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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界論(下)六…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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6  仏教誕生の″第一歩″
 池田 ともあれ、欲望とか、快楽といっても一様ではない。ゆえに、それらが満たされた境涯もまた多様です。こうは言えないだろうか。自分なりの目標をもって生きて、それを達成した喜びの境地が「天界」であると。
 たとえば、子どもがテストで一番の成績を目指すのも一つの目標です。あるいは、苦手の鉄棒を克服しようと頑張る子もいるでしょう。
 オーケストラの演奏家が音楽的感性や技術を磨きに磨いて、見事なハーモニーを奏で、高度の芸術性を獲得できたとすれば、これも天界の境地を得ることになる。
 斉藤 それぞれ次元は違うにしても、ある意味での自己実現していると言えますね。
 須田 何らかの目標をもって生きるということ自体、人間らしい境涯といえるます。
 遠藤 前回、修羅界は「他人に勝つ」ことを目指し、人界以上は「自分に勝つ」ことを目指しているという話がありました。天界は「自分に勝つ」努力の結果と言えます。自分の目標に到達して心が満たされた境涯ですから、人界よりもさらに生命空間が広がっています。それでもまだ六道を超えてはいないのですね。
 池田 話を整理してみよう。釈尊当時、多くの人々の理想は「天」の境涯であった。なかんずく「欲界」の満足だったでしょう。
 斉藤 そのために、伝統のバラモン教でも、さまざまな「祈祷」が行われました。
 池田 もともと釈尊の王宮での生活は世俗的欲望という点では、庶民から見れば「天界」のような生活でしょう。しかし城の各門に「老い」に苦しむ人を見、「病」に苦しむ人を見、そして「死者」の姿を見た。「生老病死」という人生の実相の前に、欲望のむなしさを知った。「無常」を見たのです。
 そこで″天界(欲天)″的な境涯を捨てて出家した。当時、世俗的な欲望を超えて、さらに高い境地を目指した新思想家がいた。六師外道です。出家した釈尊も、そのうちの二人に弟子入りしたという。しかし、それらは所詮、生死の苦しみを解決するものではないと見破った。
7  遠藤 「欲天」でもダメだった。さらに上の「色天」「無色天」でもダメだった……。
 池田 では「いったい、人間にとって何が本当の幸福なのか?」。
 この探求が、偉大なる仏陀を生んだのです。
 須田 そうしますと、仏法の誕生そのもの、「天界」から「二乗」へのステップだったということですね。
 池田 そう。六道から四聖へのステップだった。
 遠藤 その第一歩は、釈尊の実例の通り、「無常」を観じるということでしょうか。
 大聖人は「世間の無常は眼前に有りあに人界に二乗界無からんや」と仰せです。
 池田 釈尊がそうだったように、「死」を見つめることが、「永遠なるもの」を求める第一歩でしょう。
 今は″欲望追求の文明″です。「天界(欲天)」に執着している。たとえば、人は今、生活を、どんどん楽にするにが当然と思っている。「安楽な暮らし」ができないとしたら、それは「したくてもできない」からだ、と。
 しかし、安楽な暮らしよりも、あえて別の生き方を求めた文明もあった。たとえばオルダス・ハクスレー(作家・文明批評家)は、こう書いている。
 「おどろくのは、われわれの祖先が耐えてきた苦痛のおおかたが自由意志によることである。(中略)過去三、四千年にわたって、人間は望みさえすれはいつであれ、ソファや安楽椅子をつくり、浴室、セントラル・ヒーティング、水洗便所を設備できたはずである。事実、人間がこうしたらくな暮しをたのしんだ時代もあった。
