Nichiren・Ikeda
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50 栄光(50)
山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。
この年の夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。
彼は、その後も、幾たびとなく、学園への訪問を重ねた。″ヨーロッパ統合の父″クーデンホーフ・カレルギー伯爵をはじめ、世界の識者を案内することもあった。
句会を提案し、生徒たちと、句を詠んだこともあった。
臨海学校や林間学校の折には、ともに泳ぎ、一緒に魚を追ったこともあった。自ら湯加減を調整し、生徒たちを風呂に入れたり、夜、生徒の部屋を見て回り、風邪をひかないように、そっと布団をかけたこともあった。
伸一は、固く心に決めていた。
たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこう――と。
創価学園の三十余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。そんな時、伸一は、その生徒のために、深い祈りを捧げ続けた。
ある年の秋、学園を訪問した伸一は、中学三年生の寮生の二人が、不祥事を起こして退学処分となり、郷里の大阪に帰るとの報告を聞いた。
彼は、早速、二階の寮生の部屋を借りて、彼らに会うことにした。
部屋に来た二人は、伸一の前に、かしこまって座った。膝が触れ合うぐらいの距離である。伸一は、できることなら、退学という事態は回避したかったが、規則は規則である。
また、既に学校が決定したことを、覆すわけにはいかなかった。
伸一は二人を見た。彼らは、きまり悪そうに目を伏せた。
入学した時は、瞳を輝かせ、希望に胸を膨らませていたはずである。しかし、今、学業半ばで学園を去っていくのだと思うと、残念で、かわいそうで仕方なかった。また、親の悲しみは、どれほど深いかを考えると、胸が張り裂けるような思いがした。
″この二人を、不幸にはしたくない。生涯、私は見守っていこう″
51 栄光(51)
伸一は、退学になって大阪に帰る二人に、全生命を注ぎ込む思いで言った。
「私は、何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ。私が大阪に行った時に、二人そろって、会いにいらっしゃい。何がなんでも、絶対に会いに来るんだよ。いいね」
伸一は、彼らの成長を真剣に祈り念じながら、見送った。
それから、二年ほどしたころ、大阪を訪問していた伸一を訪ねて、二人は関西文化会館に来た。といっても、伸一との約束を聞いていた家族に促されて、やって来たのである。
二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。ロックンローラーのような格好で現れた彼らに、面食らったのは、会館の受付のメンバーであった。
二人が取り次いでもらうには、詳細に、事情を説明しなければならなかった。
伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、何よりも嬉しかった。
「よく来た。本当に、よく来たね!」
文化会館の事務所の前で、懇談が始まった。二人は、今は地元の大阪の高校に通っているという。
伸一は、彼らが、どんな進路を選ぶのかが、気がかりでならなかった。
「大学はどうするの」
「英語が、わからへんから行けませんわ。働きます」
「しかし、大阪弁がそれだけしゃべれるんだから、英語だって、やればできるだろう」
その言葉に、彼らの心も和んだようであった。
「先生。全然、ちゃいますよ」
「そうか」
二人の顔に、屈託のない微笑が浮かんだ。
「まぁ、大学に行くことだけが、人生ではないからな……。
自分の決めた道で勝てばいいんだよ」
そう言うと伸一は、自分の原稿料から、そっと小遣いを渡した。
「君たちに会えて、よかった。また、会おう。必ず会いに来るんだよ。それから、お母さん、お父さんを大切にね」
「はい!」と、笑顔で頷く二人の顔が、伸一には、限りなくかわいらしく感じられた。
52 栄光(52)
中退した二人は、その後も約束を守り、伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。
伸一は、そのつど、温かく彼らを迎えた。
出会いを重ねるにつれて、二人の表情は明るくなり、生き生きとしてくるのが、よくわかった。
高校を卒業した彼らは、やがて、二人とも地下鉄の運転士となる。
そして、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。皆、かわいい、わが子であった。
伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も折に触れて続けられた。
たとえば、下宿生の中心者となった、あの矢吹好成にも、さまざまな機会に、励ましを送り続けていった。
矢吹は、その後、創価学園の諸行事の運営に、自ら積極的に携わるようになり、高校卒業後は、その年(一九七一年)に開学した創価大学の経済学部に進学した。
ここでも、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。そして、彼は、一九七五年(昭和五十年)に創価大学を卒業すると、アメリカのミネソタ州のグスタフ・アドルフ大学に留学した。
渡米してしばらくは、緊張感もあったが、すべてが珍しく、楽しい留学生活であった。
また、日本の友人たちからも、近況を伝える便りがたくさん届いた。
しかし、秋になり、冬が近づくころになると、ほとんど手紙も来なくなった。ミネソタの冬は寒く、真冬には、氷点下二〇度から三〇度にもなる日がある。
英語は、なかなか上達しなかった。授業も難しかった。矢吹は、迫り来る冬に追い詰められるように、焦りに苛まれていった。現地には、相談できる先輩もいなかった。孤独感がつのった。
日本にいる友人たちのなかには、社会で目覚ましい活躍をしている人も少なくなかった。
