した。
図書館の一階には、贈呈した図書五千冊が、力学、数学、医学、工学、日本文学など、整然と分類して展示されていた。
書物を大切にすることは、精神を大切にすることに通じよう。
峯子が伸一に言った。
「お贈りした本を、大切になさろうという心が伝わってきますね。思いやりを感じますね」
伸一が頷いた。
「ありがたいね。私たちの心をしっかり受け止めていただいて」
思いやりと思いやりの共鳴から、友情のシンフォニーが生まれる。友情を深めるには、まず、自身の思いやりの心を深めることである。
13 信義の絆(13)
山本伸一たちは、北京大学の図書館を視察したあと、日本語学科に学ぶ十数人の学生とテーブルを囲んで懇談した。
「皆さんは、日本語を習い始めて、どのぐらいになりますか」
「はい。八カ月です」
見事な発音である。
「上手ですね。では、一緒に日本語を勉強しましょう。私が問題を出しますから、皆さんは日本語で答えてください」
皆、笑顔で頷いた。
「まず、私が言う言葉の反対語を言ってください。『上』の反対は?」
すかさず、皆が「下」と答える。
伸一は、次々と反対語を尋ねていった。
さらに、日本の都市名や、数の数え方についての問題を出した。
時に笑いが広がる和気あいあいとした″授業″であった。
彼は、学生たちの、日本人に対する″心の壁″を取り除きたかった。
中国は、日本軍に侵攻され、多くの犠牲者を出した国である。その悲惨な歴史は、父や母などから、何度となく聞かされてきたにちがいない。
それだけに、日本や日本人に対しては、当然、複雑な感情があるはずである。
日本人としては、過去の歴史を正しく認識し、詫びるべきは、真摯に詫びねばならない。そのうえで、触れ合いを通して同じ人間として心を通わせ合い、信頼と友情の絆を結ぶことだ。
歴史のなかでつくられてきた「わだかまり」や「誤解」という氷塊を溶かすものは、友誼への情熱であり、人間の心と心の触れ合いから生まれる温もりである。
ゆえに、民衆次元の交流が、何よりも大切になるのである。
伸一は尋ねた。
「学生時代に海外へ行けるとすれば、どこへ行きたいですか」
「もちろん日本です」
間髪を入れず、答えが返ってきた。さらに、元気のよい声が響いた。
「日本は中国とは、一衣帯水の国です。隣国です。私たちは、必ず行きます」
伸一は嬉しくなった。
「ぜひ、おいでください。大歓迎します。熱烈に歓迎します」
学生たちから、拍手が起こった。
伸一は、友情のしるしとして、創価大学のバッジとボールペンを、学生たちに贈った。
14 信義の絆(14)
夜には、北京大学の学生会主催による「歓迎の夕べ」が、大学の大講堂で開催された。
「木曾節」など、日本の歌の合唱もあった。卓球選手のユニホームを着た少年少女のユーモラスな舞踊もあった。京劇の歌の独唱や剣舞もあれば、古箏五重奏やアコーディオン演奏もあった。
大学をあげての「歓迎の夕べ」であった。
翌四日の午前十時過ぎ、山本伸一は、宿舎の北京飯店で、北京大学の首脳と懇談した。
彼は、連日の歓待に対して、感謝の思いを述べたあと、北京大学と創価大学間で、教師、学生が交流するようにしてはどうかと提案した。
北京大学の首脳は、微笑みながら、力を込めて語った。
「大変にすばらしいご意見です。私たちも、今後、検討を重ね、ぜひ具体化していきたいと思います」
そして、今後も密接な連絡を取り合いながら、いつまでも友誼を保ち続けていくことを確認し合った。また、北京大学から学報を定期的に送り、創価大学からも刊行物、学術資料を送ることを約し合ったのである。
教育交流は、また一歩、前進したのだ。
さらに、伸一が、武漢大学にも図書贈呈したい旨を告げると、北京大学のメンバーは、笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「武漢大学の関係者も大喜びするでしょう。山本会長の意向を、責任をもって、武漢大学にお伝えします」
ここで伸一は、用意してきた、武漢大学への日本語書籍三千冊の寄贈目録を手渡した。
北京大学の首脳の一人が、深い感慨のこもった声で言った。
「山本先生が本気で中国との教育・文化交流を推進しようとされていることがよくわかります。
『日中友好』を叫んで訪中しても、その時だけで終わってしまう人も多いのです。
しかし、山本先生は、次につながる手を打たれ、道を広げようとされている。しかも、実に素早く行動される。真剣さが伝わってまいります」
伸一は、口先だけで行動しようとしない人間を最も嫌っていた。また、″大業を成すには、時を逃してはならない。迅速であれ!″というのが、彼の信条であった。
15 信義の絆(15)
山本伸一は、北京大学の首脳との懇談に続いて、午後には中日友好協会を訪問した。
そこで、第一次訪中の折に友好を結んだ、同協会の張香山副会長をはじめ、孫平化秘書長、金蘇城理事、林麗韞理事らと、日中の永続的な交流などについて意見を交換し合ったのである。
このうち、孫秘書長とは、十月一日に聖教新聞社で再会していた。
孫は、九月二十九日にスタートした北京から東京への定期航空路の一番機で、中国友好訪問団として来日。伸一を訪ねてくれたのである。
また、林麗韞理事とは十月二十一日に学会の関西文化会館で懇談のひとときをもっていた。彼女は中国中央楽団の日本公演に、同楽団の団長として来日し、伸一との再会を果たしたのである。
孫秘書長と林理事は、日本での歓迎に対して礼を述べ、三度目となった交流に、いかにも嬉しそうに微笑を浮かべるのであった。着々と交流の歴史は刻まれようとしていたのである。
張副会長は、伸一が第一次訪中から帰国したあとの執筆活動を大いに評価していた。
「お忙しいなかで、山本先生は命を削るようにして、ペンを執られました。しかも、中国の本当の姿を綴り、私たちの思いを訴えてくださった。
おそらく、多くの圧力を覚悟されての執筆であったと思います。その勇気と誠実の行動に、感謝しております」
伸一は決意のこもった声で語った。
「恐縮です。私は真剣なんです。生命をかけずして、信義を貫くことはできません。口先の友好では、本当の交流の道など開けません。誠実こそが友好の魂です。
波が何度も何度も寄せ返して巌を削っていくように、私たちも、幾度となく交流を重ねるなかで、日中両国の友好を阻む障壁を打ち砕いていこうではありませんか!」
ガンジーは、自身の信条を、こう述べている。
「誠実はわたしには貴重な宝であり、どうしてもそれだけは失うわけにはまいりません」
それは、伸一の心の叫びでもあった。
中日友好協会での語らいは、世界情勢、日本の諸問題、日中間の永続的な友好への課題、指導者論など、約二時間にも及んだのである。
16 信義の絆(16)
山本伸一のスケジュールは、ぎっしりと詰まっていた。それは、「滞在日数が少ないだけに、寸暇を惜しんで動きたい」との彼の要請に基づいて組まれたものであった。
「時」は、二度と戻ることはない。成すべき時に、全力を注いで成すべき事を確実に果たしていく――その連続行動のなかに、偉大なる歴史が築かれるのだ。
十二月四日の夜、伸一の一行は、人民大会堂で行われた、中日友好協会の廖承志会長による歓迎宴に出席した。
真心こもる、和やかな歓迎宴であった。
伸一は、この席上、今回の訪問で、創価大学と北京大学との交流が大きな進展を示したことを述べ、日中友好への固い決意を披瀝した。
「″仏法を基調とした平和と文化の推進団体″である創価学会は、あらゆる批判と中傷の波を乗り越えて、今日まで前進してまいりました。
これからも、わが創価学会は日中友好の金の橋を建設するために、ますます全力を尽くしていくでありましょう。
どうか、諸先生方のご指導も、よろしくお願いいたします」
日中の交流を本気になって推進する創価学会に対して、反中国的な勢力からは、激しい批判が浴びせられていた。しかし、伸一は、すべて覚悟のうえであった。
守るべきは、平和を願う人間としての信義である。日中両国人民の繁栄であり、幸福である。
そのためには、何ものをも恐れず、揺るぎなき信念をもって、敢然と突き進んでいくつもりであることを、彼は表明しておきたかったのである。
翌五日は、鄧小平副総理との会談が予定されていた。午前十時過ぎ、人民大会堂に到着した伸一たちを、トウ副総理をはじめ、中日友好協会や北京大学の関係者らが出迎えてくれていた。
伸一がトウ副総理と初対面のあいさつを交わし、握手をした時、副総理は傍らの廖承志を見ながら言った。
「山本会長のお話は、廖承志同志から伺いました。中国の未来のために、考えるべき大事なお話であると思います。しかし、問題は複雑です」
一瞬、副総理の顔が曇った。だが、それを打ち消すように、すぐに微笑を浮かべた。
17 信義の絆(17)
人民大会堂での会談が始まった。
鄧小平副総理は、山本伸一に、北京大学への日本語書籍の寄贈に対して丁重に礼を述べた。
一行は、大学への贈呈に対し、副総理までが深く感謝の意を表してくれたことに誠実さを感じ、感動を覚えた。
伸一は、明年が国連の「国際婦人年」となることから、周恩来夫人の鄧穎超ら女性リーダー、さらに、青年リーダーの訪日を提案した。
北京―東京間といっても、開設した定期航空路を使えば、わずか数時間の旅である。
日本と中国を隔てているものは、地理的な距離ではなく、政治的な距離であり、人間の心の距離といってよい。
伸一は、その心の隔たりを、一日も早く取り除きたかったのである。
彼は、その焦点は、婦人と青年であると考えていた。
婦人には、大地のごとく、物事を根底から揺り動かす強さがある。トルストイが「婦人は世論をつくる」と語っているように、婦人こそ、現実を変えゆく最大の力であるからだ。
また、青年は未来である。青年が変われば、間違いなく次代は変わっていくのだ。
伸一の提案に、鄧小平副総理は笑顔で頷いた。
「ご意向を伝え、検討させていただきます」
話題は、日中平和友好条約に移った。
そのなかで、アジアの平和に話が及んだ時、伸一は言った。
「ソ連は中国を攻めようとは考えていません」
するとトウ副総理は、「それは大変に難しい判断を必要とします」と言って、話を制するように、胸の辺りまで手をあげた。
伸一は、前回の訪中を通して、文化大革命の混乱のなかで一部の人間が権力を握り、党と国家を意のままに動かしていることを感じた。
