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日蓮大聖人・池田大作

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生命を尊厳ならしめるもの 「『人間の世紀』第一巻」から

1973.1.0 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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48  「殺」の心を殺す
 人間は、生きるためには他の生物の生命を犠牲とせざるを得ない。厳密な意味で生命の尊厳とは、生きとし生けるあらゆる生命体について、その尊厳性を認めるということである。ところが人間は、一方で″生命は尊厳なものである″と言いながら、他方ではその尊厳なる生命を大量に屠ることによって、自己の生命を維持している。いや人間ばかりではない。ほとんどの動物は、その対象が動物であれ植物であれ、生命体を自分の生命維持のための資源としているのである。
 自己の生命の尊厳性と一般的な生命の尊厳性とは、ここで重大なジレンマに陥ることになる。これは人間を中心にした場合、人間の尊厳という問題と生命一般の尊厳という問題との矛盾になる。これに関連して、釈尊の言動をとどめた書に一つの興味深い問答がある。それは――ある人が、「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と問うた。これに対して、釈尊は「それは殺す心を殺せばよいのだ」と答えたというのである。
49  質問のポイントは、殺してよい生き物と殺してはならない生き物との区別を示せということにある。釈尊は、直接にはこの質問に答えていない。だがそれは、はぐらかしたのではなく、より本質的に生命の尊厳というものを明らかにしているのだと私は考える。
 生命の尊厳とは、あらゆる生命を尊厳と認める自身の心の中にある。客観的にみるだけなら、いかなる生命も無常のはかない存在であり、苦悩に覆われ悪業に支配された存在にすぎないであろう。それが人の心に尊厳と映るのは、その人自身がこれを尊厳とみるからである。そして、その一切の生命を尊厳とみる心が、自己の生命を尊厳ならしめるのでもある。この客観性と主観とが一体となったところに、真実の尊厳性が現実化するのだと言ってもよい。
50  こう言えば、それでは尊厳とみたうえでなら、何をどのように殺してもかまわないのかという疑問が起こるかもしれない。私はそれは違うと思う。生命は、自己に関して少しでも生きながらえようとする、自己維持の特質を本然的に持っている。いわゆる生存本能というように、意識下の意識にもそれはあるし、更に深く生命体の機能にもそれは備わっている。他の生命を殺すということは、自己の生命の持っている、そうした特質、法則といったものへの違背になるわけである。そこには単に、意識のうえでの作為では変えられないものがあると思われるのである。
 周知のごとくキリスト教の原罪説は、アダムとイブが悪魔にだまされて、知恵の実を食べたことから人類の罪が始まったとする。その知恵とは善と悪とを判別する知恵であったという。このことは善悪の意識が人間の心に罪を刻むのだということになろう。もしそうであるなら、人間は人間としての高度な精神機能を営み続ける限り、罪の消えることはあり得ないことになる。私は、そうではなくて善と悪とをよく判断し、自らの醜さを深く省みながら、しかもその本源にある生命の尊厳性を実感しうるところに、人間の尊さがあるのだと考えるのである。
     (昭和48年1月 「人間の世紀」第一巻『生命の尊厳』所収)
 〔参考文献〕
 L。マンフオード『機械の神話』河出書屋新社
 L・マンフオード『生活の智恵』福村出版
 E・H・フロム『正気の社△L社会思想社
 速水敬二『ルネッサンス期の哲学』筑摩豊房
 ライフ人間世界史『古代アメリカ』タイムライフ社
 カント『人倫の形而上学の基礎づけ』

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