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日蓮大聖人・池田大作

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第30巻 「雄飛」 雄飛

小説「新・人間革命」

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56  雄飛(56)
 「メキシコの詩心に思うこと」――それが、グアダラハラ大学での山本伸一の記念講演のタイトルであった。
 彼は、“太陽と情熱の国”メキシコの人びとの独特な心の豊かさにふれつつ、そこにある詩心や笑顔は、心と心の回路の開放を意味しており、平和の建設、文化の交流においても、この心の回路の開放こそが肝心であることを論じた。また、メキシコの人びとがラテンアメリカ地域の非核化に、強いイニシアチブをとって努力を続けていることに深い敬意を表したのである。
 伸一は、グアダラハラから、アメリカのロサンゼルスに戻り、さらにハワイを訪問。ここでも、懇談会や御書研鑽会で入魂の指導を重ね、三月十二日に帰国した。
 彼は、渾身の力を尽くして、日本の、世界の同志への激励行を続けてきたのである。広布は、次第に上げ潮へと転じ始めていた。
 そして、5・3「創価学会の日」を祝賀する記念行事が、晴れやかに創価大学で開催された。伸一は、五月二日から五日まで、連日、記念勤行会、記念祝賀会等に出席した。
 創価の師弟の陣列は、薫風のなか、さっそうと二十一世紀への行進を開始したのだ。
 “さあ、世界の平和のために、走り続けよう!”――伸一は、五月九日、休む間もなく、ソ連、欧州、北米訪問へと旅立っていった。
 最初の訪問国であるソ連は、世界から非難の集中砲火を浴びていた時であった。一九七九年(昭和五十四年)十二月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことから、八〇年(同五十五年)夏のモスクワ五輪を、六十を超える国々がボイコットし、ソ連は国際的に厳しい状況に追い込まれていたのである。
 しかし、伸一は、すべてを政治的な問題に集約させ、対話の窓口を閉ざしてはならないと考えていた。そんな時だからこそ、文化・教育を全面的に掲げ、民衆の相互理解を促進する民間交流に、最大の力を注ぐべきであるというのが、彼の信念であった。
57  雄飛(57)
 今回の山本伸一のソ連訪問は、ソ連高等中等専門教育省とモスクワ大学の招聘によるものであった。彼は、日ソ両国の教育・文化交流を推進し、そこから、新たな友好の道の突破口を開こうと決意していた。
 一行は、富士鼓笛隊、創価大学銀嶺合唱団など、総勢約二百五十人という大訪問団となった。そして、モスクワ大学の学生や市民と幅広く交流を図っていったのである。
 伸一は、八日間のソ連滞在中、「子どものためのオペラ劇場」であるモスクワ児童音楽劇場を訪問し、同劇場の創立者であるナターリヤ・サーツ総裁と友誼を結んだのをはじめ、ソ連の要人たちと平和・文化交流をめぐって、次々と語らいを重ねていった。
 P・N・デミチェフ文化相やV・P・エリューチン高等中等専門教育相、ソ連対外友好文化交流団体連合会(対文連)のZ・M・クルグロワ議長、ソ日協会のT・B・グジェンコ会長(海運相)、モスクワ大学のA・A・ログノフ総長、ソ連最高会議のA・P・シチコフ連邦会議議長らと、活発に意見交換したのである。
 その間に、レーニン廟や、故コスイギン前首相の遺骨が納められているクレムリン城壁、無名戦士の墓を訪れて献花した。なかでも前首相の墓参は、今回の訪ソの大切な目的の一つであった。
 コスイギンが死去したのは、前年十二月のことであった。伸一は、前首相とは、二回にわたってクレムリンで会見していた。中ソ紛争が深刻化するなかで初訪ソした一九七四年(昭和四十九年)九月の語らいで、率直に「ソ連は中国を攻めますか」と尋ねた。
