Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第5章 学ぶ心学ぶ意味
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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徹した人にはかなわない
三井
私も“学会っ子”として本当に決意したのは、高校時代でした。学会未来部の人材グループである「東京未来会第二期」結成の時、池田先生とお会いしました。
昭和四十五年(一九七〇年)でした。私は高校一年生で、場所は神奈川の三崎研修所でした。志望どおり、都立駒場高校に通っていました。
小・中・高の代表約六〇人が、池田先生のもとに集まりましたが、先生は、私たちを前に、こう言われました。
「何でもいいから、一番を目指しなさい。
数学でも、英語でもいい。国語でもいい。勉強に限ることではないよ。『優しさ』でもいいんだよ。とにかく何かで、『一番』になりなさい」と。
「よし、私も必ず何かで『一番』になろう!」と強く決意しました。
池田
どんな分野であれ、高い目標を目指して頑張っていけば、必ず、すべてに通じていくものです。
努力すること。耐えること。あきらめないこと。弱い自分に打ち勝つこと。人生にとって必要な、そうした一切が含まれていく。
なんであれ、徹することです。徹した人には、かなわない。
蓬田
三井さんは、何で一番を目指したんですか。
三井
実はその頃、勉強では、どれをとっても一番になるのは無理だと思いました。(笑い)
そこで私は、「今からでも一番になれるもの――そうだ、御書で一番になろう!」と決意したんです。
蓬田
そこに“教学の三井さん”の原点があったのですね。(笑い)
三井
あの日、池田先生と過ごした一瞬一瞬の光景が、今も鮮やかに胸に刻まれています。
集まった私たちに、先生は、自分の手で一本ずつジュースの栓を抜いて、一人ひとりに手渡してくださったのです。
自分が直接、先生からジュースを手渡された時、ずしっと先生の真心が響いてきました。
また、虫よけのために蚊取り線香がたいてあったのですが、先生は、うちわで、その煙を私たちに向けてかけてくださるのです。
「みんな大事な体だ。蚊なんかにくわれてたまるか」と言われながら。
本当に感動しました。
「これほどまでに私たちのことを思ってくれる人が、いるだろうか。先生の期待にお応えしよう。人々のため、平和のために働ける人材に成長しよう」と固く固く誓いました。これが私の原点です。
池田
子どもたちは「未来からの使者」です。私たちの世界は、すべて、子どもたちに受け継いでいってもらう以外にない。私は、子どもを信じている。子どもの「伸びる力」を信じている。みんな、かけがえのない使命を持った人たちだもの。
だから私は、子どもたちに「尊敬」の心で接しているのです。だから、全力なのです。
「手抜き」や「小手先」で子どもとかかわっていると、後悔することになりかねない。
私はいつも、子どもたちと会った時は、何か思い出をつくってあげたいと思っています。
7
忘れられない雪の街頭座談会
蓬田
私と息子にとっての原点は、何といっても、昭和五十七年(一九八二年)一月、池田先生が秋田に来られた時のことです。
三井
あの“雪の座談会”で有名な時ですね!
蓬田
そうです。あの時、先生は、悪い僧侶の策謀に苦しんだ秋田の同志を励ますために、暖かくなってからでは遅いと、厳密の一月にやってきてくださいました。
先生の来訪を知った秋田の私たちは、居ても立ってもいられなくなり、先生の飛行機が着く頃には、秋田空港から秋田文化会館まで、先生が通るだろう道中のあちこちに、人々が集まりだしました。迷惑をかけてはいけないと、物陰に隠れたりしていました。ついには数十人になったところもありました。
一目でもいいから、先生にお会いしたい。「私たちは大丈夫です! 先生、ありがとうございます!」という、やむにやまれぬ思いだったのです。
当時、私は支部婦人部長をしていました。生まれて九カ月になる長男を背負って、同志とともに待っていました。
すると向こうから、一台の車が近づいてきました。
