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日蓮大聖人・池田大作
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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)
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この年の五月二十九日の日曜日、男子青年部員一万三百六十余人が、総本山大石寺に結集した。前年の十月、男女青年一万人の総登山が決行されたが、わずか半年余り過ぎた今、今度は男子部だけの総登山であった。
あいにくの雨であった。夜半から降りだした雨が、明け方になって次第に激しさを加えるなかを、青年たちは、全国から集ったのである。早朝七時開会の予定であったが、一時間の延長を通達し、緊急会議が聞かれた。
盛儀の予定地とされていた総本山近くのグラウンドは、雨のなかを実地調査してみると、地面はぬかって使用不可能なことが報告されてきた。急速、会場を三門の広場に変更、八時開始とし、各部隊は、部隊旗のもと、雨のなかに整列した。
山際男子部長のあいさつ、部隊長代表決意のあとで、青年部の室長として山本伸一は、短い言葉で弟子の道の自覚を徹底して説いた。彼のすべての発想の根源を、全男子部員に示したのである。
「私どもは、会長・戸田先生の弟子であります。弟子なれば、弟子としての道があります。弟子なれば、弟子として仕えゆく道があります。弟子なれば、弟子として、大法戦に向かう闘争を展開する、決意に燃えていく覚悟がなければなりません。
今、立正安国の実質段階への第一歩の年に入り、私ども青年部の闘争の前途は厳しく、また洋々たるものがあります」
雨のなか、その声は山内にこだましていた。
「私どもは、戸田先生の弟子として、いかなる戦野にあっても、いかなる時代にあっても、その自覚と誇りとをもって、大法戦に向かい、真の学会青年部員として、永遠の勝利を勝ち取っていこうではないか!」
青年たちは、頬に伝わる滴をぬぐうこともなく、弟子の道を生き抜く誓いを、胸深く吸い込んだ。
来賓の簡単な祝辞が、二、三あってから、戸田は壇上に進んだ。青年幹部の一人が、そっと後ろに回り、番傘を差しかけた。
「雨をついての一万有余の青年が、ここに結集したことは、まことに喜ばしいことであります。なぜげかならば、広宣流布の盤石な基盤を、ここ二十有余年のうちに築かねばならないのであります。これを成し遂げるのは、今、青年たる諸君であり、諸君によって行われるのであり、だから喜ばしいのであります。
願わくは、諸君は、教学に、信心に、自己の鍛錬に、一層、励んでいただきたい。そして、よき広宣流布の闘士として、末代にまで自己の名を残していただきたいのであります」
それから、雨中で各部隊の行進があり、部隊の幹部は、宝蔵前で唱題し、思師・牧口の墓に詣でた。
その後、各宿坊では、青年たちが決意などを語り合い、午前十一時半に下山が開始された。
青年部の大結集は、よく雨にたたられた。一年前の五月九日、男女青年部の代表五千五百人の総登山の折も、篠突く雨であった。
青年たちのなかには、御書に出てくる、「
雨の猛を見て竜の大なる事をしり
……」との一節を思い浮かべる人もいた。そして、前途多難な青年部の宿命と考え、一層の信心を奮い起こそうと話し合うのであった。彼らは、潔くずぶ濡れになったが、一種さわやかな感動が、胸にふつふつとたぎるのを抑えることはできなかった。
草創からの青年幹部は、一九五一年(昭和二十六年)七月十一日の、男子青年部の結成式を思い起こしていた。あの沛然たる豪雨のなかで、西神田の旧本部の狭い二階に百数十人の青年が結集し、初めて四個部隊の編成が発表され、活動の第一歩を踏み出そうとした日である。
今、滝のように流れる雨音を聞きながら、あの時の戸田の意外な発言を、参加した青年たちは、思い出していた。
――このなかから、第三代会長が出現するだろう。その方に、私は敬意を表する。
青年たちは思った。
″百数十人にすぎなかった男子部は、あれから四年たった今、三門の広場に一万有余人の代表を結集するまでに育った。そして、なお雨に打たれている。これは、ただごとではない。これからも難を一身に受けて、広宣流布の大道を進まねばならぬという示唆ではないだろうか。それは、その達成の日まで続くだろう。覚悟と決意を定める日だ!″
心ある青年たちは、口には出さなかったが、帰る道々、バスの中で、一人ひとりが反芻していた。
この夜、十時七分、青年たちの乗った最後の列車が、東京駅に到着した。全くの無事故であった。
6
戸田城聖は、年々歳々、月々日々に、創価学会の活動が熾烈になるにつれて、多忙を極めていたが、どの一つの行事にも手を抜くことをしなかった。彼の頭脳の回転は、目まぐるしく、それらに対応し、激励しつつ、活動の推進に全力をあげた。
しかし、彼の体は一つである。日々、肉体的にもフル回転の活動は、時に深い疲労をもたらした。山本伸一は、戸田の衰弱を目にするにつけ、ひそかに心を痛めたが、戸田の動きに合わせて動く彼自身もまた、連日の微熱に悩まされて、時に死を予感する夜もあった。
戸田もまた、伸一の病弱に、ひそかに心を痛めていたが、広宣流布の前途を思うにつけ、厳しい訓練の手を緩めることはできなかった。二人は、互いに相手の体を心ではいたわり合ったものの、激しい上げ潮の全国的な繁忙は、二人から息つぐ暇も奪っていたのである。戸田は、時に吐き気を催すほどの肉体の疲労に、しばしば襲われ、自宅で、終日、休養をとらなければならぬ日もあった。
戸田の顔を見ない日、伸一は、底知れぬ寂しさを味わい、戸田の自宅を見舞うのだが、会えば二人は、自分の体の不調をすっかり忘れて、先手先手と打たねばならない対外折衝や、組織の布陣などについて、夜遅くまで想を練るのであった。
