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日蓮大聖人・池田大作

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勇気を出したい 正義を貫け! それが勇気

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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6  ″一人立つ勇気″″人間愛の勇気″
 ―― 「一人立つ」勇気というと、ローザ・パークスさんを思い出します。
 池田 私の大切な友人です。アメリカの「公民権運動の母」だ。勇気のある人です。そして「優しい人」です。もの静かだが、心の芯は鋼鉄のように固い。
 ―― 先日(一九九八年五月八日現地時間)、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)の本部を訪問されたそうです。未来部の代表と記念撮影もしてくださいました。
 池田 うかがっています。いつも若い人を大事にしておられる。
 ―― 今度、パークスさんの本が出たんですが、題名が『ローザ・パークスの青春対話』(潮出版社)と言います。
 アメリカの未来部の友には、こう語られたそうです。「きょうは、心の美しい人々に囲まれ、すばらしい敬愛の心をいただきました。私はとても幸せです。これからも青年のために、できる限りのことをしたい。青年こそ私たちの未来だからです。ここに池田博士がおられたら、この青年たちの姿を一緒に喜ばれるでしょう。池田博士は、すべての人類のための自由と愛の信念をもっておられるからです」(「聖教新聞」一九九八年五月十二日付)と。
 池田 ありがたいお言葉です。私も、二十一世紀の主役である諸君のためなら、何でもしてあげたい。
 パークスさんは、黒人への「差別」や「いじめ」と戦った人です。勇者です。一九五〇年代、アメリカでの人種差別は、ひどかった。パークスさんはアラバマ州のモンゴメリーという町にいた。バスに乗るにも、白人と同じ列には座れない。″黒人用″の席に座っていても、白人の席がなくなると立たなければいけない。
 ―― 本当に、ひどいですね。「いじめ」や「差別」は絶対に悪です。
 池田 運命の日――一九五五年十二月一日。パークスさんは、家に帰るためにバスに乗り、席に座った。すると、運転手から白人に席を譲るよう命令された。
 ″黒人なんだから、立つのが当然″と思われていた。今までは、皆、そうしてきた。彼女もそうやってきた。
 しかし、このときは違った。もう、ほとほと「いじめ」には、いや気がさしていた。
 「ノー!」――彼女は「いやだ」と拒んだのです。この「勇気の一言」が、人種差別撤廃運動への大きな力となっていった。
 ―― すごい勇気ですね。その勇気は、どこからきたのでしょうか。
 池田 パークスさんの″青春対話″の中で、書いておられたでしょう。
 「歴史がつくられていようなどとは、考えもおよびませんでした。私はただ、いいなりになることに疲れていたのです。とにかく、バスの運転手に抵抗するという自分の行為は、正しいのだと思いました。その結果のことは、考えませんでした。警察官がくれば、首吊りリンチにされたり、虐待されたり、殴られたりしたかもしれないことはわかっていました。それでも私は動きませんでした。なぜなら、私は正しかったからです」(『ローザ・パークスの青春対話』高橋朋子訳、潮出版社)
 ―― 「なぜなら、私は正しかったからです」――これがポイントですね。
7  君よ勇者の「宝剣」で立て
 池田 パークスさんは「自分が正しい」と信じたからこそ叫んだ。歴史に名を残そうとか、いい格好をしようとか、人がどう思うだろうかとか、そんなことではなく、「正しいことだから、やるんだ」。これが勇気です。
 「勇気」とは「正義」と一体なのです。「正しいことをやるんだ」「正しい社会をつくるのだ」「人間としての正しい道を行くのだ」と。
 ″自分のために″だけでなく、″人のため、世のために″という善の行動をする。そのための「宝の力」が勇気です。いちばん地味であるけれど、いちばん光り輝く行為です。
 「いじめ」をやめさせるのも勇気です。耐え抜いて、生き抜いていくのも「勇気」です。一日一日、堅実な日常生活を生き抜いていこうというのも、立派な勇気です。
 反対に、堕落した人は、「日常生活の中の勇気」がなかったのです。