 その時、コスイギンは、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」と明言した。伸一は、彼の了承を得て、この年十二月の第二次訪中で、中国首脳にその言葉を伝えた。
 “中ソが戦争に踏み切ることだけは、なんとしても避けてもらいたい”――伸一は、今の自分にできることに、力を尽くした。
 平和の大道も、地道な一歩から開かれる。
58  雄飛(58)
 五月十二日、山本伸一は、創価学会がソ連文化省、モスクワの東洋民族芸術博物館と共催で行った「日本人形展」のオープニングの式典に出席した。さらに、この日午後、コスイギン前首相の息女であるリュドミーラ・グビシャーニが館長を務める、国立外国文学図書館を訪れ、会談したのである。
 ベージュのセーターと青のスーツに身を包み、柔和で理知的な笑みをたたえた彼女の澄んだ瞳に、コスイギンの面影が宿っていた。
 伸一が、墓参の報告をし、弔意を述べると、彼女は、声を詰まらせながら応えた。
 「先生がおいでくださったことに、人間的な心の温かさを感じ、感激で胸がいっぱいです」
 そして、前首相が伸一と初めて会った日のことを、懐かしそうに語り始めた。
 「その日、執務を終えて家に帰ってきた父が、私に、『今日は非凡で、非常に興味深い日本人に会ってきた。複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできて嬉しかった』と言いました。また、『会長からいただいた本を大切に保管しておくように』と、私に委ねたのです」
 それから彼女は、「ぜひとも先生に、何か贈らせていただこうと、家族全員で相談いたしました」と言い、ガラス製の花瓶を差し出した。コスイギンが六十歳の時、「社会主義労働英雄」として表彰された記念品であった。
 さらに、革で装丁された二冊の本が贈られた。前首相の最後の著作であり、他界するまで書斎に置かれていた本である。
 「父の手の温かさが染み込んでおります。父に代わって、私からお渡しいたします」
 伸一は、感謝の意を表しつつ語った。
 「この品々には、大変に深い、永遠の友誼の意義が含まれております。日本の民衆に、そのお心を伝えます。ご家族の方々のご多幸をお祈り申し上げます」
 親から子へ、世代を超えて友情が結ばれていってこそ、平和の確かな流れが創られる。
 別れ際、いつまでも手を振り続ける彼女の姿が、伸一の心に深く刻まれた。
59  雄飛(59)
 十三日午前、山本伸一と峯子は、モスクワ市内のノボデビチ墓地を訪れ、四年前に死去したモスクワ大学のR・V・ホフロフ前総長の追善を行ったあと、ホフロフ宅を訪問した。
 伸一たちは、エレーナ夫人、長男のアレクセイ、次男のドミトリーと、亡き総長を偲びながら、語らいのひとときを過ごした。
 長男は、モスクワ大学の物理学者であり、次男も大学院で物理学を学んでいた。
 遺族は、伸一たちの訪問を心から喜び、代表して長男が、感謝の思いを語り始めた。
 「父に敬意を表して、わざわざおいでいただき、ありがとうございます。今回の先生のソ連訪問は、天候にも恵まれ、天も祝福しているかのようです。今、モスクワは、長い冬が去り、緑が萌え、自然がみずみずしい生命を回復する時を迎えています」
 すかさず伸一が言った。
 「ご一家も今、同じような時期に入りました。悲しみの冬を越え、希望が萌え、生命の回復の時がきました。あとに残ったご家族が元気であることを、亡き総長も願望していることでしょう。特にご子息は、学びに学び、お父様をしのぐような大学者になり、社会に貢献するとともに、幸せになってください」
 アレクセイが頷きながら語った。
 「父は、いつも先生のことを話していました。直接、お目にかかれて嬉しい限りです」
 「お父様のことを偲びながら、これから、何回でもお会いしましょう。いつか日本にも、創価大学にも来てください」
 夫人が、しみじみとした口調で言った。
 「先生とは、ずっと一緒にいたような親しさを感じます」
 心は響き合い、語らいは弾んだ。
 ホフロフ家から、遺稿を収めた論文集と、山で写した故総長の写真が贈られた。「山登りが好きな人でした」と夫人が目を細めた。