そして、彼らの情報網が張り巡らされ、政府首脳さえ、発言には至って慎重にならざるをえないことを知ったのである。
彼は考えた。
″副総理は、最重要の問題である中ソ紛争について意見を述べることが、攻撃の材料にされるかもしれないと憂慮しているのであろうか。
あるいは、ソ連に対する強い警戒心のゆえなのだろうか……″
18 信義の絆(18)
山本伸一は、ソ連は中国を攻めないとのコスイギン首相の言葉などを、事前に、詳しく廖承志会長に伝えておいてよかったと思った。
伸一は話題を変えた。
機敏な対応こそ、外交の生命である。
彼は、鄧小平副総理に尋ねた。
「これから、日中の友好を推進していくために、最も重要な基本精神とは、なんであるとお考えでしょうか」
トウ副総理は、大きく頷いて語り始めた。
「中日人民が常に相互理解を深め、絶えず友情と交わりを深めていくことです。
日中両国には、二千年以上の交流の歴史がありました。そのなかで、不愉快な期間が百年ほどありました。
日本の軍国主義が、私たちを抑圧したのです。そして、中国人民のみならず、日本人民もまた、その被害に苦しんできました。ゆえに日本人民には責任はありません。
また、この問題は既に過ぎ去ったことです。国交は正常化されたからです。したがって、未来に向かって、世々代々、その絆を強めていくことです」
――「黄金時代は前方に、未来にあるのだ」とは、中国の教育家・陶行知の至言である。
伸一は、毛沢東主席や周恩来総理の健康状態についても、率直に尋ねてみた。
トウ副総理は、特に周総理の容体について、詳しく話してくれた。
「この半年ほど、ずっと入院しています。病状は、私たちが思った以上に悪かったのです。
この数年、周総理の仕事は増え続けて、疲れていました。私たちも、総理ができるだけ仕事をしないですむように対応しています。
今は、特に重要なことだけを報告し、健康状態のよい時に指示を受けるようにしています。
周総理は山本会長とお会いしたいという強い思いをおもちのようです。しかし、どなたとも会見はしないようにと、皆が止めている状態です」
伸一は言った。
「わかりました。もし機会がございましたら、周総理にくれぐれもよろしくお伝えください。ご健康を心よりお祈り申し上げます。
また、前回、お会いした李先念副総理にも、よろしくお伝えください」
19 信義の絆(19)
山本伸一は全人代(全国人民代表大会の略称)の開催時期についても、単刀直入に、鄧小平副総理に尋ねた。
全人代は、日本の国会にあたり、中国の国家権力の最高機関である。
かつては、毎年、開催されてきたが、文化大革命期に入ってからは、一九六四年(昭和三十九年)十二月下旬から翌年の一月初めにかけて行われたのを最後に、開催されていなかった。
伸一は、こんな事態が続くことで、中国が国家として信頼をなくしてしまうことを、深く憂慮していたのだ。
トウ副総理は答えた。
「全人代の開催は、もう近いと思います」
全人代の開催を表明すれば、世界各国は、中国がルールに則った国家の運営をしようとしていることを認識し、安心するはずである。ゆえに伸一は、あえて全人代の開催を尋ねたのである。
彼は、どうすれば中国が、世界の理解、信頼を勝ち得るか、真剣に考えていたのだ。
伸一は、この会談終了後の記者会見で、全人代開催についての副総理の回答を伝えた。
各紙は翌十二月六日付で、「準備完了した人民代表大会」(朝日新聞)などの見出しを掲げ、一斉に全人代の開催が近いことを報じたのである。
真の友好とは、親身になって相手のことを思う、誠意と信念の結実にほかならない。
さらに伸一はトウ副総理との会談で、日本と中国が共同で、シルクロードの発掘や研究にあたることなども提案した。
それを推進することで、日中の深い結びつきが再確認され、学術交流も図られていくからだ。
彼は日中の友好が深まっていくことを願い、そのための具体的な案を、忌憚なくトウ副総理にぶつけたのである。
伸一の中国への思いは、副総理の胸に、強く響いたにちがいない。一時間近い会見の最後に、副総理は言った。
「これからは、山本会長のご都合のよい時に、いつでも中国を訪問してください。私たちは、いつでも友人として大歓迎いたします」
――「わたしの理想は、たくさんの人間の役に立つ友人となることだ」とは、スイスの哲学者ヒルティの言葉である。それは、伸一の強い思いでもあった。
20 信義の絆(20)
鄧小平副総理との会談を終えた山本伸一たちは天壇公園を視察した。
ここは、かつては皇帝が、宇宙を主宰する神である天帝をまつる儀式を行ったところである。それを開放し、公園としたのである。
伸一は、公園に来ている人たちに親しく声をかけ、小さな子どもとも、すぐに親しくなった。幼い魂にも、友誼の橋を架けたかったのである。
「圜丘」と呼ばれる石造りの円形の高台では、居合わせた四十人ほどの人びとと、共に記念撮影をした。少しでも時間があるなら、民衆と触れ合いたいというのが伸一の思いであった。
真実の思想も、知恵も、正義も、民衆のなかにある。民衆の英知こそが未来を開く力となる。民衆の連帯こそが、平和を築く砦となる――それが、伸一の確信であった。
滞在最後の夜となる五日午後七時前から、北京市内の国際クラブで、山本伸一・峯子による答礼宴が行われた。
中日友好協会や北京大学の関係者、報道関係者、また、滞在中にお世話になった北京飯店の従業員らも招いての会食であった。
あいさつに立った伸一は、今回の訪問は創価大学と北京大学の末永い交流を推進するための、源流ともいうべき日々であったことを語り、関係者に深く感謝した。
さらに、日中間には航空機の相互乗り入れも実現し、両国の時間的距離は驚くほど短縮したとの実感を述べ、次のように訴えた。
「今度は心の距離を短くしていく時であると思います。
物理的な距離よりも、はるかに大切なことは、民衆と民衆の間の心の距離を縮める――すなわち誠意にあふれ、信義をどこまでも貫いていくという精神に基づく友好の気持ちを、互いに高めていくことであります。
いくら物理的に近くても、お互いを尊敬し合っていく心、平等互恵の気持ちがなければ、平和と友情の架橋作業は幻影でありましょう」
そして、今後の日中友好の課題は、民衆の心と心の間に、永遠の友好の金の橋を、幾重にも堅固に築き上げていくことであり、長期的展望に立っての、教育・文化の交流を推進していくことであると強調した。
21 信義の絆(21)
答礼宴は、和やかな歓談に移った。
山本伸一と峯子は、各テーブルを回って皆に声をかけ、感謝と御礼を述べていった。
伸一は、必ず相手の名前を呼んで話を始めた。また、それぞれの真心の行為を一つ一つあげて、丁重に感謝の意を表した。
ある人には「図書贈呈式での温かいお言葉は、生涯、忘れません。勇気をいただきました」と述べた。
また、ある人には「陰でご尽力くださったことは、よく知っております。そのご尽力があってこその、今回の訪中の成功です」と語った。
伸一の頭の中には、一人ひとりの顔と名前はもとより、これまでのやり取りや、どのように尽力してくれたかが、克明に記憶されていた。
通り一遍のあいさつでは、儀礼的な交流しかできない。真実の人間交流のためには、徹底して相手を知り、琴線に触れる言葉を交わすことだ。
答礼宴が終わりに近づいたころ、中日友好協会の廖承志会長が呼ばれて席を外した。電話がかかってきたようだ。
戻ってきた廖会長は、小声で伸一に告げた。
「山本先生、実は周総理が待っておられます」
突然の話であった。
鄧小平副総理との会談で、周恩来総理の病状が、思っていた以上に重いと聞いていた伸一は、会見を丁重に辞退した。
「いいえ、周総理にはお会いするわけにはいきません。
お会いすれば、お体にさわります。そのお心だけ、ありがたく頂戴いたします」
廖会長は、いかにも、″困った″という顔で言った。
「会見は、周総理の強い希望なのです。
総理は万難を排しても、山本先生とお会いする決意を固められていたようです」
もはや、変更のできる状況ではないようだ。
伸一は言った。
「わかりました。お会いさせていただきます。しかし、ひと目、お会いしたら失礼させてください。総理にご負担をおかけしてはなりません」
事実、この時の周総理の体調は、決して会見などできる状況ではなかったのである。
周総理の医師団も、こぞって、伸一との会見に反対したのだ。
22 信義の絆(22)
山本伸一に会うという周恩来総理を、医師団は制した。
「総理、もし、どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません!」
だが、毅然として周総理は言った。
「山本会長には、どんなことがあっても会わねばならない!」
よほどの思いがあるにちがいない。その言葉に医師団は困惑した。やむなく、総理夫人の鄧穎超に相談し、説得してもらうことにした。
しかし、鄧穎超は周総理の意志を尊重した。
「恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください」
伸一に対する総理の深い心を、夫人は感じ取ったのであろう。
ホテルを出発する前、伸一は、廖承志会長に言った。
「周総理との会見の場には、私と妻だけが入ります。大勢と話をするとなれば、総理がお疲れになりますから」
伸一は、それが自分たちにできる、せめてもの配慮であると思った。
外に出た。外気は肌を刺すように冷たかった。気温は零下であろうか。
一行は、乗用車に分乗した。
暗い道を、かなりのスピードで進んだ。十五分ほど走ったころ、ある建物の前に着いた。
周総理が入院中の三〇五病院であった。
車を降りて中に入ると、そこに、人民服を着た周総理が立って、待っていてくれた。
「ご静養中にもかかわらず、お会いいただき、ありがとうございます」
伸一が右手を差し出すと、総理は微笑を浮かべて、その手を握った。
「よくいらっしゃいました」
伸一は、総理の右腕を支えるように、そっと左手を添えた。
総理は革命闘争のさなかの一九三九年(昭和十四年)、落馬がもとで右肘の上部を骨折した。その後遺症で右腕が曲がったままになったことを、伸一は知っていたのだ。
総理の手は白かった。衰弱した晩年の戸田城聖の手に似ていた。伸一は胸を突かれた。
二人は、互いに真っすぐに見つめ合った。
伸一は、痩せた総理の全身から発する、壮絶な気迫を感じた。
