Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第3章 助け合い支え合う絆
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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父親が泰然としていれば家族は動揺しない
藤野
本当ですね。私の家も、二度、倒産を経験していますから、平川さんのご家族の気持ちは、よく分かります。
父の経営する工場が順調だった頃、私たちは、大きな屋敷に住み、かなり恵まれた暮らしをしていました。
早々とテレビも購入し、旅行となると家族でタクシーを貸切で出かけることもしばしばでした。
それが、私が高校一年生の時、事業の失敗で、生活が一八○度変わってしまって……。ピンク色をした差し押さえの紙が家中に貼られ、「どうして、こんなことになったのだろう」と感じたことを覚えています。
以来、家を手放すまで、取り立ての人が来て、夜逃げしないよう私たちを見張る生活が始まったのです。
そんななかでも、家族が暗くならなかったのは、両親のおかげでした。両親はめげることなく、努めて明るく振る舞っていました。
夜になると、父は私たちと、トランプやジェスチャー・ゲームをして遊んでくれました。時には、その遊びに、取り立ての人を誘うことさえあったのです。
さすがに取り立ての人もあきれて、「この家は、どこかに財産を隠しているんじゃないか」と、いぶかるほどでした。(笑い)
池田
くじけなかったお父さんだね。
その明るさで、沈みがちな家族の気持ちを必死に支えようとされたのだろうね。
いざという時、父親が泰然と構えていれば、子どもは動揺しない。力強さを感じるなかで、信頼の絆は深まっていくものです。
最近は、経済不況が長引いているために、失業や倒産などで、苦しい状況に置かれているご家庭がふえていると思います。
そのこと自体は、敗北でも何でもありません。信心をしていても、病気になったり、悩みにぶつかったりするように、時代の波によって経済難にあうことだってある。
戸田先生でさえ、事業に失敗されたことがあった。それでも、先生の獅子のごとき姿は少しも変わることはなかった。
どん底の状況のなかから、「私は事業に敗れたが、人生に負けたのではない」とおっしゃって、悠然と立ち上がられた姿は、今も鮮やかに胸に蘇ります。
どんなに闇が深かろうとも、朝の来ない夜はありません。大変な時こそ、必ずよくなると信じ、家族で支え合っていくことが何よりも大切です。
その要の存在となるのが父親なのです。
平川
父は自分には厳しく、人には大変に心の優しい人でした。
電気店を開いたばかりで、仕事も忙しく、遊んでもらえる時間などあまりなかったのですが、仕事が一段落した夜などは、寝る前に「おやすみ」を言うと、必ず私の頭をなでてくれました。
また、当時、わが家にはお風呂がなく、夜遅くお店を閉めたあと、父が私を銭湯に連れていってくれたことは、うれしい思い出として、よく覚えています。
その大好きな父が病気で亡くなった時は、心に大きな穴がぽっかりとあきました。
慌ただしい葬式のなかで、六歳の妹と三歳の弟のためにも、長女である私がしっかりせねばと思いました。
今は、妹も弟も、学会の広布の庭で元気に頑張っています。
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一家全員での幸せを願う
藤野
いざとなると、世間は冷たいものですね。
私の周りも、とくに最初の倒産の時は、ひどかった。それまで愛想のよかった人も、急に態度が一変したりして……。
たまたま父の事業が失敗したことで、まるで犯罪者の家族を見るような目つきや、口ぶりをされて、さすがにショックを受けました。
でも、そんな経験があって、私も強くなれたのだと思います。
池田
戸田先生の事業が暗礁に乗り上げ、会社が莫大な負債を残して倒産した時のことです。
従業員は皆、先生のもとを去っていった。なかには先生を「詐欺師」や「ペテン師」呼ばわりし、非難する人もいた。
