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日蓮大聖人・池田大作

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第五回本部幹部会、「聖教新聞」創刊五十… 創立百周年の五月三日へ出発!

2001.4.25 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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5  「平等大慧」が、仏法の世界である。全員が会長であり、全員がブロック長、プロック担当員。全員が広布の闘士――これが創価学会である。
 草創のころ、学会には「部隊長」「隊長」といった役職があった。「軍隊のようだ。軍国主義的だ」と非難された。軍国主義と戦われた戸田先生が、あえてつけた役職名であった。先生は言われた。「内容は、軍隊じゃない。平和が目的だ」と。
 私も先生に、「キリスト教でも、はっきり『救世軍』と名乗って、人類のために社会活動をしております」と申し上げた。
 学会歌を「軍歌のようだ」と言う人もいた。それに対し、学会をよく知る海外の識者が言った。
 「音楽隊が学会歌を演奏するのを何度も聴いたが、じつにすばらしい。人類救済の情熱、人間革命の喜びがある。ベートーヴェンのような、偉大な魂の音楽ですね」と。
6  大きな心で、ただ真実を語れ
 洋服も、いつも同じだと、あきられる。
 幹部の話も、口を開けば「異体同心」――それだけでは、心に入らない場合がある。
 ここで、アメリカの思想家、ソローの言葉にふれたい。ソローは、マハトマ・ガンジーや、キング博士の「非暴力」の思想にも影響を与えている。
 ソローは問う。
 「気高い行為がなされたとき、それを正しく評価しそうな人は誰だろうか」(「ジョン・ブラウンの最期の日々」木村晴子訳、『H・D・ソロー』所収、研究社)
 気高い行為――私どもで言えば、折伏である。広宣流布である。相手を仏にする。幸福にする。世界の永久の平和をつくる。しかも、一銭も、もらわずに。ところが、世間には、利害のため、自分が偉くなるためだけの行為が、あまりにも多い。
 では、だれが、正しく評価できるというのか。「彼ら自身気高い人びとである」「相応する内の光がないものに、どうして光を見ることができようか」(同前)
 ″気高い行為″は″気高い人″にしか、わからないとソローは言う。
 仏法も、語れば理解されるどころか、かえって反発されることも多いかもしれない。経文に「俗衆増上慢」「道門増上慢」とあるとおりである。
 仏法は「末法万年・尽未来際」――末法一万年の外・未来の果てまで流布すると説く。だから「一万年、二万年かけて、ゆっくり理解させていけばよい」――それくらいの大きな心で進んでいただきたい。
 私の好きなソローの言葉に、さらにこうある。
 「文章の一つの大切なルールは――私が修辞学教授であったらこのことを主張するだろう――、真実を語ることである。これが第一に大切なことであり、第二に大切なことであり、第三に大切なことである」(ヘンリー・S・ソルト『ヘンリー・ソローの暮らし』山口晃訳、風行社)
 ただ「戴鶏」を訛ることだ。語りぬくことだ。
7  アメリカ創価大学の開学を世界が祝福
 先ほどふれたロートブラット博士といえば、「核兵器と戦争のない世界」をめざして戦ってこられた大科学者である。立派な方である。うれしいことに、博士から、先日、手紙が届いた。一流の方は、友情を、きちっと大切にされる。こんな手紙であった。
 「親愛なる池田会長! 貴殿の夢の一つの実現でありますアメリカ創価大学の開学にさいし、心からお祝い申し上げます。貴殿は、平和が、あまねく行きわたり、『平和の文化』が確立するよう、不断の努力を続けてこられました。それは、世界中から賞讃されております。
