Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(二)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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「ところで、君たちは、『チップス先生さようなら』という本を知っているか。ジェイムズ・ヒルトンの作品だが、読んだことのある人!」
いつものように、島野先生がまっすぐ手をあげながら、みんなの顔を見まわした。
三人の手があがった。花岡咲子と、風間竜太と、そしてもうひとりは夏井リエという生徒である。
「ほお! 三人もいるのか。このクラスは感心だなあ――。じゃあ、感想でも内容でも、簡単でいいから、ひとことずつしゃべってくれないかな。どうだった、あの本を読んで――。まず、咲子から聞こうか」
「うーん……。あんまりよく覚えていないんですけど、たしか、イギリスの学校が舞台で……」
「そう、舞台はブルックフィールドという名のパブリック・スクールだ――」
「それで……チップス先生というのはそこの教師で、生徒たちの思い出話などが書かれている小説なんです」
「たとえば?」
「あっ! そういえば、サッカーの話も、ちょっと出てきました――」
ブルックフィールドのチームが、貧民街の少年たちを招いてサッカーの試合をすることになった。上流階級の子弟が集まるこの学校では、初めてのことだった。
それを実現させたのは、チップス先生の妻キャサリンである。貧民街の少年などはゴロツキに決まっている、きっとひと騒動もちあがるにちがいない――という反対をおしきっての試みであった。
少年たちは、ある土曜の午後、ブルックフィールドにやってきて、サッカーの試合を楽しんだ。そのあと、大食堂で肉料理つきのお茶をともにし、学校を見物した。
試合は五対七で負けたけれども、貧民街の少年たちにとっては、忘れられない思い出のひとときとなった……。
「チップス先生の奥さんは、自分の主張はどこまでも貫いて、しかも心はとても優しい――と思いました」
だれかが、つぶやいた。
「咲子も、半分だけ似てるな……」
「それ、どういう意味!」
島野先生がにこにこしながら、教壇の前をいったりきたりしている。
「じゃあ、今度は夏井リエに話してもらおうか」
「はい。チップス先生は……かわいそうだなと思います。だって、自分の教えた生徒たちが、戦争で次々と亡くなってしまうんですから……」
作品の時代背景は、十九世紀の終わりから二十世紀のはじめにかけてである。大英帝国は、世界のあちこちで戦争をしていた。大英帝国ばかりではない。ヨーロッパ中に、世界中に、いつも戦争の火種がつきなかった。そのなかで、多くの若者が死んでいった。
スエズ運河問題にからむ反乱の鎮圧、露土戦争への干渉、南アフリカで起きたブール戦争、アイルランドの内乱、そしてヨーロッパ中を戦火にまきこんだ第一次世界大戦……。
チップス先生の教え子も、それら数多くの戦争で命を落とした。とくに、第一次大戦の時期は悲惨であった。
毎週日曜の晩には、戦死した生徒の名が読みあげられる。それが、あるときには二十三名にも達した。
いちばん体つきの小さかった生徒も、フランス北部のキャムブレエ上空で撃ち落とされた。サッカーの試合にやってきた貧民街の少年のひとりも、ベルギーの激戦地パッシェンデールで戦死した。
チップス先生の脳裏には、これまで教えてきた何千人という生徒の顔と名前が浮かびあがってはなれない。若くしてこの世を去った子どもたちを思うとき、チップス先生はどんな気持ちになっただろう。
「なるほど……。たしかに、そうだな……。戦争というのは、若い命を犠牲にする。たくさんの市民もまきこむ。それだけではない。残された者の胸にも、一生消えない悲しみをきざみつける。戦争だけは、起こしてはならないね」
もう梅雨に入ったのだろうか。雨は小止みなく降り続いている。放課後の練習は中止になりそうだ。となれば、きょうもまたサッカー部の全員で、ワールドカップの試合をビデオ教室で見ることになるかもしれない……と竜太は感じた。
次は竜太の番だった。『チップス先生さようなら』の感想を、なにか語らなくてはならない。
サッカーだけでなく、竜太は読書も好きだった。家庭環境が幸いしたのかもしれない。家には、本がたくさんあった。
父の本だなには、いろいろな本が並んでいる。文学もあった。哲学や思想の本もあった。自然科学の図書もあった。ミステリーもあった。