最後まで残ったのは、私ただ一人でした。
先生の事業は、なかなか再建のめどがつかず、ある時、外をいっしょに歩いていたら、先生が突然、「大作、二人で焼き鳥屋でもやろうか」(笑い)と言われたこともあった。
駅の近くで、繁盛している焼き鳥屋さんがあったのです。私が満足な食事もとらず、過ごしていることを気遣っての言葉でした。
そんな戸田先生の人間味あふれる一言を、私は今でも懐かしく思い出します。
二人とも外見はわびしく、貧しかったかもしれない。しかし、胸には「広宣流布」への大情熱が燃えていた。
寒い冬でも羽織るコートさえなく、開襟シャツ一枚で戦った。銀座を、大八車を引いて歩いたこともあります。
「先生、心配しないでください。私が全部、立て直しますから」との思いで、戦いました。そして、師弟二人で、すべての苦難を勝ち越えていったのです。
藤野
厳粛な師弟の絆に胸が打たれます。
わが家の再起は、母の信心から始まりました。
親戚の人が折伏してくれたのですが、当初は父も祖父母も信心に大反対で……。家にあった「聖教新聞」も『大白蓮華』も、ことごとく破って捨ててしまうという剣幕でした。
ですから、母は残った一冊の『大白蓮華』を隠して、ぼろぼろになるまで何度も何度も読み返し、信心を深めていったのです。
そんなある日、心労が重なって、いつになく弱気になった父が、「いっしょに死のうか」と母にぽつりと言ったことがありました。
そこで母が、「死んだ気になれば、何でもできるじゃない」と仏法の話をして、父をはじめ家族が入会したのです。
でも、ちょっとした抵抗感があって、私一人だけ入会しませんでした。
平川
そうだったんですか。今では、とても想像できませんが……。(笑い)
藤野
それから半年後のことだったでしょうか。
両親の結婚記念日が間近に迫ったので、「何かほしいものある?」と母にたずねたら、「そうだね……。いっしょに信心しようよ」と言われて。
戸惑いましたが、「それが親孝行になるのなら」と考え直し、思い切って私も入会しました。
後で、母に聞いたら、一人だけ信心しなかった私のことをずっと気にかけていたようなのですね。「わが家から、一人も不幸な人間を出してはならない」というのが、母の一貫した祈りだったというのです。
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崩れない幸福を――偉大な母の思い
池田
母親というのは、ありがたいね。
家族全員を絶対に幸せにしたい――その慈愛の心と深い祈りが、一家を大きくつつみこみ、正しい人生の軌道を開いていく。自分が犠牲になってもいいとさえ思っている。その偉大な存在が、母親です。
もちろん子ども自身にも、人生を切り開く力が備わっていますが、自分を信じ、どこまでも幸福を願ってくれる存在を得てこそ、存分に力が発揮できるものなのです。
そんな母の子どもに対する思いの深さを、物語る一つのエピソードがあります。フランスの作家ロマン・ロランの話です。
ロランが栄誉ある文学大賞を受賞した時、母親はロランに、こう語ったという。
「あんたがその成功と光栄とを喜んでいるのなら、ただそのためにだけ、私もそれを喜ぶ。しかし私には、あんたが一人の良い人間であってくれることのほうがもっと嬉しいし……良い妻とりっぱな子供たちを持って暮し、幸福で、そして別に有名ではないというふうだったとしたら、私にはそのほうがいっそううれしい」(「内面の旅路」『ロマン・ロラン全集17』片山敏彦訳、みすず書房)と。
求めるべきは栄華や名声などではない。大切なのは、人間を磨いて、崩れない幸福を築くことだ!――このことを、ロランの母は訴えたかったのだと私は思います。
確固たる基盤を建設せずして幸福は得られないと、母はあえて、息子ロランのために厳しい言葉をかけたのではないだろうか。
藤野
よく分かる気がします。私の母は和歌が好きで、人生の節目を歌で綴っています。
私の二十歳の誕生日の時でした。お祝いに何かもらえるのかと思っていたら、和歌でした。
越えなばと
思いし山も
来てみれば
また行く先に
山はありけり
当時は、なんて地味なプレゼントなんだろうと思うだけで(笑い)、母の思いは分かりませんでした。