時刻は十二月五日午後九時五十五分であった。
23 信義の絆(23)
周恩来総理は、にこやかに語りかけた。
「まず、みんなで記念撮影をしましょう」
そして総理は、同行のメンバー全員に声をかけながら、握手をした。
総理との記念撮影とあって、皆、緊張した顔でカメラに納まった。
撮影が終わると、総理は山本伸一に言った。
「どうぞ、こちらへ」
事前の打ち合わせ通り、伸一と峯子だけが会見の部屋に入った。
席に着くと、周総理は、伸一たちに静かな口調で語った。
「山本先生は、二度目の訪中ですね。前回、来られた時は、私の体調が最も悪い時期で、お会いすることができませんでした。
しかし、少しずつ、病状も快方に向かっておりますので、どうしてもお会いしたいと思っておりました。今回はお会いできて、本当に嬉しい」
周総理は七十六歳、伸一は四十六歳である。
総理は、伸一の若さの可能性にかけていたのかもしれない。
「偉大なことをなしとげるには、若くなくてはいけない」とはゲーテの箴言である。
新しき力が未来をつくる。ゆえに、全精魂を注いで、若い世代を大切に育てるのだ。
会見の通訳をしてくれたのは、中日友好協会の林麗韞理事であった。
峯子は、総理と伸一のやりとりを、懸命にノートに書き留め始めた。
彼女は、これは重要な歴史的な会見になるにちがいないと思った。しかし、会見会場に記者は入っていなかった。
峯子は、責任の重大さを感じながら、必死になってペンを走らせた。
周総理は、中国と日本の友好交流に対する伸一のこれまでの取り組みを高く評価していた。
「山本先生は、中日両国人民の友好関係は、どんなことがあっても発展させなければならないと、訴えてこられた。私としても、非常に嬉しいことです。
中日友好は私たちの共通の願望です。共に努力していきましょう」
静かな話し方ではあったが、総理の声には力がこもっていた。
伸一は、その言葉に、中日友好の永遠の道を開こうとする、総理の魂の叫びを聞いた。また、平和のバトンを託された思いがした。
24 信義の絆(24)
周恩来総理は、これまでの中日友好の発展は、私たち双方の努力の成果であると述べた。そして、目を輝かせて語った。
「私は、未来のために中日平和友好条約の早期締結を希望します」
それから総理は、念を押すように言った。
「午前中、トウ副総理と話し合われましたね。副総理をはじめ、関係者から、山本先生のお話は伺っております。
それらの問題については、私の方から、多くを話さなくてもよろしいですね」
ソ連のことなども、周総理の耳には、しっかりと入っているようだ。
「はい。総理のお体にさわりますので、すぐに失礼させていただきます」
すると総理は、ゆっくりしていくようにと静かに首を左右に振り、伸一と峯子に視線を注いだ。
そして、二人の出身地を尋ねた。
伸一が答えた。
「二人とも東京です。東京の江戸っ子気質というのはさっぱりとしていて単純なんです。賢くありません。私たちも、二人で一人前なんです」
伸一はユーモアで答えた。総理に、少しでも心を和ませてほしかったのだ。配慮は真心の表れである。
総理は、愉快そうに声をあげて笑った。初めて聞く笑い声であった。
それから総理は、彼方を見るように目を細め、懐かしそうに語った。
「五十数年前、私は、桜の咲くころに日本を発ちました」
伸一は、頷きながら言った。
「そうですか。ぜひ、また、桜の咲くころに日本へ来てください」
しかし、総理は寂しそうに微笑んだ。
「願望はありますが、実現は無理でしょう」
伸一は胸が痛んだ。
その時、通訳の林麗韞のもとに、一枚のメモが回ってきた。
伸一は、この時は知る由もなかったが、そこには「総理、そろそろ、お休みください」と記されていたのである。医師団からのものであった。
彼女は、メモを総理に渡した。
しかし、総理はすべてわかっているらしく、メモに目を通すことなく、話し続けた。
周総理には、命を縮めても、今、会って、伸一と話しておかなければならないとの、強い思いがあったようだ。
25 信義の絆(25)
山本伸一は、周恩来総理を疲れさせてはならないと思い、自分の方から積極的に話をすることは避けた。
また、同席していた中日友好協会の廖承志会長に、会見を切り上げた方がいいのではないかと、何度か目配せした。
しかし、廖会長は、そのたびに、″まだいい″と合図を返してきた。
伸一は、自分の思いを口にした。
「周総理には、いつまでもお元気でいていただかなくてはなりません。
中国は、世界平和の中軸となる国です。そのお国のためにも、八億の人民のためにも……」
すると総理は、力を振り絞るようにして語り始めた。
「山本先生は、中国は中軸と言われましたが、私たちは、超大国にはなりません。
また、今の中国は、まだ、経済的にも豊かではありません。しかし、世界に対して貢献はしてまいります。
二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です。
全世界の人びとが、お互いに平等な立場で助け合い、努力することが必要です」
「まさに、その通りだと思います」
伸一は、遺言を聞く思いであった。
会見は、三十分に及ぼうとしていた。伸一は、周総理といつまでも話し合っていたかった。しかし、もうこれ以上、時間を延ばしてはならないと思った。
彼は、「総理のご意思は、必ず、しかるべきところにお伝えします。お会いくださったことに、心より御礼、感謝申し上げます」と言って、会見を切り上げた。
伸一は、周総理に、ささやかな記念の品として″萩と御所車″の日本画を贈った。
総理は、その夜から、それまで部屋に飾ってあった絵を、伸一が贈った絵に掛け替えたという。
中国の古典には「二人心を同じくすれば、その利きこと金を断つ」とある。強い友情は、どんなに固い金属をも断つ力になるというのだ。
周総理と伸一は、これが最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。
しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである。
26 信義の絆(26)
山本伸一の第二次訪中は、日中友好の新しい黄金の歴史を刻んだ。
彼が帰国したのは、十二月六日の午後のことであった。
帰国後、伸一は、中ソの和解を懸命に祈り念じながら、両国の動きを注視していた。
また、事態がどうなろうと、中ソの関係改善のために、自分は自分の立場で最善を尽くし続けようと、固く決意していたのである。
だが、伸一の思いとは反対に、中ソの関係は悪化の一途をたどっていくかに見えた。
一九七五年(昭和五十年)一月、中国は第四期全国人民代表大会を開催し、憲法を改正した。
そして、その前文に、「帝国主義、社会帝国主義の侵略政策と戦争政策に反対し、超大国の覇権主義に反対しなければならない」と謳ったのだ。
社会帝国主義とは、近年、中国がソ連に対して使ってきた言葉である。
それまでの憲法では、ソ連との友誼を謳っていたが、明確に反ソ路線を打ち出したのだ。
「四人組」が一切を牛耳っていた時である。彼らにはコスイギン首相の言葉は伝わっていなかったのであろう。
これを受けて、ソ連も激しく中国を非難した。
中ソ対立は、ますます激しさを増したとしか思えない状況であった。
この七五年の全人代で周恩来総理は、病身を押して「政府活動報告」を行い、四つの現代化政策の推進を提起した。
それは「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の近代化を全面的に実現して、わが国の国民経済を世界の前列にたたせる」というものである。
この「四つの現代化」という壮大な計画は、その後の中国がとった「改革・開放」路線の基盤となり、今日の大発展へとつながっていく。
周総理が、その政策を提起しえた背景について、後年、南開大学周恩来研究センターの所長を務めた孔繁豊は、こう語っている。
「この計画(四つの現代化)の実現には正確な国際情勢の判断が不可欠だった。その時、名誉会長を通じてソ連の態度を知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家の再建計画を大胆に実行することができたのだ」
27 信義の絆(27)
山本伸一は、強く心に誓っていた。
″なんとしても、中ソの対立を友好に転じていかなければならない。いかなる事態になろうが、私は絶対にあきらめない。それには粘り強い対話しかない″
伸一は、中国が憲法の前文を変え、反ソ路線を打ち出した三カ月後の一九七五年(昭和五十年)四月、三たび中国を訪れた。そして、再び鄧小平副総理と会談した。
会談の焦点は、中ソ問題であった。
トウ副総理は、ソ連への不信を強めていた。
第三次世界大戦を起こすとすれば、それはアメリカかソ連であるとして、特にソ連には、強い警戒の念を示した。
「四人組」が権勢を振るっていた時代だけに、反ソを印象づける見解を述べざるをえなかったのかもしれない。
トウ副総理は、これまでの中ソの歴史を振り返りながら、ソ連への不信感を露にした。
伸一は訴えた。
「トウ先生、これから何十年、何百年、何千年という長い間、同じような警戒と緊張が続くのでは、両国人民、世界の人民が不安です。
一歩前進して、何か友好的な、世界平和への方向を開くお気持ちはありませんか! 世界のために対話の会議を開くお考えはありませんか!」
しかし、副総理は、国境紛争問題で何度も話し合いをしたが進展はなかったとして、ソ連を批判した。
伸一は言った。
「現実は厳しいかもしれませんが、ソ連の中国への姿勢が本質的に一歩変われば、友好を深めようというお気持ちはありますか」
「それは、ソ連指導部の態度によります。ソ連人民とは、われわれは、ずっと友好的でした」
伸一は思った。
″中国は本来、ソ連との平和共存を望んでいることは間違いない。ソ連もまた、それを望んでいるのだ。
複雑な状況があるにせよ、両国の関係を改善できぬわけがない。私は、さらに中ソ首脳と全生命を注いで対話しよう!″
この第三次訪中の翌月、伸一は、再度、ソ連を訪問し、コスイギン首相をはじめ、ソ連首脳と会談していった。
あきらめ、絶望――それに打ち勝つ勇気が時代を開く力となる。
28 信義の絆(28)
