Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命を尊厳ならしめるもの 「『人間の世紀』第一巻」から

1973.1.0 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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45  簡単に、この内容、特質を紹介すると、地獄とは苦悶する生命であり、餓鬼とは貪欲な衝動の生命である。畜生とは目先のことにとらわれる愚かさ、修羅は闘争の心、いわゆる平常の静かな人間らしい心が人間界、喜び楽しむ生命が天界である。以上を六道と言い、日常的な人間生活は、この六道を転々としているというのが「六道輪廻」である。このように瞬間瞬間、生命が変転するのは外界の縁によるが、受動的にあるがままに生きている限り、この六道の範疇は出られないというのが「六道輪廻」ということである。声聞以上の生命は、自ら自己変革の意志をもって、能動的、主体的に縁をつくり実践していく時に、初めて覚醒させることができる。声聞とは先覚者の教えを求め、それに習って自己を変革しようとする心であり、縁覚とはいわゆる飛華落葉の自然現象、宇宙の姿に想いを凝らし、自ら悟りを得ようとする心である。広い意味では書を読み学問することに喜びを見いだしていく生命も声聞と言えるし、芸術的創造活動や自然界や社会の現実の中から真理を究めることに無上の喜びを覚えるのは縁覚と言えるであろう。
46  仏界とは宇宙と生命の本質、究極的真理を体得し、自己の不滅と宇宙との一体性を悟り究めた絶対的な心の状態である。それは一切を包容し、一切を生かしていく無限の智慧をともなう。仏教が説く究極の理想、自己の完全性とは、この仏界の生命を確立することである。ここに理想をおいて、自己変革に挑む道程の生命を仏教は菩薩と呼ぶのである。広い意味では、すべての生命に尊厳性を認め、その幸福のために尽くす無辺の慈悲が菩薩の生命である。母が我が子の幸せを願う限られた対象に向ける慈愛も、「菩薩の一分」と説かれる場合もある。
47  ともあれ仏教は、仏界の生命を顕現することを理想と説くが、元来この十界は、すべての人、すべての生命体に備わっているものであって、例えば地獄の生命が苦悶の心であるからといって、これをなくすことはできないとする。生命体として現実に存在する限り苦しみ悩むことは避けられない。欲望もまた生命体の機能として必然的に備わっているものである。逆説的な言い方になるが、こうした苦悩があればこそ、楽しみが楽しみとして感じられるのであり、欲望があればこそ満足感が味わえるのである。
 要は地獄の生命に覆われ埋没してしまったり、餓鬼界の貪欲な衝動に支配されるのでなく、仏界の生命の確立を目指し、菩薩界の生命活動を基軸として、こうした十界の生命を賢明に主体的にリードしていくことである。ここにカントの言う「自己自身の完全性と――他人の幸福」を同時に具現する実践的哲学の原理があると私は考えたい。
48  「殺」の心を殺す
 人間は、生きるためには他の生物の生命を犠牲とせざるを得ない。厳密な意味で生命の尊厳とは、生きとし生けるあらゆる生命体について、その尊厳性を認めるということである。ところが人間は、一方で″生命は尊厳なものである″と言いながら、他方ではその尊厳なる生命を大量に屠ることによって、自己の生命を維持している。いや人間ばかりではない。ほとんどの動物は、その対象が動物であれ植物であれ、生命体を自分の生命維持のための資源としているのである。
 自己の生命の尊厳性と一般的な生命の尊厳性とは、ここで重大なジレンマに陥ることになる。これは人間を中心にした場合、人間の尊厳という問題と生命一般の尊厳という問題との矛盾になる。これに関連して、釈尊の言動をとどめた書に一つの興味深い問答がある。それは――ある人が、「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と問うた。これに対して、釈尊は「それは殺す心を殺せばよいのだ」と答えたというのである。
49  質問のポイントは、殺してよい生き物と殺してはならない生き物との区別を示せということにある。釈尊は、直接にはこの質問に答えていない。だがそれは、はぐらかしたのではなく、より本質的に生命の尊厳というものを明らかにしているのだと私は考える。
 生命の尊厳とは、あらゆる生命を尊厳と認める自身の心の中にある。客観的にみるだけなら、いかなる生命も無常のはかない存在であり、苦悩に覆われ悪業に支配された存在にすぎないであろう。それが人の心に尊厳と映るのは、その人自身がこれを尊厳とみるからである。そして、その一切の生命を尊厳とみる心が、自己の生命を尊厳ならしめるのでもある。この客観性と主観とが一体となったところに、真実の尊厳性が現実化するのだと言ってもよい。
50  こう言えば、それでは尊厳とみたうえでなら、何をどのように殺してもかまわないのかという疑問が起こるかもしれない。私はそれは違うと思う。生命は、自己に関して少しでも生きながらえようとする、自己維持の特質を本然的に持っている。いわゆる生存本能というように、意識下の意識にもそれはあるし、更に深く生命体の機能にもそれは備わっている。他の生命を殺すということは、自己の生命の持っている、そうした特質、法則といったものへの違背になるわけである。そこには単に、意識のうえでの作為では変えられないものがあると思われるのである。
 周知のごとくキリスト教の原罪説は、アダムとイブが悪魔にだまされて、知恵の実を食べたことから人類の罪が始まったとする。その知恵とは善と悪とを判別する知恵であったという。このことは善悪の意識が人間の心に罪を刻むのだということになろう。もしそうであるなら、人間は人間としての高度な精神機能を営み続ける限り、罪の消えることはあり得ないことになる。私は、そうではなくて善と悪とをよく判断し、自らの醜さを深く省みながら、しかもその本源にある生命の尊厳性を実感しうるところに、人間の尊さがあるのだと考えるのである。
     (昭和48年1月 「人間の世紀」第一巻『生命の尊厳』所収)
 〔参考文献〕
 L。マンフオード『機械の神話』河出書屋新社
 L・マンフオード『生活の智恵』福村出版
 E・H・フロム『正気の社△L社会思想社
 速水敬二『ルネッサンス期の哲学』筑摩豊房
 ライフ人間世界史『古代アメリカ』タイムライフ社
 カント『人倫の形而上学の基礎づけ』

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