さまざまな行事が、彼ら二人を、次から次へと追いかけたが、疲労を押しての二人の活動は、創価学会の伸展への布石となっていった。
たとえば、五月二十九日の男子青年部の一万人総登山で雨に打たれた日から、一日おいて五月三十一日には、東京・池袋の豊島公会堂で五月度本部幹部会があり、二日おいて六月三日には、六月度女子部幹部会が渋谷公会堂で開催された。その翌日の六月四日には、月例登山会が始まり、その翌日の六月五日には、足立支部第四回総会が東京・神田駿河台の中央大学講堂で開催された。一日おいて六月七日には、男子部の六月度幹部会が渋谷公会堂であり、翌八日は、学会本部で地区担当員会があるといった具合である。
それぞれの会合に、戸田と伸一は、そろって出席することもあり、さもない場合は、どちらかが出席して、指導する必要があったのである。
これらの会合の合間には、本部には、全国から、さまざまな突発事件を知らせる情報が、連日、もたらされるのである。張りつめた神経を休める間もなく、それらの情報に対して、問髪を容れず、指示を与えなければならなかった。億劫の辛労は、目に見えぬ魔を相手に、連日連夜にわたったといってよかった。
しかし、心待ちする楽しい会合がなかったわけではない。水滸会や華陽会の野外研修は、参加する青年男女にとっても、戸田や伸一にとっても、共に未来を語り合い、浩然の気を養う、楽しい記念すべき集いであった。
7
六月十日、華陽会の八十人は、二台のバスに分乗して、三浦半島を周遊した。鎌倉を通過し、御書に出てくる鶴岡八幡宮や円覚寺、建長寺などの旧跡に、日蓮大聖人の昔を偲んだ。そして、新緑たけなわの油壷や城ケ島を巡った。皆、風光明媚な海岸線に、都会の塵挨にまみれた心を洗われる思いがした。
しかもこ女たちにとっては、すぐ側に戸田城聖がいて、親しく接することのできる一日である。誰もが喜々としていた。
戸田は、莞爾として、一人ひとりに話しかけ、励ましの言葉を贈った。その一言、一言は、彼女たちの生涯を支える指針ともなったのである。まさにこの日は、歓喜のなかの大歓喜の一日であったろう。
引き続いて六月十一日には、水滸会のメンバー八十余人が、河口湖に二台のバスで向かった。一泊二日にわたる野外研修である。前年の一九五四年(昭和二十九年)九月四日、五日にわたる奥多摩の氷川キャンプ場での第一回の野外研修に続いて、第二回のそれであったが、これが戸田城聖との最後の野外研修となった。
宿舎は、河口湖畔のバンガロー風の簡易な旅館であった。戸田は、ここでも野外キャンプを期待していたらしく、宿舎が気に入らなかった。
「水滸会も惰弱になったな!」
戸田の叱声が、まず青年部の首脳に飛んだ。山本伸一は、その叱声を自分一人に受けて、戸田に詫び、喜びにはしゃいでいる青年たちへの余波を、食い止めなければならなかった。
湖畔でドッジボールなどを楽しんだ一同は、やがて広間に会して、戸田を囲みながら楽しい夕食が始まった。食後は、そのまま自然に質問会のようになった。
数人の質問が続いた後、突然、藤川一正が、得意げな顔をして、場違いともいえる質問を口にした。
「先生、故郷に錦を飾れ、とよく言われますが、われわれの立場からは、どうとるべきでしょうか?」
彼は、この四月の選挙で、区議会議員に当選したことから、若くして地域の名士になったことが嬉しくもあり、気負いもあったにちがいない。それが、このような質問になったのであろう。
「人間の生きがいというものは、いろいろあるが、故郷を出て苦労し、立派な人となって、再び故郷の土を踏む。あのハナタレ小僧が、あんなに立派な名士となったかと、故郷の人に思われるようになることは、確かに男子たる者の、本懐の一つにはちがいない。
しかし、何が錦かということが問題です。君たちの人生の根本にかかわる問題だ。何が錦か、誰かわかるか!」
戸田は、真摯な面持ちで、八十余人の青年たちに問いかけた。答えのための挙手はなかった。
しばらく待ったが、みんな息をのんでいる。
戸田は、藤川を見つめて言った。
「藤川が区議会議員になった。両親は、さぞ喜んでいるだろう。故郷の人も、″へえっ″とびっくりしているだろう。
故郷に錦を飾る、と言えないことはないが、君たちの人生にとって、これが錦そのものだ、と思っては困る。
本当の錦は、そんなものではない。藤川の錦は、そんなものではないんだよ。
君たちは、社会的に成功し、名士と言われるようになることが、錦を飾ることだと思ってはいないか。一流企業の社長になるとか、大学教授になるとか、大臣になるとか、一応は、世間においては錦かもしれない。しかし、そんな錦は、いつどうなるものかわからない。
藤川、君は何よりも創価学会の名誉ある幹部じゃないか。これが錦でなくてなんだ!」
それから戸田は、皆に視線を注ぎながら語った。
「戸田の弟子となって、広宣流布に戦っている姿が、最高にして永遠の錦じゃないか! この錦こそ、最高にして不変の錦なんです!」
感動が、青年たちの胸を貫いた。
一座は、しんと静まり返り、心の底で自らの信心を反省せざるを得なかった。
語らいのうちに夜は更け、湖畔は静まり返っていた。すし詰めの部屋であったが、皆、快く眠りについた。
翌十二日の日曜日は晴天で、湖面に富士の秀峰が、くっきりと映っていた。朝食をすますと、一行のバスは山中湖へ向かった。
広い湖畔の砂浜に散った青年たちは、乗馬に興ずる人もあり、ボートに乗って岸から離れる人もいた。しばらくすると、砂浜の一隅に土俵がつくられた。相撲である。取り組みが始まると、喚声があがった。青年たち全員が集まってきた。
戸田は、戦う青年たちを見るのが好きだった。一勝負ごとに、何かと批評の口をはさみながら、時に、手に汗を握る勝負にぶつかると、真剣な面持ちで、わが意を得たように、勝者にも、敗者にも、慈しみの目を向けるのだった。
青年をこよなく愛する戸田は、ふと思いついたように、側にいた伸一にささやいた。
「昼飯は、みんなに洋食をご馳走しよう。ナイフとフォークを使つてな。どこかに適当なところがあるだろう。すぐ用意しなさい」
