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日蓮大聖人・池田大作

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4 古代からの文化交流と仏教伝来  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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6  仏教=総合文化の伝来
 池目 あらためて申し上げるまでもないことですが、仏教を日本に伝えてくださったのは、文化「兄の国」であり「師匠の国」である貴国です。
  繰り返し、わが国を讃えていただき、本当にありがとうございます。
 仏教が日本に伝えられたのは、諸説ありますが、おおむね六世紀の中ごろのようです。
 このうち、有力なものの一つが、百済の王であった聖王ソンワンが、紀元五三八年に伝えたという説です。『日本書紀』などでは「聖明王」として記されています。
 聖王は、仏像をもたらしたほか、高名な苦行僧、尼僧、祈祷師、寺大工、仏師らを派遣し、欽明天皇に次のように伝えたと言われます。
 「仏教は数々の教えのなかでも最も秀で、周公、孔子も及びません。天竺から三韓まですべての国が敬っています。
 倭国の地において弘まるならば、仏が語った、この教はこの教えは東に伝わるであろう、との言を果たすことになります」と。
 以後、蘇我氏を中心とする「崇仏派」によって、仏教文化の導入は加速されていますね。
 池田 当時、「仏教」とは、単なる「宗教」「思想」ではなく、「総合文化」とほぼ同義でした。
 インドの哲学者・ロケシュチャンドラ博士も語っていました。
 「奈良・橿原の考古学博物館を見学して、あらためて知ったのですが、仏教伝来を機に、日本文化が一変しているのですね。
 仏教の伝来以来、日本の宗教は、『儀式』にとどまるものでした。古墳など『死後の世界』が関心の中心でした。
 仏教の伝来以後、特に法華経に象徴される『花開く』イメージーー『死後』ではなく、『現在を花開かせる』思想が、日本の構造を変えたのです」と。
  なるほど。仏教がどのようなイメージで人びとに受け止められたのか、その側面が分かるようですね。
 池田 先ほどの話で聖王が派遣したなかに、大工や仏師が含まれていたように、「仏教」を伝えるということは、同時に、漢字、美術、音楽、土木・灌漑技術、医術、薬学、天文学などを伝えることーーつまり、ありとあらゆる「文化」を伝えることと同じ意味でした。さらに古くには、稲作も、青銅器や鉄器も、紙や墨や漆も、貴国の先哲によって伝えられてきた。御礼をいくら申し上げても、足りないくらいです。
 日蓮大聖人の「御書」には、「百済」の名が、なんと三十カ所以上に登場します。
 例えば、「百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等・日本国にわたる」(263ページ)、「百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金銅の教主釈尊を渡し奉る」(997ページ)、「百済国と申す国より聖明皇・日本国に仏法をわたす」(1309ページ)など、まさに枚挙にいとまがありません。
 貴国からの大恩に関する記述を、繰り返し繰り返し、後世のために厳然と残されているのです。
 私どももまた、同じ気持ちです。
 これが、「貴国は文化大恩の国である」と、繰り返し申し上げている大きな理由の一つです。
7  日本で初めての寺院
  日蓮大聖人という方は、聖明王、つまり百済の王の名まで、書き残してくださっているのですね。
 さて、日本で初めての「寺院」は、蘇我馬子が建立した「飛鳥寺(法興寺)」であると言われています。
 五八八年、百済から仏舎利とともに派遣された僧や技術者らが参加しての造営でした。
 池田 当時の最高の技術、最高の人材を投資して行なわれた、「一大国家行事」であったことがうかがえます。
  飛鳥寺の発掘は、一九五六年から、奈良文化財研究所によって行なわれていますね。
 飛鳥寺は、礎石の上に丹青の漆を塗った柱を立て、木材を渡してはめ込み合わせ、白い壁と瓦屋根をもった豪華壮麗を誇る建築物であり、これが日本初の本格的な木造建築となりました。
 塔を中心として東・西・北の三方に金堂を配し、中門から発する回廊がこれらを囲む、特徴ある伽藍配置でした。
 これは日本には類例がない配置であり、高句麗の清岩里廃寺チョンアムニベサ(現・平壌ピョンヤン市)と酷似していることが分かりました。
 また、金堂の建築も日本には見当たらず、百済の定林寺チョンニムサ(現・扶余ブヨ郡)に類例が見られることが分かったのです。
