Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 英知を磨き正義に生きる  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

前後
5  三〇分ほどで答えを書き終えたので、教室の外に出て夜空の星を眺めていたら、監督の先生が私を呼び、「どこの中学から編入してきたのか」と尋ねました。
 私は、動揺しました。正直に答えると、資格もないのに編入したことを咎められ、夢だった学校生活も、わずか一日で終わってしまうのではないかと心配したのです。
 しかし、それは杞憂に終わりました。
 先生は、それまで、どんなに優秀な生徒でも八〇点ぐらいしか取れなかったのに、中学に通わず独学で学んできた私が満点をとったことに、かなり驚いて声をかけたというのです。
 池田 創価学会の牧口初代会長も、少年時代、給仕をしていました。生まれ故郷の新潟を離れて単身、北海道に渡り、小樽の警察署で給仕として働きながら、夜間の学校に通っていたのです。
 お茶くみや雑用の仕事、書類の整理に掃除と、息つく暇もない毎日の中で、牧口会長は忙しさに負けず、時間をつくっては本を読み、勉強を続けました。
 あまりの勤勉ぶりに、周囲から「勉強給仕」と呼ばれていたというエピソードが残っています。
  そうでしたか。牧口会長にとって、その呼び名は何よりの誉れだったでしょうね。
 私も、検察庁での給仕の仕事は決して楽ではありませんでしたが、何より好きな勉強ができる喜びのほうが勝っていました。
 しかし、そんな生活を続けることは、韓国動乱(朝鮮戦争)の勃発でかなわなくなりました。戦火を逃れて、半島からの避難民が済州島に押し寄せてきたため、その対応や警備のために、連日、職員たちといっしょに宿直をしなければならなくなったのです。学校で勉強する時間も満足にとれませんでした。
 以来、私は夕食の時間になると、食事もとらずに、こっそりと職場を抜け出し、学校の授業に少しだけ顔を出しては、駆け足で職場に戻るのが日課になりました。
 じっくり勉強できるのは、皆が寝静まった夜中だけです。宿直室で、他の職員が目を覚まさぬように、ろうそくの灯りを、すり切れた毛布で囲んで勉強したものでした。
6  「公」の仕事をする人間の責務
  そんな日々が半年続いたあと、私は、ついに給仕の仕事を辞めることにしました。
 池田 思う存分、勉強ができる環境を求めてのことでしょうか。
  もちろん、それも大きな理由でしたが、直接の動機は別のところにありました。
 私がそばで働いていた、次長検事のことが信頼できなくなったからです。
 それまで私は、仕事熱心で厳正な彼のもとで働くことを、誇りとしていました。
 軍隊の将校が執務室に来て、拳銃を突き出し、事件の捜査について脅した時も、ひるまなかった人でした。
 「天が崩れても正義は行なわれるのに、私を撃つことで、君の思うとおりになるとでも思っているのか。撃つなら撃ってみろ」と一喝していました。
 そんな彼の気迫に押され、将校が黙ったまま帰っていく姿を見ながら、何という立派な方だろうと、尊敬していたのです
 それが、ある事件がきっかけで、彼に対する思いは失望へと変わりました。
 みぞれまじりの雪が降る、寒い冬の午後でした。次長検事は、避難してきた彼の家族の家を確保するため、私と護衛官を伴って、「四・三事件」で警察官だった夫を亡くした夫人の家に向かいました。
 奥さんと三人の子どもは、有無を言わさず、外に連れ出され、家財道具もすべて雪が降る庭に無造作に放り出されました。
 池田 それは、ひどい。
  ええ。寒空のもと、奥さんや子どもは泣き続けていました。私も、あまりにかわいそうで、涙があふれで前が見えないほどでした。
 その時、私は考えたのです。
 「公」である仕事の面で厳正であることはよい。しかし、自分や家族という「私」のために、こんな無情な仕打ちを他人に被らせてよいはずがない。
 雪が深くなる夜になったら、この家族は、どこでどう過ごせばよいのか。
