Nichiren・Ikeda
Search & Study
62 正義(62)
露崎アキは、山本伸一からの伝言と見舞いの品に、跳び上がらんばかりに驚き、喜んだ。
″こんな病魔になんか、負けとれん! 一日も早う元気になって広宣流布のために、そこら中、歩き回らな! 山本先生にお応えせなあかん!″
彼女の病状は、健康に向かっていった。そして、ほどなく退院し、伸一の激励から九日後の五月三日には、津市の三重文化会館(現在の津文化会館)で波多光子と共に、第二回「広布功労賞」を受賞している。
伸一は、三沢宅に集った一人ひとりに視線を注いだ。
彼は、皆が「学会の宝」であり、御本仏から、この世に召し出された「使命の人」であると、しみじみと思った。
「皆さんの奮闘があってこその、広宣流布です。広布の使命をもって生まれてきた皆さんは、もともと仏の子であり、地涌の菩薩なんです。
だから、これから先、どんな試練が待ち受けていようが、勝てないわけがありません。幸福になれないわけがありません。何があっても、この確信だけは忘れないでください。
私たちは、広宣流布に生き抜こうと心を定め、自行化他にわたる信心を実践していくなかで、仏の生命を、地涌の菩薩の生命を涌現させていくことができるんです。そして、それによってわが生命が変革され、宿命の嵐に敢然と挑み勝つ力が湧き、毒を薬となし、苦を楽と開いていくことができるんです。
大聖人から、わが地域の広宣流布を託された皆さんです。皆さんが語った分だけ、仏縁が、仏法への理解が広がっていきます。皆さんが歩いた分だけ、広宣流布の道を開くことができます。皆さんが汗を、涙を流し、弘教の旗を打ち立てた分だけ、幸福の宝城が築かれます。
どうか、この白山町の、三重県の広宣流布を、よろしくお願いします」
彼は、仏を敬うように、深く頭を垂れた。
63 正義(63)
山本伸一を囲んでの″座談会″は、一時間ほどに及んだ。彼は、三沢光也・カツ子夫妻に見送られ、三沢宅をあとにした。
伸一は、この日の夜は、津市にある三重文化会館で、県の代表との懇談会に続いて、三重支部結成十八周年記念幹部会に出席することになっていた。
津に向かって、車が走り始めると、彼は、同乗していた三重県の幹部に言った。
「研修道場のある地域の、支部婦人部長のお宅は、わかりますか。もし、ご迷惑でなかったら、短時間でも、御礼のごあいさつに伺いたいんです」
県の幹部は、腕時計を見ながら答えた。
「三重文化会館での懇談会もございますので、時間はあまりございませんが……」
「五分でも、十分でもいいんです。相手のご都合もおありでしょうから、玄関先のあいさつでも、一緒にお題目を三唱するだけでもかまいません。今日を逃せば、訪問の機会はなくなってしまうかもしれない。できる時にできることを、全力でやりたいんです。
失敗や敗北の、すべてに共通している要因は、できる時に、できることをやらなかったという点にあります」
劇作家シェークスピアは記している。
「いたずらに好機を逸するのは、その人間の怠慢だ」
伸一も、まさに、そう感じていた。
同行していた県の幹部は言った。
「支部婦人部長さんは、多喜川睦さんといいまして、お宅は、この国道沿いにあり、すぐ近くです。長年、自宅を会場として提供してくださっています。その自宅を、最近、新築されたんです。先生に訪問していただければ、大喜びすると思います」
伸一たちが、多喜川宅を訪れると、睦の義母と小学生の娘が、留守番をしていた。
義母は、「まあ、先生!」と、満面の笑みで伸一たちを迎え、仏間に通した。
「では、新築記念の勤行をしましょう」
伸一の導師で勤行が始まった。
64 正義(64)
支部婦人部長の多喜川睦は、さきほどまで山本伸一が訪れていた三沢宅にいた。彼女も三沢宅での″座談会″に参加しており、終了後も、皆で伸一の指導を確認し合い、決意を語り合っていた。
そこに、一本の電話が入った。伸一に同行していた県の幹部からであった。
「多喜川さんの家に、山本先生がいらしています。すぐに戻ってください!」
多喜川は、驚きのあまり、受話器を持つ手が震えた。
彼女が自宅に到着したのは、義母と娘が、伸一と一緒に勤行している最中であった。
勤行が終わるや、多喜川は伸一に言った。
「今日は、わざわざおいでいただき、ありがとうございました」
「すばらしい家ですね。近代的で、時代の先端を行く流行作家の家のようですね。
今日は、突然ですが、一言、支部婦人部長さんに御礼を言おうと思っておじゃまし、新築記念の勤行をさせていただきました。
これから、すぐに三重文化会館へ向かうので、ゆっくりお話しすることはできませんが、いつも、お題目を送り続けます。どうか、くれぐれもお体を大切にしてください」
