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日蓮大聖人・池田大作

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2 「朝鮮通信使」と友好交流  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

前後
7  「寛政の改革」で打ち切られた朝鮮通信使
  こうした交流を築きながらも、朝鮮通信使は、一八一一年(文化八年)を最後に終わりを迎えました。
 理由はさまざまありましたが、最大のものは、両国を襲った大飢僅による財政難のようです。
 池田 経済的な問題が重なり、通信使派遣が繰り延べになったのですね。
 日本では、「天明の大飢饉」の直後にあたり、百姓一揆や「打ちこわし」が続出したことで知られます。
 前回の通信使(一七六四年=宝暦十四年)から、実に四七年の歳月が流れていました。
 しかも、最後の通信使は、江戸には行かず、対馬だけで儀礼を行なった。いわゆる「易地聘礼」です。
 これはもともと江戸時代後期の老中・松平定信が進めた「寛政の改革」の一環として始まったものでした。
 定信は、財政再建、綱紀粛正などの諸政策を行なった一方、朝鮮通信使の見直しも実行に移しました。
 新井白石の著書による影響も指摘されています。ただ、実際の通信使派遣は、定信の失脚後でした。さまざまな紆余曲折を経て、ようやく対馬での聘礼が実現したようです。
  朝鮮側から見れば、「朝鮮通信使」を派遣する重要な目的の一つは、朝鮮国王が日本の新しい将軍と国書を交わし、通信使らも幕府の要職人物と交流を深め、「交際」の意志を再確認することにあったようです。
 しかし、対馬までの往来で終わってしまっては、この目的が達成されなくなってしまいました。
 その後も、対馬や大坂での聘礼が計画されていたようですが、結局、実現されないままに、明治維新を迎えてしまいました。
 この定信とともに、通信使への儀礼縮小に影響を及ぼした学者がいました。大坂の朱子学者・中井竹山です。
 李進熙イジニ姜在彦カンジェオンの共著『日朝交流史』(有斐閣)などに詳しいのですが、彼は一七八9年に著した『草茅危言』で、神功皇后の「三韓征伐」を持ち出し、「もともと日本の属国であった耕鯨と、統一軒に交流するとは」と述べたのです。
 池田 また「三韓征伐」ですね。『日本書紀」が史実と神話の組み合わせで構成されていることは、今となっては明らかです。
 こうした『日本書紀」に端を発する、誤った「神国意識」「皇国史観」が根強く存在したが、日本人の歴史観を歪ませてきた一つの要因とも言えるでしょう。
8  ”日本だけで成し遂げたのではない”
  諸説が分かれる古代の歴史については、改めて論じ合いたいと思いますが、中井竹山が『草茅危言』を記した十八世紀末は、本居宣長と、その門下を自称した平田篤胤による「国学」思想が広まった時期とも重なります。
 宣長は『鉗狂人』で、「元来わが国は四海万国を照らす天照大御神が誕生した本国であり、その皇孫の生命が天から降りてきて、天地とともに永遠に治める国ある」(趣意)などと、神話そのものの内容で「皇国」を論じています。
 これに対し、同じ日本人である藤貞幹は『衝口発』で、次のように論じています。(鷲尾順敬編『日本思想闘争資料』4所収、東方書院、参照)
 「日本書紀」を読む時、わが国が馬辰ばしんに二韓から始まり、弁韓の要素も一緒に交じり合っていることを念頭に置かなければ、これを解読することはできない。古来、韓より根が始まっていることを隠しているという事実を知らずに、この国(=日本)だけで何でも成し遂げられていると考えるために、韓の言語を日本式に読み、多くの論理を立ててしまう。そして何も得られなくなるのである」(趣意)と。そうしたなか、朝鮮通信使が途絶えた日本では、結局、中井竹山が主張した論理が、頭をもたげるようになってしまったと言えるでしょう。
 池田 ある面で、松平定信が下した一つの決定が、両国の友好の歴史を大きく変えてしまった。
 その後、両国の関係が悪化していったことを本いえれば、きわめて残念な結果だったと思います。
  ええ。実際に日本は、明治維新をきっかけに「交隣」から「征韓」に傾いていきます。
 しかし、一八一一年の通信使で、すべてが途絶えたかというと、そうではありませんでした。
 対馬藩は、その後も明治にいたるまで、ずっと朝鮮と交流を続けていました。
 「藤貞幹」の”この国だけで何でも成し遂げられたわけではない”という叫び、それを最後まで貫いたのが、対馬の人々だったと思うのです。
9  よみがえる朝鮮通信使
 池田 まったく同感です。
 そうした「交流」の心を現代にも受け継いでいく必要があります。
  サッカーのワールドカップ共催から、両国の関係は、大きく前進しています。
 新聞、雑誌、テレビでの特集や、映画、音楽の相互交流、国内旅行と見まがうまでの両国間ツアーの活性化ーー。
 お巨いの”等身大の実像”が見えてきて、妙にうれしくなったり、とまどったりする国民が、両国で争えているのではないでしょうか。
 池田それに関連して、「朝鮮通信使」を復活させ、両国を縦断させようとするイベントも登場しました。
 貴国の外交通商部、「韓・中・日文化観光連合会」や、日本の外務省、NHKなどが主催する「『朝鮮通信使』全国縦断リレーイベント」です。
 二〇〇二年九から、韓国のソウル市、密陽市、釜山市の三都市で朝鮮通信使の行列を再現した後、日本の下関市、岡山・牛窓町、近江八幡市、静岡市など七市町で同じくパレードを行なう、画期的なもので、日本の市町は、いずれも朝鮮通信使ゆかりの地です。
 メーンイベントは十一月、千葉市の幕張メツセで行なわれます。
  すばらしい企画ですね。「ワールドカップが終わっても、交流は終わらせない」との意気込みが伝わってくるのです。
 池田 このほか、両国の都市による姉妹提携が進んでいるのも、明るい話題と言えましょう。
 二〇〇二年二月には岡山市が貴国の富川ブチョン市と、三月には金沢市が全州市チョンジュと、それぞれ姉妹提携を結びました。
 こうした都市による友好交流の前進は、本当に喜ばしい限りです。
 富川市からは、以前(一九九七年十二月)、顕彰を受け、「市の鍵」を頂戴したことがあります。
 これは私が、貴国から初めていただいた顕彰であり、忘れえぬものです。
  池田会長の正しい歴史観、平和への行動は、わが国でも、よく知られています。
 池田 いずれにしましでも、「最大の友好の期間」が厳然と二百にわたって続いたことは、両国の大きな財産だと思います。
 時代は変わっても、同じ「人間」です。現代に生きる私たちもまた、朝鮮通信使がもたらしたような友好関係を築けないはずはありません。
 これは単なる楽観論でもなく、空想でもありません。
 両国間で解決しなければならない問題は多くあるでしょう。しかし私たちの先輩は同じ「人間」として、「善隣友好」を成し遂げた。
 その歴史から苧び、「希望の光」を見いだしていかねばなりません。私たちの対話が、その挑戦につながることを、願ってやみません。

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