Nichiren・Ikeda
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48 厳護(48)
「諸法実相抄」講義で、山本伸一は、「流人なれども喜悦はかりなし」の御文を通し、絶対的幸福境涯について言及していった。
「日蓮大聖人は、流人という、まことに厳しく、辛い立場にあります。しかも、命を狙われ、いつ殺されるかもしれない状況です。普通に考えれば、悲嘆、絶望の世界です。多くの人は不幸と見るでしょう。
でも、そうとらえるのは、相対的次元での幸福観によるものです。
大聖人の内心に確立された御境涯では、この世で誰よりも豊かで、湧きいずる大歓喜の、広大かつ不動の幸福を満喫されているのであります。これが、絶対的幸福境涯です。
一般的に、幸福の条件というと、経済的に豊かであり、健康で、周りの人からも大事にされることなどが、挙げられると思います。
こうした条件を、満たしているように見える人は、世間にも数多くいるでしょう。しかし、本当に、それで幸せを満喫しているかというと、必ずしも、そうとは言えません。心に不安をかかえている人も少なくない。
これらは、相対的幸福であり、決して永続的なものではないからです」
どんなに資産家であれ、社会の激変によって、一夜で貧乏のどん底に陥る場合もある。健康を誇っていた人も、不慮の事故や病に苦しむこともある。さらに、加齢とともに、誰しも、さまざまな病気が出てくるものだ。
相対的幸福は、自己と環境的条件との関係によって成り立つ。したがって、環境の変化によって、その幸福も、はかなく崩れる。
また、欲するものを手に入れたとしても、自己の際限なき欲望を制御することができない限り、幸福の実感は、一瞬にすぎない。財などへの過度の執着は、むしろ、心を貧しくさえする。
「もし財産が人を傲慢や怠惰や無為や欲望や吝嗇にひき入れる場合には、不幸そのものとさえなる」とは、スイスの哲学者ヒルティの警句である。
49 厳護(49)
人は、財や地位、健康、名誉など、相対的幸福を願い、求めて、努力するなかで、向上、成長していくことも事実である。また、所願満足の仏法を持つ私たちは、強盛な信心によって、その願いを成就することができるし、それは、信仰の力の実証ともなろう。
しかし、崩れざる真実の幸福は、相対的幸福にではなく、絶対的幸福にこそあるのだ。
山本伸一は、大確信をもって訴えた。
「絶対的幸福とは、相対的幸福の延長線上にあるものではありません。相対的幸福の次元では、いくら不幸のように見えても、絶対的幸福を確立することができる。その例が、日蓮大聖人の『喜悦はかりなし』と仰せの御境涯です。
絶対的幸福とは、有為転変する周りの条件に支配されるのではなく、自分が心に決めた使命、目的に向かって実践していくなかで生ずる、生命自体の充実感、満足感です。
ここで最も重要なことは、自分が定めた使命、目的が、宇宙を貫く常住不変の法に合致していることです。結論すれば、広宣流布の使命を自覚し、大願に生き抜く心にこそ、真実の絶対的幸福が築かれるのであります」
広宣流布に生き抜く時、わが生命に、地涌の菩薩の、そして、仏の大生命が脈動する。流罪の身であろうが、獄中であろうが、あるいは、闘病の身であっても、そんなことには、決して煩わされることのない、大歓喜、大充実、大満足の生命が開かれていくのである。それが絶対的幸福である。
懸命に信心に励むなかで、その一端を体験している同志は、少なくないはずである。いかに貧しく、病苦をかかえながらも、地涌の使命に燃え、毅然と折伏に歩いた時の、あの生命の躍動と歓喜と充実である。
どんな豪邸に住んでいようと、仏法を知ろうともせず、学会を蔑み、水や塩を撒く人を見ると、心の底から哀れに感じ、″必ず、この人に、真実の幸せの道を教えてあげたい″と痛切に思ったにちがいない。その境地こそが、絶対的幸福境涯へと至る大道なのだ。
50 厳護(50)
戸田城聖は、支部総会などで、大病や経済苦を克服した体験発表を聞くと、同志の功徳を祝福しながらも、よく、こう語った。
「私の受けた功徳を、この講堂いっぱいとすれば、みんなの功徳は、ほんの指一本にすぎません。まだまだ小さなものです」
戸田は、頑健な体や、技能、大資産をもっていたわけではない。彼は、本当の大功徳とは、相対的幸福ではなく、絶対的幸福境涯の確立にあることを教えたかったのである。
