Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(二)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
5  昭和五十七年(一九八二年)のことだった。
 全世界の人に核兵器の恐ろしさを訴えたい――そうした八重子おばさんや光枝の願いは、思わぬことから実現することになった。第二回国連別総会を機に、国連本部総会議場の一般ロビーで「核の脅威」展を開催できる運びになったのである。
 この展示は、広島・長崎の若者が中心になって企画したものだった。若者たちのなかには、被爆二世が多かった。父や母が原爆の被害にあった人たちである。自分は戦後の生まれで、原爆には何の関係もないのに、なお後遺症で苦しむ子どもたちもいた。
 若い彼らが汗を流して作りあげた展示は、徐々に大きな反響を広げていった。そしてついに、海を渡ってアメリカの、しかも国連本部で、「核の脅威」展を開くことができるようになったのである。
 光枝は、こうした運動に、一生懸命に頑張ってきた一人であった。国連での展示の準備や、関連して行われるいろいろな催しに出席するため、光枝はアメリカへ渡った。八重子おばさんも、広島・長崎の被爆者の代表として、一行に加わることになった。
 こうして八重子おばさんと光枝の母子は、二人そろってニューヨークへおもむくことになったのである。
 「おばさん、向こうで被爆体験を話したんですか?」
 「市民の人たちのいろんな集まりでね、やらせてもろうたんよ。みんな目を丸うして、聞いとったねぇ……」
 アメリカの人たちにとっては、初めて聞く衝撃的な話であったようだ。被爆者の一人ひとりが語るたびに、聴衆のなかには青い目に涙をいっぱいにためる人がたくさんいた。話が終わると、会場はいつも大きな拍手に包まれた。
 「それにしても、びっくりしたのはね、核兵器がどんなにこわいものか……それを、向こうの人は、あんまり知らないのよ! 一城君」
 原爆といったって、単なる大きな爆弾だとか、穴を掘って入っていれば大丈夫と信じこんでいる人が、意外に多かった。そのことを知って、八重子おばさんと光枝は、本当に驚いたのだ。
 そうした人に、原爆のこわさを語って聞かせると、「オー! ノー! ノー!」と、驚きの表情を見せるのだった。
 「アメリカっていうと、“自由の国”で、原爆のこわさも国民みんなに広く知られていると思ったのに……」
 光枝が、まゆをひそめた。
 「だから、私らの役目が大事になってくるんよ。アメリカの人たちの一人ひとりに、そして世界の人たちに、原爆の本当のこわさを訴えていかなくてはのう……。それが、残された私らの使命なんよ」
 八重子おばさんはそう言うと、一城の顔をじっと見つめた。
 「核の脅威」展は大成功を収めた。国連総会に参加した世界各国の代表をはじめ、アメリカの市民も大勢つめかけた。母親も、子どもたちも、原爆の恐ろしさを伝える展示に見入っていた。
 そこには、広島・長崎の被爆市街地の全景写真……原爆ドームの模型……熱線を受けてボロボロになったズボン……閃光にさらされて表面がブツブツと沸騰してしまった瓦……等、そのときの凄惨さを物語る展示物があった。
 また、ニューヨークをはじめ、モスクワ、パリ、東京などの上空で一メガトンの核が爆発した場合の被災想定図も掲げた。一メガトンとは、TNTと呼ばれる高性能爆薬百万㌧の威力に相当する核爆弾のことである。
 広島型の原爆はTNT火薬に換算して一万二千五百㌧、長崎型は二万二千㌧にあたる、とされている。それに比べたら、今日の一メガトンの核爆弾が、どれほどすさまじい破壊力を秘めていることか。それは広島型の八十倍、長崎型の四十五倍もの威力があるのだ。
 それなのに、戦後のアメリカとソ連は、核兵器を競争して作ってきた。今のこの世界には、総計二万Mtもの核が保有されているといわれている。人類全体を何百回も殺すことのできる量である。
 「ねえ、一城君! どう考えたって、おかしいと思わない? 広島や長崎の悲劇が、まるで生かされていないじゃない!」
 その通りだ、と一城は思った。戦後の人類は、いったい何をやってきたんだろう、いったい何をしようというのだろう……。
 そのことに、展示を見たアメリカ人も、心から気づいたようだった。展示の運営にたずさわった光枝は、努力したかいがあった、としみじみ感じた。
 八重子おばさんの印象に深く残っているのは、三人の学者との出会いであった。三人は、八重子おばさんたちの宿舎であるルーズベルトホテルまでやってきた。ぜひ、被爆者の方々にお会いしたい、というのである。そのうちの一人は、なんと“原爆の開発”にたずさわった科学者グループの一員であった。
 それは、不思議な巡り合わせである。原爆を作った人たちと、その原爆で地獄の苦しみをあじわった人たち……。何千㌔という距離を越え、何十年という時間を越えて、両者が顔を合わせたのである。