 一家との交流は、その後も重ねられていった。地中深く根が張り巡らされ、草木が繁茂するように、民衆の大地深く友情の絆が張り巡らされてこそ、平和の緑野は広がる。
60  雄飛(60)
 山本伸一は、正午にはモスクワ大学を訪問し、ログノフ総長と対談した。総長は、ソ連科学アカデミー正会員であり、著名な理論物理学者でもある。
 実は、この年の四月に総長が来日し、会談した折、日ソの友好と人類の平和のために、教育交流の重要性を語り合う対談を行っていきたいとの要請があったのである。
 伸一は、未来に平和の思想と哲学を残すために、対談を行うことに合意し、この訪ソまでに、総長への多岐にわたる質問を用意して会談に臨んだのである。
 そして、「現代科学をめぐる諸問題」「宗教と文学」「戦争と平和と民族」「文化交流への課題」など、対談の骨子について語ると、総長も大いに賛同した。
 会談に先立って、ログノフ総長に、創価大学名誉教授の称号が贈られた。その際、総長は、人類の平和を守る大学の使命に触れ、核兵器の問題について、次のように語った。
 「もし、今、核兵器が使用されたならば、人類は完全に滅亡してしまう。したがって、知恵ではなく、力で平和が守られるという考えを捨てるべきです。そうでないと核戦争を認めることになってしまう」
 語らいは、モスクワ大学付属アジア・アフリカ諸国大学の主任講師であるL・A・ストリジャックの通訳で進められた。
 「核戦争は断じて回避しなければならないし、人類存続の道は文化交流による平和の建設しかない」というのが二人の強い確信であり、共鳴音を奏でながら意見交換が続いた。
 二人の語らいは十三回に及び、その間に、一九八七年(昭和六十二年)六月には、対談集『第三の虹の橋――人間と平和の探求』を出版。続いて九四年(平成六年)五月には『科学と宗教』が発刊されている。
 世界の平和は、心の結合から始まる。そして、「人間」「平和」という原点に立てば、社会体制やイデオロギーの壁を超えて、人と人は理解し合い、共感し合い、心を結び合える――それを伸一は、世界に示したかった。
61  雄飛(61)
 モスクワ大学を訪問した十三日の夕刻には、「日ソ学生友好の夕べ」が開催された。
 大学正面広場で行われた、平和の天使・富士鼓笛隊の華麗なパレードで幕を開け、その後、同大学の文化宮殿に会場を移して、友情と平和の祭典が繰り広げられたのである。
 創価大学銀嶺合唱団や壮年・婦人代表団らが、「黒田節」「母」などを披露し、「カチューシャ」を歌った時には、手拍子が鳴り響き、場内は一体となった。モスクワ大学側も、ピアノや室内楽団の演奏、民族衣装に身を包んでのロシア民謡の合唱や踊りなど、熱演を重ねた。やがて、両大学の合唱団によって、「四季の歌」が日本語で、「友好のワルツ」がロシア語で歌われた。日ソの人びとの心と心が、見事にとけ合っていった。
 会場の文化宮殿は、六年前(一九七五年)の五月、山本伸一が、「東西文化交流の新しい道」と題して講演した、思い出深い場所である。その時、彼は、文化交流によって、“精神のシルクロード”を開き、世界を縦横に結ぶことができると力説した。
 今、眼前で、日ソの青年らによる文化と友情の交流が行われ、確かに“精神のシルクロード”が結ばれようとしていることを、伸一は感じていた。一つ一つの演目が終わると、身を乗り出すようにして大きな拍手を送った。
 翌十四日午後、伸一たちは、クレムリンを訪れ、ニコライ・A・チーホノフ首相と会見した。この日が首相の七十六歳の誕生日にあたることから、彼は、会見の冒頭、花束を贈呈した。
 そして伸一が、「自分は政治家でも、経済人、外交官でもありませんが、平和を愛する一市民として率直に進言させていただきたい」と述べれば、首相が「喜んで!」と応じるなど、和気あいあいとした会談となった。
 人間は本来、等しく平和を希求している。その心を紡ぎ出すのは、美辞麗句や虚飾の言ではない。胸襟を開いた、誠実な人間性の発露としての、率直な対話である。
62  雄飛(62)
 山本伸一は、チーホノフ首相に語った。