山本伸一は、「諸法実相抄」講義で、祈るような思いで訴えた。
「広宣流布のために、祈り、法を弘める、私どもの日々の活動こそが、一生成仏への道であり、三世にわたる絶対的幸福を確立する直道なのであります。
どうか皆さんは、それこそが、人間として、最も尊い生き方であることを強く確信するとともに、最大の誇りとしていっていただきたいのであります」
伸一の講義の反響は、大きかった。
――「目の覚める思いで、講義が掲載された聖教新聞を読みました。仏法の精髄に触れた思いがします」「創価学会員として信心に励むことのできる喜びを、しみじみと、かみしめました」などの声が続々と寄せられた。
この「教学の年」(一九七七年)の伸一の講義は、「諸法実相抄」だけではなかった。教学理論誌の『大白蓮華』にも、一月号から「百六箇抄」講義の連載を開始した。
さらに、この年は、六回にわたる「生死一大事血脈抄」講義のほか、「報恩抄」「法門申さるべき様の事」「撰時抄」「開目抄」などの講義が、相次ぎ聖教新聞紙上に掲載されていったのである。
伸一は、日々、寸暇を惜しんで懸命に御書を拝し、思索に思索を重ねた。また、さまざまな会合で、御書を通して激励を重ねた。
自分は、ただ号令をかけるだけで、行動を起こさなければ、何事も進むことはない。
伸一は、自らの実践をもって、教学運動の新しい大波を起こそうとしていたのだ。
51 厳護(51)
一月十五日、大阪府豊中市の関西戸田記念講堂には、全国から四千五百人の教授代表が集い、晴れやかに教学部大会が開催された。
十二日の夜から、日本列島は寒波に見舞われ、積雪、レールのひび割れ、停電騒ぎ等が相次ぎ、列車などのダイヤは大幅に乱れた。
しかし、この日の朝、大阪地方は、まばゆい陽光に包まれたのである。
参加者は、「教学の年」の重要な行事となる教学部大会とあって、輸送機関の混乱をものともせずに、喜々として集って来た。
山本伸一は、この大会を、「教学新時代」の幕開けにしようと決意し、自ら記念講演も行おうと、準備に力を注いできた。
「教学新時代」とは、仏法の法理を現代社会に、世界に展開し、未来創造の新思潮を形成していく時代である。伸一は、それには、教学上の一つ一つの事柄を、″人間のための宗教″という視座に立って、根源からとらえ直し、その意味を明らかにするところから、始めなければならないと考えていたのだ。
教学部大会の式次第は進んだ。
一月半ばという真冬にもかかわらず、場内には、新しい思想運動を起こそうとする、参加者の熱気が満ちあふれていた。
最後に、伸一の登壇となった。皆、胸を躍らせながら、彼の話を待った。
伸一は、参加者の労をねぎらったあと、一気に本題に入った。
「仏教は、本来、革命の宗教なのであります。釈尊が仏教を興したのも、権威主義に堕し、悩める民衆の救済を忘れたバラモン教に対して、宗教を人間の手に取り戻すためであったことは、周知の事実であります。
″宗教のための人間″から″人間のための宗教″への大転回点が、実に仏教の発祥でありました。仏教は、まさしく、民衆蘇生のための革命のなかから生まれたと言っても、過言ではないのであります」
明快な語り口であった。誰もが″そうだ!″と思った。宗教が、儀式や権威のベールに包まれる時、その精神は衰退し、滅していく。
52 厳護(52)
仏教は、民衆の蘇生をめざして出発したにもかかわらず、やがて、戒律主義に偏して、出家僧侶を中心とする一部のエリートの独占物となっていく。
そんな仏教教団の在り方に対して、改革の烽火が上がり、釈尊滅後百年ごろ、仏教教団は分裂を招くことになる。従来の出家中心の保守的な「上座部」と、在家民衆に光を当てようとする、進歩的な「大衆部」に分かれていくのである。
そして、仏教を、釈尊の精神という原点から問い直そうという、本格的な宗教革命の流れが起こる。大乗仏教運動である。自利的で、形式主義に陥り、民衆の苦悩から遊離した出家仏教に対して、民衆救済の仏教への流れがつくられていったのである。
この仏教覚醒の大波が、インドから中国、さらに、日本へと広がっていくのである。
山本伸一は、強く訴えた。