 八重子おばさんの胸には、複雑な思いが渦を巻いた。単なる驚きではない。怒りでもない。現代におけるもっとも恐るべき兵器――原爆によって、結びつけられた人と人との奇妙な出会いであった。
 八重子おばさんたちは、かわるがわるみずからの体験を語った。三人は、身じろぎもせず、真剣に耳を傾けていた。そのうち、原爆開発の科学者が、うっすらと目に涙を浮かべているのに、八重子おばさんは気がついた。
 みんなの話が一段落すると、その英知の科学者は静かに口を開いた。
 「時代がどんなに変わっても、核の悲劇は二度と繰り返してはなりません。今では私も、心の底からそう思っています……」
 彼は戦後、自分たちの作った原爆がいかに恐ろしい悲惨を招いたかを知り、慄然としたのだった。彼はそれから、平和運動にたずさわるようになる。
6  有名な理論物理学者であるアインシュタインも、原爆の脅威を深く憂えた一人であった。彼は一九五五年(昭和三十年)に、数学者・哲学者である友人のラッセルとともに、平和声明を発表した。核兵器の廃絶と戦争の阻止を訴えたのである。アインシュタインが、この世を去る直前のことであった。今日、その声明は〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉と呼ばれている。
 それを具体化するため、世界の科学者がカナダのパグウォッシュに集まり、一九五七年(昭和三十二年)に第一回の会議を開いた。これには、日本からも、ノーベル賞科学者の湯川秀樹や朝永振一郎らが参加した。以来、この会議は、毎年開かれている。最初の開催地にちなんで、パグウォッシュ会議といわれる。八重子おばさんたちを訪ねてきた科学者の一人は、このパグウォッシュ会議の事務局長を長年にわたって務めてきた人であった。
 科学者の多くは、自分たちがたいへんなものを作り出したことに気づいた。だが、それも後のまつりだった。原爆は、科学者たちの手を離れて、独り歩きを始めたのだ。
 熱中して原爆の開発に取り組んでいるときには、彼らは一人として、そんなことを考えもしなかった。ただひたすらに、異常なほどの熱意を研究に注いだ。政府の命令というより、彼らは燃えたぎる使命感で、原爆の開発に打ちこんだのである。
 ドイツと日本とイタリアの同盟国は、全世界に脅威を及ぼしていた。とくにナチスの暴虐は、欧米各国の恐怖の的となっていた。ナチスも原爆の研究に着手しているという。ヨーロッパとアメリカの科学者は、危機感に襲われた。自由と民主主義を守るため、彼らより先に原爆を作らなければならない。そうしないと、たいへんなことになる……。
 だが、政治家は消極的だった。夢のような話だったからである。本当に原爆なんて作れるのだろうか、と彼らの多くは考えていた。軍部は、もっと露骨にいやな顔をした。これは自分たちの実力に対する挑戦だ、と感じたからである。
 原爆の開発は、マンハッタン計画と呼ばれた。その計画を、もっとも強力に推進したのは、ほかならぬ彼ら科学者たちだった。
 彼らは、ほとんど不眠不休で働いた。技術の粋を集め、開拓者精神を発揮して、研究を進めた。そしてついに、驚異的に短い年月で、三発の原爆を作りあげた。
 一九四五年(昭和二十年)の七月十六日――。世界で最初の原爆が、ニューメキシコの砂漠にきのこ雲を噴きあげた。実験は成功した。そのとき、ドイツはすでに降伏していた。
 二発目の原爆は日本に運ばれ、八月六日、広島の上空で炸裂した。その一発で、二十万もの人々が犠牲になった。そして三発目は、八月九日に、長崎へ落とされた。ふたたび、十二万人の市民が、恐ろしい被害を受けた。
 放射能が人体にどれほど切実な影響を及ぼすか――。そのことを、科学者たちは、ほとんど気にとめていなかった。ましてや、被爆した人々が、その後何十年にもわたって後遺症に苦しむことになろうとは、想像だにしなかったにちがいない。
 科学者たちは、やっとこれでひと仕事すんだとばかりに、もとの大学や研究所へ戻っていった。そのかわり、今度は政治家や軍人が、原爆という新たな発明物にとびついた。原爆は、戦後の国際政治のかけひきに使われる格好の材料となってしまったのである。
 「原子爆弾を作りだしたのは、何よりも、科学者たちの純粋な熱意だったということ――ここのところが、とってもこわい、と思うのよ」
 光枝が、しみじみとした口調で言った。
 原子爆弾――。それはたしかに、人間の壮大な英知の結晶にちがいなかった。しかし同時に、それは人類全体の生存をも脅かす巨大な“怪物”であった。まことに人間の賢さと愚かさの極みが、奇妙におりまざったのがこの原子爆弾の出現である、といってよい。
 八重子おばさんと光枝の話を聞きながら、原子爆弾が人類と世界にもたらした深刻な意味を、一城はいやでも痛切に考えずにいられなかった。

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