竜太は三人兄弟である。大学一年の兄と高校二年の姉の本箱にも、面白そうな書物がいっぱいある。
兄は、大学でラグビー部に入っている。それだけに、ラグビー関係の本がわりと多い。「お前、大学に入ったら、ラグビーやれ」と兄はかならずけしかける。しかし竜太は、ラグビーも面白そうだけど、やっぱりサッカーがいいや、と思うのだった。
一方の姉の本箱には、SF小説やファンタジーがそろっている。将来は、この手の作家になるつもりらしい。「わたしみたいなAB型の血液の人間って、SF作家に向いているのよね」と得意そうにいう。根拠は、よくわからない。
母の場合は、読書といっても、推理小説専門である。父の本だなから、あれこれ品さだめをしては一冊持ってきて、それに読みふけっている。「うーん、犯人はひょっとして、この人じゃないかなあー」としばしばつぶやく。そばにいる父が「甘いな」とやり返す。
『チップス先生さようなら』も、父の本だなから引き出してきたものだった。文庫判の薄い本である。百㌻ちょっとしかない、これならすぐ読めそうだと思って手に取ったのだが、けっこう難しいなと感じたところも何カ所かあった。
しかし、花岡咲子や夏井リエの感想を聞いたり、先生の話に耳を傾けているうち、竜太は作品のイメージがあらためて鮮明になってくるのを覚えた。
「最後は……竜太だな。あ、すわったままでいい」
島野先生が竜太の足を気づかって、そっとうなずいた。
「心に残っているところはいくつかあるんですが、ぼくはドイツ人の先生が戦死した話を取りあげたいと思います。印象深かったものですから――」
ブルックフィールドには、シュテーフェルというドイツ人の教師がいた。みんなから親しまれ、友人もたくさんいた。
その教師がドイツに帰国しているとき、戦争が起きた。彼は祖国のために戦い、そして西部戦線で戦死した。
毎週の戦死者名簿を読みあげるとき、チップス先生は、彼のために哀悼の意を表した。敵国人として死んだにもかかわらず……。
竜太の発表のあとで、島野先生がつけ加えた。
この作品のなかのエピソードではないけれど、第二次世界大戦のときにも似たようなことがあったのだ。あの残酷な戦争が終わってから、イギリスのオックスフォード大学に記念碑が建てられた。戦没者学生の名を刻んだ石碑である。そこには、イギリス人学生とともに、ドイツ人留学生の名もきざまれていたという。
「竜太は、とてもいい話を取りあげてくれた。さあ、こういった話を聞いて、君たちはどう思う。どうしてイギリス人は、さんざん戦争で苦しめられたドイツ人の名前を、同じようにあつかったのだろう。剣司、どうだ」
「敵としてではなくて……同じ人間として……相手を見たからだ……と思います」
「そうだな。そういう心をなんという、たとえばスポーツの世界の言葉を使えば――」
「…………」
「うらみだとか復しゅうなんかにまみれた心ではなくて、どこまでも相手を自分と同じ人間として対等にあつかおうとする、とてもさわやかな透き通った心だよね。反則なんかやりそうもない、きれいな心のことだ」
「……フェアプレーですか」
「その通り! あの悲惨な時代のさなかにあっても、彼らはフェアプレーの精神を失わなかった、というわけだ」
「先生!」
剣司が真剣なまなざしになった。
「どうしても、よくわからないことがひとつあるんです」
「なんだ。いってみろ」
「スポーツも戦いだし、戦争も戦いですけど、戦いというのは、いいんですか、悪いんですか――」
「うん、これは大きな問題だな。まずスポーツについてだけど、結論からいえば、スポーツという戦いは、その戦い方によって良くも悪くもなる――と思う。つまり、フェアな心があるかどうかで決まるんだ」
「…………」
「戦いは、あくまでも対等で、正々堂々とわたりあわなければならない。そのためにルールがある。不正行為というのは、自分だけが有利な立場に立とうとするきたないプレーだ」
島野先生が手を後ろに組んで、机のあいだを歩き出した。
「たとえば、まもなく中間テストがあるけれど、カンニングは絶対いかんぞ」
島野先生が、とてもこわい顔になった。
「カンニングなんて、たいしたことじゃない――と思ってる者がいるかもしれないが、しかしぼくは許さん。アンフェアなずるい行為だからだ」
いつにない迫力だった。みんなは息をひそめて、島野先生の表情を見つめている。
