Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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2 「朝鮮通信使」と友好交流
「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)
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民衆と民衆の交流こそ肝要
趙
雨森芳洲は、日本の人びとがわが国を理解するために最も困難な「言葉の壁」を、打ち破った人だったのですね。ところで、当時の代表的な文化人に、新井白石がいますね。
幕政の一翼を担っていた彼は、財政負担の軽減という観点から、朝鮮通信使を迎える儀式の簡略化や、歓迎方法の変更など、大幅な見直しを行ないました。
一七一一年(正徳元年)、第八回の通信使を迎え入れるにあたってのことです。
その見直しの中に、日本の将軍の呼称を「大君」から「日本国王」に改めさせるというのがあり、これが雨森芳洲らから猛反発を受けたそうですね。
池田
新井白石は、合理と実証を重んじる優れた儒学者で、雨森芳洲と同じ木下順庵の高弟の一人でした。
白石は、実際の政治の場でも、妥協を許さずに自らが掲げた儒学的な理想主義を貫こうとしたようです。
その結果、貴国との交流について、さまざまな場面で衝突し、国内でも論争を巻き起こしました。
「理想」を高く掲げることも大事ですが、やはり状況を的確に反映させた「現実の声」を重視することは欠かせないということでしょう。
一七一六年、徳川吉宗の将軍就任とともに、白石は失脚します。さまざまな教訓を含んだ「歴史の断面」だと思います。
趙
申維翰が第九回の通信使の員として訪日したのは、白石が失脚した三年後となります。
この時、通信使制度は、ほとんど元に戻されました。通信使一行の対応にあたった中心者の一人が、雨森芳洲で、大幅な見直しのあとの、幕府と朝鮮の間の難しい問題をまとめました。
ただし、先ほども紹介したように、申維翰と雨森芳洲の間で意見が対立したこともあったようです。
池田
その背景については、京都大学名誉教授の上田正昭氏が編んだ『朝鮮通信使ーー善隣と友好のみのり』(明石書店)に、詳しく記されています。
上田氏は、芳洲自身の著書などをとおし、「雨森芳洲の値打ちが下がるわけではありません」と断りつつ、「雨森芳洲のような当時の最もすぐれた朝鮮理解者でも、(『日本書紀』以降の)『三韓征伐』説からは脱却していない」と、結論しておられます。
芳洲の人生を顧みれば、心の底で朝鮮の人びとを軽んじた、ということはなかったでしょう。しかし芳洲は、自分の「立場」を踏まえざるをえなかったのだと思います。
申維翰は、芳洲の「外交官」としての側面に、時折、苛立ちを覚えたのではないでしょうか。
趙
なるほど。確かに『海瀞録』で論争として記述されていることがらは、そのような背景によるものかもしれません。
これに限らず、「国」と「国」ではなく、「民衆」と「民衆」の交流こそ、肝要になってきますね。
現代にあっては、なおさらのことです。
池田
朝鮮通信使は国家同士の正式な交流であり、二百年の間に十二回に及びましたが、規模の小さい交流は、数えきれないほどあったでしょうね。
趙
ええ。古来、韓半島とのつながりが深かった対馬藩と、釜山の東莱府とは、使節の往来と貿易が、非常に盛んに行なわれました。
貿易での主な品目は、日本からは銀・銅等の鉱産物と、南方産の丹木、水牛の角などでした。朝鮮からは、米、大豆、朝鮮人参、木綿、それに中国産の絹や生糸などがもたらされたようです。
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「寛政の改革」で打ち切られた朝鮮通信使
趙
こうした交流を築きながらも、朝鮮通信使は、一八一一年(文化八年)を最後に終わりを迎えました。
理由はさまざまありましたが、最大のものは、両国を襲った大飢僅による財政難のようです。
池田
経済的な問題が重なり、通信使派遣が繰り延べになったのですね。
日本では、「天明の大飢饉」の直後にあたり、百姓一揆や「打ちこわし」が続出したことで知られます。
前回の通信使(一七六四年=宝暦十四年)から、実に四七年の歳月が流れていました。
しかも、最後の通信使は、江戸には行かず、対馬だけで儀礼を行なった。いわゆる「易地聘礼」です。
これはもともと江戸時代後期の老中・松平定信が進めた「寛政の改革」の一環として始まったものでした。
定信は、財政再建、綱紀粛正などの諸政策を行なった一方、朝鮮通信使の見直しも実行に移しました。
新井白石の著書による影響も指摘されています。ただ、実際の通信使派遣は、定信の失脚後でした。さまざまな紆余曲折を経て、ようやく対馬での聘礼が実現したようです。
趙
朝鮮側から見れば、「朝鮮通信使」を派遣する重要な目的の一つは、朝鮮国王が日本の新しい将軍と国書を交わし、通信使らも幕府の要職人物と交流を深め、「交際」の意志を再確認することにあったようです。
しかし、対馬までの往来で終わってしまっては、この目的が達成されなくなってしまいました。
その後も、対馬や大坂での聘礼が計画されていたようですが、結局、実現されないままに、明治維新を迎えてしまいました。
