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日蓮大聖人・池田大作

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1 「学生第一」に教育の勝利が  

「人間と文化の虹の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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7  「人間をつくる人間」をどう育むか
 池田 すばらしい取り組みです。
 かつて、点数主義の教育を嫌った大科学者のアインシュタイン博士は、「大学の講座は数多いが、賢明かつ高貴な教師は少ない」(湯川秀樹監修『アインシュタイン選集』3、井上健・中村誠太郎訳、共立出版)と嘆きました。
 就職問題は当然、大事です。その上で、仕事を通じて社会に尽くし、世界に貢献していこうとする「賢明かつ高貴」な人格を、どう育んでいくか。
 ここに、大学教育の重要な課題もあります。
 創価教育の創始者である牧口初代会長は、「”青は藍より出でて藍よりも青し”、これが創価教育の特色である」と、明確に教育のあり方を示しております。
 教育者は、生徒や学生を自分よりも立派な人格にと、全魂で育てていく。これが教育に携わる心ではないでしょうか。
 もちろん、牧口会長は「教師はすべてのことに生徒の手本となる必要はない」としています。そのうえで、「教師が模範となることが必要なのは、”教材”としてではなく、”努力すること”の模範である」と、的確に述べられています。
 「教師は、まず何より人間として生きよ!」との叫びが聞こえてきます。
 人間をつくるのは、人間です。
 人間を鍛えることができるのも、人間です。
 そうであるならば、「人間をつくりゆく人間」をどうつくるかが、すべての根本となるはずです。
 そういえば韓国では、「師匠の恩恵」という歌が、小学校の唱歌になっているそうですね。
  「師匠の恩は空のごとくに
   仰ぎ見るほど高くなりかな
   正しき道を教え賜いし
   師匠は心の父ならん
   ああ有り難し師匠の愛
   ああ報ゆべし師匠の恩」
 (作詞・姜小泉、作曲・権吉祥。『音楽』5、京仁教育大学教育人的資源部、大韓教科書)
  その歌はよく知っています。よく口ずさんだものです。
 池田 なんと麗しい歌調でしょう。
 博士には、青年時代、師匠と慕う方はいらっしゃいましたか。
  そうですね、私の場合は、自分自身が、「試験を受けるなら、必ず百点をとる」といった決意があまりにも強くて、だれかを頼ろうとすることがほとんどありませんでした。
 まず、自分で努力して切り開こうという決意が強かったのです。
 そのため、「師匠の恩恵」をあまり意識したことがありませんでした。残念なことですが、中学から大学まで、私を本当に助けてくれたという先生には、巡り合わなかったと思います。
 私が大変厳しい逆境のなかで無理にでも勉強しょうとしていたために、感謝する場面が少なかったことも一因だったと思います。
 池田 博士の刻苦勉励は、これまでの対談でも、感慨深くお聞きしました。
 博士は若き日に、済州島から、たった一人でソウルに行かれて、人の何倍もの苦労の中、学び続けられた。
 だからこそ、最優秀の学生を幾千幾万と育て、今なお仰がれゆく模範の大教育者となられたのだと思います。
8  人生の恩人から学んだこと
  ありがとうどざいます。ただ、教師ではありませんが、大変に恩義がある大先輩はいます。金鳳実キムボンホ先生という人です。金先生は済州島出身の在日韓国人でした。日本の姫路高校(旧制)を卒業し、東大の法学部に学びました。
 卒業と同時に日本政府の高等文官試験を受け、見事、優秀な成績で合格して内務省に入りましたが、韓国動乱(朝鮮戦争)の混乱のなかで、不本意にも「越北者ウォルブクチャ」(三八度線〈南北軍事境界線〉以南から以北に行った人)の烙印を押され、官僚の仕事からも外されてしまいました。
 そこで、動乱当時、韓国唯一の輸出会社であった、タングステンを輸出する大韓重石鉱業株式会社に入り、総務部長の立場になりました。