でも、しばらくして結婚し、同居していた夫の母が急に倒れて、寝たきりになってしまって……。結婚三年目のことで、支部婦人部長の任命を受け、小さな子どもを抱えながら活動に励んでいた矢先のことでした。
二歳の娘の子育てと活動、そして義母の介護……。次の子も身ごもっており、過労が重なってしまい、点滴を受けながら、病院での付き添いをしたこともありました。
平川
結婚して何年にもならないのに、さぞや大変だったでしょうね。
藤野
ええ。最初は、「なぜ私だけが、こんな目にあうのだろう」「寝たきりのお義母さんを看病することが、私の人生なのか」と、悶々とする日が続きました。
義母には痴呆の症状も出て、病室に行っても、私を看護婦さんと勘違いしているようで、看病にも張り合いがなかったのです。
あまりにもつらい現実に、気持ちが落ち込んでしまいそうになりましたが、一日、五時間、六時間と、祈りました。祈らなければ、一歩も前に進めませんでした。
そんな必死の唱題のなかで、ふと、三世の生命観から心に浮かんだことがありました。
――お義母さんとの出会いは、単に夫の母だからなのか。私が嫁だから、たまたま、看ているにすぎないのか。いや、そうではないはずだ。お義母さんは過去世において、私を助けてくれた恩人だったのではないか。次の世では、私が恩返ししますと誓って、生まれてきたのではないか――と。
それで、私の覚悟が決まったら、義母の痴呆の症状がなくなって、突然、真顔で言うのです。
「あんたに、二八円、貸してたよね」と。
それは、義母が倒れる前に、冷蔵庫のローン代金の端数を立て替えてもらっていた分のお金でした(笑い)。こんなにうれしい“借金取り立て”の言葉はありませんでした。お義母さんが治った! と。義母にしてみれば、その間の記憶はまったくないようでした。
それから、在宅での介護が始まりました。家族の協力と地域の方々の温かい励ましがあったおかげで、広布の活動にも全力で取り組むことができました。
8
病気になっても心は負けない
池田
藤野さんのご家族の話を聞いたのは、名古屋の中部文化会館を訪れた時だったね。
藤野
その日、私は、当時の小泉中部婦人部長と、会館に役員で残っていました。
そこに池田先生の奥様がおいでになり、「こういう時は、お家は大丈夫なのですか」と、声をかけてくださったのです。
私は、「子どもも、大きくなりましたので、皆に守られてやっております」と答えたのですが、小泉さんが、「実はお義母さんが一〇年間、寝たきりで」と説明されて……。
それで、私は、「とっても明るくて、“ベッドの上の青春”のような、おばあちゃんです」と、お話ししたのでした。
池田
妻からそう聞いて、本当に健気で、頼もしく思いました。
ベッドの上であっても、自分が留守を守っているとの使命感をもって、朗らかに生活され、いつも明るく笑顔で一家全体を照らしておられる。
そして、介護をする人もされる人も、協力し合って、広宣流布のために戦ってくださっている。本当に尊いことだ、と。
私は、お義母さんを讃える思いで「ミセス・ベッド」という愛称を贈りました。
“ベッドの上の青春のおばあちゃんに、人生の勝利あれ!”との心を込めながら――。
藤野
先生からの伝言をいただいて、義母に早速、「先生から名前をいただきましたよ」と伝えると、「だれのことだね」と聞き返すので、「おばあちゃんによ」と経緯を話しました。
そうしたら、義母は照れくさそうに、「私にかね。うそみたいだね」と何度も言いながら、顔をくしゃくしゃにして、大きな声で笑っていました。
そんな義母の姿を見ながら私も、「大変だったけど、ここまで頑張ってきて本当によかった」と、胸に熱いものがこみ上げました。
義母の枕元に、赤ちゃんが誕生した時のように、「命名 ミセス・ベッド 昭和六十三年三月二十八日 池田先生より」と書いた、お祝いの紙を飾って、家族で喜び合いました。
それから義母は、いっそう唱題に励み、私たち家族のことをさらに力強く応援してくれるようになったのです。
平川
池田先生の励ましが、お義母さんの心を明るく照らされたのですね。