「民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞、形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が″出家仏教″に陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実があります。もともと仏教とは、民衆のものであり、出家たる法師もまた、民衆の指導者の意味であったのであります」
伸一は、釈尊の仏法が変質し、衰退していった要因を明らかにすることによって、日蓮仏法が、決して同じ轍を踏むことがないよう、戒めとしたかったのである。
その仏法興廃のカギを握ってきたのが、衆生を導く「法師」の存在である。ここで彼は、日寛上人の「撰時抄愚記」を引き、「法師」について論じていった。
「『大法師』とは、今はいかなる時かを凝視しつつ、広宣流布の運動をリードし、能く法を説きつつ、広く民衆の大海に自行化他の実践の波を起こしゆく存在なのであります。
そのためには、時代の激流を鋭く見極め、時には、民衆の盾となり、民衆と共に、仏法のために戦いゆくことが、法師の必要条件となるのであります」
53 厳護(53)
山本伸一は、自ら「法師」の尊い姿を示された方こそ、御本仏・日蓮大聖人であることを述べた。そして、「法師」の在り方を示された、大聖人の御指導を拝した。
「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」
僧となりながら、勇気の実践なく、怠惰に流されていった者は、法師の皮を着た畜生であり、仏法の体内から、仏法を滅ぼしていくことへの、警鐘を鳴らされているのだ。
「末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり」
末法で法華経を行ずる大乗の僧は、人に憎まれ、大難を受け、果敢に戦いを続ける人なのだ。また、弘教に挺身し、民衆の救済に生き抜いていかねばならないと仰せなのだ。
それに対して、在家の在り方については、次のように述べられている。
「然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」
僧侶は、専ら折伏に徹し、三類の強敵と戦い、広宣流布せよと言われているのに対して、在家は、ひたすら題目を唱え、供養し、力にしたがって仏法を語るべきであると言われているのだ。いわば、在家には、側面からの応援を託されているのである。
これらの御文を紹介したあと、伸一は、力を込めて語った。
「この在家と出家の本義に照らしてみるならば、現代において創価学会は、在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は、世界にないのであります」
現代において、誰が広宣流布を推進してきたのか。誰が法難を受けてきたのか――創価学会である。ゆえに、学会は、その精神、実践においては、出家、法師といえよう。
54 厳護(54)
山本伸一は、さらに「出家」の真意について掘り下げていった。
もともと「出家」とは、「家を出る」と書き、名聞名利の家を出て、煩悩の汚泥を離れる、との意味である。剃髪は、仏道を究めるまで、二度と家に帰るまいとの決意のしるしであった。
大乗経典の大荘厳法門経には、出家について、次のようにある。
「菩薩の出家は自身の剃髪を以て名けて出家と為すに非ず。何を以ての故に。若し能く大精進を発し、為めに一切衆生の煩悩を除く、是を菩薩の出家と名く。自身染衣を被著するを以て名けて出家と為すに非ず。勤めて衆生の三毒の染心を断ず。是を出家と名く」
菩薩とは、一切衆生の救済のために修行する人をいう。その菩薩の出家とは、ただ自分が髪を剃ることを出家というのではない。では、何をもってそう呼ぶのか。大精進を起こして、一切衆生の煩悩を取り除く――これを菩薩の出家というのである。
僧侶の衣を着ることを出家というのではない。力を尽くして、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒に、衆生の心が染まっていくことを断じていく――これを出家というのだ、との意味である。
形式ではない。どこまでも、民衆の真っただ中に飛び込み、人びとの苦悩をわが苦悩として戦うなかにこそ、真実の出家の道があるのだ。人びとを救うために何をするのか、何をしてきたのかこそ、問われねばならない。