伸一は、戸田の上機嫌に喜んで席を立つと、一人、街の方に出かけていった。
最後の五人抜きが始まろうとしていた。五人を続けて倒さなければならない。青年たちは、次から次へと飛び出していった。勝負は、なかなかつかない。八十余人の青年は、互いに全力でぶつかりあった。三人、四人と勝ち抜く人はあったが、五人目で倒されてしまい、勝負は繰り返された。
戸田は、さも惜しいように見ていたが、激励して言った。
「腹がすいたのか。よし、今日は賞品を出そう。みんな頑張れよ」
勝負をつけようと頑張った三人が、五人抜きの勝者となった。
すると戸田は、バンドに巻いた金鎖から、金時計を外して一人に与えた。もう一人の青年には、鎖についていた金メダルを、残った金鎖を、最後の一人に与えてしまった。
伸一は、洋食を準備するために、湖畔に点在するホテルや旅館に電話して交渉したが、なにせシーズンオフの六月のことである。おまけに八十余人という人数である。どこも、引き受けるところはなかった。なんとか頼み込んで、洋食らしきものを用意してくれる旅館が、やっと見つかった。
戸田をはじめ、青年たちが、その旅館の広間に座り込んでみると、ナイフとフォークはなく、箸が並んでいた。
「箸か。箸では駄目じゃないか!」
戸田は、並んだ食卓をひと目見るなり、さっと身を翻し、奥の部屋に向かった。取り付く島もない。伸一は、その後を追った。
腹をすかした愛すべき青年たちに、戸田は、ナイフとフォークを操って、正式な洋食の食べ方、テーブルマナーを教えたかったのである。ガサツな当時の青年たちの将来を思う躾であった。青年たちを躾することも、また、彼の楽しみであった。その楽しみは、消えてしまった。
戸田は、伸一に腹を立てたのではない。せっかくの昼食の楽しみ――青年たちが、音をたてて不器用に操るであろう、ナイフとフォーク、それを見て小児に接するように、戸田は、洋食のエチケットを教えたかった。戸田は、その真心を示す機会が奪われたことに、腹が立ったのである。
大部分の青年たちは、この突発事に気づかず、また山本伸一の苦衷も気づかず、突然のご馳走を、さっさと空腹に詰め込んだ。にぎやかな活気に満ちた昼食であった。
山中湖から、またバスで帰路に就いた。戸田は、青年たちの、はつらつとした活力あふれる姿に機嫌を取り戻していた。
彼は、遠く近く取り囲む山々を眺めながら、自分の青年のころを思い出し、楽しそうに話しかけるのであった。
また、水滸会の愛唱歌を歌うように提案したり、彼は上機嫌であった。
8
七月二十七日、本部幹部会が、豊島公会堂で開催された。しかし、この夜の幹部会の場内は、例月の幹部会とは違った空気をはらんでいた。真夏の三三度を超す気温の余熱で、場内は極めて暑かったが、集った人びとの顔は、それ以上の熱気に燃えていた。流れる汗が光り、上げ潮の興奮が渦巻き、人びとの目は、ひときわ輝いていた。
夏の二大行事、総本山での夏季講習会と夏季地方指導が、迫っていたからである。講習会は、七月二十九日から八月二日にかけての五日間、各支部から選抜された、二千人の幹部の養成を目的としていた。夏季地方指導は、本年を最後とするという通達があり、八月十五日から十日間、全国四十五カ所を拠点として、本部から六百三十二人という派遣隊が、大挙、一斉に出動することになった。
派遣隊のなかの三方面の責任者から、それぞれ活気に満ちた決意が語られ、大いなる活躍を期待させた。
戸田は、最後に立って、派遣隊のことに触れて言った。
「地方折伏に、今度、行ってもらう方々には、大変ご苦労と思います。特に、あらためて新しいところへ行く人の苦労は、私も、よく知っています。
三年前、名古屋へ中野の支部長が行きましたが、法華講の信者は誰一人、応援もしない、お寺は知らん顔をしている。名古屋に知人がいると紹介されたところへ行ってみると、いなかったりしたため、最後に仕方なく面識のない家を訪ねて講演会に誘った。それでも、講演会には百人ほど集まった。そこで、『今夜、どこそこで、座談会をやるから来てください』と言ったが、来たのは六、七人であった。
そのなかで信仰すると言ったのが、たった一人で、しかも、これが妙な男で、もう退転してしまっています。
しかし、不思議なものでありまして、三年後の今日、千六百世帯になっています。これも広布のため、大聖人様は、お喜びになっていると思います。
世間の人になんと言われようとも、大聖人様にお褒めいただければ本望と存じます。
また、六百余の人たちを送るため、皆様の真心のご後援をいただき、厚く御礼申し上げます。戸田が御礼申し上げるのではなく、慢ずるに似ているけれど、大聖人様に代わって申し上げます。ともかく、行く人も、残る人も、広宣流布のため、また、わが身のためと思って、折伏を推進してもらいたいものです」
戸田の話は、暑い場内で一陣の薫風のように、異体を同心とする人びとの胸のなかを、さわやかに吹き抜けた。
来るべき八月の行事に身構えた聴衆の熱気は、いやがうえにも暑い公会堂に充満したが、散会して外に出ると、夏の夜風は思いのほか涼しかった。
総本山における、二千人の幹部が集う夏季講習会の五日間に、日帰りの登山者も五千人あったので、総本山は時ならぬ活気を呈した。
七月二十九日朝、東京駅から三本の臨時列車が、二千人を一挙に総本山へと運んだ。戸田城聖は、その日から、客殿に二千人の会員を集め、昼夜にわたって質問会と御書講義を、連日、担当し、短期間の講習に全力を投入した。
一日、二日、三日とたつうち、質問会の質問内容も、高度なものに変わっていった。
「即身成仏」とか、「宿習と罰の関係」とか、「一念三千」といった質問が飛び出すようになってきた。
例月の質問会で出ていた、病気や借金の問題は、まるで卒業してしまったように、信心一筋の求道心にあふれた質問に変わったのである。
「死後の生命が、また縁に触れて生まれて来ると、『折伏教典』にありますが、この縁とは何ですか?」
「さぁ、これは面倒だ」
戸田は、にっこり笑いながら質問者を見た。