 キリスト生誕をさかのぼること二千年の昔、クノッソス宮殿に住む人びとは水洗便所を使い慣れていた。ローマ人は、これもキリスト生誕以前に、複雑な蒸気暖房のしかけを発明していたし、ローマ人のしゃれた別荘の入浴設備は、現代人の夢も遠く及ばぬほどにぜいたくでゆきとどいたものだった。(中略)中世や近代初期の人びとが不潔で苦しい暮しをしたのは、その時代の暮しかたを変えるに能力に欠けていたからではない。そのように暮すのをえらんだからであり、不潔さや苦しさが彼らの政治的、道徳的、宗教的信念と偏見にかなっていたからである」
 「なにかを無償で手に入れられるためしはない。らくな暮しをかち得たにあたっては、その代償として、らくな暮しとおなじくらい、いや、もしかするとさらに大切なものを失っている」
 「現代の世界はらくな暮しそのものを目的とし、絶対的善としているように見うけられる。いつの日か、地球は一箇の巨大なふわふわのベッドと化し、人間の体がそのうえでまどろみ、精神のほうはその下で、デズデモーナのように窒息して横たわっていることになるかもしれない」(『ハクスリーの教育論』横山貞子訳、人文書院)
 (「デズデモーナ」は、シェークスピアの『オセロ』で、嫉妬に狂った夫のオセロに絞め殺された女性)
 斉藤 ハクスレーの夫人が池田先生の行動を高く評価していたことを覚えています。
 須田 「らくな暮し」──天界を求めるだけでは「精神」は死んでしまうという指摘ですね。
8  ″死を覆い隠す″現代文明
 池田 そこで、天界の問題点は、生老病死という苦悩の現実を「覆い隠そう」とする働きです。
 一時的な喜びがあるゆえに、かえって人生の底にある大問題から目をそらさせる傾向がある。かえって地獄界のほうが、人生の実相をむき出しで見つめているために、四聖への道を、ぱっとわかる場合がある。
 須田 たしかに″一見、幸せな人″ほど信心しにくいということがあります。
 斉藤 物質的豊かさや精神的喜びは貴重です。しかし、その喜びさえあれば、生死の苦悩も乗り越えられるのか。残念ながら、答えは「ノー」です。
 遠藤 巨匠が一心不乱に画筆を運んでいる時のような超絶した境地。これに立てば、永遠の生命を感得できると主張した宗教学者がいました。
 「生に対する執着は、もはやこの心境を乱すことはできない。死の恐怖も、入ってくる余地がない」「生死の問題は、おのずから氷解し去る」(『生と死』、『岸本英夫集』6、渓声社。以下、同書から引用・参照)と。ところが、その博士自身が、がんの宣告を受けます。保証された命は、あと半年。すると、想像だにもしなかった心の動きが、博士を揺さぷります。
 池田 岸本英夫さんですね。有名です。
 遠藤 「今さらながら、人間の生命への執着の強さを知った。ひとたび、生命が直接の危険に曝されると、人間の心が、どれほど、たぎり立ち、たけり狂うものであるか。そして、いかに、人間の全身が、手足の細胞の末に至るまで、必死で、それに抵抗するものであるか」
 そして、十年にわたる闘病が始まります。
 「はじめのころは、私にはガンという心のショックに耐えて、自分を精神的に支えてゆくためには、その方法として、ガムシャラに働くことよりほかに、何もなかった。
 そこで私は、手負いのイノシシのように働いた。強く生き、忙しく働くことにより、それから生ずる生命の実感によって、襲いかかってくる死の恐怖に抵抗しようとした。『よく生きる』ということが、唯一のたよりであった。それによって死ということから、できるだけ目をそらそうと考えた。(中略)しかし、死の暗闇は、考えまいとすればするほど、大きな口を開いて私に迫ってきた」
 亡くなる一年前も、博士は本当に多忙で、息子さんが、ちょっと話をしたくても、「明後日の朝十分ほどあけておいて」と、予約しなければならなかったといいます。
 博士は、死の数ヵ月前、こう綴ります。「癌というような思いもかけない病気のために、生命飢餓状態におかれ、死の暗闇の前に立たされた」
 「それから、十年近くも癌の再発と闘い続けている間というもの、その生命飢餓状態のすさまじさを身をもって思い知ったのである」
 池田 働いても働いても、考えても考えても、満たし切れない「生命飢餓状態」──自身の死を真剣に見つめた人ならではの表現でしょう。
 須田 ここまで真摯に「死と向き合う」勇気は、なかなか出ません。
 池田 博士は″死を覆い隠そうとするもの″を、指摘していたね。