先生は『「第三の人生」を語る』や、エッセイ集『母の曲』の中で、「『ミセス・ベッド』の勝利」と題して、藤野さんとお義母さんの話を紹介されていますが、先日、あるセミナーでその話を紹介したら、七十九歳の方が感動し、入会されました。
その方は、「どこまでも一人を大切にし、励まされる池田先生の姿と、藤野さんの介護に対するとらえ方に感動し、胸を打たれました」と、しみじみと語っておられました。
池田
それは、よかった。
たとえ病気になっても、身は不自由でも、心が負けなければ、その人は勝利者です。心の勝利が、人生の勝利なのです。このことを、お義母さんは証明されたね。
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「おばあちゃん、本当にありがとう」
藤野
義母が亡くなったのは、一九九三年、在宅介護を始めて十五年目のことです。
私が「日米友好平和の集い」に参加するために、サンフランシスコに出かけていた時でした。
一週間ほど留守にすることになるので、かなり迷ったのですが、夫が「心配しないで、行ってきたら」と言ってくれたので、思い切ってアメリカ行きを決めたのです。
それで義母を、夫の職場のすぐそばにある病院に預け、娘たちにも家のことや義母の世話などをしっかり頼んで、出かけました。
平川
サンフランシスコでの集いには、私も参加しました。中部総会や埼玉総会などの意義も込め、代表が参加して行なわれたものでしたね。
藤野
ええ。総会のほかにも、現地のメンバーと交流したり、アメリカ創価大学を訪問したりと、さまざま有意義な経験をすることができました。
「今回の交流は、最高のご褒美だった。家に帰ったら、介護に、活動に再び頑張ろう」と感謝の思いで、帰りの飛行機に乗ったのですが、虫の知らせでしょうか、ふだんは乗り物酔いなどしないのに、気分がすぐれませんでした。
成田空港に着いたら、「すぐ、家のほうに連絡をとってください」と言われ、急いで電話しました。義母が亡くなったとの知らせでした。
ショックで目の前から、音や色が抜け落ちてしまって、あたりの風景がモノクロ映画のように感じられたことを記憶しています。
家に帰ると、安らかに眠っている義母の姿がありました。満足しきったような、とてもきれいな顔で……。享年八十歳でした。
寝たきりになってからも、あれだけ生き抜いて実証を示してくれた十五年間は、私たち家族にとって“宝の十五年”でした。
生前、口癖のように言っていた、「私はべっぴんさんなんだよ」との言葉を思い起こしながら、「おばあちゃん。今まで本当にありがとう」と、お礼を言いました。
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感謝の心、負けない心が人生を開く
平川
長い間、介護をしてきて、最後にお礼を言うことができる――本当に、すばらしいですね。
藤野
先ほどもお話ししましたが、私にはもともと「介護をしてあげている」という気持ちが、まったくなかったのです。
むしろ、「介護をさせてもらっている」というのが、正直な気持ちでした。
夫に対しても、「お義母さんの面倒を看てあげている」という気持ちではなく、介護をしている私をいろいろな面で支えてくれていることへの感謝の思いでいっぱいでした。
二人の娘も、寝たきりだった義母の存在を身近に感じながら育ってきたので、自然と思いやりの心が芽生え、家のことも自分たちから手伝ってくれていたのです。
義母の存在のおかげで、家族の皆が、互いのことを思いやり、助け合う――何か東京の“山手線”みたいにぐるぐると、「感謝」の心が家族の間を回るといった感じでした。
義母には、本当に得難い宝を、私たち家族に与えてくれたと深く感謝しています。
池田
感謝する心、負けない心さえあれば、人生はいくらでも大きく開けていきます。
家庭生活を勝利するのも、現実の大地を一歩一歩踏み固めていくしかありません。
家事や子育て、時には看病や介護もあるでしょう。だが、そうした一つひとつのことを、他人のためにやっているのではなく、自分が決め、自分から求めてやっているのだ――そう心に決めれば、不満も愚痴もない。使命を貫く喜びと充実感がわいてくるはずです。