「仮に私が死んだとする。しかし、また、この世に生まれて来なければならない。つまり、生まれて来る因を、もともと持っているんです。それで、何かの弾みで生まれて来る。これを縁という。
たとえば、自分の子どもが題目を唱えてくれるので、その縁によって生まれる場合もあるし、また、御本尊様から、あまりに早く還りすぎた、裟婆世界で稼いでこい、と言われて生まれて来る場合もある。このように、さまざまな縁があって、一概には言えません。
ともかく、この世に生きている間は、人を憎まず、真心をもって信心させ、功徳を積むことです。これが最高の因となり、縁となって、また生まれて来るのです。その方がよかろうと私は思うのだが、皆さんはどうですか」
聴衆の瞳という瞳は、戸田に吸い寄せられたように動かなかったが、一問終わるごとに、手は盛んな拍手をしていた。
このような連日の質問会や御書講義、指導会のほかに、男女青年部では、さまざまな行事を寸暇を惜しんで行った。弁論大会では時事問題が論じられ、法論大会では小樽問答にならって、部隊長が他宗の僧侶役になり、それを破折する班長たちをさんざん、てこずらせて、爆笑を誘った。戸田会長を囲む会というのも、男子部、女子部でそれぞれ開催された。男子部では、蓮蔵坊の前で、三カ所に篝火をたき、夏の夜空を明るくして、戸田を迎えた。
地方から参加した青年たちは、初めて戸田に接する人が多く、活発な発言が続いた。それに懇切に答える戸田は、青年たちの未来を思い描きながら、社会建設の使命に生きることを、一人ひとりに強く訴えた。
息詰まるような瞬間があるかと思うと、独特のユーモアが青年たちを温かくつつみ、哄笑が星空に広がる瞬間もあった。彼らにとっては、生涯の忘れ得ぬ一夜であった。
夏季講習会が終わってから、夏季地方指導の始まる八月十五日まで、約二週間の準備期間がおかれていた。今回を最後とする本部の地方派遣であるだけに、万全の準備を要したのである。
八月六日、広島では、第一回原水爆禁止世界大会が開かれていた。言うまでもなく、広島が被爆の惨禍に見舞われてから、満十年の歳月が流れていた。
この間、核の脅威は、ますます深刻なものになりつつあった。被爆患者は、病状悪化の末、次々と死亡していたし、被爆当時、なんの障害も見られなかった子どもなどが、数年の後、ある日、突然、発病して亡くなるなど、痛ましい出来事が相次いで起こった。
そこへ、一九五四年(昭和二十九年)三月のビキニ環礁における第五福竜丸の事件である。
東京都杉並区の一隅から始まった原水爆禁止の署名運動は、急速に全国的な運動となり、全世界へと広がっていった。社会制度を超え、党派を超え、イデオロギーを超えて、人類の自殺ともいえる核戦争の愚行を止めようとする精神は、世界的な共鳴を得た。日本国内の署名は、この時までに三千二百万人を超え、海外の署名数は、実に六億七千万に達していた。
しかし、数年の後、この全人類的な運動も、政治的な党派の利害を事とする圧力により、分裂してしまうのである。
9
戸田城聖は、地方指導に入るのに先立って、八月十一日の朝、暑熱の名古屋に向かい、途中、浜松で下車した。浜松地区総会に出席のためである。
浜松は、若い地区である。会員の信心も若かった。定刻の午後二時半には、浜松の公会堂に、まだ戸田城聖を見たこともない数百人の会員が、求道と好奇の目を壇上に向けて待っていた。
体験談や決意発表や、その他の幹部あいさつの間、戸田は、これらの入会間もない会員に御本尊をいかに信じさせるか、ということを考え続けていた。仏法といえば、釈尊の仏法と思っている人たちである。
釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法との違いを明確にするには、「観心本尊抄」の「
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
」の御文を通して説けばよいわけだが、理解する基礎知識は、彼らにはない。
数々の驚くべき体験談に、彼らは目を見張っているが、それだけが信仰の唯一の支えになっているのでは、あまりにも心もとない。いつか神秘主義的になってしまうだろう。戸田は、なんとしても、大聖人御図顕の御本尊の功力を、この際、仏法哲学のうえから明らかにしなければならぬと思った。
戸田は、壇上から会員をじっと見た時、彼らの表情に、さまざまな不幸の刻印の影が、いかに濃いかを見て取った。彼は慈しみ深く、静かに語りかけた。
「日本の国は、今、非常に貧之な時代です。貧之人の多い時代です。それは誰もが認めるところであろうと思う。しかし、貧之だというけれども、それなら金持ちはいないかというと、たくさんおります。
このなかにだって、財布の中に十円玉一つぐらいしかない人と、千円札を何枚も持っている人といるはずです。それは生存競争ということが、世の常でありますから。
また、病人が多くなったからといって、皆が皆、病人ではない。
そうなれば、誰でも金のある方へ入りたい。病気であったら、病気でない方へ入りたい。それは当たり前です。それができることなら、誰しもそうなりたいが、では、どうしたらいいのか。
――それは、なんでもないことです。日蓮大聖人が顕された御本尊様を信じれば、それですむのです。こう言うと、それでは、あまりにも独断的ではないかと、こう思う人もあろうかと思う。しかし、それは、こうなるのだという当然の理由が、幾つもあるんです」
戸田は、皆の半信半疑の核心を突いておいてから、その「当然の理由」の説明に入った。
「あらゆる点から説明はできるが、ただ一つ簡単に申し上げれば、『観心本尊抄』と申します、日蓮大聖人様が御本尊様のことについて、御約束なされた御書がある。『此の五字』すなわち御本尊様を受持すれば、釈尊の『因果の功徳を譲り与え給う』――こういう御言葉がある。
東洋の哲学、仏教哲学におきましては、われわれの運命というものは、どうしてできたか、その運命というものを、どう打開すべきものかと、考えたのです。
