Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「栄光」 栄光

小説「新・人間革命」

前後
53  栄光(53)
 寒さは、日ごとに厳しさを増してきた。
 矢吹は、いつものように、大学の構内にある自分用のメールボックス(郵便箱)を見た。
 日本からの手紙など、途絶えて久しかったが、授業が終わると、条件反射的に、ほのかな期待を込めて、メールボックスをのぞくのである。それは、何もないことを確認し、空しさを噛み締めるための、日課のようでもあった。
 だが、その日は、一通の手紙が届いていた。
 手に取って、差出人を見た。英文タイプで、シンイチ・ヤマモトと、打たれていた。
 ″まさか、山本先生から、直接、手紙が来ることはないだろう″
 そう思いながらも、高鳴る胸の鼓動を感じながら、急いで封を切った。
 便箋に、青いインクで書かれた文字が、目に飛び込んできた。
 見覚えのある、山本伸一の字であった。
 夢中で、便箋に目を走らせた。
 「矢吹君に。
 君よ、わが弟子なれば、今日も、三十年先のために、断じて戦い進め。
 君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。
 君には、多大なる責任と使命があるのだ。その為に犠牲になったとしても、後輩の道だけは、堂々と切り開くことだ。祈る、健康と成長。  伸一」
 涙で文字がかすんだ。
 矢吹は手紙を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。″ぼくは、遠く離れたアメリカで、ひとり取り残されたように感じていた。だが、それは、自分がそう感じていただけだった。先生は何も変わっていなかった。いつも、ぼくのことを考えてくださっていたんだ″
 涙を拭うと、矢吹は、再び手紙を読み返した。
 生命に焼き付けるかのように、何度も、何度も、読み返した。
 ″そうだ。先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ! 負けるものか!″
 こう誓った時、彼は、胸に、ふつふつと勇気がたぎり、全身にエネルギーがみなぎってくるのを覚えた。
54  栄光(54)
 伸一は、その後も矢吹好成が帰国した時や、自身がアメリカを訪問した折などに、彼と会っては激励した。
 「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」
 まだ、日本の創価大学自体が、完全に軌道に乗ったとはいえない時期である。アメリカ創価大学の建設など、誰もが、夢のまた夢と考えていたにちがいない。しかし、矢吹は、それを、やがて来る現実であるととらえ、懸命に勉学に励み、九年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
 山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。
 国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
 その精神のもと、一九七一年(昭和四十六年)、東京・八王子市に創価大学が開学したのをはじめ、創価の一貫教育は着々と整えられていった。
 七三年(同四十八年)には、大阪の交野市に創価女子中学・高校が開校。七六年(同五十一年)には、北海道の札幌市に札幌創価幼稚園がオープンした。
 七八年(同五十三年)には、小平市に東京創価小学校が開校となった。
 また、創価中学・高校では、八二年(同五十七年)度から女子生徒を受け入れ、男子校から男女共学に移行している。一方、創価女子中学・高校も、この年、男女共学となり、名称も関西創価中学・高校に変更。大阪の枚方市には、関西創価小学校が開校した。
 さらに、一九八五年(昭和六十年)には、創価大学構内に創価女子短期大学が開学したのである。
 創価教育は世界にも広がり、幼児教育では、九二年(平成四年)に香港、翌年はシンガポール、九五年(同七年)にはマレーシアに、創価幼稚園がオープン。
 そして、二〇〇一年(同十三年)には、ブラジルにも創価幼稚園が開園した。
55  栄光(55)
 アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)二月、創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンし、後にアメリカ創価大学に発展。九四年(平成六年)九月から大学院がスタートした。そして、新世紀開幕の二〇〇一年(同十三年)の五月三日には、オレンジ郡キャンパスが開学。「生命ルネサンスの哲学者」「平和連帯の世界市民」「地球文明のパイオニア」の育成をめざして、アメリカ創価大学が本格的に始動したのだ。
 この新しい出発に際して、学長に就任したのは創価学園出身の、あの矢吹好成であった。
 創価学園生は、第二回栄光祭(一九六九年)で山本伸一が提案した、″二〇〇一年の再会″を目標に、それぞれの使命の道をひた走って来た。
 そして、二〇〇一年(平成十三年)九月十六日、創価学園二十一世紀大会が開催され、一、二期生はもとより、十八期生までの代表約三千二百人が、日本全国、さらに世界十六カ国・地域から母校に帰って来たのである。
 開校から三十三年余。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
 卒業生からは、百四十人の医師が、百十一人の博士が、六十人の弁護士など法曹関係者が、六十人の公認会計士が、四百六十二人の小・中・高の教員が誕生していた。会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。
 伸一は、体育館の壇上から、誓いを果たして栄光の大鵬となって集い来った鳳雛たちに、合掌する思いで視線を注いだ。
 わが後継の大鵬たちの顔を、心に焼きつけておきたかったのである。
 式典には、ロシア連邦・サハ共和国の賓客、また創価教育に共鳴してインドに創立された、彼の名を冠する女子大学の一行など、海外の多くの友も祝福に駆けつけ、まさに世界市民の同窓会となった。
 この日、伸一は、創価教育七十五周年――すなわち、一九三〇年(昭和五年)に牧口常三郎と戸田城聖の師弟によって『創価教育学体系』第一巻が発刊されてより、七十五周年にあたる二〇〇五年(平成十七年)の再会を約し合いつつ、万感の思いで詠んだ。
  偉大なる
    成長歓び
      喝采を
    我も挙げなむ
      君たち勝ちたり

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