Nichiren・Ikeda
Search & Study
46 栄光(46)
伸一は、加賀を傍らに呼んだ。
「お母さんを亡くされたんだね」
「はい……」
そう答えると、加賀の瞳は、見る見る涙で潤んでいった。
「山本先生のもとに行きなさい」と、創価中学の受験を勧めてくれ、入学式の時には、目頭を拭いながら、満面に笑みを浮かべていた母である。「お母さん」という言葉を聞くだけで、少年は涙が込み上げてくるのだ。
伸一は言った。
「お母さんが亡くなっても、悲しまないで、学校がお母さんなんだと思って頑張りなさい。人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだ。
深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれるんだ。偉人は、みんな、そうだ。だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ。
学園建設の一年の記録は、君の人生の記録でもある。お母さんへの感謝と誓いを込めて、一緒に本をつくろうよ」
頷く少年の瞳が決意に光った。それは凛々しい若武者の顔であった。
五月十一日には、伸一が出席して、校史の第一回の編集会議が開かれた。二十人ほどの会議であった。青年時代に、戸田城聖の経営する出版社で、少年雑誌の編集長を務めた彼は、この機会に、編集の在り方や醍醐味を教えたかった。
語らいは弾んだ。生徒の質問を受けながら、伸一の話は、文学や読書にも及んだ。それは、創立者の楽しき″特別講座″の観を呈していた。校史には、伸一も「発刊によせる」を寄稿することになった。
六月十五日に行われた編集会議にも、伸一は顔を出した。この時、校史のタイトルが『創価学園 建設の一年』と、決定したのである。
それから六日後の二十一日にも、突然、伸一は学園を訪れた。そして、校史の校正作業にあたるメンバーの作業室をのぞき、ともにゲラを見ながら、校正の力を培うことの大切さを語ったのである。
47 栄光(47)
山本伸一が創価学園への訪問を重ねていた、ある日の朝、妻の峯子が言った。
「あなた、今日は、学園に行かれるんですね」
この日、峯子には、まだ、その予定を伝えていないはずであった。
「どうして、わかったんだい」
「そりゃあ、わかりますよ。学園に行かれる日は、朝から楽しそうにしていらして、いつもと違いますもの」
伸一は、確かに、そうかもしれないと思った。
学園生は、彼が、その成長を最大の生きがいとし、人生のすべてを注いで、慈しみ、育てようとしている人たちである。学園生と会えると思うと、楽しみで、喜びが込み上げてくるからだ。
一学期の期末試験を終えた七月十七日、第二回の栄光祭が開催された。
前年に、寮祭として始まった栄光祭であったが、この年から、全校生徒が参加する学校行事として、行われることになったのである。
この前日には、アメリカの宇宙船「アポロ11号」が、人類初の月面着陸をめざして、宇宙に飛び立っていた。
伸一は鳳雛たちの未来に思いを馳せながら、午後五時前、学園に到着した。
「遂に、できました」
出迎えた教師の一人が、彼に数冊の本を差し出した。
校史『創価学園 建設の一年』である。
伸一は、本を手にとって、ページをめくると、笑みを浮かべた。
「立派な本ができたね」
それから彼は、会場のグラウンドに向かった。栄光祭のテーマは「栄光の青春」であった。
十二年前の七月、伸一は、創価学会という民衆勢力の台頭を恐れた国家権力によって、不当逮捕され、投獄された。
そして、獄中闘争を続け、生涯、権力の魔性と戦い抜き、民衆の勝利のために挺身し抜くことを誓った彼が出獄した日が、この七月の十七日であった。
伸一は、ここに集った学園生が、自分の志を受け継ぎ、民衆の勝利のために戦う指導者に育ってほしかった。いな、そうなってくれることを確信していた。
グラウンドの中央には、舞台が特設され、その後ろのパネルには、力強く羽ばたく鷲が描かれていた。
48 栄光(48)
伸一がグラウンドの席に着くと、栄光祭は開幕となった。
第一部は、民謡大会である。
学園には、全国各地の出身者がいることから、「阿波踊り」に始まり、「北海盆唄」「ちゃっきり節」「鹿児島おはら節」などの歌や踊りが次々と披露された。
第二部では、フォークソングの演奏、パントマイム、創作劇などが、参加者を沸かせた。
フィナーレでは、この日のためにつくられた、「栄光祭音頭」を生徒全員で踊り、学園寮歌「草木は萌ゆる」の合唱となった。
どの演目にも、工夫が凝らされていた。英知があふれていた。力強さがあり、青春の情熱がみなぎっていた。
開校から一年三カ月余り――生徒たちが、たくましく大きな成長を遂げていることが、伸一は何よりも嬉しかった。
寮歌を歌い終わると、生徒たちは、伸一の周りに集まってきた。
彼は語り始めた。
「どうもありがとう!