車は、私たちのすぐそばで停まりました。「もしや……」という気持ちと、「まさか……」という気持ちです。そして、ドアが開きました。
「あけましておめでとう」「私が来たから、もう大丈夫! 安心してください」と、力強い声が響きました。
何と、池田先生が車から降りて、私たちのもとに歩み寄ってこられたのです。
池田
寒い日だったね。
蓬田
はい。一月といえば、地元の人でも、とても寒い季節です。そんななかを、先生は、白い息を吐きながら、慣れない雪道を踏みしめて私たちのもとに歩いてきてくださったのです。
すぐに即席の街頭座談会が始まりました。
先生は、皆といっしょに記念撮影をしてくださいました。
私は、ちょうど、先生のすぐ後ろにいたのですが、撮影が終わると、先生はくるっと振り向かれ、お母さんといっしょに来た女のお子さんを励まされ、次に、私が背におぶっていた息子を見つめ、「男の子だね。創価大学で待っていますよ」と声をかけてくださいました。
ほんの数分の出来事でしたが、私たちにとって、生涯を貫く原点となりました。当時のことを、ことあるごとに子どもと語り合いながら、育ててきました。
池田
あの時は、会館に着くまでの間に、たしか九回、車から降りて、同志の皆さんとの雪の座談会となり、懇談させていただいた。
延べ一〇〇〇人近くの方がおられたと思います。初めは車を停めるたびに、周りの幹部は、何が起きたのかと思ったようだ。(笑い)
銀世界の中での街頭座談会の思い出は、私も忘れることができません。あの訪問の折、皆が真心でつくってくださった「かまくら」に入れていただいことも、よく覚えています。
蓬田
ある時、息子が「お母さんは池田先生にお会いできて、いいなあ。ぼくは一度も会ったことがない」と言いました。
私は息子を座らせ、膝をつき合わせて、あの時の記念写真を見せて、言い聞かせました。
「これが、あなたよ。人の陰になっていて、よく見えないけど、このちょっと見えているのがあなたよ。あなたは先生にお会いしているのよ」と。
池田
お子さんは、今、どうされていますか。
蓬田
関西創価高校を卒業し、創価大学の児童教育学科に進みました。
一人っ子でしたので、とくに、私と夫が二人で同時に叱らないように気をつけました。
夫は、「重箱の隅をつつく」のではなく、「重箱をしゃもじですくう」ように、細かいことは大目に見ていくべきだ、と言っていました。
三井
「しゃもじ」ですか。うまい表現ですね。(笑い)
8
善き人や物事との出あいを大切に
蓬田
息子は中学の途中までは、それほど勉強してはいませんでした。
しかし、仙台に引っ越し、学園生のお子さんをもつ婦人部の方との出会いがきっかけで、息子を、関西創価学園の見学に連れて行ったのです。ちょうど、秋の「健康祭」という行事が行なわれていました。
学園の活発な雰囲気に、秋田しか知らない息子は、とても強い刺激を受けたようです。
何といっても、学園生の生き生きとした、元気はつらつの姿に感動しました。
また、周りに落ちているゴミを、生徒の皆さんが自発的に掃除して集めている姿にも、心を打たれたようです。
ある学園生からは「自分の進む道を、全力で頑張れ!」と激励されました。息子にとって、人生観が変わるような一日だったのです。
関西創価学園に行きたいと決意したらしく、仙台に帰ってから、自分から進んで、猛然と勉強を始めました。
池田
子どもというのは、何がきっかけで、伸びるか分からないものです。
世の中は、子どもたちにとって、いろんな刺激に満ち満ちている。堕落のほうへ、悪のほうへと引っ張っていくような存在も多い。
だからこそ、私たちが、成長のほうへ、善のほうへと、子どもによい刺激を与えていくしかありません。
仏法で「善知識」ともいいますが、人間が正しい人生を歩んでいくために、一番、大切なのは、善き人や物事との「出あい」なのです。子どもが「伸びよう」「頑張ろう」と思えるような、きっかけをどれだけ与えられるかです。
蓬田
そう思います。息子は高校時代、生徒会の議会団の議長をしていて、いい先生、いい友だちに恵まれて、読書にも積極的に挑戦しました。
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母子ともに読書に挑戦を!