多喜川の家をあとにした伸一は、車中、県の幹部に語った。
「幹部は、寸暇を惜しんで、皆の激励に回ることです。″もう一軒、もう一軒″と、力を振り絞るようにして、黙々と個人指導を重ねていくんです。
それが、幸せの花を咲かせ、組織を強化し、盤石な創価城を築くことになります。ほかに何か、特別な方法があるのではないかと考えるのは間違いです。
作物をつくるには、鍬や鋤で丹念に土地を耕さなければならない。同様に、何度も何度も、粘り強く、個人指導を重ねてこそ、人材の大地が耕されていくんです」
皆が広布の主役である。ゆえに、一人ひとりにスポットライトを当てるのだ。友の心を鼓舞する、励ましの対話を重ねていくのだ。
65 正義(65)
二十四日の午後二時半、三重文化会館に到着した山本伸一は、居合わせた近隣の会員と記念撮影し、皆で一緒に勤行をした。
さらに、県の代表幹部との懇談会に臨み、意見に耳を傾け、質問に真心を尽くして答えた。また、移動の車中で作った歌などを、参加者に贈った。
そして、三重支部結成十八周年の記念幹部会に出席したのである。彼は、この席でも、個人指導の重要性について訴えた。
「日蓮大聖人は、四条金吾や南条時光をはじめ、多くの弟子たちに御手紙を与えられた。その数は、御書に収録されているものだけでも、実に膨大であります。
それは、何を意味するのか。一言すれば、広宣流布に生きる一人ひとりの弟子に対して、″何があろうが、断じて一生成仏の大道を歩み抜いてほしい。そのために、最大の激励をせねばならない″という、御本仏の大慈大悲の発露といえます。
一人でいたのでは、信心の触発や同志の激励がないため、大成長を遂げることも、試練を乗り越えていくことも極めて難しい。
私どもが、個人指導を最重要視して、対話による励ましの運動を続けているゆえんも、そこにあるんです。
また、聖教新聞などの機関紙誌を読み、学ぶことも、信仰の啓発のためであり、信心の正道に生き抜いていくためです。
自分一人の信仰では、進歩も向上も乏しい。我見に陥り、空転の信心になりやすい。ゆえに広宣流布のための和合の組織が必要不可欠であることを、私は強く訴えておきたい」
伸一にとっては、一回一回の会合が、一人ひとりの同志との出会いが、生命触発の″戦場″であった。真剣勝負であった。広布破壊の悪侶らは次第に数を増し、牙を剥き、愛する同志を虎視眈々と狙っていたからである。
伸一は、翌二十五日には、舞台を関西に移し、ここでも同志の激励に全生命を注いだ。
魔の執拗な攻撃を打ち破るには、正義の師子吼を発し続けるしかない。
66 正義(66)
山本伸一は、関西では、創立者として創価女子学園を訪問したほか、関西牧口記念館、兵庫文化会館などを次々と訪れた。
行く先々で同志と記念のカメラに納まり、懇談会等をもち、入魂の励ましに徹した。
四月二十八日には、関西センターでの立宗記念勤行会に出席。創価の風雪の歴史は、法華経に説かれた「猶多怨嫉。況滅度後」(猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや)の通りであり、学会こそ如説修行の教団であると力説した。
また、二十九日は、関西戸田記念講堂での大阪女子部の合唱祭に臨んだあと、招待した南近畿布教区の僧侶たちと懇談した。
この日の夜、東京に戻った伸一は、翌三十日、「’78千葉文化祭」を観賞した。ここでも文化祭に招待した県内の僧侶と語らいをもった。彼は、僧侶たちに、讒言に惑わされることなく、宗門を外護して一心に広宣流布をめざす学会の心を理解してほしかった。仏子である会員を大切にしてほしかった。
会長就任十八周年となる五月三日をめざして、伸一は懸命に走り続けた。烈風が、怒濤が襲いかかるなか、自ら盾となって同志を守り、敢然と「正義」の旗を掲げ続けた。
学会は、戦時中、軍部政府による大法難にさらされた。戦後も、夕張炭鉱労働組合や、大阪府警・地検による不当な弾圧と戦った。
そして、牧口、戸田の両会長が日蓮仏法に帰依して満五十年を迎えようとする今、本来ならば、最も創価学会を賞讃すべき僧のなかから、死身弘法の決意で広宣流布を進める学会を悪口し、その仏意仏勅の組織を攪乱しようとする悪侶たちが出たのだ。
伸一は、時の不思議さを感じた。そして、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」との御文を、噛み締めるのであった。
″すべては、経文に、大聖人の御書に、仰せの通りではないか!
長い嵐の夜は続くかもしれない。しかし、その向こうには、旭日が輝く、飛翔の朝が待っているはずだ!