ところで、まず釈尊の仏法におきましては、過去世において善根を積んだ人は、この世で金持ちになる、丈夫になる。それゆえに、この世で善根を積めば、来世は幸福になるというんです。
ですから、今、この世で貧乏しているのは、前の世で泥棒をしたからであり、この世で貧乏することに決まっているんです。そうすると、このなかには、相当、前世の泥棒がいることになる」
どっと笑いが起こった。
「喜んではいけませんよ。泥棒だと言われて喜ぶ人がありますか。
よし、わかったと、それならば、今度は、この世で善根を積んで、来世は金持ちになろう――これは理屈では結構だけれども、私は、いやです。今、私が貧乏しているとする。これから善根を積んで来世で金持ちになる。そんなこと、やっていられませんよ。死んでから先のことではないか。そんなお釈迦さんの言うことなんか、私は、もう用いない」
彼は、ここで、釈尊の仏法の限界を示しておいて、日蓮大聖人の仏法を鮮やかに浮かび上がらせることに移った。
教義上からも、また哲学のうえからも、両者の差異を明らかにすることは、極めて難しい。しかし、彼の思索を経て説明がなされる時、容易に納得できるものとなった。
「しからば、末法の御本仏・日蓮大聖人は、なんとおっしゃっているか。この御本尊を受持すれば、過去において、金持ちになるという原因のなかった人にも、その原因をやると仰せられている。原因をもらった以上、この世で金持ちになるのは、当たり前の話ではないか。過去世において、体が丈夫でない原因をもった人には、今すぐ丈夫になる原因をくれてやる。御本尊を受持するとともに、くれるのです。
これらの原因を頂いたからには、その結果が出てこなければならない。この原因と結果の関係を因果というんです。これが、『此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』というこの約束で、必ず願いが叶わなければならんのです。
ですから、日寛上人の仰せには、『いかなる願いとしても、その願いの叶わぬことはない』とおっしゃっている。これが御本尊様の功力です。法力、仏力です。
これを疑うならば、信心しない方がいい。これを信じるならば、しっかりと、おやりなさい。末法の御本仏が約束しているのに、それを信じない。それで、苦しみ通して死ぬなどというのは、愚の骨頂ですよ。それを、みんなに教えてあげて、そして、自分も幸せになり、人も幸せにするのを広宣流布というんです」
戸田は、この時、数日前の夜、ある大新聞の青年記者が彼を訪ねて来て、当面する生存の脅威について語ったことを思い出した。
「この間も、あるところへ青年がまいりまして、私と一晩話し合った。たまたま私も、そういう時間がありました。アメリカの原子爆弾、ソ連の原子爆弾、それが、どうなるかということを語り合いました。もしも、ソ連とアメリカが戦争を始めてしまえぽ、日本人は、ほとんど全滅しなければなるまいと思う。いろいろと人間の知恵の限りで考えてみても、どうなるものでもない。
この時に、政治をどうするか、外交をどうするかと、そんな小さなことを考えても、とうてい逃れることはできないだろう。
そこで私は結論として、広宣流布する以外にない、仏法の慈悲の大哲学を弘める以外にないと、こう申しました。すなわち、仏の生命たる慈悲の力用によって、人間生命を奪い、破壊する生命の魔の跳梁を、封じていかなければならんのです。それによって、人類の宿命を転換する以外にありません。
今、一国の破滅、人類の滅亡という大危機を目の前にして、安閑としているわけにはいきません。よって、ことに大仏法を広宣流布して、一国の大難を防ぎ、人類の平和を実現しようというのが、創価学会の広宣流布の一つの目的でもあります」
この時、彼は、広宣流布の意義を簡潔に語ったが、自分の幸せを願って入会した、まだ信心の日も浅い多くの会員たちは、その信仰実践が、同時に、社会の幸せ、人類の平和のための実践でもあったことを、悟り始めた。そして、広宣流布への大いなる使命を、心につかんだのであった。
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戸田は、この夏、八月二十五日まで、全国にわたって、各所で初信者を前に、数多くの講演を繰り返し行い、「大聖人御図顕の御本尊は、いかなる御本尊か」「広宣流布とは何か」を、かみ砕いて回るのだった。
八月十二日の名古屋地区第二回総会でも、結集した千四百余人の地区員に向かって、戸田は、同じ趣旨の話をしてから、こう結論した。
「これを理屈でわかるために、学会では教学を教えているから、三年ぐらいみっちりやれば、絶対だとわかるようになっています。しかし、三年やって理屈でわかるよりも、今、私の言うことを、『ああ、そうか』と信じた方が早いだろうと思います。
三年目に、『ああ、そうか』とわかるのも、今、『そうか』とわかるのも、同じことではないですか。
だから、今、『そうか』と思ってやりなさい。来年、来るか来ないか知らんけれども、それまでに、私の言った通り、御本尊様を信じて功徳がなかったら、いくら私を殴っても、何をしてもかまわない。
東京へ談判に来てもよろしい。それを信じもしないで、折伏もしないで、文句を言っても、それは駄目です。やってごらんなさい。それだけを教えに来たんだからね。普段、聞いてはいるだろうけれど、念には念を入れて申し上げる。やってごらんなさい、と。これで、私の話は終わります」
名古屋地区は、この年、年間折伏目標三千世帯を立て、既に、この時までに二千世帯を突破していた。名古屋は、日本の六大都市のなかで、いちばん遅れて創価学会の根が下ろされた都市であった。中部の広大な山野をかかえたこの地方にも、広宣流布の大波は、今、ひたひたと岸辺を洗い始めたのである。
そして、地区員一同の念願は、一日も早い支部結成への熱望となっていった。