 『平和の文化』の思想を若き世代に浸透させることほど、重要なことはありません。これは、教育によって、もたらされるでありましょう。
 『平和の文化』を浸透させる教育とは――貴殿の言葉を借りれば――人間性への愛情を育み、人格を磨き、平和の実現への基盤を与えるような教育であります。
 アメリカ創価大学は、このような教育を施すよう、つくられています。同大学は、貴殿の生涯の努力の結晶の一つといえましょう。この教育の価値あるセンター(アメリカ創価大学)のご成功を衷心よりお祈り申し上げます。池田会長と奥さまに、心からの敬意をこめて」
8  この五月三日、「アメリカ創価大学」が、いよいよ開学する。新入生は世界から最優秀の約百人。(入学式は八月二十四日)
 オレンジ郡キャンパスでは、開学式をはじめ、さまざまな祝賀行事が予定されている。五月二日には、学生の教室棟の一つ、「ポーリング夫妻棟」がオープンする。
 (ノーベル化学賞と平和賞を受賞したライナス・ポーリング博士を記念した教室棟)
 さらに、ポーリング家の方々や、博士にゆかりのある世界第一級の科学者などをお迎えして、「ライナス・ポーリングと二十世紀」展が盛大に開幕する。
 五月三日の当日には、世界から多数の大学総長や学長、またカリフォルニア州の上院議員、下院議員、地元の名士、新入生の代表など約二千人が出席して、荘厳な開学式が挙行される予定と、うかがっている。式典の席上、二〇〇一年五月三日」が、カリフオルニア州の「アメリカ創価大学の日」と宣言されることが決まっている。(大拍手)
 翌日(五月四日)には、開学を記念する講演会と、地元のアリソビエホ交響楽団による祝賀演奏会。まさに、地域をあげての祝賀行事である。
 (アメリカ創価大学のキャンパスを一周する遊歩道は、アメリカ政府公認の「千年紀の道〈ミレ・一アム・トレール〉」。二〇〇〇年に認定され、ヒラリー・クリントン大統領夫人〈当時〉から公認証書と祝福のメッセージが寄せられている)
9  待望の開学を前に今、世界の識者や友人から、祝福のメッセージが続々と届いている。その一部を紹介させていただきたい。
 まず、ニュージーランドのクラーク首相。
 「美しい自然に囲まれ、すばらしい施設を備えたアメリカ創価大学のキャンパスには、世界中から学生が集ってくることでしょう。池田博士、SGIの長年にわたる『平和への貢献』と『国際協力』は、階級や文化、国家といった障壁を超えるものであります。まさしく、この精神が、続たに創立されるアメリカ創価大学に生命を吹き込むことを、私は確信するものです。関係者の皆さまのさらなるご活躍を、お祈りいたします。本当に、おめでとうございます!」
 (首相は、SGIの運動に共感し、二〇〇一年二月のニュージーランドSGIの文化祭にも「SGIは、未来の平和の道を開くために働いておられます」との、祝福のメッセージを計せている)
10  そして、フィリピンのラモス元大統領。(ラモス元大統領は創大名誉博士。名誉会長とは、フィリピンと東京で語らいを重ねている)
 「創価大学は、学生のなかに『希望』『勇気』『利他の行動』という潜在的な能力を開発することを、大学の使命として歩んでおられます。これは、大変にすばらしいことです。こうした能力を開発することによって、青年や、その先輩、教師たちも、自分自身に対する責任はもちろん、地球家族の同胞に対する、さらなる責任をもって、新たな千年の課題に立ち向かう心構えができるからであります。
 創立者であられる池田博士に、そして、博士の『教育による平和のビジョン(展望)』に、心から祝福申し上げます。アメリカ創価大学に、マブハイー(フィリピンの言葉で『ますますのご発展を!』)」
11  「正義」と「人権」の解放
 きょう四月二十五日は何の日か?