伸一は、こうした考察を述べたあと、参加者に力強く呼びかけた。
「私ども学会員は、形は在俗であっても、その精神においては、出世間の使命感をもって、誇りも高く、仏法流布のために、いよいよ挺身してまいりたいと思うのであります」
盛んな賛同の拍手が鳴り響いた。
仏教の原点に立ち返るならば、権威や形式の虚飾が剥ぎ取られ、一切の本義が明快に照らし出されていく。参加者は、赫々たる太陽の光を浴びる思いで、伸一の話を聴いていた。
55 厳護(55)
山本伸一は、次いで、寺院の起源から、その意義について論じていった。
――釈尊の化導方式は、「遊行」であり、全インドを歩きに歩き、民衆のなかで仏法を説いた。
ところが、インドには雨期がある。一年のうち、三カ月間は遊行できない。その間、弟子たちは、一カ所に集まって修行に励んだ。その場所が、舎衛城の祇園精舎や、王舎城の竹林精舎など、「精舎」である。そこは、文字通り、修行に精錬する者のいる舎であり、これが、寺院の原形となるのである。
修行し、研鑽を深めた僧たちは、雨期が過ぎれば、また、各地に散っていった。つまり、当時の精舎は、現在の寺院のように、僧職者が、そこに住み、宗教的儀式を執り行うためのものではなかった。いわば、修行のための「拠点」であったのである。
後にインド仏教の中心となったナーランダー寺院では、研鑽も充実し、一種の大学の機能を果たしていた。各地から修行者が集まり、起居をともにしながら、仏教の教義、布教の在り方などを学び、一定の期間を終えると、各地に戻っていったのである。まさに、現代の学会の講習会、研修会を彷彿とさせよう。
寺院を意味する「伽藍」は、僧伽藍摩(サンガーラーマ)の略で、仏道修行に励む人びとが集まる場所であったことに由来している。また、寺院は、そこに集って仏道修行にいそしみ、成道をめざす場であったことから、「道場」ともいうのである。
伸一は、寺院本来の意義を明らかにし、大確信を込めて訴えた。
「創価学会の本部・会館、また研修所は、広宣流布を推進する仏道実践者が、その弘教、精進の中心拠点として集い寄り、大聖人の仏法を探究するところであります。そして、そこから活力を得て、各地域社会に躍り出て、社会と民衆を蘇生させていく道場であります。すなわち、寺院の本義からするならば、学会の会館、研修所もまた、『現代における寺院』というべきであります」
56 厳護(56)
最後に山本伸一は、法華経神力品の「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経575㌻)の、「世間に行じて」について述べていった。
「世間とは、社会であり、社会の泥沼のなかで戦うのでなければ、衆生の苦悩の闇を晴らすことは、不可能なのであります。
日蓮大聖人が、当時、日本の政治などの中心地であった鎌倉で、弘教活動を展開されたのも、『世間に行じて』との、経文通りの御振る舞いであります。ゆえに、世間へ、社会のなかへ、仏法を展開していかなければ、大聖人の実践、そして、目的観とは、逆になってしまうことを恐れるのであります。
今、私は、恩師・戸田先生が、昭和二十八年(一九五三年)の年頭、わが同志に、『身には功徳の雨を被り、手には折伏の利剣を握って、師子王の勇みをなしていることと固く信ずる』と述べられたことを思い出します。
私どもも、燦々たる元初の功徳の陽光を浴びながら、慈悲の利剣を固く手にし、師子王のごとく、この一年もまた、悠然と、創価桜の道を切り開いてまいりたいと思います」
共感と誓いの大拍手が轟いた。
伸一は、社会を離れて仏法はないことを、伝え抜いておきたかったのだ。
荒れ狂う現実社会のなかで、非難、中傷の嵐にさらされ、もがき、格闘しながら、粘り強く対話を重ね、実証を示し、正法を弘めていく。そこに、末法の仏道修行があり、真の菩薩道があるのだ。
原点を見失い、草創の心と実践を忘れた宗教は、形式化、形骸化し、儀式主義に陥り、官僚化、権威化する。そして、民衆を睥睨し、宗教のための宗教となる。それは、宗教の堕落であり、精神の死である。
日蓮仏法を、断じてそうさせてはならない。大聖人の大精神に還れ――仏法厳護のために伸一は、自ら大教学運動の旗を掲げ、決然と、新時代開拓の扉を開こうとしていたのである。