それを思うと、自分だけが、取り残されたような気がするのである。
53 栄光(53)
寒さは、日ごとに厳しさを増してきた。
矢吹は、いつものように、大学の構内にある自分用のメールボックス(郵便箱)を見た。
日本からの手紙など、途絶えて久しかったが、授業が終わると、条件反射的に、ほのかな期待を込めて、メールボックスをのぞくのである。それは、何もないことを確認し、空しさを噛み締めるための、日課のようでもあった。
だが、その日は、一通の手紙が届いていた。
手に取って、差出人を見た。英文タイプで、シンイチ・ヤマモトと、打たれていた。
″まさか、山本先生から、直接、手紙が来ることはないだろう″
そう思いながらも、高鳴る胸の鼓動を感じながら、急いで封を切った。
便箋に、青いインクで書かれた文字が、目に飛び込んできた。
見覚えのある、山本伸一の字であった。
夢中で、便箋に目を走らせた。
「矢吹君に。
君よ、わが弟子なれば、今日も、三十年先のために、断じて戦い進め。
君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。
君には、多大なる責任と使命があるのだ。その為に犠牲になったとしても、後輩の道だけは、堂々と切り開くことだ。祈る、健康と成長。 伸一」
涙で文字がかすんだ。
矢吹は手紙を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。″ぼくは、遠く離れたアメリカで、ひとり取り残されたように感じていた。だが、それは、自分がそう感じていただけだった。先生は何も変わっていなかった。いつも、ぼくのことを考えてくださっていたんだ″
涙を拭うと、矢吹は、再び手紙を読み返した。
生命に焼き付けるかのように、何度も、何度も、読み返した。
″そうだ。先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ! 負けるものか!″
こう誓った時、彼は、胸に、ふつふつと勇気がたぎり、全身にエネルギーがみなぎってくるのを覚えた。
54 栄光(54)
伸一は、その後も矢吹好成が帰国した時や、自身がアメリカを訪問した折などに、彼と会っては激励した。
「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」
まだ、日本の創価大学自体が、完全に軌道に乗ったとはいえない時期である。アメリカ創価大学の建設など、誰もが、夢のまた夢と考えていたにちがいない。しかし、矢吹は、それを、やがて来る現実であるととらえ、懸命に勉学に励み、九年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。
国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
その精神のもと、一九七一年(昭和四十六年)、東京・八王子市に創価大学が開学したのをはじめ、創価の一貫教育は着々と整えられていった。
七三年(同四十八年)には、大阪の交野市に創価女子中学・高校が開校。七六年(同五十一年)には、北海道の札幌市に札幌創価幼稚園がオープンした。
七八年(同五十三年)には、小平市に東京創価小学校が開校となった。
また、創価中学・高校では、八二年(同五十七年)度から女子生徒を受け入れ、男子校から男女共学に移行している。一方、創価女子中学・高校も、この年、男女共学となり、名称も関西創価中学・高校に変更。大阪の枚方市には、関西創価小学校が開校した。
さらに、一九八五年(昭和六十年)には、創価大学構内に創価女子短期大学が開学したのである。
創価教育は世界にも広がり、幼児教育では、九二年(平成四年)に香港、翌年はシンガポール、九五年(同七年)にはマレーシアに、創価幼稚園がオープン。
そして、二〇〇一年(同十三年)には、ブラジルにも創価幼稚園が開園した。
55 栄光(55)
アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)二月、創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンし、後にアメリカ創価大学に発展。九四年(平成六年)九月から大学院がスタートした。そして、新世紀開幕の二〇〇一年(同十三年)の五月三日には、オレンジ郡キャンパスが開学。「生命ルネサンスの哲学者」「平和連帯の世界市民」「地球文明のパイオニア」の育成をめざして、アメリカ創価大学が本格的に始動したのだ。
この新しい出発に際して、学長に就任したのは創価学園出身の、あの矢吹好成であった。
創価学園生は、第二回栄光祭(一九六九年)で山本伸一が提案した、″二〇〇一年の再会″を目標に、それぞれの使命の道をひた走って来た。
そして、二〇〇一年(平成十三年)九月十六日、創価学園二十一世紀大会が開催され、一、二期生はもとより、十八期生までの代表約三千二百人が、日本全国、さらに世界十六カ国・地域から母校に帰って来たのである。
開校から三十三年余。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
卒業生からは、百四十人の医師が、百十一人の博士が、六十人の弁護士など法曹関係者が、六十人の公認会計士が、四百六十二人の小・中・高の教員が誕生していた。会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。
伸一は、体育館の壇上から、誓いを果たして栄光の大鵬となって集い来った鳳雛たちに、合掌する思いで視線を注いだ。
わが後継の大鵬たちの顔を、心に焼きつけておきたかったのである。
式典には、ロシア連邦・サハ共和国の賓客、また創価教育に共鳴してインドに創立された、彼の名を冠する女子大学の一行など、海外の多くの友も祝福に駆けつけ、まさに世界市民の同窓会となった。
この日、伸一は、創価教育七十五周年――すなわち、一九三〇年(昭和五年)に牧口常三郎と戸田城聖の師弟によって『創価教育学体系』第一巻が発刊されてより、七十五周年にあたる二〇〇五年(平成十七年)の再会を約し合いつつ、万感の思いで詠んだ。
偉大なる
成長歓び
喝采を
我も挙げなむ
君たち勝ちたり