 家族の中でも、友人の中でも、正しい方向へと意見を明確に言う。その方向に行こう、行かせようという心構えも、立派な勇気です。
 だれが何と言おうと「正しい」ことは断じて為す。この「勇気」をもった人は、無限の力のある「宝剣」をもった人です。仏法では、その人のことを菩薩といい、仏という。
8  粘り強く堅実に! 華やかでない勇気が本物
 ―― ふつう、勇気というと、何か、とても人のできないような冒険をしたりとか……そういうイメージをもちますが、ちょっと違いますね。
 さらに、「けんかが強い」のが「勇気がある人」というイメージもあります。
 テレビや漫画、ゲームなどを見ても、相手を殴って倒すようなものが圧倒的に多い。でも、それだけでは肉体的勇気というか、動物的勇気といえるのではないでしょうか。
 池田 勇気というのは、蛮勇ではない。蛮勇は、独りよがりであり、自己中心的であり、人のことを考えない。横暴であり、傲慢です。
 ―― そういう政治家が多いです。
 池田 蛮勇は、勇気があるように見えるけれども、それは、人間の道から外れた動物のような、野獣のような生き方でしかない。それは、人間としての知性とか、礼儀、協調ではない。本来、人間としてあるべき姿から逸脱しているのです。
 ―― 考えもなく、無謀に飛び出していくのも「蛮勇」の一種でしょうか。考えすぎて臆病になるのも、いけませんが――。
 池田 冒険の勇気、スポーツの勇気など、さまざまな分野で、勇気は見いだせるでしょう。それらは一次元の勇気です。
 それ以上に、堅実に勉強したり、堅実なる友情を結んだり、そういう日常的ななかで、「人間として正しい」道を歩み抜いていく勇気が大事なのです。それは、「忍耐」ともいえる。忍耐が、人生を良い方向に向かわせるのです。
 このような目に見えない、「華やかさのない勇気」が、いちばん大事なのです。
 ―― 「華やかでない勇気」。すごく大事なことだと思います。
9  臆病だから権力で人をいじめる
 池田 華やかにスポットライトを浴びて、大活躍している人が、必ずしも勇者ではない。いわんや、戦争で人を殺したり、権力で人をいじめたり、それは「臆病」であって、「勇気」ではない。
 本当の勇気は、平和で、正しい「善」の行為をすることです。「地道に、粘り強く生き抜いていこう」というのが本物の勇気なのです。これこそ、まさに「宝の勇気」であり、「地道な勇気」であり、「健全なる勇気」です。
 勇気がないから、物を盗んだり、人をいじめたり、人を殺したり、武器をもって人を脅かしたり、戦争をしたりする。そういう悪いことをするのは、臆病だからです。勇気がないのです。臆病は悪です。
 ―― 牧口先生、戸田先生は、軍国主義の時代に、絶対に「付和雷同」しなかった。自分が「正しい」と信じる平和と自由の道を進むよう、敢然と主張し、権力と戦われました。すごい勇気です。
 池田 しかし、その当時は「非国民」と罵られ、牢獄でいじめられ、戦争に反対なので「臆病者」と軽蔑された。狂った時代です。今の日本も、そういう狂いの方向に向かっていることを私は心配するのです。
 ―― マスコミが、でたらめを流しても、罰せられない。平気で人権侵害を繰り返しているメディアが、大いばりで街で売られ、広告を出している。異常な社会です。異常ななかに住んでいるから、どんなに異常なのか、皆、わからなくなっている。この意味では、ファシズムの日本と同じですね。
10  逃げない勇気、忍耐という勇気
 池田 本当に勇気のある人は「卑しい心」をもっていない。愚直です。だから、かえって悪者にされ、誤解される場合も多い。
 反対に、うまく立ち回って、売名や策略をして有名になったり、人気者になる人もいる。そういう華やかな姿を見て、うらやましく思ったり、多くの人々が錯覚している場合も多い。
 しかし、人は人です。誤解されようが、笑われようが、いじめられようが、「正しい」ことをやった人は、心が晴れ晴れとしている。その人が勝利者です。
 ―― 勇気というのは「地道」なものなんですね。
 池田 「忍耐」です。母親が、「どんなにつらくても、子どもを立派に育てよう」とするのも尊い勇気です。
 勇気は、裏を返せば「慈愛」です。裏が慈愛、表が勇気です。勇気の裏には、必ず慈愛がある。悪はない。悪があったら勇気ではない。
 母親の心は、まさに慈愛であり、勇気です。
 勇気の定義は、後ろに「正義」があり、「慈愛」があるかどうか、それで決まる。
 戸田先生は、おっしゃっていた。
 「凡夫は、なかなか慈悲というものはもてない。どうしても感情が入ったり、面倒くさがったりして、必要なんだが、なかなかもてないものだ。しかし、勇気はもてる。慈悲といっても、具体的に我々ができることは勇気をもつことである」と。