私の根本の使命は、つまり、人生の本当の総仕上げは、二十一世紀に誇る偉大な指導者をつくることです。
その方法は、教育しかありません。その教育に全魂を打ち込んでいくことが、私のこれからの最大の仕事となります。
したがって、私は、学園の創立者として、諸君が偉大な大樹に育ってもらいたいと、常に、心から念願しております。それが私の最大の願いであります。どうか、しっかり、頑張っていただきたい」「はい!」
元気な鳳雛の声が、こだました。
武蔵野の空を、夕闇が包み始めていた。
千人を超す生徒が皆、瞳を輝かせ、真剣な顔で、伸一の話に、一心に耳を傾けていた。
「諸君こそ、二十一世紀の人生を生きる、二十一世紀の指導者です。二十一世紀まで約三十年、諸君はその時、四十代です。私は、今年、四十一歳になりました。これからの十年間、また、十五年間が働き盛りです。
諸君は、今の私と、ほぼ同じ年代に、二十一世紀を迎えることになる。まさに、働き盛りで、新世紀を迎えることになるんです」
伸一は、未来を仰ぎ見るように、空の彼方に視線を向けた。
49 栄光(49)
山本伸一は、言葉をついだ。
「二十一世紀の初めには、この一期生、二期生から、社長や重役、ジャーナリスト、あるいは、科学者、芸術家、医師など、あらゆる世界で、立派に活躍する人がたくさん出ていると、私は信じます。また、ある人は、庶民の指導者として、地味ではあるが、輝く人生を生きているかもしれない。
その二十一世紀に入った二〇〇一年の七月十七日に、ここにいる先生方と、千人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか」
「はい!」
誓いのこもった声が、夕空に舞った。
伸一は、さらに、人生には、さまざまな試練や苦労があるだろうが、すべて、指導者としての訓練と受け止めて克服してほしいと訴え、再び、呼びかけた。
「その一つの決勝点として、西暦二〇〇一年をめざそう。一人も負けてはいけないよ。健康で、世界に輝く存在として集まっていただきたい。
獅子から育った子は、全部、獅子です。この創価学園から育った人は、皆、栄光輝く使命を担った存在です。
人生の栄光とは、どんな立場であれ、わが使命に生き抜くなかにある。根本的には、社会的な地位や役職が高いとか低いとか、富貴であるかないかなどは、問題ではない。人間として、どう輝くかです。
私も、二〇〇一年を楽しみにして、諸君のために道を開き、陰ながら諸君を見守っていきます。それが、私の最大の喜びであるし、私の人生です。
そういうつもりでおりますから、どうか思う存分に、それぞれの人生を、堂々と闊歩していっていただきたい」
伸一は、この日、生徒たちが退場するまで、手を振って見送った。
彼らは二〇〇一年に集おうと言われても、実感はわかなかった。
ただ、二十一世紀の世界平和を担う人材を、命がけで育てようとする、創立者の心は、痛いほどわかった。その心に、なんとしても応えようと思った。
栄光祭は、鳳雛たちの二十一世紀への旅立ちの舞台となり、人生の誓いの場となったのである。
50 栄光(50)
山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。
この年の夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。
彼は、その後も、幾たびとなく、学園への訪問を重ねた。″ヨーロッパ統合の父″クーデンホーフ・カレルギー伯爵をはじめ、世界の識者を案内することもあった。
句会を提案し、生徒たちと、句を詠んだこともあった。
臨海学校や林間学校の折には、ともに泳ぎ、一緒に魚を追ったこともあった。自ら湯加減を調整し、生徒たちを風呂に入れたり、夜、生徒の部屋を見て回り、風邪をひかないように、そっと布団をかけたこともあった。
伸一は、固く心に決めていた。
たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこう――と。
創価学園の三十余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。そんな時、伸一は、その生徒のために、深い祈りを捧げ続けた。
ある年の秋、学園を訪問した伸一は、中学三年生の寮生の二人が、不祥事を起こして退学処分となり、郷里の大阪に帰るとの報告を聞いた。
彼は、早速、二階の寮生の部屋を借りて、彼らに会うことにした。
部屋に来た二人は、伸一の前に、かしこまって座った。膝が触れ合うぐらいの距離である。伸一は、できることなら、退学という事態は回避したかったが、規則は規則である。
また、既に学校が決定したことを、覆すわけにはいかなかった。
伸一は二人を見た。彼らは、きまり悪そうに目を伏せた。
入学した時は、瞳を輝かせ、希望に胸を膨らませていたはずである。しかし、今、学業半ばで学園を去っていくのだと思うと、残念で、かわいそうで仕方なかった。また、親の悲しみは、どれほど深いかを考えると、胸が張り裂けるような思いがした。
″この二人を、不幸にはしたくない。生涯、私は見守っていこう″
51 栄光(51)
