Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

(一)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
6   僕の少年期をはぐくんだもの
  それは芸術の喜びだった
  あるときは
  銀の足の妖精が水を揺らす
  その長い揺籃のような川を源からたどりつつ
  すらすらと誰からも習わずに
  僕の手は紙の上に書きつけるのだ
  愛と孤独の申し子たる詩歌を
  ……………………
  芸術よ おおそれは
  人生には愛すべき魅惑者となり
  どんな暗い絶望をも微笑み慰めてくれる
  苦悩のときの確かな友変わらぬ恋人
  その愛も抱擁も金では買えぬ
  芸術よ 恵みの神々よ
  その愛好家らはいくたびかあなたを悪しく使用して衰微させたこともある
  あまりに多いそんな汚行に僕は毫も加担しなかった
  あなたの妬まれやすい桂冠をば
  盲目の「運命の女神」を娶った男達の額に
  おもねり冠せようなど毫もせず
  あなたが授けてくれた天分を汚すまいとしてきた僕だ
  卑屈な嘘を言ってまで
  あなたを安く売り飛ばそうなど
  そして自分の詩をあちこちと野心家の読者に見せたりして
  お追従の詩才で魅惑しようなど
  僕は断じてするものか
  アベルよ、若き友アベル
  それにトゥルデンヌとその兄さん
  彼ら遠い幼いときからの旧友よ
  昔、四人そろって不人情な教師の前に
  黙って手をさしだして罰をうけたっけ
  そして詩神ミューズそのものの僕の弟やル・ブラン
  詩神を愛しながらも捨てたド・パンジュ
  これが時おり夜会する仲間の全てだった
  苦心して僕の口から形になった詩句に
  友らしいまた手厳しい耳を傾けてくれたっけ
  旅につきものの新発見を愛する僕は
  貪欲な目につれられてあちこちと旅に出るだろう
  そのたびに
  いつでもこの懐かしい仲間の懐に帰りたいものだ
  ……………………
 詩を口ずさみ終わると、ゆっくりとシェニエは立った。そして、川の向こうにゆるく迫り上がっていく丘陵の彼方に目をやった。
 「ほら見たまえ。空があんなに明るく晴れている。この晴ればれとした空を胸の中にしっかりとうつして、いつもいつも澄んだ青空のような気持ちで生きていけたら、どんなにか幸福だろう。どんなに苦しくても、辛くても、こんなに空が晴れている日には、なんだか希望が胸いっぱいに湧いてくるじゃないか。だから、心の中には、いつも晴れわたった大空を失ってほしくない」
 ルネの心には、シェニエの語る詩と言葉とが、深い波紋を描き始めていた。
 シェニエは、目を周囲に移して言った。
 「まるで、草葉が緑を輝かせて風にたわむように、若い君らの心は多感で、まわりに動かされやすいのも無理はない。だが、少々の風が吹いたからといって、本当の自分の行く手を見失うようではいけない。私は、君の才能を惜しむ。どうか、わき目もふらず、わき道にそれず、君自身が決めた道を進みたまえ」
 「…………」
 「今の私には、芸術が、詩を書くことが、生きることと同じなのだ。詩を書いて遺すことは、自分の命が幾世代にも生き続けることと同じだと信じているのだよ」
 「ああ、あなたは、やはり芸術家、詩人なのですね。……そういえば、ル・ブランという詩人の名を聞いたことがあります」
 「ル・ブランは、私に詩の手ほどきをしてくれた、有名な詩人さ。大先輩さ。でも、世間では、私のことは少しも詩人だなんて思ってはいない。ほんの少しの私の仲間しか知らないのだよ。ほとんど、作品を世間に発表したことがないのだもの。今、君の芸術への熱い思いに、つい、下手な詩を口ずさんでしまった。そこには私の気持ちを込めてあるけれど、自分の作品を売り込もうとか世に出そうというつもりは、さらさらないのさ。あれは『エレジー(悲歌)』という、私の若いときの詩、そう十九の頃から書きためたほんの一節なんだ」
 「あなたの名は?」
 シェニエは、それには答えなかった。