三世の生命観と仏法の眼から見れば、私たちは願って、今の境遇に生まれてきたのであり、どんな悩みも、自分で選んだ悩みと言える。
そうとらえていけば、どんな苦難も、楽しみながら乗り越えていけるはずです。
高齢社会となり、介護の問題がクローズアップされていますが、介護は、介護するほうが、より境涯を高め広げていけるのだということを忘れてはいけない。
社会全体で、介護を支え合っていく時代ですが、この一点こそ、心を込めた介護のポイントではないだろうか。
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「衆生所遊楽」の人生を
平川
すべては自分の一念なのですね。
私の長年の知り合いで、埼玉で障害をもったお子さんを懸命に育て上げ、和楽の家庭を築いてきた方がいます。
結婚して初めて生まれた息子さんが、脊椎に障害があり、三歳まで生きられるかどうかと医者から言われた。そこで、お母さんは、「この子を死なせてなるものか。絶対に信心で乗り越えてみせる」と奮起されました。
お子さんを連れて折伏にも歩き、「その子が治ったら、また来てよ」と冷たい言葉を浴びせられながらも、決して退かなかった。
その後、小学校で息子さんが障害のことでいじめられ、「お母さん、僕が生まれてきてよかった?」と聞かれた時には、「もちろんよ。あなたが生まれてきて、お母さんは、本当に幸せだよ」と、思わず抱きしめたそうです。
息子さんは、そんなお母さんの思いに応えるように、中学でも懸命に勉強に励み、その姿をじっと見ていた担任の先生は、卒業式で「僕が感動している生徒がいる」と言って、涙を流しながら息子さんのことを紹介されるほどだったといいます。
藤野
お母さんの強い祈りと励ましがあればこそ、息子さんも頑張られたのですね。
平川
私もそう思います。
お母さんは、「体の障害に負けて、心の障害をつくらせない」「つらさに負けない強い心を」と、ずっと息子さんのことを必死に祈ってこられたといいます。
そして、八六年に池田先生が三郷文化会館を訪問された時に、「感傷に涙する婦人部ではなく、太陽のごとく明るく前を向いてね。強く生きるんだよ」と激励していただいたことが、何よりの支えとなった、と。
息子さんは今では、立派な社会人として、また地域では男子部の副部長として元気に活躍されているそうです。
この前も息子さんが、「おふくろ。学会の先輩がよく俺にいろいろ“頼んだよ”と言うけど、俺が障害者だっていうこと、みんな忘れてるんじゃないか」と笑っているのを聞いて、くじけずに頑張り抜いてきて本当によかったと語っておられました。
「一つひとつの経験が、お金では買うことのできない財産となり、何があっても負けない心を築くことができました。この信心にめぐりあえたことを感謝しています」との言葉を聞いて、私も感動しました。
池田
それはよかった。本当にうれしい。
法華経には「衆生所遊楽」という言葉がある。
この「遊楽」とは、“うわべの楽しみ”とか“うわべの幸福”のことではありません。仏法でいう「遊楽」とは、生活の中で、現実の社会の中で、自分を輝かせ、自在に乱舞していくことを意味しています。
あたかも“波乗り”を楽しむように、人生の苦難さえ「喜びに変え、「希望」に変え、人生そのものを、太陽のごとく気高く、燦然と光り輝かせていく生き方なのです。
仏法の「誓願」という、菩薩の生き方は、自分で誓い、使命の人生を勝ち取っていく――そこに本領があります。
戸田先生は、よく言われていた。
「われわれの姿は、“貧乏菩薩”や“病気菩薩”のように見えるが、それは人生の劇を演じているんだよ。正真正銘の地涌の菩薩なんだ。人生の劇なら、思い切って楽しく演じ、妙法の偉大さを証明していこうではないか」と。
子育てにも同じことが言えるでしょう。
お子さんの病気、勉強のこと、進路のこと、悩みはさまざまあるかもしれない。だが、それを全部、家族が幸福になるための「財産」なのだととらえて、一歩でも前に進む人が、本当の「人生の勝利者」です。
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