 世界を見わたせば、イタリアがファシズムを完全に打ち破った、勝利の「解放記念日」である。民衆が決起して戦いぬき、一九四五年のきょう、イタリア全土の解放を勝ち取った。
 私たちも、いよいよこれからが、二十一世紀の本格的な戦いである。「勝利」を獲得することだ。日本全土の、正義と人権の「解放」を勝ち取るのが、広宣流布であるからだ。
 日本のため、世界のためのわれらの前進である。日蓮大聖人の御遺命である。恩師の悲願である。断じて実現する以外にない。きょうは、その大事な出発なのである。
 なお現在、イタリアでは、この解放記念日の意義をこめて、「平和の三師匠」展として、マハトマ・ガンジーとキング博士に、光栄にも私を加えていただき、平和と人権の展示が開催されている。(拍手)
 (ジェノバ県のカンポモローネ市で。同市からは解放記念日にあたり、「平和の促進者」顕彰がSGI会長に贈られた)
12  ところで、日本を見れば、きょう四月二十五日は、明治政府から「太政官布告」が出された日である。
 一八七二年(明治五年)、牧口先生の生誕の翌年のこと。僧侶の「肉食」「妻帯」「蓄髪(髪を伸ばすこと)」は「勝手たるべき事」、すなわち「自由にしてよい」と定められた。これは、まったく仏法の法理とは関係なく、権力の都合から出された法令であった。
 表面だけ見れば、自由を認めた、よい内容のように見えるかもしれない。しかし、その背景には、権力側が「神道を国家の基本に据える」ために、日本の仏教界を腐敗させ、堕落させ、骨抜きにする意図があったといわれる。これが権力の恐ろしさである。権力の魔性である。
 私どもの同志のなかにも、権力の魔性に食い破られ、慢心におちいり、堕落し、人間としての道を踏み外した愚か者も出た。
 戸田先生は、こうした権力の本質を鋭く見破っておられた。だからこそ、つねに「権力と戦え!」と叫ばれたのである。
 明治の初め、仏教界は権力の画策を見抜くことができず、まんまと乗せられ、もろくも崩れ去ってしまった。″多くの坊主たちが布告を読んで狂気乱舞し、「仏にもまさる、お上の慈悲かな」と涙を流して、ありがたがった″という情けない話も残っている。
 もちろん、宗門も例外ではありえなかった。大正時代の宗門で出されていた機関誌には「僧侶もまた人間なり」「妾も蓄うべし」などと、開き直った暴論が残されている。
 (「自然鳴」大正三年十月号に「僧侶も亦人間也。妻も持つべし。牛肉も喰ふべし。子も造るべし。妾も蓄ふべし」とある)
 その後の宗門の堕落ぶり、また閉鎖的な血族主義の横行は、皆さんもご覧のとおりである。そして今や、まったくの邪教になりさがった。
13  サンガの原義は「広宣流布の集い」
 大聖人は仰せである。
 「日蓮は、そうした妻子ももたず、魚や鳥も食べず、ただ法華経を弘めようとするゆえに、妻子ももたないのに犯僧という名が日本国中に満ち、ケラやアリさえも殺さないのに、悪名が天下に、はびこっている」(御書936㌻、通解)と。
 ただ民衆を救わんと、もっとも崇高な行動を貫かれた大聖人が、嫉妬によってであろう、こともあろうに国中の人々から、もっとも醜い汚名をかぶせられてしまった。しかし大聖人は、すべて法華経に説かれたとおりの難であり、「うれしさは、とても言い尽くすことはできない」(同㌻、通解)と、悠然と仰せであった。
 この崇高なる御精神にまっこうから違背し、遊蕩と堕落のかぎりを尽くしてきたのが日顕であり、日顕宗である。この事実を、後世に明確に残しておきたい。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「僧侶といっても、妻帯して、われわれと同じものを食べ、同じものを着ている。そして、同じ南無妙法蓮華経を唱えている。われわれとまったく同じではないか。ゆえに、僧が上などと威張るのではなく、われわれと一緒に、平等な立場で、広宣流布に戦っていくのが本当の僧侶である」
 きょうは、戸田先生の言葉のとおり、創価学会と一体で戦っておられる「広宣流布の僧侶」の皆さまを、お迎えできてうれしい。(拍手)
14  大聖人が仰せの理想の「和合僧」は、現代では、創価学会以外にない。
 「和合僧」の「僧」を、短絡的に「僧侶」とみるのは間違いである。「僧」とは本来、仏法を正しく持ち、広宣流布に進む人々の「集まり」をいう。
 もともとは、釈尊の仏法のもとに集まった同志を、当時のインドで「僧(僧伽、サンガ)」と呼んだのである。
 (「僧」は本来、「仏教修行者の集まり」を意味する「サンガ」の音訳「僧伽」を略したもの。中国においては、「僧」が出家した個人をさすようになった)
 この原義に照らせば、「広宣流布の信心」ありてこその「僧」である。姿形ではない。広宣流布に正しく進むわれわれこそが、姿は有髪であっても、真実の「和合僧」なのである。(拍手)
15  終わりに、「インドの詩聖」タゴールの言葉を引きたい。
 「他人を中傷して自己満足にひたるのは、弱者の気晴らし」(『タゴール著作集』8、森本達雄訳、第三文明社)と。
 小さな人物が、偉大な人間を中傷するのは、歴史の常である。
 大聖人は仰せである。「愚人にほめられたるは第一のはぢなり
 戸田先生は言われた。「大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(「青年訓」)と。
 これからも、この大確信で戦ってまいりましょう! お帰りになられたら、同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。きょうは、おめでとう! ありがとう!
 (東京戸田記念講堂)

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