 「全人類の願望は戦争の阻止にあります。その意味から、貴国のブレジネフ書記長、チーホノフ首相には、モスクワを離れて、スイスなどよき地を選んで、アメリカ大統領、そして中国首脳、日本の首脳と徹底した話し合いを行ってくだされば、世界中の人びとが、どれほど安堵できるでしょうか。世界平和のために、ぜひとも首脳会議を呼びかけ、戦争には絶対反対するための話し合いを続け、安心感を全人類に与えていくことが大事です」
 伸一は、日ソ関係にも言及していった。
 「“条約”うんぬんの前に、日本人の心を知り、相互の信頼を育むための文化交流が必要です。さらに、過去の大前提にとらわれず、あくまでも進歩的に、両国民が納得できるようなトップ会談を重ねていくべきです」
 チーホノフ首相は、両国間の経済問題や貿易問題に触れながら、「文化交流は一歩遅れているかもしれません。あなたの主張は大事なことです」と所感を述べ、今後、平和・文化の交流を続けていく意向を明らかにした。
 また、伸一は、ブレジネフ書記長に宛てた、ソ連招聘の御礼の親書を首相に手渡した。
 彼は、米ソ首脳会談について、一九八三年(昭和五十八年)と八五年(同六十年)の1・26「SGIの日」記念提言でも訴えている。米ソ間で厳しい対立が続いていることを、多くの人びとが危惧していたからである。
 八五年(同六十年)、ソ連にゴルバチョフ書記長が誕生すると、冷戦の終結へ舵が切られた。同年十一月、スイスのジュネーブで、レーガン米大統領との米ソ首脳会談が実現し、東西の対話は加速していった。
 八九年(平成元年)十二月には、ゴルバチョフとブッシュ米大統領がマルタで会談。冷戦を終結させ、両国が協調して新しい世界秩序づくりへ踏み出す宣言をしたのである。
 翌九〇年(同二年)、伸一は、ソ連の初代大統領となったゴルバチョフと初会見した。二人は、その後も親交を結び、対談集『二十世紀の精神の教訓』を発刊している。
63  雄飛(63)
 チーホノフ首相と会見した十四日夜、山本伸一は、宿舎のホテルで、お世話になった関係者をはじめ、各界の来賓を招いて、答礼宴を開いた。
 そして翌日、モスクワ市内にあるトルストイの家と資料館を訪れた。
 十九世紀に建てられたまま保存されている文豪の住まいは、木造二階建てで、床はギシギシと軋んで、往時を偲ばせた。彼は晩年の十九年間を、この質素な家で過ごした。書斎には、テーブル、イス、ペン立て、インク壺などが、当時のままの状態で置かれていた。彼は、ペチカ(暖炉)の薪割りも自分でした。その時に使った前掛けも展示されている。
 この家で、最後の大作である『復活』や、数々の名作が誕生したのだ。
 さらに一行は、資料館に足を運んだ。天井の高い、重厚な歴史を感じさせる建物には、トルストイの小学生時代の作文や、終生、書き続けた日記、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の原稿、彼の彫像や肖像画などが展示されていた。
 なかでも伸一の目を引いたのが、検閲された原稿の隣に置かれた、緑色のガラス製の文鎮であった。そこには多くの署名とともに、トルストイを絶讃する言葉が焼き付けられていた。ガラス工場の労働者が贈ったものだ。
 ――「あなたは時代の先駆者である多くの偉人達とその運命を同じになさいました」「ロシアの人民はあなたを自分らの尊く慕わしい偉人と数えて、永遠にこれを誇りとするでございましょう」(ビリューコフ著『大トルストイIII』原久一郎訳、勁草書房)
 トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。それゆえに、彼の著作は厳しい検閲を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。
 目覚めた民衆が聖職者の欺瞞を見破り、真に民衆のため、人間のための宗教を求めたのだ。民衆の英知は、宗教を淘汰していく。
64  雄飛(64)
 トルストイは、真実の宗教とは何か、真の信仰とは何かを見すえ続け、探究していった。