一九七五年(昭和五十年)の四月、創価大学は日本で初となる新中国からの正式な国費留学生六人を、キャンパスに迎えたのである。
その留学生の身元保証人となったのが山本伸一であった。
また、十一月二日、伸一の提案によって、留学生らの手で、周恩来総理の健康を祈り、万代にわたる日中友好への願いを込め、構内に「周桜」が植樹された。
だが、翌七六年(同五十一年)には、その周恩来総理が、さらに毛沢東主席が、相次いで亡くなったのである。
やがて、華国鋒党主席が誕生するが、中ソの関係は冷え切ったままであった。
さらに中国は、中ソ友好同盟相互援助条約を、期限切れの一年前にあたる一九七九年(同五十四年)に、満期後の廃棄をソ連に通告したのだ。
この条約は、ソ連との同盟関係や相互援助などを約したものであった。
しかも、この年の暮れにソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、中国は中ソ関係の改善を図るために行われていた会談の無期延期を通告したのだ。
八〇年(同五十五年)四月、伸一が五度目に訪中した時には、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難する声が渦巻いていた。
会談した人たちから、こんな要請もあった。
「山本先生がソ連に行かれると、せっかく先生が架けられた日中の友誼の橋は固まりません。ソ連訪問は、できる限り控えていただきたい」
伸一は答えた。
「お気持ちはわかります。しかし、時代はどんどん変化しています。二十一世紀を前に、全人類を平和の方向へと向けていかなくてはならない。
もはや大国が争い、憎み合っている時ではありません。『お互いのよいところを引き出しながら、調和していこう』『人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう』という人間主義こそが必要なのではないでしょうか」
伸一は真心を込めて訴えたが、なかなか納得してもらえなかった。最後は、中国とソ連と、どちらが大切なのかという話になってしまうのだ。
信念の歩みの前には、必ず困難の障壁が立ちはだかるものだ。それを乗り越えてこそ、新しき道が開けるのだ。
29 信義の絆(29)
山本伸一は、誠実に中国の人びとに語った。
「私は中国を愛してます。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです。
ソ連の首脳からも『絶対に中国は攻めない』と明言していただき、お国の首脳に伝えました。
中ソに仲良くなってもらいたいのです。私の考えは、いつか必ずわかっていただけるでしょう」
どんなに厳しい状況になっても、伸一はあきらめなかった。
「わたくしは屈服のできない人間である。わたくしは絶望のできない人間である」とは、伸一が対談を重ねた中国の文豪・巴金の信念である。それは、伸一の生き方と響き合っていた。
何があってもあきらめずに、信念の道を進むことが、″勝つ″ということなのだ。
伸一は、あらゆる人の「仏性」を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた。
彼は、この第五次訪中では、華国鋒党主席と会見し、今後の中国の方向性を尋ねている。
そして、翌一九八一年(昭和五十六年)には、三度目のソ連訪問を果たし、チーホノフ首相と会見した。全人類を平和の方向へとの強き一念で、行動し抜いたのだ。
ソ連のブレジネフ書記長が、中国に、両国の関係改善を呼びかけたのは八二年(同五十七年)三月のことであった。時代は動き始めたのだ。
この半年後、中国の胡耀邦党主席は、ソ連のアフガニスタン侵攻や中ソ国境へのソ連軍の配備、ベトナムのカンボジア侵攻への支援――の三大障害を除去すれば、関係改善は可能だと表明した。
八五年(同六十年)三月、ソ連のゴルバチョフ書記長も就任演説で、中国との関係改善を望んでいることを訴えた。
その後、両国は国境交渉再開に合意し、八八年(同六十三年)にモスクワで外相会談が行われた。
翌八九年(平成元年)五月には、ソ連の最高指導者としては三十年ぶりに、ゴルバチョフ書記長が中国を訪問する。
そして、中国の最高実力者となっていた、あの鄧小平国家中央軍事委員会主席と会談し、双方が、遂に関係正常化を宣言したのだ。
この首脳会談は、世界を冷戦から緊張緩和へと回転させる新しき時代の曙光となったのである。
30 信義の絆(30)
一九九〇年(平成二年)には中国の李鵬総理がソ連を訪問。さらに、翌年には、江沢民総書記が訪ソし、両国外相によって中ソ東部国境協定が調印されたのである。
山本伸一は、進展する中ソ関係正常化のニュースに、熱い感慨が込み上げてきて仕方なかった。
彼は、中ソ両国の平和共存を胸に描き、祈りに祈ってきた。
また、一民間人という立場で動きに動き、両国首脳たちに、相互の平和友好を訴え続けてきた。
それは、小さな波を起こしたにすぎなかったかもしれないが、中ソの和解という伸一の念願は、結実を見たのである。
伸一は、八九年(同元年)五月、中国を訪問したソ連のゴルバチョフと鄧小平の、和やかな交流の様子をテレビのニュースで見ながら、峯子と語り合った。
「本当によかった。トウ先生は、私の訴えを、心にとどめておいてくださったのだろう。不信を信頼に変える、新しい歴史の幕が開くね」
「そうですね。こんな場面が見られるなんて、まるで夢のようですね」
「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜くよ。
人が見ていようがいまいが、社会がどう評価しようが、そんなことはどうでもいい。いつか歴史が審判を下すからだ。
私は、軍部政府の弾圧と戦い、殉教された牧口先生の孫弟子だ。地球民族主義を提唱され、原水爆禁止宣言を発表された戸田先生の弟子だ。
だから、どんなことがあっても、平和のための戦いをやめるわけにはいかないのだ。それが私の鉄の信念だ!」
伸一の第一次訪ソ当時、ソ連駐日大使館の参事官であったY・D・クズネツォフは、一九七四年(昭和四十九年)に伸一が中国とソ連を訪問し、両国首脳と対話したことについて、後年、次のように語っている。
「ソ連と中国の関係の正常化に貢献したという事実は否定できません。あの時の正常化への行動がなければ、現在のような幅広いロシアと中国の関係の発展はなかったと私は思うのです」
水面下の流れは見えにくい。しかし、信念の行動は、必ず時代を動かす底流となることを、伸一は確信していたのだ。
31 信義の絆(31)
「今日の世界を救うものは獣力ではない、腕力ではない、人間の知恵である。世界の平和と人類の幸福を心から願う人間の知恵の力である」
これは、憲政の父と仰がれた尾崎咢堂の訴えである。その人類の英知の結晶である平和の建設が広宣流布だ。
学会として「教育・家庭の年」と定めた一九七五年(昭和五十年)の幕が開いた。
元旦、山本伸一は学会本部三階広間の「師弟会館」で行われた新年勤行会に出席した。
彼は、この一年も、広宣流布のため、世界の平和のために、命の限り走り抜くことを御本尊に誓い、晴れやかにスタートを切った。
そして、一月の六日には、早くもアメリカに飛んだのである。
対立が続く中国とソ連を訪問し、さらに、訪米する山本伸一に、アメリカ社会は驚嘆と戸惑いを見せていたようだ。
有力誌『タイム』(一月十三日号)は、揶揄するような、「驚異の伝道者」との見出しを立て、伸一と創価学会についてのリポートを掲載した。
そこには、伸一の会長就任以来の組織発展の足跡や聖教新聞、創価大学などが紹介されていた。
また、伸一が、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見し、今回の訪米では、ワルトハイム国連事務総長と会見する予定であることも報じていた。
さらに、世界食糧銀行創設や核兵器の廃絶など、これまでの伸一の提言にも触れ、彼は「民衆と民衆を結ぶ国際的な反戦運動を起こすことに、最も強い情熱を傾けている」としていた。
ところがリポートは、それらの伸一の行動や提案は、学会が権力を手に入れるための手段であるかのように報じていたのである。彼の平和への信念を理解できなかったのであろう。
伸一は、現地時間の六日午後六時半過ぎ、ロサンゼルスに到着。ここでの諸行事を終えて、八日夜、ニューヨーク入りした彼は、翌九日、エール大学客員教授で評論家の加藤周一と会談した。
加藤は、日本でも何度か会談し、交友を深めてきた識者である。
ここでは、日米ソの三極のなかで、日本が人類の未来に果たすべき役割などについて、忌憚なく語り合ったのである。
32 信義の絆(32)
九日、山本伸一は、ニューヨークのコロンビア大学を公式訪問した。
同大学は、一七五四年に、アメリカで五番目の大学として創設され、大統領を務めたセオドア・ルーズベルトやフランクリン・ルーズベルトも学んだという伝統ある大学である。
多数のノーベル賞受賞者も輩出しており、湯川秀樹が日本人として初めてノーベル賞を受賞(一九四九年)したのも、コロンビア大学客員教授の時である。
伸一の一行がコロンビア大学を訪問した時、総長は公用のため不在であり、三人の副総長をはじめ、十三人の教授らが歓迎してくれた。
伸一は、教育国連、世界大学総長会議、世界学生会議などの構想を語り、活発に意見を交換し合った。
彼は、教育の交流をもって世界を結ぼうと、精力的に対話を展開していったのである。
大業とは、目立たぬ、忍耐強い作業の繰り返しによって、成就されるものなのだ。
そして、翌十日午前には、国連本部を訪問し、三十八階の事務総長室でワルトハイム国連事務総長と会談した。
ワルトハイムは、オーストリア出身の五十六歳である。彼は、世界数十カ国に広がった創価の仏教運動に、強い関心を寄せていたのだ。
伸一が国連を訪れたのは、一九六〇年(昭和三十五年)、六七年(同四十二年)に続き、これが三度目であった。
事務総長は伸一と固い握手を交わし、国連のマークを背にして座ると、微笑を浮かべ、丁重な言葉で語りかけた。
「会長の著作はよく読んでおりますし、また、平和に向かって、日夜、努力されてきたことを、よく知っております。
今後も、あなた方の理念をよく知り、検討し、平和の実質的機構としての国連の運営に反映させていきたいと思います」
その言葉に、伸一は恐縮した。
