Nichiren・Ikeda
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第20巻 「信義の絆」
信義の絆
小説「新・人間革命」
前後
50 信義の絆(50)
山本伸一は、大平正芳蔵相に、忌憚なく、自分の思いを語った。
「日中平和友好条約については、早急に締結していただきたいと私は切望しています」
条約の締結は、伸一がかねてから主張し続けてきたことであった。
彼は、「日中国交正常化提言」を行った翌年の一九六九年(昭和四十四年)には、連載中の小説『人間革命』第五巻「戦争と講和」の章のなかで、平和友好条約の締結を提案したのである。
七二年(同四十七年)の日中国交正常化によって、両国に橋は架けられたが、まだ簡粗で不安定な「吊り橋」のような橋である。子々孫々にわたって崩れぬ堅固な「金の橋」を架けるための土台となるのが、この平和友好条約なのである。
伸一は言葉をついだ。
「さきほど、キッシンジャー国務長官とお会いしてきました。長官は、日本と中国は、ぜひ平和友好条約を結ぶべきだというご意見でした」
「そうなんです。キッシンジャーさんは周総理から、条約締結の応援を頼まれているようです」
伸一の脳裏に、北京の病院で周恩来総理が、命を振り絞るようにして語った言葉が蘇った。
「中日平和友好条約の早期締結を希望します」
その声には、″自分の命が尽きる前に、なんとしても……″という気迫があふれていた。
伸一は、周総理を思いながら蔵相に言った。
「これは、断固、成し遂げなければならないテーマです。
大平先生への皆の期待は大きいといえます」
蔵相は、決意をかみしめるように語った。
「日中平和友好条約は必ずやります。
しかし、若干、時間はかかります。年内は無理かもしれません。
日中問題は、実は『日日問題』なんです。日中友好に慎重な勢力の強い抵抗があります。三木総理はやりたくとも味方は少ない」
伸一は、ひときわ大きな声で言った。
「国民が味方ですよ。平和を望む国民はみんな味方です。応援します」
正しい決断であれば世論は、必ず最後は味方する。ゆえに、不屈の行動を貫くのだ。
伸一は条約締結のために、陰ながら全精力を注いで応援しようと心に誓っていたのである。
51 信義の絆(51)
大平正芳蔵相は、山本伸一をじっと見つめ、何度も頷いた。
伸一は話を続けた。
「この日中平和友好条約は、日中のみならず、世界にとっても極めて大事です。社会主義の中国と資本主義の日本が『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。
人類は、いつまでも、『冷戦』を続けている時代ではありません」
「それは、その通りです。『地球はひとつ』の時代です」
大平蔵相との語らいは、日中友好への決意を固め合う対談となった。
日中平和友好条約の締結への道のりは険路であった。蔵相の言っていたように、二月になると、条約に覇権反対の条項を盛り込むかどうかで、交渉は、暗礁に乗り上げることになる。
「反覇権条項」は、日中共同声明でうたわれたもので、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とある。
この共同声明が発表されると、ソ連は、日本政府に、「反覇権条項」はわが国に対するものであり、″反ソ共同声明″ではないかと、強硬に抗議してきた。
すると、日本国内には、日中平和友好条約から、「反覇権条項」を外すべきであるとの声が起こったのである。
しかし、中国側は「反覇権条項」は、断じて入れなければならないとの姿勢を貫いていた。
意見調整は難航した。
ソ連に配慮しつつ、「反覇権条項」が盛り込まれた日中平和友好条約が調印されたのは、伸一の「日中国交正常化提言」から十年後の、一九七八年(昭和五十三年)八月のことである。福田赳夫首相、大平自民党幹事長の時代であった。
日中の歴史は、さらに大きく動いたのだ。
時代の底流には、既に滔々たる平和の流れがつくられていたのである。
伸一は喝采を送った。
かのアインシュタインは、平和創造の道について、こう述べている。
「恒久の平和は脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」
52 信義の絆(52)
山本伸一は、翌一月十四日、アーリントン墓地を訪れ、「無名戦士の墓」に献花した。
青空が広がっていたが、零下二度の冷え込みである。
伸一は、失礼になってはならないと、コートを脱いで献花に向かった。寒さで耳が痛んだ。
彼は思った。
″ソ連にも、そして、ここにも、多くの若き戦士たちが眠っている。
戦争には、敗者も、勝者もない。皆が犠牲者なのだ。なんのための戦争なのか! 誰のための戦争なのか!
いかなる国でも、愛する人を失った遺族の悲しみに変わりはない。人間のなしうる最大の悪は戦争だ。その戦争を引き起こす、「魔性の心」を打ち砕く道を示しているのが仏法なのだ。
ゆえに、仏法者の使命は、この地球上から戦争をなくすことにある。それを成し遂げることが、この犠牲者にこたえる唯一の道であるはずだ!″
伸一は、恒久平和を、深く、深く、心に誓いながら、儀仗兵が見守るなか、「無名戦士の墓」に献花し、黙祷した。
そして、厳粛に題目三唱を三回繰り返した。
彼は言った。
「永遠に戦争のないことを祈りました」
さらに伸一は、墓地内にある、第三十五代大統領のジョン・F・ケネディ、その弟のロバート・F・ケネディの墓を訪れ、冥福を祈った。
ケネディ大統領とは会談が決まっていたにもかかわらず、実現せずに終わってしまったことが悔やまれてならなかった。
伸一はこのあと、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイを訪問し、一月二十三日、グアムに向かった。
グアムでは、二十六日に世界五十一カ国・地域からメンバーの代表が集い、第一回「世界平和会議」が開催されることになっていた。いよいよ平和の新章節の幕が開かれようとしていたのだ。
ジョン・F・ケネディは叫んだ。
「われわれが結束するとき、新しく協力して行なう無数の事業において、なしえないことは何もない」
人類が結束して行うべき最大の事業――それは恒久平和の建設である。伸一は、そのための人類結合の「芯」となる絆を創ろうと、固く強く、心に決めていたのである。