十二日、戸田は、帰京すると、翌十三日には新潟市に向かった。この新潟地区は、一九五三年(昭和二十八年)に、やっと一世帯が入会したのであったが、一年後には七百六十世帯を数え、二年後の、このころには、千百八世帯と急激に発展し、新潟市を中心として、周辺の市町村でも、活発な活動が展開されつつあった。地区の数人の幹部を除いては、すべての会員は、戸田の顔を見たこともなかった。
新潟地区総会は、夜の七時から新潟市公会堂で開かれた。定刻には、千五百人余の地区員が、初めて見る戸田城聖を、純朴な目で迎えた。布石の遅れていた日本海側一帯の、最初の総会である。好奇心と真剣さとが相半ばする会員の姿勢には、初信のみずみずしさがあふれ、おのずから求道の熱意が漂っていた。
清原かつ指導部長から、勤行と折伏についての指導があったあと、戸田は、ここでも浜松や名古屋における講演と同じことを語り、宿命打開の確実な方法としての日蓮大聖人の仏法を、懇切に説いた。
ただ、本論に先立って、この世の不公平と不合理の、著しい一面を冷静に語って、彼らの人生についての思索を促すところから始めた。
「世の中の状態を見ますのに、金持ちがいるかと思うと貧之人がいる。夫婦仲よく暮らしている家があるかと思うと、喧嘩ばかりしている家がある。そろって丈夫で楽しく暮らしている家があるかと思うと、病人だらけの家もある。丈夫な人がいるかと思うと、体の弱い人がいる。これは、どういうわけであろう。
いまだ西洋哲学に、おいては、これは結論づけられてはおりません。東洋の仏教哲学においてのみ、この結論はつけられているんです。それは、われわれの生命は永遠であるということです。
われわれは、この世で死んでも、また、この次に、この裟婆世界に生まれて来なければならん。生まれ変わるのではありませんよ。昨日、生きていた人が、今日も生きているように、今世で生きている人は、また来世で生きていかなければならん。来世を認めると同様に、過去をわれわれは認めざるを得ない。
これが、東洋の仏教哲学の根底をなすものであり、知る知らぬにかかわらず、生命の実相であります」
新潟の会員たちは、戸田の話を聞き、今、巡り合うことのできた日蓮大聖人の仏法によって、ともかくも、わが身の宿命を打開し、身をもって仏法の法理を証明してみようと思った。
戸田は、宿命を打開できず、この次、新潟に来るまでに思う通りになっていなかったら、自分を壇上でいくら殴ってもよいとまで約束している。戸田の、御本尊に対する確信は、そのまま新潟の会員の心に、ある決意を植えた。
11
満を持して待機した八月十五日が来た。夏季地方指導の派遣隊六百三十二人は、一斉に全国四十五カ所の拠点をめざした。十四日の夜半から十五日の朝にかけて、各方面への派遣隊は、東京駅から、あるいは上野駅から陸続と出発した。
総指揮の九人の最高責住幹部以下、支部・地区幹部から組長までの壮年・婦人をはじめ、男女青年部員二百六十三人、このほかに拠点に縁故者をもつ個人的な参加者など、総計六百三十二人の大量派遣である。
これまで、毎年、夏ごとに拠点となった地方の受け入れ態勢も、精力的な準備活動をもって、これに応えていた。しかし、四十五カ所に及ぶ派遣先のなかには、九州方面の十都市のように、世帯数の極めて少ないところもあった。
たとえば、若松が二十四世帯、小倉が二十五世帯、田川が六世帯、門司が十三世帯、隣接する山口県・下関にいたっては、わずか三世帯にすぎなかった。それゆえにこそ、夏季地方指導が必要であったわけだが、これらの拠点の担当幹部は、並々ならぬ苦闘を覚悟しなければならなかった。
ともかく、この夏で、全国的な布石を、ひとまず完了しなければならない方針である。日本列島は、北から南まで、弘教の波が、あちこちに広がったのである。
地方によっては、創価学会の、この勢いに驚き慌てたところもあった。北陸地方のある地域では、「創価学会来る」と警戒放送し、また、大阪の新聞などは、十四日の夕刊で早くも、「各宗教団体に法論を申込み信者増加」などと書き立てた。
九州の東部沿岸地方では、この夏の学会の折伏活動を察知した身延系日蓮宗が、各県の代表を大分市に集めて対策を協議したりした。そして、十六日付の新聞九州版には、創価学会に対する身延系寺院の慌て方と、例のごとき学会誹謗の記事が大きく掲載された。
また、警察も動いた形跡があった。九州・延岡では、刑事らしき者が座談会場に現れ、「パチンコ狂いで困っているが、治るか」などと、質問をして帰っていったこともあった。
ともかく、六百余人の派遣隊の活躍は、酷暑のさなかにあって、折伏の汗を思う存分、流したのである。
最も目覚ましい活動成果をあげたのは、北海道の札幌であった。山本室長を主将とする派遣隊が到着した十六日の晩に、たちまち五十世帯の入会決定をみたのである。翌十七日には六十世帯、十八日にも六十世帯、十九日七十世帯、二十日六十世帯というように、着々と入会決定は積み重ねられ、二十日には、目標の三百世帯を優に超えてしまった。そして、さらに飛躍をめざしたのである。
地元の態勢といえば、札幌班は五百世帯の現有勢力であったが、これを五区に分け、一区ごとに二人の派遣員が担当したにすぎなかった。
旅館の壁には、五区の成果を示すグラフが掲げられていた。各区ごとの成果が、毎夜、記入され、五本の棒が、抜きつ抜かれつ競い合った。派遣員と地元の会員との、各区ごとの責任感による団結が、水も漏らさぬ闘争となって、日ごとに着実な成果を示した。
二十一日早朝、山本伸一は、旅館で緊急幹部会を開き、勤行をし、御書の講義をしてから、疲労の見え始めた一同をねぎらいながら言った。
「連日、ご苦労様です。体の調子の悪い人はいませんか。遠慮なく言ってください」
早朝の札幌は涼しかった。五日間で目標を達成した人びとの顔は、日に焼けていたが、達成の喜びに微笑んで、体の不調を訴える人はなかった。
「今日から後半戦に入ります。これからが肝心で、気を緩めることなく、全力を尽くして悔いのない闘争を展開し、有終の美を飾りたいものです。