伸一は、核兵器や食糧の問題などを根本的に克服していくために、思索に思索を重ね、その方途を提案してきた。
全人類の未来に責任をもとうとする事務総長は、伸一の思想と提案に着目し、高く評価してくれていたのである。
世界は、仏法の智慧を求めているのだ。
33 信義の絆(33)
山本伸一は、ワルトハイム事務総長に何問かの質問を用意していた。それに総長が答えるかたちで会談は進められた。
伸一は、まず、核廃絶の問題を提起した。
「現在、核保有国は次第に増えています。これをどのように考えておられますか。また、日本は唯一の被爆国であり、その日本国民に対する率直なメッセージをお伺いしたいと思います」
伸一の胸には、戸田城聖が一九五七年(昭和三十二年)九月八日に横浜・三ツ沢の競技場で行った、あの「原水爆禁止宣言」がこだましていた。
「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております」
「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」
伸一は、戸田の弟子として、その思想を世界に伝えるために、書きに書き、叫びに叫び、世界を巡っては、指導者たちと対話を重ねてきたのだ。
師が示した指針を実現するのが弟子であり、そこに師弟の道がある。師から弟子へと精神が継承され、大河となっていくなかにこそ、大願の成就があるのだ。
ワルトハイム事務総長は、静かだが、力のこもった口調で語り始めた。
「核戦争はなんとしても回避したい。日本は唯一の被爆国として、核問題に強い関心をもっていることを、私はよく理解しております。
国連の努力すべき方向は、核拡散防止条約の再検討であり、そのための会議を開始したいと考えております」
簡潔で的を射た回答であった。
伸一は、次の質問に移った。
「中東に再び戦火が起きる危惧があります。これについては、どのようにお考えでしょうか」
中東では、イスラエルが建国以来、アラブ諸国と激しく対立し、これまでに四度にわたって戦争が起こっている。
一九七三年(同四十八年)の十月には、エジプト・シリア両軍がイスラエルに攻撃をしかけ、第四次中東戦争が勃発。ほどなく終結はしたものの、中東での戦争はいつ再燃してもおかしくない状況にあったのである。
34 信義の絆(34)
中東の和平をいかに実現するのか――それは山本伸一の悲願であった。彼は中東で戦火が上がるたびに胸を痛め、人びとの幸福と平和を祈って、唱題を重ねてきた。
伸一の質問に答え、ワルトハイム事務総長は語り始めた。
「超大国の緊張緩和という現象があるので、直ちに世界戦争につながることはないと思います。
しかし、一地域の問題は必ず広範囲に波及していきます。
国連としては平和交渉によって、段階的に解決し、交渉が成功するよう念願していますが、今春までに和平交渉が実らなかったなば、国連軍駐留の期限が切れることになります。
実は、そうなることが心配なのです。
和平を樹立するための一つの焦点は、シナイ半島からイスラエル軍が撤退することです。
私は、キッシンジャー米国務長官と連携をとりながら、話し合いで解決の条件が満たされていくようにしたいと考えています」
伸一は、トルコ系住民とギリシャ系住民の紛争が続くキプロス島の問題や、飢餓に苦しむ国々の食糧問題、また、戦火が絶えないインドシナ情勢について見解を尋ねていった。
そして、国連の役割に関しても、率直に質問をぶつけた。
「ユネスコも、また、各国も、国連の役割について訴えておりますが、私は、世界平和のためにも、人類の繁栄のためにも、国連の役割は今後ますます重要になってくると思います。
しかし、その国連についての世界の理解や関心は、いまだ十分とは言えないと思います。
国連理解を進めるために、なんらかの対応が急務ではないでしょうか。
私は、世界各国に友人がおり、また、各国に創価学会のメンバーがおります。そうした方々の協力も得て、『国連を守る世界市民の会』をつくる時がきているのではないかと考えています」
″人類は戦争という愚行と決別し、同じ地球民族として、力を合わせて生きねばならない。それには、国家や民族、宗教等々の枠を超えて、国連を中心に、世界市民として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ″
それが伸一の信念であり、決意であった。
35 信義の絆(35)
山本伸一は、さらに、なぜ「国連を守る世界市民の会」が必要かを力説していった。
「二十一世紀を担う重要な使命をもつ国連が、形骸化するようなことがあってはならないし、大国のエゴによって、国連が私物化されるようなこともあってはならない。
そこで、国ではなく、国連を支援する市民の手によって、国連を守る必要があると、私は提唱したいと思います。この点はいかがでしょうか。
私はそのために、微力ではありますが、全力を傾けていく所存です」
ワルトハイム事務総長は、目を輝かせながら語った。
「国連の目的の周知徹底は、まさに山本会長が言われるように、世界中の市民の力でなされるべきものであります。
この点に関して、会長がこれまで払ってきた努力に感謝いたします。
一人ひとりの民衆の力を結集して、国連を守る必要があります。
私が深刻に考えているのは、最近の現象として、国連にあっても、国家エゴが優先し、人類全体の利益、平和が考えられていないことです。
山本会長をはじめ、市民の寄与に期待するしかありません」
人類益をめざし、行動する創価学会への、国連の期待は限りなく大きいといえよう。
「わかりました。ご期待に添えるように頑張ります。
ところで、今日は、限られた時間のなかでの語らいですので、国連への提言として、核兵器絶滅の道、食糧問題や人口問題の見解、国連大学の方向性などについて、私の考え、意見を書簡にしてまいりました。
ご一読いただければと思います」
伸一は、こう言って書簡を手渡した。
「最後に一つだけ、お伺いしたいと思います。
事務総長は、世界平和を妨げている元凶は、なんであるとお思いでしょうか」
即座に答えが返ってきた。
「それは不信感です」
伸一は深く頷くと、身を乗り出すようにして、大きな声で言った。
「全く同感です。
人間の心に巣食う疑心暗鬼の心をどう克服し、不信を信頼に変えていくか――私も、そこに平和実現の大事なカギがあると思います」
36 信義の絆(36)
山本伸一の声に、力がこもった。
「その『不信感』を『信頼』に変えていく道が、私は『対話』であり、さらに『文化の交流』『人間の交流』であると確信しています。
私は、一人の民間人として、その対話と交流の道を開き続けていくことを、お誓いします」
こう言うと伸一は、製本された三冊の署名簿をワルトハイム事務総長に差し出した。
「これは『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』です。創価学会の青年部が戦争の絶滅と核廃絶の署名運動を展開し、日本全国で一千万人を超す人びとの署名を集めました。これは、その一部です。
核廃絶は、私ども創価学会の魂の主張です。日本の民衆の心からの叫びです。
その声を、日本の青年たちの悲願を、お受け止めいただき、国連としてさらに大きな、核廃絶への波を起こしていただくことを念願いたします」
事務総長は、署名簿を受け取ると、ページを開いた。それから、署名簿を捧げ持つようにして、伸一に語った。
「非常に価値あるものです。その行為に敬意を表します。感銘を受けました……
――国連事務総長に伸一が直接、署名簿を提出するようになった背景には、平和を願う青年たちの努力に精いっぱい報いたいとの、伸一の熱い思いがあったのである。
この署名運動は、伸一が一九七二年(昭和四十七年)十一月の第三十五回本部総会で、人類の生存の権利を守る運動を青年部に期待したことに端を発していた。
これを受けて、翌年二月の男子部総会で、まず男子部が「生存の権利を守る青年部アピール」を採択。そのなかの一つが「核兵器および一切の軍備を地球上から消滅させ、一切の戦争を廃絶する」ことであった。
そして、そのための運動の一つとして、「核兵器、戦争廃絶のための署名運動」が発表されたのである。
さらに、三月には、女子部、学生部も総会を開催し、平和運動への本格的な取り組みを開始していったのだ。
まさに師弟共戦の平和運動である。それゆえに、師から弟子へと、永続的な平和の潮流となって広がっていくのだ。
37 信義の絆(37)
「生存の権利を守る青年部アピール」を受けて各方面で決議し、方面ごとに「原水爆禁止署名推進委員会」が発足。一九七三年(昭和四十八年)の夏には、広島や長崎、沖縄などで有志による街頭署名が開始された。
そして、戸田城聖が、あの「原水爆禁止宣言」を発表した九月八日には、神奈川県横浜市で男子部幹部会が行われ、署名運動の本格的な展開が打ち出され、全国的な広がりを見せていった。
七四年(同四十九年)一月、青年部では年内を目標に、署名一千万をめざすことを決議し、七、八月には総力をあげて、署名運動に取り組んだ。
青年が懸命になって動けば、必ず社会に大きな波動が広がる。青年は変革の力である。
青年たちは、炎天下の駅頭などで、声を嗄らしながら、核廃絶を叫び、署名を呼びかけた。
ある日、山本伸一は妻の峯子と共に、都内の繁華街を車で通った。そこには署名運動に汗を流す青年たちの姿があった。
車を止めてもらい、しばらく車中から様子をながめていた。
青年たちは懸命に署名を呼びかけていたが、通行人の反応は、さまざまであった。
喜んで署名に応じ、いたわりの言葉をかけてくれる人もいた。しかし、無関心な人が多く、なかには顔をしかめたり、冷笑を浴びせて通り過ぎていく人もいた。
メンバーは、何があっても笑顔を絶やさなかった。そして、核兵器の脅威を力強く訴えていた。その顔には、びっしょりと汗が噴き出ていた。
伸一は峯子に言った。
「みんな頑張っているな。平和のために戦う青年部は私の誇りだ」
そして、彼は、同行していた幹部に、メンバーに冷たい飲み物を配るように指示するとともに、伝言を託した。
「暑いなか、本当にご苦労様! 日射病にならないように注意してください。私も平和のために戦い抜きます。一緒に戦おう!」
こうした青年たちの奮闘が実り、九月には、遂に署名は一千万を突破し、千百万となった。