伸一は、退学になって大阪に帰る二人に、全生命を注ぎ込む思いで言った。
「私は、何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ。私が大阪に行った時に、二人そろって、会いにいらっしゃい。何がなんでも、絶対に会いに来るんだよ。いいね」
伸一は、彼らの成長を真剣に祈り念じながら、見送った。
それから、二年ほどしたころ、大阪を訪問していた伸一を訪ねて、二人は関西文化会館に来た。といっても、伸一との約束を聞いていた家族に促されて、やって来たのである。
二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。ロックンローラーのような格好で現れた彼らに、面食らったのは、会館の受付のメンバーであった。
二人が取り次いでもらうには、詳細に、事情を説明しなければならなかった。
伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、何よりも嬉しかった。
「よく来た。本当に、よく来たね!」
文化会館の事務所の前で、懇談が始まった。二人は、今は地元の大阪の高校に通っているという。
伸一は、彼らが、どんな進路を選ぶのかが、気がかりでならなかった。
「大学はどうするの」
「英語が、わからへんから行けませんわ。働きます」
「しかし、大阪弁がそれだけしゃべれるんだから、英語だって、やればできるだろう」
その言葉に、彼らの心も和んだようであった。
「先生。全然、ちゃいますよ」
「そうか」
二人の顔に、屈託のない微笑が浮かんだ。
「まぁ、大学に行くことだけが、人生ではないからな……。
自分の決めた道で勝てばいいんだよ」
そう言うと伸一は、自分の原稿料から、そっと小遣いを渡した。
「君たちに会えて、よかった。また、会おう。必ず会いに来るんだよ。それから、お母さん、お父さんを大切にね」
「はい!」と、笑顔で頷く二人の顔が、伸一には、限りなくかわいらしく感じられた。
52 栄光(52)
中退した二人は、その後も約束を守り、伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。
伸一は、そのつど、温かく彼らを迎えた。
出会いを重ねるにつれて、二人の表情は明るくなり、生き生きとしてくるのが、よくわかった。
高校を卒業した彼らは、やがて、二人とも地下鉄の運転士となる。
そして、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。皆、かわいい、わが子であった。
伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も折に触れて続けられた。
たとえば、下宿生の中心者となった、あの矢吹好成にも、さまざまな機会に、励ましを送り続けていった。
矢吹は、その後、創価学園の諸行事の運営に、自ら積極的に携わるようになり、高校卒業後は、その年(一九七一年)に開学した創価大学の経済学部に進学した。
ここでも、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。そして、彼は、一九七五年(昭和五十年)に創価大学を卒業すると、アメリカのミネソタ州のグスタフ・アドルフ大学に留学した。
渡米してしばらくは、緊張感もあったが、すべてが珍しく、楽しい留学生活であった。
また、日本の友人たちからも、近況を伝える便りがたくさん届いた。
しかし、秋になり、冬が近づくころになると、ほとんど手紙も来なくなった。ミネソタの冬は寒く、真冬には、氷点下二〇度から三〇度にもなる日がある。
英語は、なかなか上達しなかった。授業も難しかった。矢吹は、迫り来る冬に追い詰められるように、焦りに苛まれていった。現地には、相談できる先輩もいなかった。孤独感がつのった。
日本にいる友人たちのなかには、社会で目覚ましい活躍をしている人も少なくなかった。
それを思うと、自分だけが、取り残されたような気がするのである。
53 栄光(53)
寒さは、日ごとに厳しさを増してきた。
矢吹は、いつものように、大学の構内にある自分用のメールボックス(郵便箱)を見た。
日本からの手紙など、途絶えて久しかったが、授業が終わると、条件反射的に、ほのかな期待を込めて、メールボックスをのぞくのである。それは、何もないことを確認し、空しさを噛み締めるための、日課のようでもあった。
だが、その日は、一通の手紙が届いていた。
手に取って、差出人を見た。英文タイプで、シンイチ・ヤマモトと、打たれていた。
″まさか、山本先生から、直接、手紙が来ることはないだろう″
そう思いながらも、高鳴る胸の鼓動を感じながら、急いで封を切った。
便箋に、青いインクで書かれた文字が、目に飛び込んできた。
見覚えのある、山本伸一の字であった。
夢中で、便箋に目を走らせた。
「矢吹君に。
君よ、わが弟子なれば、今日も、三十年先のために、断じて戦い進め。
君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。