すべては、御本尊様がご存じです。皆さんが大功徳を受けることは間違いない。私は、それを祈っています。二十四日には、戸田先生を、お迎えして、札幌班大会を開催します。われわれは、戦い切って、勇んで先生にお目にかかろうではありませんか!」
この朝の伸一の指導に、札幌班のエネルギーは持続した。そして、この夏、札幌は三百八十八世帯の本尊流布の成果によって、岡山の三百八十五世帯、大牟田の三百十八世帯を超え、四十五カ所のなかで第一位の栄誉に輝いた。
全拠点とも、学会員の意気は盛んであったものの、苦闘を余儀なくされた地方も多かった。
日本海に面する北陸一帯は、数百年にわたって念仏の盛んな地域であり、信心の話というので、じっと気長に聞く姿勢はあったが、いつまで話しても決断がつかない。
「妙法もいいですちゃ、しかし、念仏もやめられんちゃ」という結論である。それでも、派遣員は、くじけることなく、果敢に仏法対話を推進していった。そして、富山、高岡、福井、金沢の四拠点で、三百三十一世帯の弘教を実らせたのである。
最も苦戦を余儀なくされたのは、北海道・旭川に向かった八人の派遣員と、地元三百世帯の会員である。到着第一日に、激しい雷雨に続いて豪雨に見舞われた。北海道では、かつてない雷雨で、停電の夜が二日もあり、ロウソクをともしての座談会をしなければならなかった。市内の出水は、時に膝を没し、鉄道の線路に土砂が崩れ落ちて、汽車は不通となり、出足をいたく、くじかれた。
そこへもってきて、ある地方新聞に、全段を費やして、創価学会への誹謗記事が掲載された。
旭川の学会員は、多くの友人や訪問先をもって待機していたのだが、座談会出席の確約は、ほとんど崩れ去ってしまった。また、この十日の間に、三百世帯のなかで二軒の葬儀があって、会員の足を鈍らせた。さらに、一行が泊まった旅館に盗難が発生するなど、不慮の事態が連続した。
それによって、旭川市内での活動が阻まれたので、予定を変更し、派遣員の半数は、連日、周辺町村に向かい、やっと活発な活動を展開することができた。そして、最終日までに、百八十八世帯の本尊流布を敢行したのである。
このような、全国四十五カ所にわたる、六百余人の活動の渦のなかに、戸田城聖は、自ら飛び込んで指揮と激励を続けた。
八月十五日の早朝七時四十分、戸田の一行は、羽田から、空路、日航機「白馬」で飛び立ち、福岡の板付飛行場に到着、直ちに八女市に向かった。牧口会長時代からの拠点である八女では、八女支部第三回総会が、午後二時から開催された。戸田は、この古い拠点にも、新しい人材の城が、どうやら築かれ始めたことを察知して、集まった人びとを激励し、一泊した。
翌十六日には、本部直属の班のある福岡に向かった。班といっても、既に千世帯を超えていた。二年前、一九五三年(昭和二十八年)の夏季指導で、福岡の会員は四十七世帯になったが、それが、ここ二年間にして二十倍を超える世帯になり、組織の確立が急務となっていた。戸田は、一挙に三地区の結成を行った。福岡、大名、博多の三地区の誕生である。
班大会は、地区結成大会に変わった。小岩支部所属となった三人の新任の地区部長と三人の地区担当員は、歓喜のために、一瞬、呆然となった。そして、それぞれの決意の発表は意気天を衝き、九州広布に燃え立った。
この夏、福岡を中心とする九州北部――門司、若松、小倉、八幡、田川、それに山口県・下関の各都市の本尊流布を合計すると、六百二十八世帯という数字になった。
戸田城聖は、十六日夜、羽田に舞い戻り、一日おいて十八日の午後には、また羽田を飛び立って北海道に向かった。札幌を起点として、汽車をもっぱら利用し、二十日旭川、二十一日夕張、二十二日小樽、二十三日函館、二十四日札幌帰着というように、道内を拠点を、息つぐ暇もなく一巡した。上げ潮に乗った彼の闘争が、ここにあった。
12
北海道は、戸田にとって、思い出多いふるさとである。十代の後半を送った札幌や夕張は、彼の人生の来し方を、いやでも思い起こさせた。箱車を引く店員生活のなかで、向学の志に燃え、教員免許を獲得した札幌の街、夕張の真谷地で送った教員生活、希望と失意の織り成した青春の思い出が、噴きこぼれるようにあふれた。
今、この地に、彼は、妙法流布の大使命を担って、その全国的な総帥として帰ってきた。予想もしなかったことだが、まことに人生の不可思議さに、今さらのように感に堪えなかった。
彼の思いは、過去から現在へ、また、現在から過去へと揺れた。
厚田の漁村に一庶民の子として育ち、やがて札幌に出て、庶民の生活の苦汁を、身をもってつぶさに嘗め、処世における学問の効用を痛感すると、独学の道を選んだ。
彼の苦闘は、この時から始まった。独学の学問は、彼に小学校教員の地位を与えた。夕張の山間の憂鬱と苦悶は、青雲の志となって東京の地を踏ませたのである。
苦闘は、さらに重なっていったが、彼は、牧口常三郎という終生の師に巡り合うことができた。妻子を失う不幸に耐え、師の全人格から得た価値論と信仰は、彼の人生を思うままに羽ばたかせた。
戸田は、独創的な教育者として、また、事業家としての手腕を存分に発揮したが、時代は戦争へと突き進んでいった。師の不屈の信仰は、軍部政府の弾圧を呼び起こし、師は、彼を牢獄にまで連れていった。
そして、師の牧口は、獄中で殉教の生涯を閉じた。戸田は、師の獄死に対する憤激の痛苦に沈んだ。しかし、師が、その生涯を終えようとしていた、まさに、そのころ、彼は、唱題に次ぐ唱題を重ね、法華経の真意に迫ろうとしていた。そして、何ゆえに、この世に生まれて来たかの本事を、悟るにいたったのである。
生きてあることの歓喜と、果たすべき使命の重大な自覚は、彼を敗戦後の焼け野原に、一人、立たせた。
彼は、直ちに、苦悩に沈む当時の民衆の蘇生に、残りの生涯のすべてをかけた。億劫の辛労は、日に、月に、実を結び始め、十年後の今日に至ったのである――。
戸田は、北海道の汽車の窓から、遠い原野を眺めながら、異常なまでに寡黙になることがあった。来し方のすべての意義が、彼は、今、わかったのである。
″あのことも、このことも、一つとして無駄なことではなかった。過去の種々は、すべて見事に蘇生しているではないか!″
