Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 権力の腐敗を正すものは何か――…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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6  民主主義に不可欠な自由なジャーナリズム
 池田 自由なジャーナリズムの存在が、民主主義の生命線であるということですね。
 エイルウィン ええ。自由なジャーナリズムの存在が、民主主義を実践していくうえで、不可欠な条件なのです。実際のところ、民主主義というものは政治権力が統治されている住民自身の意思に由来していて、社会集団の意思を反映して、公共の利益を実現しようとする任務をおびている社会共同体の一形態です。
 そして民主主義が機能していくためには、社会集団や統治される人たちの共同体が、社会で起こっていることや被害をあたえている問題、政府の課題やさまざまな権利について、たえず正しく信頼にたる情報を得ていることが不可欠なのです。
 池田 残念ながら、意図的なメディア・コントロールというものは、いつの時代にもあるようです。釈尊の時代、仏を誹謗中傷する輩のデマに対して、仏は「それは自分自身の口を汚していることにほかならない」と言ったと、律蔵に説かれています。阿含経に、「もし人、故なくして、悪語をはなち、怒罵をあびせ、清浄無垢なる者を汚さんとなさば、その悪かえっておのれに帰せん。たとえば、土をとってその人に投ずれば、風にさかろうてかえってみずからを汚すがごとし」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)とあります。
 悪意の言動、誤った行動は、やがて必ずその人自身に帰ってくる――との仏法の達観です。ですから、私どももいわれなき非難、中傷をされてきましたが、私は歯牙にもかけておりませんし、明鏡止水の澄みきった心境でおります。
 大きく成長し、伸びゆく民衆の団体には、つねに嫉妬、流言蜚語の類があるものです。
 エイルウィン もって銘ずべしで、胸に入るお話です。しかるべき正しい情報を得て初めて、国民は裁決を迫られたり統治者を選んだりするときに、思考をめぐらし決断できるようになります。社会制度のかかえる問題のあり方について、国民自身の参加が可能となり、態度を明らかにすることができるのです。
 決断し参加するためには、国民は十分な情報を受けていなければなりません。正しく信頼にたる情報を。そして、それがマスメディアの役割です。共同体が正確で信頼にたる情報を得ていくことにより、“世論”というものが形成され、権力を監視しコントロールしていくための、より効果的な仕組みができあがるのです。
 池田 軍事政権時代を経験されただけに、重みをもった一言、一言です。第二次世界大戦中、創価学会が軍部権力の弾圧を受けたときも、情報は権力によって一方的にコントロールされました。信教の自由が決定的に侵害されていることなど、国民は知るよしもなかったのです。
 エイルウィン ですから、情報や情報源の利用は、ジャーナリズムの権利であると同時に、情報の受け手である社会の権利としても重要なのです。共同体は、真実を、あらゆる真実を、そして真実のみを知る権利をもっています。
 その意味では、どのような視点であれ、眼鏡のガラスの色であれ、報道する者の主観的な見解であれ、ジャーナリズムには、起こったことの真相を伝えるために可能なかぎり客観的であろうとする責任が、道徳的かつ不可欠なものとして要求されます。
 要するに、社会統治とは先人たちが呼んでいた“公共物”と言うべきものであり、統治者や権力機構は、完全に社会に属する“公共物”の管理者のようなものであり、日の光の下で、その管理を行う義務を負っているのです。彼らは社会に対し、情報を公開する義務を負っており、社会はその情報を要求する権利と義務を有しているのです。
 池田 日の光の下で――とは、すばらしい表現ですね。リーダーは日の光に照らして曇りなく、ということですね。また、日の光の下でとは自由なジャーナリズムの下で、ということでもあるでしょう。