三井
私が読書好きになったのも、ちょっとしたことがきっかけでした。
小学五年生の頃だったと記憶しています。
父がボーナスの日、おみやげを買ってくるのを楽しみに、きょうだいみんな、玄関で帰りを今か今かと待っていました。
すると、父が、大きな段ボール箱を二つ抱えて、ふうふう言いながら、帰ってきました。
「いったいなんだろう!」と、わくわくしながら箱を開けてみると、中に入っていたのは、何と「世界文学全集」。
ごちそうとか、おもちゃとかを期待していた私たちは、がっかりしました。
しかし、そのせいで読書の楽しさを知るようになったのです。
母は、あまり読書が好きではありませんでしたが、「本を買う」ことは好きでした。
「本は読むものでなくて、買うもの」と思っていたくらいでしたが(笑い)、それも私たち子どものためだったと、今は思えるようになりました。
それと、創価学会の出版物もたくさん買ってありました。一つひとつを読み進めるのが私の楽しみになって、仏法の偉大さや学会のすばらしさを深く知ることができました。
池田
良書は、かけがえのない財産だからね。
私は、現在の活字離れの風潮を深刻に考えている一人です。今はコンピュータも発達したし、本以外にも、情報を得るには、いろいろと便利なものはある。
しかし、じっくり本を読むことによって、頭が鍛えられる。批判力もつくし、想像力も豊かになっていきます。
また、「読書によって、学力の基本が身につく」と指摘する識者は多い。
社会人として生活するために必要な「読み書き」の力も自然に備わっていきます。
ですから、お子さんには、本に親しむ「習慣」をつけてほしい。
何も、難しく、かたくるしいだけの本を子どもに読ませる必要はない。子どもが「おもしろい」と感じられるような本を、子どもといっしょになって読み、聞かせていけばよいのです。
忙しい毎日だと思いますが、子どもばかりでなく、お母さんも読書に挑戦してほしい。その姿から、子どもは何かを感じ取っていくでしょう。
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勉強に取り組むには家庭の「安心感」が必要
三井
そういう意味では、学会の世界はありがたいですね。「聖教新聞」や、御書など、読むべきものがたくさんあります。(笑い)
また 池田先生のスピーチや、各界の指導者との対談を読むことによって、歴史、文学、世界のことなど、本当にあらゆることを学ぶことができます。
蓬田
本当ですね。私の人生も、学会との出合いがなければ考えられません。
子どもの頃のわが家は、経済的に大変な状態でした。しかし、何よりも一番、つらかったのは、父が母に暴力をふるうことでした。
父の母は、青森で、一代でデパートを築きました。父は長男だったのですが、商才がなかったせいか、跡を継ぐことはありませんでした。
ふだんは温厚な父が、何か気にくわないことがあると、突然、人が変わったように暴れたのも、人生の挫折感からだったのかもしれません。
つらい日々に絶望のあまり、子どもを背負い、手を引いて線路を歩いている母を、学会の方が見つけてくれて、祈りとして叶わざるなしの仏法の話を聞き、入会したのです。
“夫の暴力を何とかしたい。できれば別れたい”というのが、母が入会した動機でした。
ある時など、父が怒ってストーブの上の熱湯を誤ってこぼしてしまい、母にかかったことがありました。
そんな家庭で育った私にとって、創価学会の世界は、本当に心の安らぐ場所でした。
とくに、座談会は大好きでした。また、力強い学会歌にどれだけ励まされたことでしょう。
雪が降りしきる夜道を、座談会の会場へ、母の手を引いて歩いていきました。玄関を入るとストーブが一つ。そこは、温かい「かまくら」のような世界でした。
時には、母の膝で寝入ってしまうこともありましたが、学会のぬくもりが、体にしみこんでくるような気がしました。学会の世界が、子どもの私に、心の安らぎをくれました。
池田
苦労されたんだね。苦労した分、すべてが財産になっているんだよ。
蓬田
母には感謝しています。父もだんだん変わっていきました。父が病気で倒れて、亡くなるまでの一年数カ月の間、母は看病に尽くしました。父が息を引き取った時、母は「のり子、こさこい(こっちへおいで)」と、父の傍らに私を呼んで、こう言いました。母は、自分のことを「おれ」と言います。
「おれ(私)、また来世も、この人といっしょになりて! 父さんも苦しかったんだ。それを分かってやれなかった、おれも悪かった。本当は、いい人だったんだよな」
かつて母が、あれほど、いじめられ、苦しめられた父を……。
驚きました。そして、感動しました。
「別れたい」というのが信仰を始めた動機だったのに、最後は「来世もいっしょになりたい」とまで。これが信心の賜物なんだな、と心底、思いました。
言葉は悪いですが、「ばか」がつくくらい正直に、まじめに、学会ひとすじの信心を貫いた父と母です。
経済的に大変で、自分たちの食べる物がなくても、わが家を拠点に使っていただき、同志に尽くした父と母です。
よく先輩に諭されるのです。
“父さん、母さんの愚直な信心があって、今のあなたがあることを忘れてはいけない”と。
池田
本当に、そのとおりだ。苦労して育ててくれた、お父さん、お母さんの恩を決して忘れてはいけないね。