 遠藤 はい。その一つは「生活水準の向上」です。私たちは、努力して働いて、豊かな生活、便利な暮らし、快適な環境を手にいれました。医療技術は進歩し、平均寿命も伸びました。その結果、「死」というものが、どんどん日常生活から遠ざかっている──と。
 池田 そうした文明の恩恵は、広い意味で、社会の「天界」の側面と言ってよいでしょう。死から目をそらさせる──博士は、確かこれを「すこしも悪意のないごまかしである」と同時に「最も深刻なごまかしである」と論じていた。
 遠藤 はい。現代文明は、死を見つめる必要などないかのように「ごまかして」いると言うのです。
 池田 しかし、その「ごまかし」社会の根っこは、明らかに腐ってきている。
 たとえば日本では、年に一万人の方が交通事故で亡くなっているが、自殺者は、その二倍にのぼる。また人間の生き死に無関心で無感動な、恐るべき感性が世代を超えて広がっている。慄然とする凶悪な事件も多い。
 斉藤 「心の死」と「生命感覚の死」が広がっている気がします。
 池田 生死の根本問題を、ごまかし続けてきた″つけ″が、いろんなところで噴き出している感がある。
9  ガン「再発」の恐怖に打ち勝って
 遠藤 先ほど、富山の壮年の体験が紹介されましたが、「死を見つめる」といっても、口で言うほど簡単ではないと、つくづく思います。学会の中で生き抜いてきたから、あれほど強く生きられたのでしょう。
 斉藤 「ガン」と宣告された時の苦悩、動揺は、本人にしかわからないといいます。学会員でも多くの人がガンと闘い、克服した体験をもっていますが、やはり家族や同志の励ましが大きな支えとなったようです。
 池田 励ましが大事だ。励ましが、どれほど大きな力となるか。いざ自分の死と向き合って平然としていられる人はいないでしょう。だれだって死は不安です。死ぬことは怖い。それが普通であり、当然です。
 「自分は死ぬことがこわくない」なんて、ほとんどが虚勢にすぎないと言える。しかし、不安におののいているだけでは、病魔・死魔には勝てない。それをどうすれば乗り越えていけるのか。信心しかない。
 しかし唱題しようと思っても、不安が先に立ってしまう。そういう時に、ともに祈ってくれる人がいる。真心から励ましてくれる同志がいる。それだけで心が軽くなる。勇気が湧いてくるものです。
 遠藤 本当にそうですね。ガンの患者にとって、一番の不安は再発です。最初のガンの宣告以上に、再発の宣告はショックのようです。
 「聖教新聞」に紹介された札幌・豊平区の壮年部の方は、肝臓がんで手術を受け、わずか四ヵ月で再発しました。
 この時、ショックのあまり、呆然としてしまったそうです。
 闘病生活が始まっても、唱題する気力すら涌かなかった。″もう治るわけがない″という悲観的な気持ちが強くなっていく。そんな彼の心を揺り動かしたのが、先輩の「そんなにゆっくり休んでいたら、がんも居心が良くて、いつまでも体内にいるよ。広布のために戦って、がんを追い出そう」との言葉でした。
 自分に負けていたと気がついた。臆病だった自分、″治らない″と決めてしまっていた弱い自分──。結局、自分に勝つことが病魔に勝つことだ、と。それからは、生まれ変わったように広布の活動に励んだそうです。
 池田 見事な勝利の姿だ。病魔と闘おうと立ち上がったこと自体が、自分に勝った姿です。
 遠藤 一遍の題目を唱えるごとに、「がん細胞を追い出すんだ!」との気迫でした。弘教でも新聞啓蒙でも、その気迫で戦った。一日一日を真剣勝負の思いで戦い、見事にがんを克服したそうです。
10  「一日の命」は全宇宙の財宝より貴い
 池田 ひとたび死の淵を覗いた人にとって、一日一日がどれほど価値あるものか、どれほど尊いものか──。死と向き合うことを避けている人は、その尊さがわからない。
 日蓮大聖人は「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」と仰せです。一日の命は、宇宙の財宝を集めたよりも貴いのです。
 だから一日一日をむだにしてはいけない。仏典にも、こうある。「ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。だれか明日の死のあることを知ろうや」(中部経典・分別品「一夜賢者経」)と。