 「うん……。ド・パンジュ兄弟も、アベルも、トゥルデンヌも、みんなコレージュ・ド・ナバールという、私が十一の時から十九まで学んだ、その同じ学窓の友達なのだよ。私達は友情で固く結ばれていた。眠れない夜を、キケロやモンテーニュを読み合ったり、詩を論じたり、自由や正義について議論したり……。私は、その大切な友達一人一人に捧げる詩を書いたものだ。もし自分の詩が後世に遺るのならば、友達の名や、その良い性質や思い出をも後世に遺せるだろうからね。友情は、天からの最も素晴らしい贈り物だもの」
 パリのコレージュ・ド・ナバールは、一三〇四年に創立された、古い伝統をもつ名門校で、「フランス貴族の揺籃」と言われたほど、主として軍人や法曹界や官吏の職にあった貴族の子弟を集め、百人そこそこという定員での高いレベルの少数英才教育で有名だった。シェニエの家柄も、祖父が王室の秘書を二十年間つとめ、父ルイ・シェニエもモロッコ駐在領事になったことから、まずまずの家格であった。子ども達を貴族階級のなかで教育しようという父の意にそって、二人の兄に続いてコレージュ・ド・ナバールでの寮生活に入ったシェニエは、そこで、ド・パンジュら生涯の――あまりにも短い生涯の――良き盟友に恵まれたのであった。
 シェニエは、そんな遠い昔を、懐かしく心に描いていた。
 「年若い頃に教わることで、何が一番大切かといったら、それは、友達同士の信頼と、大きな理想や憧れを探すことと、そして何よりも大切なのは正義を重んずる勇気だろう。私達、あのナバール校でともに遊び、学んだ仲間は、今でも親友であることに変わりはない。いや、それどころか、生死の境で、兄弟のように結ばれているといってもいいくらいなのだよ」
 ルネには、シェニエと詩中の人物との絆がおぼろげながら納得できた。しかし、それ以上に、おだやかな言葉の中に一種の熱があって、自分の心を魅きつけている、この目の前の青年詩人の名を知りたかった。一方、シェニエの方も、もう警戒心はすっかり薄れていた。この一途な少年に、なにか愛着が感じられてならなかった。どのみち、自分がヴェルサイユに潜伏していることは、当局には知れている。それに、自分の名を明かしてもルネには何も分からないだろう。
 「ああ、私の名は、アンドレ・シェニエというのだ。弟は、マリー=ジョセフといって、詩人で、劇作家だが。この道では、弟の方が有名なんだ」
 マリー=ジョセフ・シェニエといえば、戯曲「シャルル九世」で知られる新進の売れっ子の作家であった。それに革命を祝う国民的な行事では、詩を朗読して祭典に花を添えている。彼は、熱烈なジャコバン主義者であった。
 ルネも、その程度のことは、耳にしていた。
 ルネは、著名な作家の兄との、こんな偶然の出会いに心を弾ませた。
 「それでは、あなたも弟さんと同じようにジャコバンを支持しているのですね?」
 シェニエは、答えを返さなかった。いやむしろ、ルネにそう思い込んでもらっている方が、安全だと思った。もはや、ジャコバン政権は、シェニエを、反革命的な危険人物と見なして、ある決定的な機会を、虎視眈々と狙っていたのである。言いかえれば、シェニエ兄弟は、政治的には、全くの対極に立っていたのであった。
 シェニエの表情に、寂しげな影が浮かんだ。それから彼はようやくルネに背を向けて、帰ろうとした。黄昏の深まらぬうちに、谷道を抜ける必要があった。
 「さようなら、ルネ君。君は、とても良い少年だ。きっと立派な芸術家になれるだろう。ここは、とても素晴らしい所だ。できれば、もう一度、この場所に来ようと思っている。そのときに会えるのなら、また君のデッサンを見せてくれたまえ」
 ルネも、もう一度会いたいと思った。この青年詩人の言葉も、雰囲気も、不思議なくらい、自分の心を温めてくれるものがあった。
 ほっと大きく息をして、見上げると、ほのかなバラ色のニュアンスが空を染め始めていた。
 シェニエの後ろ姿が、花ざかりの道を右にのこして、小さな丘の麓のゆるい坂をくだっていく。
 それは、背や肩まで隠れるような潅木の茂みをしばらく進んでいき、やがて濃い森陰に見えなくなった。
 ルネは、佇んだまま、どんどん濃く谷間を染めていく夕日の色に見入っていた。

1
6