庶民として苦渋を味わい続けてきた彼にとって、民衆の心情は、ことごとく彼自身の心情となっていた。もしも、過去のある境遇や事件が一つでも欠けていたとしたら、今日の彼という存在はなかったであろうことを、戸田は、心に反芻しながら、じっと寡黙になっていたのである。
汽車は、二十日、彼を旭川に運んだ。彼は、懐かしい北海道訛の会話で、旭川の初信者たちを身内のように激励した。さらに思い出多い夕張、小樽、函館と、戸田は歴訪の旅を続けた。
13
彼の励ましは、疲れた派遣員や地元学会員に、尽きぬ活力を与えた。
二十四日、札幌に舞い戻ると、市の商工会議所で開催された講演会で、彼は、約二十分間にわたる講演を行った。この時も、「観心本尊抄」の「
此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
」を基本テーマとして、御本尊がいかなるものかを徹底して説いた。
この夏、北海道の八拠点の法戦は、十日間で合計千三百九十四世帯という本尊流布の成果を得たのである。
八月三十日夜、八月度本部幹部会が豊島公会堂で開かれた。会員は場外にもあふれた。夜とはいえ、残暑の余熱に、場内は蒸すように暑かった。集った人びとは、流れる汗をぬぐいながら、この夏の意気揚々たる活動報告に耳をそばだてていた。言い知れぬ上げ潮の歓喜が場内に渦巻いていた。
まず、折伏成果の発表である。蒲田、大阪の両支部が、それぞれ四千世帯を超えていた。十六支部の合計が、二万二千八百九十二世帯と発表されると、聴衆のなかに、「おぉーっ」という驚きの声が漏れた。
さらに、地方派遣員の四十五カ所の成果が読み上げられ、合計五千五百五十八世帯と聞くと、人びとは拍手のなかに歓声をあげた。そして、最後に、八月度の成果総数二万八千四百五十という発表を聞いた時、皆、わが耳を疑った。そして、左右の同志を顧みて、″やった!″という誇りに輝きながら、団結の歓喜に酔ったように、はつらつたる笑顔が、会場いっぱいに花咲いたのである。
数カ月前、せいぜい一万世帯そこそこで低迷していたのが月々の成果であった。五月三日の総会の折、月々一万五千世帯の成果を続行しなければ、一九五五年(昭和三十年)度の三十万世帯の目標達成は不可能と発表され、容易ならぬことと決意した一同の胸中の蕾は、三カ月にして、早くも大きく開いたのである。
一万五千どころではない。二万を超えた。いや、それをはるかに超えているではないか。あと四カ月、これで本年度の目標達成は、確実となった。集まった数千の会員の拍手の嵐は、咲き誇った数千の笑顔の花々を輝かせた。
この夜また、男子青年部の組織の改革が発表された。上げ潮の波頭の最先端にいた男子部は、部員の急激な増加に備えて、組織の新たなる整備に着手した。これまで十六の部隊の組織は、部隊長―班長―分隊長という三段階の編成であったものを、部隊長―隊長―班長―分隊長と変革したのである。
当時の各部隊の人員は、平均千人から千五百人の部員を数えるまでに拡大してきたのだったが、なかには四千人に近い部隊もあった。秩序ある団結の前進というものが、将来、いつまで続くかという心配もあった。指導と、団結と、実践力との円滑な連動が要求されてきたのである。
新組織は、これに対応するものであり、同時に、これまでの部隊ごとの幹部室を解消して、新たに各部隊に企画部門を設置した。あわせて庶務と教学に主任制を設け、それぞれの責任分野を明確にし、今後の限りなき発展に、早くも備えたのである。
小西理事長のあいさつのあと、戸田城聖の指導となった。堂内を揺るがす拍手のなかで、戸田の姿に、みずみずしい光彩が、一瞬、走ったように思われた。その姿そのままが上げ潮の光であった。
「このたびの夏季指導によって、五千五百余世帯の不幸な人びとを救えたのは、皆さんの厚い好意によるものです。必ずしも、現地で活動に励んだ人たちの努力ばかりではありません。皆さん方の資金の応援があったからこそ、できたのであります。このことを厚く感謝いたします」
戸田は、成果の数字よりも、救われた不幸な五千五百余世帯の人びとの身の上を思って喜んだ。派遣員や地元の活動メンバーの労苦に謝するよりも、その活動を十分に可能にした応援者たちに感謝したのである。
「五千有余世帯の人は、少ないようだが非常に大きい。そこで、他宗は大変に慌てだした。例をあげると、学会をまねて″折伏″を始めた教団があった。辻説法を始めた教団もある。また、ある地域では、『創価学会が来たから、皆、戸を閉めて裏から逃げてしまえ』と防御戦術をやったそうだ。さらに面白いのは、日蓮系のある宗派では、『創価学会問答十二か条早わかり』という問答集を出した。読んでみみると、実に滑稽で、教学があるのかないのか、思わず噴き出してしまった」
ここで、笑いをこらえていた聴衆は、どっと爆笑した。
「こんなことが書いてある。――この宗派では、『黒仏』といって大聖人の像を墨で黒く塗っている。『観心本尊抄』に『
無始の古仏なり
』とあるのを勘違いして、大聖人様は古仏だから黒いはずだと言うんです。なんたる滑稽な早わかりでしよう。
彼らは、どうしたらよいか四苦八苦している。しかし、彼らがなんのかんのと理屈をつけても、御本尊の法力の点では、絶対に勝てません。これだけは、はっきり言っておく。
たとえ、いかに信心が浅くとも、どんな悩みも、最後に引き受けてくれるのは、御本尊様です。世界唯一の法力のこもった本尊を、私たちは受持しているんです。皆さんは、心から安心して、今後の信心をしっかりやっていってください」
一九五五年(昭和三十年)八月の、目覚ましい全国的な活動は、社会に大きな宗教改革のうねりを起こしていった。そして、この時に始まった上げ潮は、戸田がこの世を去るまで続き、このあと、二年数カ月で七十五万世帯達成の高潮をみるのである。
その契機が、この夏の八月の戦いであった。
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