「フェアな心で、全力を出して戦う――そのとき人は、肉体的にも精神的にも、自分のもっている可能性を最大限に発揮し磨くことができる。逆に、ごまかしてうまくいったとしても、それはなにより自分自身のためにならない。その味を覚えてしまって、真剣に自分を磨こうという気が起こらなくなってしまうからだ。不正行為は、他人をごまかすだけではない。なにより自分をあざむいてしまうのだ」
君よ! 他人に対して正直であるばかりでなく、自分自身に対して正直であれ。フェアな心とは、こうした正直な生き方をいうのだ。
そのなかに、他者との真実のふれあいがはぐくまれる。人間関係のわずらわしさから逃げるのでもなく、いつわりの親しさでとりつくろうのでもなく、ほんとうの自分をさらけ出してぶつかっていけ。
文字通り、それは戦いである。しかし、その他者との格闘と触発のうちに、真実の心と心が共鳴しあうのだ。そこに、揺るぎない友情の絆が築かれるのだ。
「その意味で――戦争とは、各人がフェアな戦いを忘れたためにいきつくところの究極的な悲劇なのだ。一人ひとりが、他人をあざむかず、自分に正直に、どんなときにもフェアな心を失わずに生きることが、じつは平和を築く最大の力なのだ。ぼくはこんなふうに思うんだけど、どうだろう――」
歴史の時間は、ついに“脱線”したままで終わった。
竜太は、新学期がはじまって最初の歴史の時間に、島野先生がいったことを思い出していた。
――君たちは、歴史の授業をそれほど大切には思っていないだろう。だいたい、数学や英語などに、力を注いでいるだろう。それはまちがいではない。
しかし、そのあまり、歴史なんかどうでもいいやというのは、とんでもない勘違いなんだ。
そもそも昔は、学問をするといえば、歴史を学ぶことだったのだ。荻生徂徠という江戸時代の学者は「学問は歴史に極まり候」とまでいっている。人間社会の移りかわりはどうであったか。民族はどのように興隆し、どのように滅亡していったか。現在を、そして未来を生きるために、人々は過去の歴史を真剣に学んだのだ。東洋でも西洋でも、この事情は変わらなかったといってよい。
大人になって社会に出たとき、君たちはあらためて、歴史という学問の大切さを痛感するだろう。
もちろん仕事によって、生きてくる学問はちがう。エンジニアになれば数学や理科はおろそかにできないだろうし、海外でのビジネスには英語が欠かせない。
しかし、歴史を学ぶということは、人間を学ぶことであり、人間の生き方を習うことになるんだ。歴史という学問を軽くみてはいけない……。
島野先生の授業は、教科書に書いてあることをそのまま教えるやり方ではない。どちらかといえば“脱線”の連続で、あっちへとんだりこっちへきたりする。
この日もそうだった。竜太は、島野先生の話をいろいろ思い浮かべながら、心に確かな手応えをもって何かが残るのを感じていた。
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なんだか心が落ち着かない――どういうわけなんだろう。なぜ、こんなに息苦しいのだろう……。
剣司には、わかっていた――黒雲がかぶさってくるような、このいやな気分が、あの紅白試合での竜太との一件から始まったことを。それが時を経るにしたがって、ますます大きくふくらんでくる。
はじめは、小さなしこりであった。これは気のせいだと、自分で打ち消すこともできた。ところが、日がたつにつれ、だんだんとふくらみ、もはやごまかすことのできないほど大きなものとして剣司にのしかかってきた。
大声で笑っても、心のすみではそのしこりの存在を意識している。うれしいことがあっても、素直に喜べない。そんな自分を、剣司はどうすることもできなかった。
剣司は、あせっていた。早く自分の心をすっきりさせるのだ。そうしなければ、自分のほんとうの力が出せそうもない。
一週間後には、パブリック・スクールの少年たちとの試合をひかえている。それまでには、なんとしても、もとの自分をとりもどさねばならない。
そのためには、なにをしなければならないか――それも剣司には、よくわかっていた。
竜太だ! 竜太に、あのときのことを、正直に、包みかくさず打ち明けるのだ……。そして……そして……。
これまでにも何度か、そのように思い立ったことがある。しかし、なかなかきっかけがつかめず、うやむやになってしまった。
だが今度こそ、きちんと竜太に謝らなければいけない。しかし、いつ……どこで……どんなふうに……。
その日の最後の授業が終わるまで、剣司はひたすらそのことを思い悩んで、勉強にもほとんど身が入らなかった。
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