 個別具体的な人間性や人情というものを無視した「公」というものに、どれだけの意味があるのかーーと。
 その晩は、勉強する気さえ起こらず、まったく眠れませんでした。
 それで翌日、辞表を出したのです。
 池田 自分の気持ちに正直であることは、青少年時代には欠かせないことだと思います。
 私の師である戸田先生(創価学会第二代会長)も、「個人を無視した社会の幸福はありえない」(『戸田城聖全集』3)と述べ、大義を唱えながら民衆を犠牲にして恥じない傲慢な人びとを、決して許しませんでした。戦前、牧口会長とともに、軍国主義ファシズムと真っ向から戦ったのも、そうした信念の当然の帰結だったのです。
 趙博士が指摘されたように、個別具体的な人間性、そして現実の一人の人間の苦しみを無視して、社会の正義など成り立つはずはありません。
 戸田先生は、民衆のために働くべき「公」の仕事に携わる人々、とくに政治家に対しては厳しかった。
 「政治も、経済も、文化も、すべて人間が幸福になるための営みである。とくに、政治は、民衆の一人ひとりの日常生活に、直接、響いてくるものであるがゆえに、政治家たるものは、よく大局観に立ち、私利私欲や、部分的な利益に迷わず、目先の利益に惑わされてはならないはずである」(同全集1)
 今も、忘れられない言葉です。
7  父の死を乗り越え、ソウル大学へ
  戸田会長の言葉、私も共感します。
 あの雪の日の出来事は、私にとって、人間の生き方というものを見つめる上で、大きな経験となりました。
 仕事を辞めた私は、夜間から昼間の中学に移ることにしました。それからは勉強に専念する日々を送っていたのですが、ある晩、読んでいる本の上に、突然、病気で苦しむ父の姿が浮かんできました。
 心配になった私は、居ても立ってもいられなくなって、翌日、徒歩で八時間かけて実家に戻りました。そうしたら、やはり虫の知らせだったのでしょうか、前日の晩に父が亡くなったことを知らされたのです。
 わが家には、棺を買うお金の余裕がなく、心苦しい葬式でした。しかし、私は泣きませんでした。ただ亡き父に誓うだけっでした。
 池田 若き日に、お父様を亡くされたことは、あまりにもつらい経験だったと思います。
 しかし、趙 博士は、お父様との誓いのままに、学者として大成なされ、韓国有数の教育者として活躍を続けておられる。
 亡きお父様も、さぞや喜ばれているのではないでしょうか。
  温かなお言葉に感謝します。でも、まだまだ私は、父との誓いを果たすまでには至っていないと、自分では思っています。
 父の葬式の後、しばらくして中学の卒業式を迎えた時も、目標だった優等賞を得ることができず、悔しい思いをしたものでした。
 このまま負けてはいられないと思った私は、高校の入学試験では必ず結果を出してみせようと決意し、試験までの一カ月間、必死に勉強しました。その結果、首席の成績で入学を勝ち取ることができたのです。ただ奨学制度もなかったので、学費を払い続けられる見通しはなく、不安をかかえたままの高校生活の出発となりました。
 私も懸命に働きましたが、それでも学業を続けられなくなりそうになった時には、母が実家を手放し、学費を捻出してくれたこともありました。
 母は、自分が借家住まいになってまで私を支えてくれたのです。
 池田 立派なお母様ですね。
 自分を犠牲にしてでも、子どもの未来のために尽くすーー思っていても、なかなかできることではありません。
  ええ、母には深く感謝しています。
 私も胸が痛みましたが、その大切なお金も、動乱下の激しいインフレのため、しばらくして底をついてしまいました。
 進退窮まった私は、担任の先生に頼み込み、夜間高校の給仕として働くようになりました。それから、夏には職員室の椅子の上で眠り、冬には宿直室で眠り、ひもじい思いに耐えながら勉強に取り組み、何とか卒業にこぎつけることができたのです。
 いよいよ大学受験となったのですが、生活費のために一日中働かなければならず、試験勉強はまったくできませんでした。