 斉藤 ″臨終只今にあり″ですね。
 池田 人生は無常迅速です。大聖人の仰せをかみしめたい。
 「涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり、只先世の業因に任せて営むべし世間の無常をさとらん事は眼にさえぎり耳にみてり、雲とやなり雨とやなりけん昔の人は只名をのみきく、露とや消え煙とや登りけん今の友も又みえず、我れいつまでか三笠の雲と思ふべき春の花の風に随ひ秋の紅葉もみじの時雨に染まる、是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば法華経には「世皆牢固ならざること水沫泡焔の如し」とすすめたり「
 ──人の生涯は、どれほどもない。思えば、この世は、一夜の仮の宿のようなものであり、それを忘れて、どれほどの名声や利益を得ようというのか。また得たとしても、夢の中の栄華であり、珍しくもない楽しみである。ただ前世の業因に任せて(今世の自分の境遇で)、努力すればよいのだ。
 世間の無常を知る実例は、目をさえぎらんばかりに多く、耳にもあふれんばかりである。昔の人は、雲となったか、雨となったか、ただ名を聞くばかり。今の友も露と消え、煙となって空に昇ってしまったのであろうか、姿が見えない。自分だけが、三笠の山にかかる雲のように、いつまでも、この世にあると思っていられようか。
 春の花が風とともに散り、秋の紅葉が時雨に染まる。これらは皆、この世の無常を示しているではないか。
 ゆえに法華経(随喜功徳品)には「世の無常であることは、水の泡や、火の炎のようである」と説かれている──。
 斉藤 「泡」のごとき「天界」にとらわれてはならないとの御聖訓ですね。
 池田 また、こう仰せだ。
 「寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚ほんがくの栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引ごせのろういんなるべけれすべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
 ──「寂光の都」以外は、どこも皆、苦しみの世界である。(永遠の生命を自覚した)真実の覚りの住みかを離れて、何が楽しみといえようか。「現世は安穏であり、後には善処に生まれる」という妙法を持つことだけが、今生には真の名誉となり、後生には成仏へと導いてくれるのである。
 願わくは、どこまでも一心に、南無妙法蓮華経と自分も唱え、人にも勧めていきなさい。まさにそれこそが、人間界に生まれてきた今生の思い出となるのである──。
11  「生命の大長者」の人生を
 池田 「天界」の衆生とは、物心ともに恵まれた「長者」と言えるでしょう。
 ″長者にも三種ある″と大聖人は、天台の言葉を引いて言われている。
 「世間の長者」「出世の長者」「観心の長者」(御書八一八ページ)です。
 くわしくは略すが、「世間の長者」とは、天界の長者と言えるでしょう。人格的にも優れた、富豪とか、知識人とか。
 「出世の長者」とは「仏法の長者」であり、仏のことです。ありとあらゆる福徳を備えている。そして、そういう仏に、凡夫がその身そのままでなれるのだというのが「観心の長者」です。
 遠藤 「観心の本尊」を受持し、修行する人は、仏の万行万徳を譲り受けるということですね。
 池田 私どもが目指すのは、三世に栄えゆく「観心の長者」です。我が心を観じて、そこに、仏界という、汲めども尽きぬ「福聚(福のあつまり)の海」を見つけた長者です。法華経による「生命の大長者」が、私たちの人生なのです。
 須田 ここにこそ「欲望社会」の行き詰まりを超えゆく根本軌道があると思います。
 池田 次は、「菩薩界」「仏界」だが、これは「十界互具」論の上から見ていったほうがいいと思う。
 斉藤 はい。いよいよ法華経の法華経たるゆえんである「十界互具」論に、求道の旅は入っていきます。

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