「人間革命」のための信仰です。ご両親とも、信仰によって、大きく変わっていったんだね。お母さんの深い愛情と、健気な信心は、これからも一家一族を守り、大福運でつつんでいくことでしょう。
子どもがすこやかに成長していくためには、家庭の雰囲気が与える影響は大きい。「安心感」は欠かせません。
勉強に落ち着いて取り組むためにも、「安心感」が必要です。
とくに試験や、受験の時など、力が十分に発揮できるよう、周囲が温かなかかわりをしていくことが大事になります。
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高等部員の“希望の星”に、と決意
池田
ところで、三井さんのお茶の水女子大のほうは、どうなったのかな。
三井
それが、小学生の時に受験を決意して駒場高校に進んだものの、高校では、勉強より読書に夢中になってしまい、大学受験の勉強をしていなかったんです。
ですから受験勉強を始めようとした高校三年の時は、まったく合格不可能な成績でした。
教師に相談しても、「だめだめ、一発勝負屋は受からない」と言われて。(笑い)
でも私は思ったんです。
「常に勉強ができて成績優秀な人が、いい大学に入ったら、それは当たり前だ。
成績がそれほどでもないのに、必死に勉強して合格したという体験をすれば、それを見て、後に続く高等部員が『自分にもできる』という自信を持ってくれるのではないか」と。
それで、少し大げさですが(笑い)、「自分を高等部員の希望の星にしてください!」と、真剣に祈りながら勉強を開始しました。
池田
なるほど。とらえ方だね。「心強き人」には、すべてが前進の糧となるものです。
三井
決意してからは、本当に死にものぐるいで、それこそ体をイスに縛りつけて勉強しました。(笑い)
そうして、とうとう受験の日を迎えるのですが、試験会場に行くと、周りの人が、みんな頭のよさそうな人に見えるんです。「自分はきっと落ちるんじゃないかな」と弱気になってしまいました。
そして数学の試験。問題を見た瞬間、真っ青になりました。まったく、分からないんです。
「もうだめだ」と思い、鉛筆を投げ出し、突っ伏して寝てしまいました。
蓬田
周りの人も、びっくりしたかもしれませんね。(笑い)
三井
でもしばらくすると、これまで応援してくれた母の姿を思い出し、「私はいったい、何のためにここまで頑張ってきたんだ! 最後まであきらめないで、やってみよう!」と思い直しました。
あらためて、冷静になって問題を見直すと、こんどは全部、分かるんです。(笑い)
残された時間で、すべて解答し、合格を勝ち取ることができました。
池田
おそらく試験会場の独特の雰囲気にのまれて、心が縮み上がってしまったんだろう。心一つで、大きな違いが出るものだね。
“見れども見えず”という状態では、いくら力があっても、一〇〇パーセント発揮することはできない。
ある人が受験の思い出を語っていた。
「家を出る時、母は、『何も心配しないで、しっかり力を出し切ってらっしゃい。試験の時間、お母さんがずっと題目を送っているからね』と言って送り出してくれた。母が祈ってくれているということが、どれほど心強かったか分からない」と。
一生懸命、何かに打ち込んだ後は、「自分はこれだけやった」という「自信」が残りますね。
三井
はい。受験のおかげで「真剣に努力すれば、乗り越えられない困難はない!」という信念を培うことができました。この時の経験が、その後の生きる力ともなったと思います。
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学び続ける人は深い人生を生きる
池田
受験に限らず、地道に努力を重ねた人には、かなわない。“一夜漬け”で学んだものは、所詮、付け焼き刃です。一日少しずつでも、学び続けたものは、血肉となり、自分の力となっていくものです。
蓬田
人生も同じですね。
池田
戸田先生は、最後の最後まで「勉強せよ。勉強しない者は私の弟子ではない」と厳しく言われていました。
先生の教えどおり、今も私は、学び続けています。
戸田先生の事業が一番、苦境にあった頃、それを支える私は、大学に行きたくても行けなかった。
しかし先生は、「心配するな。ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。勉強は、ぼくにまかしておけ」と言われ、毎日曜日、ご自身の休養もさしおいて、ありとあらゆる学問を個人教授してくださった。日曜だけでは足りず、会社の始業時間前の早朝もです。
生命を削ってでも、ご自身の持てるすべてを、私に伝えきっておこうという気迫であられた。
ありがたい師匠でした。私は「戸田大学」の卒業生です。それが一番の誇りです。
子どもだけでなく、お母さんも学びましょう。「女性の世紀」を開きゆく皆さんは、賢明な女性となっていただきたい。
「学は光」「無学は闇」――学び続ける人は美しい。学ぶ姿は、すがすがしい。一歩、深い人生を生きることができる。
母も、子も、ともに学びながら、限りない向上の人生を歩んでいこうではありませんか。
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