君には、多大なる責任と使命があるのだ。その為に犠牲になったとしても、後輩の道だけは、堂々と切り開くことだ。祈る、健康と成長。 伸一」
涙で文字がかすんだ。
矢吹は手紙を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。″ぼくは、遠く離れたアメリカで、ひとり取り残されたように感じていた。だが、それは、自分がそう感じていただけだった。先生は何も変わっていなかった。いつも、ぼくのことを考えてくださっていたんだ″
涙を拭うと、矢吹は、再び手紙を読み返した。
生命に焼き付けるかのように、何度も、何度も、読み返した。
″そうだ。先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ! 負けるものか!″
こう誓った時、彼は、胸に、ふつふつと勇気がたぎり、全身にエネルギーがみなぎってくるのを覚えた。
54 栄光(54)
伸一は、その後も矢吹好成が帰国した時や、自身がアメリカを訪問した折などに、彼と会っては激励した。
「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」
まだ、日本の創価大学自体が、完全に軌道に乗ったとはいえない時期である。アメリカ創価大学の建設など、誰もが、夢のまた夢と考えていたにちがいない。しかし、矢吹は、それを、やがて来る現実であるととらえ、懸命に勉学に励み、九年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。
国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
その精神のもと、一九七一年(昭和四十六年)、東京・八王子市に創価大学が開学したのをはじめ、創価の一貫教育は着々と整えられていった。
七三年(同四十八年)には、大阪の交野市に創価女子中学・高校が開校。七六年(同五十一年)には、北海道の札幌市に札幌創価幼稚園がオープンした。
七八年(同五十三年)には、小平市に東京創価小学校が開校となった。
また、創価中学・高校では、八二年(同五十七年)度から女子生徒を受け入れ、男子校から男女共学に移行している。一方、創価女子中学・高校も、この年、男女共学となり、名称も関西創価中学・高校に変更。大阪の枚方市には、関西創価小学校が開校した。
さらに、一九八五年(昭和六十年)には、創価大学構内に創価女子短期大学が開学したのである。
創価教育は世界にも広がり、幼児教育では、九二年(平成四年)に香港、翌年はシンガポール、九五年(同七年)にはマレーシアに、創価幼稚園がオープン。
そして、二〇〇一年(同十三年)には、ブラジルにも創価幼稚園が開園した。
55 栄光(55)
アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)二月、創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンし、後にアメリカ創価大学に発展。九四年(平成六年)九月から大学院がスタートした。そして、新世紀開幕の二〇〇一年(同十三年)の五月三日には、オレンジ郡キャンパスが開学。「生命ルネサンスの哲学者」「平和連帯の世界市民」「地球文明のパイオニア」の育成をめざして、アメリカ創価大学が本格的に始動したのだ。
この新しい出発に際して、学長に就任したのは創価学園出身の、あの矢吹好成であった。
創価学園生は、第二回栄光祭(一九六九年)で山本伸一が提案した、″二〇〇一年の再会″を目標に、それぞれの使命の道をひた走って来た。
そして、二〇〇一年(平成十三年)九月十六日、創価学園二十一世紀大会が開催され、一、二期生はもとより、十八期生までの代表約三千二百人が、日本全国、さらに世界十六カ国・地域から母校に帰って来たのである。
開校から三十三年余。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
卒業生からは、百四十人の医師が、百十一人の博士が、六十人の弁護士など法曹関係者が、六十人の公認会計士が、四百六十二人の小・中・高の教員が誕生していた。会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。
伸一は、体育館の壇上から、誓いを果たして栄光の大鵬となって集い来った鳳雛たちに、合掌する思いで視線を注いだ。
わが後継の大鵬たちの顔を、心に焼きつけておきたかったのである。
式典には、ロシア連邦・サハ共和国の賓客、また創価教育に共鳴してインドに創立された、彼の名を冠する女子大学の一行など、海外の多くの友も祝福に駆けつけ、まさに世界市民の同窓会となった。
この日、伸一は、創価教育七十五周年――すなわち、一九三〇年(昭和五年)に牧口常三郎と戸田城聖の師弟によって『創価教育学体系』第一巻が発刊されてより、七十五周年にあたる二〇〇五年(平成十七年)の再会を約し合いつつ、万感の思いで詠んだ。
偉大なる
成長歓び
喝采を
我も挙げなむ
君たち勝ちたり