やがて署名簿は全国から集められた。一万人分で約六センチの高さである。もし全員の署名簿を積み上げれば、六十六メートルの高さということになる。
38 信義の絆(38)
一九七四年(昭和四十九年)の年末のことであった。
学会本部の一室に青年部の首脳幹部が集まり、長い時間、議論を重ねていた。テーマは、″一千万の署名″を、どのようにして国連に届けるかということであった。
青年の一人は言った。
「国連事務総長あてに手紙を添えて郵送したとしても、みんなの核廃絶という思いが、どれほど伝わるかは疑問ですね。決して大きなインパクトがあるとはいえない」
一千万を超す人びとの核廃絶への願いが込められた署名簿である。青年部の首脳幹部たちは、最も有効な方法で国連に渡そうと、検討していたのである。
別の青年が語った。
「たとえばわれわれの代表が、国連に署名簿を持っていったとしても、おそらく事務総長に直接お会いして、署名の趣旨を説明することは難しいと思う。
しかし、署名者の平和への熱願を伝えるには、どうしても事務総長にお会いして、手渡す必要がある」
名案は浮かばなかった。皆、頭を抱え込んだ。
その時、ドアがノックされ、学生部長の田原薫が入ってきた。
「山本先生から、ご伝言をお預かりしてきましたので、お伝えします。
先生は、青年部の署名運動を、じっと見守ってくださっておりました。
そして、私たちが″この署名簿をどうやって国連に届けようか″と考え悩んでいたことも、よくご存じでした。
それで、ただ今、こうおっしゃってくださいました。
『私は、来年一月にアメリカに行き、ワルトハイム事務総長にも会うから、私が持っていってあげるよ。安心しなさい。
君たちの苦労は、決して無駄にはしません。弟子のやってきたことに、画竜に点睛を入れてあげたい。それが師匠の戦いである。
署名簿の一部だけでも、私が直接、国連に届けてあげたい』
これで、間違いなくワルトハイム事務総長に届きます!」
その言葉を聞くと、皆の目が輝き、拍手がわき起こった。
師は、弟子の行動を凝視しているものだ。
弟子の苦労に最大限に報いようというのが、伸一の心であった。
39 信義の絆(39)
ワルトハイム国連事務総長との会談を終えた山本伸一は、国連本部内で記者会見した。
詰めかけた五十人ほどの記者たちの質問に答えながら、伸一は国連への期待と、国連を守る決意を語った。
さらに彼は、日本の国連大使と懇談した後、日本協会(ジャパン・ソサエティー)主催の歓迎レセプションに向かった。
日本協会は、一九〇七年の創立である。日米の民間人で構成され、両国民の相互理解と協力関係の推進に尽力する団体である。
日本協会のジャパン・ハウスで行われたレセプションには、学界、経済界などのリーダーら八十人が集った。伸一は、この席でスピーチをするように依頼されていたのである。
彼は約四十分にわたって、新しき時代を開く人間哲学について語った。
仏法は智慧の宝庫であり、そこには時代のかかえる難題の解答がある。
伸一は、科学技術の進歩に伴うさまざまな人類の危機が指摘されているが、今こそ、「人間」に眼を向けることの大切さを強調。そして、ローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイが述べているように、新しいヒューマニズム、人間の心のルネサンスが求められていることを語った。
「核兵器にしろ公害にしろ、現代がかかえる巨大な問題は、突き詰めてみると、欲望とエゴに突き動かされ、自己をコントロールしえない『人間』そのものの問題に行き着くからであります」
伸一は、人間の心のルネサンスのためには、人間とは何かを解明し、生命変革の実践法理を打ち立てた仏法哲理が不可欠であると訴えた。
また、仏法には「一切衆生」という言葉があるが、そこには、人間すべてを平等に見て、万人を根源的に救済し、幸福にしていくためにはどうすればよいかという慈悲と責任感が込められていると述べた。
次いで、その仏法の理念に立脚して、人類が究極的にめざすべき新しい方向を示したのである。
「一つには、二十世紀後半の人類がもたなければならない価値観とは、単に一つの社会、国家に基盤をおいた狭隘なものではなく、全人類的な視点、全地球的な視野に立ったものでなければならない」
40 信義の絆(40)
山本伸一の声は、次第に熱を帯びていった。
「二つには、人間が生命的存在であるという認識に立つことであります。
人間が生命的存在であるということは、いかなる社会、国家、民族をも超えて普遍的であり、かつ絶対的な事実であります。
それに対して、社会的存在としての人間は、時代、民族、国家の違いによって異なってくる。
その意味で人間が真に人間らしく生きるためには、まず自らの原点であるこの生命的存在という大前提を確認して、そこに立脚点をおかねばならない。
つまり『タテには人間存在の根源である生命的存在に立脚し、現実行動のうえでは、ヨコに、その生命的存在を共通とする地球人類という普遍の連帯をもつこと』こそ、現代に必要な視座であると訴えたいのであります」
皆、初めて聞く話である。仏法の生命観を根本にした伸一の話に、参加者は、頷きながら、真剣に耳を澄ましていた。
さらに伸一は、自分が「教育国連」の設置を提唱してきたのも、各分野での国際協力を底流で支える、″われら地球人″という意識を根付かせる啓発的教育のためであることを述べた。
地球人類という普遍の連帯を築くことは、厳しいイデオロギーの対立、国家エゴの渦巻く現実から見る時、あまりにも理想的すぎると一笑されるかもしれない。
しかし、彼は、「あえて、このインポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)を、私の生ある限り追い求めていきたい」と宣言したのである。
詩聖タゴールは、人間に全幅の信頼を寄せ、「不可能なことをみずからの力で可能にするのが人間の働きである」と叫んだ。それは、伸一の確信でもあった。
大いなる理想へと突き進むなかで、人間は輝くのだ。
彼はこう話を結んだ。
「これからも人類の頭上には幾たびも冬の季節が猛然と襲ってくるでありましょう。
人間連帯の平和の拠点を不屈の信念と勇気で築き上げていかねば、人類の輝かしい明日はありえません。志を同じくするすべての人びとと手を取り合い、平和へ、果敢なる挑戦をしていきたいというのが私の偽りのない心情です」
41 信義の絆(41)
山本伸一のスピーチが終わると、大拍手が会場に響き渡った。
参加者からは、「学会の理念とするヒューマニズムの意味を理解することができ、大変に感銘を深くした」など、多くの共感の声が寄せられた。
伸一は、すべてに真剣勝負であった。このスピーチも、世界の指導者たちに語りかける思いで、仏法の英知から導き出された時代開拓の道を、全力で訴えたのである。
原稿の作成にも何日も費やし、推敲に推敲を重ねた。
″集ってくる日本協会の方々は、私のスピーチを聴かれるのは初めてであろうし、ほとんどの参加者は、もう、こうした機会はないにちがいない。まさに一期一会といえよう。それならば、仏法哲理との鮮烈な出合いとなる講演にしなくてはならぬ″
彼は、その思いで、ここに臨んだのだ。
いや、このスピーチに限らず、各国の要人と会う時も、メンバーを激励する時も、学会のさまざまな会合に出席する時も、常にその覚悟で準備にあたり、渾身の力を振り絞ってきたのである。
だからこそ、魂を揺さぶるのだ。だからこそ、共感があり、感動が広がるのだ。それが、人と会い、会合に臨む、すべての幹部の心構えでなければならない。
翌十一日、伸一は、ニューヨークから列車でワシントンDCへと向かった。そして、十三日、彼は国務省を訪問した。ヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談するためである。
伸一の胸は躍った。
″ぜひお会いして、世界の平和のために語り合わねばならぬ″と思っていた人であったからだ。
一九七三年(昭和四十八年)一月、伸一は、ニクソン大統領宛のベトナム戦争の終結を呼びかける書簡を、人を介して、当時、大統領補佐官であったキッシンジャーに託し、届けてもらっていた。
以来、何度か、キッシンジャーと手紙のやりとりをしてきた。
そのなかで、「渡米の折には、ぜひとも立ち寄ってほしい」と言われていたのである。
今回の渡米について連絡したところ、喜んで迎えたいとの話があり、キッシンジャーとの初の会談が実現することになったのである。
42 信義の絆(42)
この日、ワシントンDCは、朝から雪がちらついていた。
ドームのある白亜の国会議事堂が、自由の国アメリカの威風を誇示するように、堂々とそびえ立っていた。
国務省は、リンカーン記念館の近くにあり、ホワイトハウスからも、一キロにも満たない距離である。
キッシンジャー国務長官と山本伸一の会談は、長官の執務室で午後二時半から行われた。
長官は、フォード大統領の年頭教書の発表を控えて多忙であったが、時間を割いてくれたのであった。
「ご多忙のなか、時間をつくっていただき、光栄です」
伸一が言うと、長官はメガネの奥の瞳を輝かせて語った。
「ようこそ! お待ちしておりました」
これまで、何度か書簡をやりとりしていたせいか、旧知の友と再会したように、和やかな雰囲気が執務室に広がった。
「最初に記念撮影をしましょう」
長官の笑顔に誘われ、共にカメラに納まった。
伸一はソファに案内された。二人の中間にはアラベスク模様の電気スタンドがあった。その明かりに照らされながら、会談は始まった。
室内には、キッシンジャーと伸一、アメリカ側の通訳の三人しかいなかった。
伸一は、まず、アメリカの都市や州から、これまで四十ほどの名誉市民称号を受けていることに対して、御礼を述べた。
キッシンジャー長官は「それは、私たちにとっても光栄で、嬉しいことです」と、笑みを浮かべて応じた。しかし、激務のゆえか、その顔には、疲労の色がにじんでいるように思えた。
伸一が現下の国際情勢について話を切り出すと、長官の目が光った。
伸一は、キッシンジャーが一九六九年(昭和四十四年)の一月にニクソン大統領の補佐官となって以来、その奮闘に目を見張ってきた。
彼には、時代を読む鋭い洞察力があった。緻密な計画性があった。そして、何よりも、エネルギッシュで果敢な行動力があった。