 実際、勇気を出して行動すれば、人への慈愛がさらに強まっていくものです。「勇気」こそ「至高」の美徳なのです。
11  「人を信じられたらどんなに楽か」
 ―― 女子高等部員の体験なんですが、静岡の人です。彼女を含めて七人の仲良しグループができていました。行動をともにするうちに、長所も短所も見えてきます。やがて、その場にいない人の悪口を、彼女以外の人たちが言うようになったのです。
 彼女は、そんな状況を変えようと努力しました。すると、それをきっかけに、他の六人からの「いじめ」が始まってしまったのです。
 その後は、教室での冷たい視線。悪口だらけの手紙が回ってくる。体がぶつかると、「キャー」と叫び、逃げる。「心臓をえぐられるような」日々が続きました。休み時間になると、そんな状況を避けるため、トイレで時間を、つぶしたそうです。
 「人を信じることができたら、どんなに楽だろう」と悩んだ末、ある日、思いきって母親に打ち明けました。すべてを知った、お母さんは「青春対話」を持ってきました。彼女は一生懸命、読みました。勇気がわいてきました。「題目をあげれば、悩みが全部、幸福へのエネルギーに変わる」と知って、挑戦を始めました。
 ただ「負けたくない、強くなりたい」と祈り続けたそうです。だんだん、勇気がわいてきました。学校に行くのも、苦しくなくなってきました。それまでは、親の送り迎えで、しかたなく行っていたのです。やがて新しい友達もでき、結局、その六人とも再び仲良くなったそうです。
 彼女は言っています。
 「強くなれるきっかけをつくってくれた六人に、今では感謝しています」「相手を変えるには、自分が強くなることです」「悩みがある人は題目を、悩みがない人も自分を磨いていくために題目をあげることを絶対に私は勧めます」と。
12  「どうすれば皆が幸せになれるか」
 池田 題目は「勇気」の原動力です。勇気のエンジンに「火」をつけるのが題目です。その題目をあげるのも、また勇気なのです。
 ともあれ、勇気は、人間が正しく生き抜き、正道を歩む「力」です。
 たとえば、人類・国家のために、「どうすればいちばん平和になるか」を考え、行動する。そういう信念の勇気もある。
 社会のため、多くの人の人生のために、「どうすれば皆が幸せになれるか」を考え、行動する。そういう人間愛の勇気もある。
 また、いちばん身近な生活のなかで、「子どもたちのために」という母親とか学校の先生の思い。「友人のために」という友情。そういう地道な日常での勇気もある。
 ―― 段階がある、ということでしょうか。
 池田 段階があるように見えるが、「勇気」という一点には違いがない。
 「大きな勇気」も、「小さな勇気」も、勇気には変わりがない。「人のため」という崇高な心に変わりはない。「自分のため」だけでは卑しい。ずるいし、臆病です。
13  まず「一歩前へ!」――行動すれば必ず開ける
 ―― 思うのですが、信仰とは最大の勇気ということではないでしょうか。
 池田 その通りです。さまざまな分野の勇者がいるが、いちばん多かったのは宗教の世界でしょう。とくにキリスト教の宣教師は、どんなに迫害されようが布教を続けた。教義は別にして、この生き方は、行動は、「勇者」と言えるでしょう。
 仏法も勇気です。日蓮大聖人は、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」――日蓮の弟子らは臆病であってはならない――と繰り返し、教えておられる。
 信念のためには、いかなる迫害にも屈しない。それを「勇気」という。それが、人間としていちばん尊い生き方です。
 その人は「勇者」という栄光の刻印を天から与えられるに違いない。永遠に「勇者」として、その名が刻まれていく。また自分自身が、歴史に、そう刻印をしていく。そして、人をも奮い立たせて「勇者」にしていく。その人がいちばん、偉い。その人は菩薩であり、仏です。
 正しい信仰をもち、その信念のために行動する人が勇者なのです。自身の胸中に、大宇宙の根本のリズムを保っている「勇者の中の勇者」です。
 その「一人」がいれば、「太陽」が昇るのです。自分の生活に。自分の家庭に。自分のクラスに。自分の社会に、国に、世界に。
 だから諸君は、自分のなすべき課題に向かって、「まず一歩を踏み出せ!」と私は言いたいのです。

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