 彼は、人間のなかに「神」を見いだしていったのである。それは、教会で説く「神」ではなく、人間精神の最高峰であり、良心の結晶としての「神」であった。そして、世界の平和と人びとの幸福のために、人間の道徳的回生と暴力の否定、「無抵抗」をもってする悪への抵抗を説いた。その主張は、国家権力と癒着した当時のロシア正教会の教えとは相反するものであった。
 ゆえに、彼の著作は、『復活』に限らず、『わが信仰はいずれにありや』『神の王国は汝らのうちにあり』などの宗教論も、国内での出版は難しく、地下出版や国外での発刊を余儀なくされたのである。
 「罵詈の声は後世から光栄の響きとして受け取られます」(『ユーゴー全集第10巻』神津道一訳、ユーゴー全集刊行会=現代表記に改めた。)とは、彼に大きな影響を及ぼしたビクトル・ユゴーの言葉である。
 政府や教会が、躍起になってトルストイを抑え込もうとするなかで、彼を支持したのは民衆であった。それによって、さらに世界の賞讃と信望を集めたのだ。あのマハトマ・ガンジーも、彼に共鳴した一人である。
 教会による「破門」も、全くの逆効果となった。世界が味方するトルストイに、政府も教会も、迂闊に手を出すことはできなかった。
 弾圧の矛先は、彼の弟子たちに向けられ、チェルトコフは国外追放された。また、ビリューコフは八年にわたって辺地に追放されたが、決して屈することなく、後に、師の真実と偉大なる歩みを残そうと、伝記『大トルストイ』を完成させている。
 トルストイを支持する民衆も弾圧にさらされ、発禁になった彼の本を持っているだけで逮捕された。しかし、民衆の支持は揺るがなかった。人びとは彼の誠実を痛感し、彼のめざす宗教の在り方に共感していた。
 宗教の価値は、人間に何をもたらすかにある。勇気を、希望を、智慧をもたらし、心を強くし、あらゆる苦悩の鉄鎖からの解放を可能にしてこそ、人間のための宗教なのだ。
65  雄飛(65)
 トルストイの家と資料館を見学した山本伸一は、大文豪の生き方に勇気を得た思いがした。伸一は、トルストイが、最後の日記に残した言葉を噛み締めていた。
 ――「なすべきことをなせ、何があろうとも……」(『トルストイ全集58』フドージェストヴェンナヤ・リチェラトゥーラ(ロシア語))
 伸一は、「世界平和」即「世界広宣流布」という、生涯をかけて挑み抜かねばならない使命を深く感じていた。
 一行は、さらに国民経済達成博覧会の宇宙館も視察した。人工衛星などの展示に、あらためて宇宙開発にかけるソ連の意気込みを感じた。案内者に、伸一は感想を語った。
 「すばらしい技術力です。この優れた科学技術の力を、人類の平和と繁栄のために活用してください。世界中の人びとが、それを望み、期待しているでしょう」
 十六日は、八日間にわたるソ連訪問を終えてヨーロッパ入りし、西ドイツのフランクフルトに向かう日である。
 出発前、伸一たちは、エリューチン高等中等専門教育相夫妻に招かれ、モスクワ川とボルガ川を結ぶ運河を周航しながら懇談した。教育交流をめぐっての語らいに熱がこもった。船窓から見る岸辺には、美しい緑の景観が広がっていた。この運河によってモスクワは、白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海、黒海の五海洋につながる内陸水路の要衝となり、いわば“港町”になったという。
 伸一は、教育交流は運河を建設することに似ていると思った。それは、国家やイデオロギー、民族等に分かたれた人間と人間とを、未来に向かって結び合い、平和の大海に至る友情の“港町”を創る作業であるからだ。
 伸一の一行は、午後七時、モスクワ大学のログノフ総長らの見送りを受け、モスクワのシェレメチェボ空港を飛び立った。サマータイムの北の都モスクワでは、まだ太陽は、まぶしいばかりに輝いていた。降り注ぐ光のなか、搭乗機は大空高く飛翔していった。
 “欧州では、大勢の同志が待っている!” 伸一の胸は躍った。

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