 韓国屈指の名門・ソウル大学の門を叩いたものの、満足な準備ができないまま臨んだ試験に合格するはずもありませんでした。
 夜行列車に乗り、帰途についた私は、窓ガラスから夜空に輝く星を眺めながら、「名将は後退する時を見てこそ分かる」とのマッカーサー将軍の言葉を思い起こし、必ず次回は合格すると心に深く期したものです。以来、中学校の臨時教員として働きながら、受験勉強に取り組みました。
 仕事を終えて夕方に仮眠をとり、起きたあとで朝まで徹夜で勉強する生活を続けた結果、一年後、念願の合格を勝ち取ることができました。再挑戦の末の合格だったので、喜びもひとしおでした。
8  青春時代の苦闘こそ人生の財産
 池田 逆境に屈することなく、前へ前へと進む青春は偉大です。
 私もこれまで多くの識者の方々と対話を重ねてきましたが、一流と呼ばれる人々は皆、少なからず若き日に苦闘を重ねておられます。
 人間、苦労なくして、本物の力も、本物の人格も鍛え上げられるものではありません。
 今の若い世代は、さまざまな面で恵まれている半面、そうした鍛えの機会が失われている半面、そうした鍛えの機会が失われていることは、とても残念な気がします。
 私の青春も苦闘の連続でした。なかでも、師である戸田先生の事業が苦境に陥った時が、一番苦しい時でした。
 寒い冬を迎えるというのに、コートを買うお金さえなく、ワイシャツ一枚で晩秋を過さなければならないほどでした。
 しかし私にとって、苦しい時に師とともに戦えること自体が何よりの幸せだったのです。
 戸田先生から、創価大学を設立する構想を聞いたのも、そんな苦境の最中にあった一九五〇年十一月のことでした。
 先生は、牧口初代会長が生前温めていた構想を話しながら、「大作、創価大学をつくうろうな。私の健在のうちにできればいいが、だめかもしれない。その時は大作、頼むよ。世界第一の大学にしようではないか」と、私に後事を託したのです。
  初めてうかがうお話です。創価大学の淵源に、そうした崇高な師弟の誓いがあったことに、感動を覚えます。
 池田会長のおっしゃるように、苦労は人間を大きくしてくれる財産です。また、苦労をともに味わう中で、絆も深まるものだと思います。
 私も大学入学前、中学校の臨時教員をしていた時代に、忘れられない一人の生徒と出会いました。
 彼の名は李明賢イミョンヒョンといい、家族ともども動乱の戦火を逃れて疎開してきたのですが、彼が、中学に入った頃、家族はソウルに帰ることになり、彼だけが一人残されてしまったのです。
 私は、自分の境遇にも似た彼のことを不思に感じて、一年間ほど寝食をともにしてあげたことがありました。
 彼は後に、ソウル大学で教授をしながら、韓国の教育改革に携わるなど、目覚ましい活躍をするようになりました。
 その彼が、私が済州大学の総長に就任した時(九七年九月)、新任の教育部長官(日本でいう文部大臣)として祝福に駆けつけてくれたのです。
 大学の総長の就任式に、教育部長官が直々に出席し、祝辞を述べるというのは、きわめて異例なことで、新聞でもその模様が詳しく報道されたほどでした。
 池田 趙博士の人徳の深さを物語るお話だと思います。李長官は、それだけ趙博士のことを、恩師として慕っておられたのですね。
 韓国では「師弟」を重んじる伝統が歴史的にあると思いますが、この師弟こそ最も尊く、美しい人間の絆ではないでしょうか。
 人生の最大の幸福は、こうした師弟の道を生き抜く中にあると思います。
 私という人間の九八パーセントは、師である戸田先生から学び、薫陶を受ける中で鍛え上げられたものです。どれだけ感謝してもしきれるものではありません。
 今年(二〇〇一年)で、戸田先生が創価学会の第二代会長に就任して五十周年の佳節を迎えましたが、戸田先生が私に託された具体的な構想は、創価大学の創立をはじめ、すべて実現することができました。
 私にとって、これ以上の誉れも、喜びもありません。

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