この定信とともに、通信使への儀礼縮小に影響を及ぼした学者がいました。大坂の朱子学者・中井竹山です。
李進熙
イジニ
・
姜在彦
カンジェオン
の共著『日朝交流史』(有斐閣)などに詳しいのですが、彼は一七八9年に著した『草茅危言』で、神功皇后の「三韓征伐」を持ち出し、「もともと日本の属国であった耕鯨と、統一軒に交流するとは」と述べたのです。
池田
また「三韓征伐」ですね。『日本書紀」が史実と神話の組み合わせで構成されていることは、今となっては明らかです。
こうした『日本書紀」に端を発する、誤った「神国意識」「皇国史観」が根強く存在したが、日本人の歴史観を歪ませてきた一つの要因とも言えるでしょう。
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”日本だけで成し遂げたのではない”
趙
諸説が分かれる古代の歴史については、改めて論じ合いたいと思いますが、中井竹山が『草茅危言』を記した十八世紀末は、本居宣長と、その門下を自称した平田篤胤による「国学」思想が広まった時期とも重なります。
宣長は『鉗狂人』で、「元来わが国は四海万国を照らす天照大御神が誕生した本国であり、その皇孫の生命が天から降りてきて、天地とともに永遠に治める国ある」(趣意)などと、神話そのものの内容で「皇国」を論じています。
これに対し、同じ日本人である藤貞幹は『衝口発』で、次のように論じています。(鷲尾順敬編『日本思想闘争資料』4所収、東方書院、参照)
「日本書紀」を読む時、わが国が
馬辰
ばしん
に二韓から始まり、弁韓の要素も一緒に交じり合っていることを念頭に置かなければ、これを解読することはできない。古来、韓より根が始まっていることを隠しているという事実を知らずに、この国(=日本)だけで何でも成し遂げられていると考えるために、韓の言語を日本式に読み、多くの論理を立ててしまう。そして何も得られなくなるのである」(趣意)と。そうしたなか、朝鮮通信使が途絶えた日本では、結局、中井竹山が主張した論理が、頭をもたげるようになってしまったと言えるでしょう。
池田
ある面で、松平定信が下した一つの決定が、両国の友好の歴史を大きく変えてしまった。
その後、両国の関係が悪化していったことを本いえれば、きわめて残念な結果だったと思います。
趙
ええ。実際に日本は、明治維新をきっかけに「交隣」から「征韓」に傾いていきます。
しかし、一八一一年の通信使で、すべてが途絶えたかというと、そうではありませんでした。
対馬藩は、その後も明治にいたるまで、ずっと朝鮮と交流を続けていました。
「藤貞幹」の”この国だけで何でも成し遂げられたわけではない”という叫び、それを最後まで貫いたのが、対馬の人々だったと思うのです。
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よみがえる朝鮮通信使
池田
まったく同感です。
そうした「交流」の心を現代にも受け継いでいく必要があります。
趙
サッカーのワールドカップ共催から、両国の関係は、大きく前進しています。
新聞、雑誌、テレビでの特集や、映画、音楽の相互交流、国内旅行と見まがうまでの両国間ツアーの活性化ーー。
お巨いの”等身大の実像”が見えてきて、妙にうれしくなったり、とまどったりする国民が、両国で争えているのではないでしょうか。
池田それに関連して、「朝鮮通信使」を復活させ、両国を縦断させようとするイベントも登場しました。
貴国の外交通商部、「韓・中・日文化観光連合会」や、日本の外務省、NHKなどが主催する「『朝鮮通信使』全国縦断リレーイベント」です。
二〇〇二年九から、韓国のソウル市、密陽市、釜山市の三都市で朝鮮通信使の行列を再現した後、日本の下関市、岡山・牛窓町、近江八幡市、静岡市など七市町で同じくパレードを行なう、画期的なもので、日本の市町は、いずれも朝鮮通信使ゆかりの地です。
メーンイベントは十一月、千葉市の幕張メツセで行なわれます。
趙
すばらしい企画ですね。「ワールドカップが終わっても、交流は終わらせない」との意気込みが伝わってくるのです。
池田
このほか、両国の都市による姉妹提携が進んでいるのも、明るい話題と言えましょう。
二〇〇二年二月には岡山市が貴国の
富川
ブチョン
市と、三月には金沢市が
全州市
チョンジュ
と、それぞれ姉妹提携を結びました。
こうした都市による友好交流の前進は、本当に喜ばしい限りです。
富川市からは、以前(一九九七年十二月)、顕彰を受け、「市の鍵」を頂戴したことがあります。
これは私が、貴国から初めていただいた顕彰であり、忘れえぬものです。
趙
池田会長の正しい歴史観、平和への行動は、わが国でも、よく知られています。
池田
いずれにしましでも、「最大の友好の期間」が厳然と二百にわたって続いたことは、両国の大きな財産だと思います。
時代は変わっても、同じ「人間」です。現代に生きる私たちもまた、朝鮮通信使がもたらしたような友好関係を築けないはずはありません。
これは単なる楽観論でもなく、空想でもありません。
両国間で解決しなければならない問題は多くあるでしょう。しかし私たちの先輩は同じ「人間」として、「善隣友好」を成し遂げた。
その歴史から苧び、「希望の光」を見いだしていかねばなりません。私たちの対話が、その挑戦につながることを、願ってやみません。
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