第三十五代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは述べている。
「変革というのは行動なのである」
43 信義の絆(43)
キッシンジャーは、冷徹な現実主義者であり、理想主義の対極にあるかのように評されてきた。
しかし、理想を実現しようと思うならば、現実を凝視せねばならない。現実から目をそらすならば、そこにあるのは「理想」ではなく、「空想」である。
キッシンジャーは、現実の大地にしっかと立って、理想の松明を掲げ持ってきた。だからこそ、不可能だと思われてきた現実を、次々と変えることができたといえよう。
山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)七月、キッシンジャーが大統領補佐官として密かに北京を訪問し、その後のニクソン訪中、米中対立改善への流れを開いたことが忘れられなかった。
それは、世界が驚き、息をのんだ、電撃的な中国訪問であった。
また、米ソ戦略兵器制限交渉でも大いに手腕を発揮した。
ベトナム戦争では、米軍の漸次撤退を推進し、さらに和平実現の陰の力となってきた。
伸一は、それらの行動のなかに、平和への屈強な信念を見ていた。
キッシンジャーは一九三八年(昭和十三年)、十五歳の時に、家族と共に、ドイツからニューヨークに渡ってきた。
当時、ドイツはヒトラーの政権下にあり、ユダヤ人への迫害は、日に日に激しさを加えていた。彼の一家も、そのターゲットになったのである。
財産の国外持ち出しは許可されず、一家は、着のみ着のまま、アメリカにやってきたのだ。
しかし、それでもまだ幸運であった。ドイツに残った親族のうち、十三人以上の人が強制収容所で亡くなっているのである。
時代の激浪に翻弄されながら、一家は懸命に生きた。
父親は教師であったが、アメリカでは教職に就くことはできなかった。工場で事務を担当し、必死に働いた。それでも生活は苦しかった。
キッシンジャーも、少年時代から、働きながら夜学に通った。苦闘の青春であった。
だが、それゆえに、彼の人生の勝利があったといえよう。
「肉体的にも、精神的にも、人生の苦しみを受けたものが強くなる。ゆえに、青年は、安逸を求めてはいけない」とは、戸田城聖の指導である。
44 信義の絆(44)
キッシンジャーは、日々、辛酸をなめながら、感傷にも、憎悪にも、悲観にも左右されない強い人間に、自分を鍛え上げていった。
ハーバード大学で学位を取得して、国際政治学者として頭角を現し、やがて教授となった。
そして、ニクソン大統領の補佐官になると国家安全保障問題を担当し、政治の舞台に躍り出るようになるのである。
一九七三年(昭和四十八年)には、ベトナム和平協定を推進したことが高く評価され、ノーベル平和賞を受賞している。さらに、この七三年から、国務長官を務めてきた。
山本伸一は、そのキッシンジャー長官と、世界の平和のために、存分に語り合い、人類の進むべき新たな道を探り出したかったのである。
長官は、形式的な礼儀作法などにはこだわらない、合理的で、飾らない人柄であった。そして、決して急所を外さず、鋭い分析力をもっていた。至って話は早かった。
伸一が、日中平和友好条約についての見解を尋ねると、即座に「賛成です。結ぶべきです」との答えが返ってきた。
語らいのなかで長官は、伸一に尋ねた。
「率直にお伺いしますが、あなたたちは、世界のどこの勢力を支持しようとお考えですか」
伸一が、中国、ソ連と回り、首脳と会談し、さらに、アメリカの国務長官である自分と会談していることから出た質問であったにちがいない。
伸一は言下に答えた。
「私たちは、東西両陣営のいずれかにくみするものではありません。中国に味方するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。
私たちは、平和勢力です。人類に味方します」
それが、人間主義ということであり、伸一の立場であった。また、創価学会の根本的な在り方であった。
キッシンジャー長官の顔に微笑が浮かんだ。伸一のこの信念を、理解してくれたようだ。
会談では、中東問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などがテーマになっていった。
平和の道をいかに開くか――二人の心と心は共鳴音を響かせながら、対話は進んだ。
45 信義の絆(45)
この会談で、山本伸一は、風雲急を告げる世界の火薬庫・中東の問題について、和平実現のために、何点かにわたる提案をしようと思っていたのである。
中東問題は、決して中東地域だけの問題におさまらず、世界各国の政治・経済に影響を与え、第三次世界大戦の危険性さえもはらんでいる問題といってよい。
伸一は、キッシンジャー国務長官の中東和平への懸命な努力に、期待をいだいていた。そして、中東地域に恒久的な平和を実現してほしいと切望していたのだ。
伸一の提案は、具体的な和平交渉の次元を超えたものであり、より根本的で長期的な、平和のための理念を示すものであった。
いわば、中東の平和に関する基本原則を提示したのである。
中東問題は歴史的な深い原因があることから、もつれた糸のような状態になっていた。もはや一時的な対症療法的な対応策では、本質的な問題の解決は図れない状況であった。
だから伸一は、和平のための基本原則を提案しようと考えたのだ。
しかし、会談の席で、この問題を詳細に論じれば、長い時間がかかってしまう。そこで、多忙な長官が貴重な時間を長く使わなくてすむように、提案を四百字詰め原稿用紙十枚ほどにまとめ、その英訳を用意してきていたのである。
伸一は、常に相手の立場に立って心を配った。心遣いは人柄の発露といってよい。
彼は、中東和平についての自分の主張をかいつまんで語ると、この書簡を手渡した。
「今、拝見してもよろしいですか」
長官は言った。伸一が「どうぞ」と答えると、文書を読み始めた。
最後まで目を通した長官は、また、最初に戻って読み始めた。
中東和平の基本原則の一番目に伸一が示したのは、「力を持てる国の利益よりも、持たざる国の民衆の意見が優先されねばならない」ということであった。それが平和を実現する鉄則である。
次々と土地を奪われたパレスチナ人の権利を回復し、パレスチナの民衆の不幸を優先して解決しない限り、中東における恒久的な平和は達成できないからだ。
46 信義の絆(46)
山本伸一は、この書簡で、ユダヤ系ポーランド人のジャーナリストであるアイザック・ドイッチャーの、イスラエルとパレスチナの在り方についての考えを紹介した。
――これまで双方は民族主義を問題解決の手段に用いて失敗したのだから、平和の達成にはこの民族主義を乗り越えなくてはならない。
そこから伸一は論を展開し、イスラエルが「人間の思想、信条、宗教の自由を保障して、生まれや人種によって差別されることのない民主的な社会を創出していくならば、パレスチナ人との共存は可能である」と述べたのである。
その実証として、かつては、パレスチナ地域において、イスラム教徒も、キリスト教徒も、またユダヤ教徒も、諸民族が平和的に共存していたことをあげたのである。
基本原則の二番目に伸一が訴えたのは、「中東和平を進めるにあたり、あくまで武力解決を避けて、交渉による解決を貫くべきである」ということであった。
中東地域で数多くの戦闘が繰り返されてきたが、なんら問題は解決することなく、一層、事態は泥沼化し、深刻化しているのだ。
伸一は、それは、既に武力的解決が不可能であることを示していると指摘し、大国の指導者は、武力行使を起こさせないようにしてほしいと、強く要請した。
さらに、「この中東の危険な発火地に、これ以上の火薬を近づけてはならない」「武器供給に代えて、非軍事面での資金援助、技術援助をこそ行うべき」であると訴えた。
そして、米ソ英仏をはじめ、多くの石油消費国も参加して、中東地域の平和的な発展を保障し、推進する、「中東平和建設機構」を設けるよう提案したのである。
三番目には、「平和的解決のための具体的な交渉は、あくまで当事者同士の話し合いによって決定されるべき」であると記した。
大国の武力を背景にした交渉では、″戦争の合間の和平状態″にしかならない。
また、双方の軍事力の均衡に破れが生じた時は、前の戦争の和平条件や停戦協定を不満として、新たな戦争が起こってきたからである。
47 信義の絆(47)
山本伸一は書簡のなかで、さらに、次のように訴えた。
――米ソ両国は、紛争当事者を交渉のテーブルにつかせるよう努力することは大切である。しかし、具体的な交渉内容については、「民族自決」の原則を重んじ、双方が直接の話し合いによって決める必要がある。
彼は、あえて、具体的な兵力の引き離しや国家の承認問題については、触れなかった。それも、当事者同士の話し合いによって決定すべきであるとの考えによるものであった。
伸一は、書簡に、この提言を「人類の平和を願ってやまない一人の友人からの真心」として受け取ってもらえれば幸いであると記した。
そして、世界平和への自らの決意を述べ、こう書簡を結んでいた。
「今、世界は、中東情勢の刻一刻の動静とともに、あなたの一挙手一投足に固唾をのんで注目しております。
私もまた、あなたの中東和平への努力が大きく花を咲かせ、実を結び、戦乱の絶え間なかった中東の民衆から、そして全世界の持たざる国の貧しい不幸な人びとからも、感謝と喜びの喝采の拍手があなたに注がれるよう、陰ながら祈りたいと思います」
キッシンジャー国務長官は、この書簡を、三回繰り返して読んだ。
そして、顔を上げた。
「数日、思索させてもらいます。今度は、石油問題についても、ぜひ提言してください。
山本会長のご意見は、ニクソン大統領にも、必ずお伝えします」
伸一は、感謝と尊敬の思いを込めて語った。
「大変にありがとうございます。長官は激務に次ぐ激務で、お疲れのことと思います。また、さまざまなご苦労がおありでしょう。しかし、勇気をもって、人類の平和のために進んでください。
私も、もし、必要とあれば、どこへでも飛んでいきます」
最後に伸一は言った。
「奥様にくれぐれもよろしくお伝えください」
すると、長官は柔和な微笑を浮かべ、「サンキュー、サンキュー」と言って頷いた。