 池田 日本初の仏教建設に、そのような社大な交流史があったのですね。
 ところで、飛鳥寺の発掘に携わった奈良文化財研究所が、興味深い発表を行なっています。現存する世界最古の木造建築である法隆寺五重塔の「心柱」の円盤標本を、木材年輪の精密な測定による「年輪年代法」で測定したところ、伐採された年が「五九四年」であることが分かったのです。
 五重塔の完成は、平城京遷都の頃である「七一一年」とされてきましたから、これでは伐採から完成まで、百年以上の年代差が生じてしまいます。
 それで、新たな「謎」として、議論の的になっているのです。
  五九四年といえば、飛鳥寺の塔が建て始められた直後になりますね。
 あるいは、飛鳥寺と法隆寺は、当初、兄弟として建立される予定だったのでしょうか。古代へのロマンがあふれでいます。
 「年輪年代法」は、科学の進歩が歴史の解明に役立った好例ですね。
 いずれにしても、飛鳥寺の例でも分かるとおり、六世紀からの日本の新しい文化発展の基底には、韓半島からの精神文化、および物質文化の伝来があることは、数々の出土品が物語っています。
 池田 七世紀、韓半島を統一した新羅と日本の間にも、仏教の思想を根底に、絶え間ない往来が続きました。
 七世紀後半から九世紀にかけてのおよそ百四十年間に、日本から新羅へは三十一回、新羅へは三十一回、新羅から日本へは四十五回も、使者が行き来したという記録があるほどです。
 交通が発達していない当時のことですから、この往来の頻度は相当なものだと思います。
 「正倉院とシルクロード」の話を持ち出すまでもなく、「飛鳥文化」に統く奈良時代の「天平文化」も、貴国が”礎”を築いてくださった。
 さらには十世紀初頭に、新羅も唐も滅亡して王朝が変わっていくなか、日本は平安京中心に「平安文化」を築くことができました。
 「文化」です。「文化の力」です。
 日蓮大聖人は「大乗仏教の精髄である法華経は、船にたとえるならば、大いなる珍宝を積み、百人、千人もの人びとを乗せて、高麗へ渡りゆく大船のごとくである」(御書1218ページ、趣意)とも説かれています。
 「最高の法」の譬喩として、「韓半島への大船」を挙げていることに、私は、深い意味を感じるのです。
  宝を積んだ、「韓半島への大船」ですか。
 鎌倉時代といえば、これまでも触れてきましたが、蒙古襲来によって韓半島の高麗は壊滅的な状況に追い込まれ、日本でも社会不安が増大していたことでしょう。
 そのさなかに、どこまでも民衆に希望を送り続けていたのが、日蓮大聖人だったのですね。
 韓日両国の友好も、そうした「大きな心」の連帯によって、花開いていくのかもしれません。
8  友好の心で「人間性」を回復
 池田 そのとおりです。仏教の伝来という歴史の大きな側面に焦点を当てて話し合いましたが、日本が受けた恩恵は、計り知れなかったのです。
 私は、『聖教新聞』の連載随想(二〇〇二年五月二十五日付「人生は素晴らしい」)に、こう記しました。
 「今、真の『韓日友好の花』を育てるためには、どうしても公正な歴史認識が不可欠なのである。
 過去の権力者が日本人の体内に植えつけた「隣邦の民族への偏見』という毒草を、徹底的に駆除し、根絶しなければならない。そうしなければ、日本人の人間性の回復はできないだろう。
 韓日友好は、だれのためでもない。第一に、日本人自身の魂の浄化のためなのである」ーー。
 特に、在日韓国・朝鮮人の方々への「差別」を温存したまま、「共生」を主張することは”暴力”にも等しいと私は思います。
 ましてや、大恩ある貴国の方々です。その方々との友好を、日本人はもっと真剣に、考えなければいけない。「無関心」は、悪です。
 「韓国と日本を知れば知るほど、歴史認識の溝など、埋まるはずがないと思う」との意見をもつ識者がいることも、私は知っています。
 その識者なりに得た「実感」まで、否定するつもりはありません。
 しかし、だからといって、私どものこの歩み、この対話を、止めるわけにはいきません。韓日友好への希望を、捨てるわけにはいきません。
 未来の友好のために、私は今、日本人に巣くう「根源の闇」を、「友情の光」で照らしたいのです。
  ありがとうございます。
 韓国人もまた同じです。「反日」を繰り返すだけでは、成長はありません。ワールドカップの共同開催を通じて培った信頼関係を、後退させてはいけません。
 「対話」は、わが国の人々にも、等しく必要なのです。
 「等身大」の韓国人と日本人が、両国のいたるところで屈託なく「文化論議」の花を咲かせる風景を、つくり上げなければなりません。

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