 さらに一言申し上げれば現在においては、ジャーナリズムは第三の権力と言われるほど、それ自体、巨大な存在になっています。マスコミとして、適正な報道を行うために、報道内容をチェックするオンブズマン(行政監査専門員)のような機能をもつことも必要になってくるでしょう。
7  よい政治家とは、すべてに奉仕する存在
 池田 ところで、「権力と哲人政治」に関してですが、ソクラテスやプラトンが追求したテーマがこれでした。プラトンは、アテネの衆愚政治が権力の行使を過ち、ソクラテスを殺したことから、この“権力と正義”の問題に深い思索を巡らせた。そして、晩年の大作『国家』において、次のように論じたのです。
 「正しく真実に哲学するものが、政治的指導者になるのでなければ、人類の不幸は止むことがないだろう」(藤沢令夫訳、『プラトン全集』11、岩波書店、参照)
 「哲人政治」こそプラトンの結論でありました。権力をコントロールする「倫理」「道徳」を、みずからのうちにもつ政治。それはやはりプラトンの説くように傑出した指導者の出現なくして、ありえないのでしょうか。
 エイルウィン 私はとてもプラトンを尊敬していますが、国の統治は、政治家の仕事であり、哲学者の仕事ではないと考えます。
 その一方で、良き政治家は行動の着想を得たり、方向づけするための明確な知的・道徳的概念を有していなければならない、と私は考えています。
 統治の術策というものは、たいへん複雑な作業です。たんに知識のみ(国内外の現実、その問題と可能性、人間性や歴史、経済、社会学や心理などに関する)では務まるものではなく、統治者の行為を導く揺るぎない方針や、明確に定義づけられた概念をもっていなければなりません。
 池田 私が強調したいことは、政治家は確固たる哲学をもってもらいたいということです。現代の政治家は、根本のその点が、もう一歩であると感じられてならないのです。
 エイルウィン 統治活動の目的は、公共の利益を獲得することです。それは持続的な作業で、日々変化しゆくものであり、決して終わりはないのです。その目的達成のためには、国がなにを必要としていて、何が可能であるかについての明確な考え、意思統合の能力、毅然とした性格、とりわけ公共奉仕の精神をもっているべきでしょう。政治家たる者は、何が公共奉仕であるかを理解していなければなりません。“奉仕するための存在”で“奉仕される立場”にはないのです。
 そして政治家にかぎらず、すべての人はみずからに一つの問いかけをしなければなりません。自分の人生は、何のためにあるのか? 私たちがここにいるのは、エンジョイするためにいるのか、自分たちの欲望を満たすためにいるのか。それとも人々に奉仕するためにいるのか――。
 私の答えは、明快です。――私たちは“仕えてもらうため”にいるのではなく、“仕えるため”にいるのです。ですから、若者に贈る人生のモットーをたずねられたら、先のことを要約して、「人生を奉仕の仕事としてとらえ、他者に対して、人類に対して、奉仕作業としてとらえねばならない」と答えます。
 池田 「人生を奉仕の仕事としてとらえる」とのモットーに、心から賛同いたします。私自身、若き日に仏法の道に入って半世紀、人々への奉仕を心がけ、その幸福のために行動してきたつもりです。創価学会が今日あるのは、リーダーが会員奉仕に徹し、人々の不幸を決して等閑視してこなかったからです。
8  民主主義を選択する理由
 エイルウィン 結局のところ、任務を遂行するための政治家の能力、知性、知識、奉仕者としての資質、みずからが宣言する理想や行動原理や価値観に対する大きな使命感などが、政治家の行動結果に決定的な影響をおよぼす要因なのです。
 率直に申しますと、私は無分別な大衆に追従されている指導者や偉大な統率者が、自分の意思を国民に押しつけているのを、あまり歓迎しません。
 歴史を見ると、多くのカリスマ的指導者が、国を統治して偉大な事柄を達成していても、ほとんどつねにその統率者がその権力を乱用しがちであったことが分かってきます。私は偉大な統治者というものは、公共の課題や構想に関して意思を統合できる人たちであると思います。
 だからこそ私は、民主主義を選択します。フランスのジョルジュ・ブルドー先生がおっしゃったように“政治秩序の基本として自由な人間の尊厳を提唱している”のが、唯一の統治の形態だからです。そのような形態のなかでは、統治者の権限は、統治される人々の意思にもとづいているのです。