はにかむような、その笑顔に、ヘンリー・キッシンジャーという人間に触れた思いがした。
笑顔のある対話は、人の心を一層結びつける。
48 信義の絆(48)
キッシンジャー国務長官は、笑みを浮かべて、山本伸一に語った。
「また、友人としてお会いしたい。これからも連携を取り合いましょう。アメリカに来たら、ぜひお寄りください」
この日から、伸一とキッシンジャーの友好は、一段と深まっていった。
キッシンジャーが国務長官を辞めた後も、二人の交流は続き、東京・渋谷区の国際友好会館や聖教新聞社などで、世界の平和を願って語らいを重ねていった。
そして、一九八七年(昭和六十二年)九月には、二人の対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』が出版されたのである。
また、九六年(平成八年)六月、二人はニューヨークのホテルで会談した。伸一がアメリカからキューバに行き、カストロ国家評議会議長と会見する予定であることを知ったキッシンジャーが訪ねて来たのである。
当時、ソ連をはじめ、東ヨーロッパの社会主義政権は相次ぎ崩壊し、社会主義国キューバは、国際的に孤立化していた。
さらに、この年二月には、キューバによるアメリカ民間機撃墜事件が起こり、両国の間には、緊張状態が続いていたのである。
キッシンジャーは、アメリカとキューバの関係改善を願う真情を述べ、伸一の訪問に、強い期待を寄せたのである。
伸一は、そのキッシンジャーの心を携えてキューバを訪問し、カストロ議長と会見した。キッシンジャーの思いも伝え、平和への実り多い対話がなされたのだ。
エマソンは叫ぶ。
「友情と協力はじつにすぐれた要素である。そうだ、人類のうちで最良の人びとがある普遍的な目的のために結合して、偉大な隊列を敷くことは、りっぱな行動である」
対話は、新しき友情の道を開く。
友情を結ぶことが、世界を結び、人類を結合させることになるのだ。
国務省で、キッシンジャー国務長官と会談した伸一は、引き続き、同省内で、前駐日大使のロバート・インガソル国務副長官にあいさつした。
それから、日本大使館に向かった。訪米していた大蔵大臣の大平正芳と会見することになっていたのである。
49 信義の絆(49)
先進国蔵相会議などに出席するため、前日、ワシントン入りした大平正芳蔵相から山本伸一に、日本大使館で会いたい旨の連絡があったのである。
大平大臣とは、初対面であった。
伸一が大使館に到着し、あいさつをすますと、大平は、淡々とした口調で切り出した。
「日中平和友好条約について、山本会長のご意見をお聞きしたい」
大平は、前月の一九七四年(昭和四十九年)十二月に、三木内閣の大蔵大臣となった。
七二年(同四十七年)に日中国交正常化を果たした時の田中内閣では外務大臣を務め、日中航空協定にも尽力してきた。
そして、いよいよ日中平和友好条約の締結が、彼にとっても最大のテーマとなっていたのだ。
平和友好条約については、七二年九月に発表された日中共同声明のなかで、締結に向けて交渉していくことが明記されていた。
七四年十一月には、両国の政府間で、平和友好条約のための第一回予備交渉が行われ、この七五年(同五十年)一月に、再開されることになっていたのである。
三木首相も平和友好条約の締結を望んでいた。だが、党内では難色を示す勢力が強く、前途は多難であった。
それを押し切るには、三木首相の党内基盤は脆弱すぎた。
日中友好を推進することは、命がけの作業といっても過言ではない。
大平は、外相として国交正常化を推進していた時には、自宅に脅迫状も投げ込まれたという。
しかし、彼は、「たとえ八つ裂きにされても、やる」との壮絶な決意を固めて、事に当たってきたのである。
日中航空協定でも、党内の反対派から、何度もつるし上げられた。
伸一もまた、日中友好の架橋作業に突き進んだ日から、幾度となく、脅迫や非難、中傷の嵐に打たれ続けてきた。
それだけに、大平蔵相の心も、決意もよくわかった。
「信ずるところある我々は、何を恐るべきことがあるか」とは、ユゴーの叫びであり、伸一の信念でもあった。
大業に生きるならば、苦難を覚悟せねばならぬ。勇気なくして大願の成就はない。
50 信義の絆(50)
山本伸一は、大平正芳蔵相に、忌憚なく、自分の思いを語った。
「日中平和友好条約については、早急に締結していただきたいと私は切望しています」
条約の締結は、伸一がかねてから主張し続けてきたことであった。
彼は、「日中国交正常化提言」を行った翌年の一九六九年(昭和四十四年)には、連載中の小説『人間革命』第五巻「戦争と講和」の章のなかで、平和友好条約の締結を提案したのである。
七二年(同四十七年)の日中国交正常化によって、両国に橋は架けられたが、まだ簡粗で不安定な「吊り橋」のような橋である。子々孫々にわたって崩れぬ堅固な「金の橋」を架けるための土台となるのが、この平和友好条約なのである。
伸一は言葉をついだ。
「さきほど、キッシンジャー国務長官とお会いしてきました。長官は、日本と中国は、ぜひ平和友好条約を結ぶべきだというご意見でした」
「そうなんです。キッシンジャーさんは周総理から、条約締結の応援を頼まれているようです」
伸一の脳裏に、北京の病院で周恩来総理が、命を振り絞るようにして語った言葉が蘇った。
「中日平和友好条約の早期締結を希望します」
その声には、″自分の命が尽きる前に、なんとしても……″という気迫があふれていた。
伸一は、周総理を思いながら蔵相に言った。
「これは、断固、成し遂げなければならないテーマです。
大平先生への皆の期待は大きいといえます」
蔵相は、決意をかみしめるように語った。
「日中平和友好条約は必ずやります。
しかし、若干、時間はかかります。年内は無理かもしれません。
日中問題は、実は『日日問題』なんです。日中友好に慎重な勢力の強い抵抗があります。三木総理はやりたくとも味方は少ない」
伸一は、ひときわ大きな声で言った。
「国民が味方ですよ。平和を望む国民はみんな味方です。応援します」
正しい決断であれば世論は、必ず最後は味方する。ゆえに、不屈の行動を貫くのだ。
伸一は条約締結のために、陰ながら全精力を注いで応援しようと心に誓っていたのである。
51 信義の絆(51)
大平正芳蔵相は、山本伸一をじっと見つめ、何度も頷いた。
伸一は話を続けた。
「この日中平和友好条約は、日中のみならず、世界にとっても極めて大事です。社会主義の中国と資本主義の日本が『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。
人類は、いつまでも、『冷戦』を続けている時代ではありません」
「それは、その通りです。『地球はひとつ』の時代です」
大平蔵相との語らいは、日中友好への決意を固め合う対談となった。
日中平和友好条約の締結への道のりは険路であった。蔵相の言っていたように、二月になると、条約に覇権反対の条項を盛り込むかどうかで、交渉は、暗礁に乗り上げることになる。
「反覇権条項」は、日中共同声明でうたわれたもので、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とある。
この共同声明が発表されると、ソ連は、日本政府に、「反覇権条項」はわが国に対するものであり、″反ソ共同声明″ではないかと、強硬に抗議してきた。
すると、日本国内には、日中平和友好条約から、「反覇権条項」を外すべきであるとの声が起こったのである。
しかし、中国側は「反覇権条項」は、断じて入れなければならないとの姿勢を貫いていた。
意見調整は難航した。
ソ連に配慮しつつ、「反覇権条項」が盛り込まれた日中平和友好条約が調印されたのは、伸一の「日中国交正常化提言」から十年後の、一九七八年(昭和五十三年)八月のことである。福田赳夫首相、大平自民党幹事長の時代であった。
日中の歴史は、さらに大きく動いたのだ。
時代の底流には、既に滔々たる平和の流れがつくられていたのである。
伸一は喝采を送った。
かのアインシュタインは、平和創造の道について、こう述べている。
「恒久の平和は脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」
52 信義の絆(52)
山本伸一は、翌一月十四日、アーリントン墓地を訪れ、「無名戦士の墓」に献花した。
青空が広がっていたが、零下二度の冷え込みである。
伸一は、失礼になってはならないと、コートを脱いで献花に向かった。寒さで耳が痛んだ。
彼は思った。
″ソ連にも、そして、ここにも、多くの若き戦士たちが眠っている。
戦争には、敗者も、勝者もない。皆が犠牲者なのだ。なんのための戦争なのか! 誰のための戦争なのか!
いかなる国でも、愛する人を失った遺族の悲しみに変わりはない。人間のなしうる最大の悪は戦争だ。その戦争を引き起こす、「魔性の心」を打ち砕く道を示しているのが仏法なのだ。
ゆえに、仏法者の使命は、この地球上から戦争をなくすことにある。それを成し遂げることが、この犠牲者にこたえる唯一の道であるはずだ!″
伸一は、恒久平和を、深く、深く、心に誓いながら、儀仗兵が見守るなか、「無名戦士の墓」に献花し、黙祷した。
そして、厳粛に題目三唱を三回繰り返した。
彼は言った。
「永遠に戦争のないことを祈りました」
さらに伸一は、墓地内にある、第三十五代大統領のジョン・F・ケネディ、その弟のロバート・F・ケネディの墓を訪れ、冥福を祈った。
ケネディ大統領とは会談が決まっていたにもかかわらず、実現せずに終わってしまったことが悔やまれてならなかった。
伸一はこのあと、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイを訪問し、一月二十三日、グアムに向かった。
グアムでは、二十六日に世界五十一カ国・地域からメンバーの代表が集い、第一回「世界平和会議」が開催されることになっていた。いよいよ平和の新章節の幕が開かれようとしていたのだ。
ジョン・F・ケネディは叫んだ。
「われわれが結束するとき、新しく協力して行なう無数の事業において、なしえないことは何もない」
人類が結束して行うべき最大の事業――それは恒久平和の建設である。伸一は、そのための人類結合の「芯」となる絆を創ろうと、固く強く、心に決めていたのである。