 休戦協定から二年が経った一九五五年に、私は大学進学のためにソウルに移ったのですが、住まいも決まらず転々としていました。夏はまだ暮らせても、零下一五度から二度にもなる冬には、石炭も手に入りにくく、住まいも不安定な状況で暮らしていくことは、とうてい、不可能でした。
 そこで、いったん済州島に戻り、まったく面識もない金先生に、率直に窮状を伝える手紙を書いたのです。
 すると、先生から「冬休みが終わって、ソウルに戻ったら、すぐ私のところに来なさい」とお返事をいただきました。
 ソウルに戻り、会社を訪ねると、すぐに運転手を呼び、私を自宅に招いてくださいました。そして家庭教師として雇ってくださり、しかも部屋まで貸してくださったのです。
 夢のようでした。おかげでソウル大学を卒業することができました。
 池田 金先生は、博士の人生の恩人なのですね。青年を育成するために、策や方法はありません。全力で心を尽くすことだと思います。
  本当にそういう方でした。
 環境上の理由で勉強を続けるのがむずかしくなった時に、思わず金先生に「勉強をして、人間の質はどのように変わるのでしょうか」と質問したことがあります。
 先生は、「へーゲルは量が質に変わると言った。勉強を一生懸命続ければ人間の質はよくなるよ。ただし、頭の質がよくなるほど勉強しなければ駄目だ」と言われました。そこでパッと、悩みが吹き飛びました。
 金先生はその後、故郷の南済州郡から、選挙に出たのですが、その演説中に吐血して入院しました。
 済州の病院に駆けつけ、三日間ほど付き添い、最期を見届けました。
  趙博士の「原点」をうかがった思いです。
 今のお話をうかがって、牧口初代会長のエピソードを思い出しました。牧口先生は、『人生地理学』の発刊でお世話になった地理学の犬家・志賀重昂しげたか氏の恩を決して忘れませんでした。
  それは、どのようなお話なのでしょうか
 池田 『人生地理学』が発刊されたのは一九〇三年、牧口先生が三十二歳の時です。
 書きためた二千枚の原稿を携えて、牧口先生が北海道から上京して二年後のことでした。
 志賀氏は、当時の牧口先生について「衣食の窮乏に耐え、しかも矻々こつこつとしてその志を成さんとする」と讃えています。そして『人生地理学』を最大に支持し、校閲の労をとった上で序文を寄せてくれたのです。
 『人生地理学』は、発刊されるや、「我が地理学会に対して投じた一大警鐘」(小川琢治「地理学研究」第二巻八号)等、高い評価を受けました。これも、貧しい無名の一青年であった牧口先生を支えた、志賀氏の存在があればこそであった。
  胸に迫るお話ですね。
 池田 一九二七年(昭和二年)、志賀氏は病で危篤状態に陥りました。牧口先生はすぐに病院に駆けつけ、自分の血を採って志賀氏に輸血するよう申し出たのです。日本では、輸血がまだよく知られていないころのことです。若き日の恩人を助けるためならば、できることは何でもしたい、この牧口先生の心境が切々と伝わってきます。
 「信義」には「信義」で応える。
 「真心」には「真心」で報いる。
 牧口先生は、そういう生き方を貫きました。
  牧口会長の『人生地理学』に見られる先見性と、今のエピソードをあわせて考えると、当時の世界を代表するような大教育者であり、大人格者だったことが分かります。
 池田 私が一九九九年に済州大学を訪問して、最も心を打たれたのは、趙博士のお人柄からくる学生への温かな眼差しでした。
 学生が博士を慕い、また博士が学生を尊敬し、信頼する姿のなかに、済州大学が「校訓」としている「真理・正義・自我・進取」の気風がみなぎっていることを、直感しました。
 創価大学や創価女子短期大学の学生たちは、済州大学の学生たちの礼儀正しさ、誠実さに、皆、大変、感銘を受けています。
 貴大学の「名誉文学博士号」を私が拝受した式典で、博士が力説されていた次の言葉を思い起こします。
 「大学というのは、人類共同体を実現するための精神を養う重要な場です。『哲学の英知』も『最先端技術の開発』も、結局は『人類の幸福と平和のための手段』にすぎません。しかし、大学には、このような人類の志向する幸福と平和をつねに追求しなければならない使命がある」と。
 志を同じくする者として、深き感動を覚えました。
 人類の幸福と平和のための教育、そのための大学の存在が今ほど求められている時はありません。

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