 池田 よく理解できます。私も同じ考えです。当然、一人の卓越した統治者による政治よりも、多数決原理と制度的な調整能力を背景とする民主主義のほうを信頼する立場をとります。
 “民主政治は大きな善はなしえないが、少なくとも独裁のような大きな悪のないことをもって満足すべきである”と説くトクヴィルなど、その典型でしょう。
 民主主義は何事も“中ぐらい”で我慢せよ、というわけです。ハンス・ケルゼンやカール・ポパーなども、トクヴィルと同様の意見のようです。
 エイルウィン アメリカの民主主義に関するトクヴィルのすばらしい研究は、さまざまな真実を私たちに教えてくれます。そのなかでも、民主主義制度が最良の政府を保障するものではない、ということは印象的でした。
 私は同様に他のどのような政治体制も、最良の政府を保障していないと考えます。民主主義は、政府が質的に並以下になったり腐敗したりしてしまう危険性に対して、人々の自由や野党の活動、定期的に行われる選挙などを保障することによって、むしろ対抗したり変革したりすることを可能とする制度なのです。
 池田 私はトクヴィルらの説とプラトンの説を、必ずしも二者択一的にとらえる必要はないと思っています。
 むしろプラトンの「哲人政治」の理想を、政治における道義性、精神性の問題として位置づけたいのです。
 そうすれば、ペレストロイカ(改革、再建)を「政治と文化の同盟」(クレムリンでの私との対談のさいの言葉です)としたゴルバチョフ氏らの試みとも、深く通底しているはずです。ゴルバチョフ氏は、その後、モスクワでお会いしたときも、「政治の世界は、自分が考えていた以上に非道徳的な世界であった」と述懐していました。
 あなたは、政治の世界に道義性、精神性を復活させるために、どのような方途が可能であり、有効であるとお考えですか。
9  時代は一人一人の内面の改革を要請
 エイルウィン ゴルバチョフ元大統領が政治の世界における純粋性や道徳性の欠如に関して、あなたに述べた意見には、その歴史的課題は最大の評価に値するものの、同意しかねる面があります。もっとも旧ソビエト連邦の諸国で起こったことに関して意見を述べるほど、事情に明るいわけではありません。しかし先に述べたような意味で、それを普遍化することは不可能だと私は考えます。
 私はみずからの経験を通して、民衆の道徳性はその社会の一般的道徳性のたんなる反映にすぎず、それ以上でも以下でもないと受けとめています。人間が行うさまざまな職務のなかで、政治の世界は他の分野と比較して、不正や腐敗に対する倫理的非難を、より繁雑に受けていることは確かです。このことは、私の判断では、以下の二つの事情によって説明がつくかと思われます。
 一つは政治活動というものは、その性質上、公的で集団の利害にかかわっているため、あらゆる目がそそがれており、いかなる間違いや過失もただちに発見され、告発されやすいこと。もう一つは、政治活動が探求するところの公共の利益という目的を実現するために、必要な手段である権力とかかわっており、権力は一般的に大きな情熱や野心、嫉妬や誘惑や不安、乱用や譴責を引き起こすからだと思います。
 池田 民衆の道徳性は、その社会の一般的道徳性のたんなる反映にすぎず、それ以上でも以下でもない、ということは分かります。
 社会を構成する一人一人が、いかにレベル・アップしてみずからを高めゆくか。民衆の自発の運動が求められるゆえんです。また、社会や時代の道徳性の指標となるものを、だれが掲げていくかが問われると思います。道徳性は、知的・心理的成熟ともいえるでしょう。
 振り返って見ますと、この二十世紀、人々は外側のみの変化や豊かさを求めてきました。いや、狂奔してきたといってよいでしょう。人々は気づき始めました。一見したところ豊かになったように見えて、じつは精神は貧しくすさんでいるのです。外側の改革だけでは、完全に行き詰まってしまいました。環境問題が、その良い例です。
 私は、真の豊かさを求めるには、人間の内側からの改革が要請されると、力説したいのです。そろそろ人類は、外側から内側へ、無限の可能性を求めて、探求の旅に出るべきではないでしょうか。そして崩れない道徳性の確立をめざし、内側から変革の力を汲みだすべきでしょう。                 

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