Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「天舞」 天舞

小説「新・人間革命」

前後
43  天舞(42)
 そして、彼は、二十八歳で自著『パン・ヨーロッパ』を出版。ヨーロッパ統合への行動を開始し、平和建設の旗手として活躍してきた。
 そのクーデンホーフ・カレルギー伯爵が、来日にあたり、招待した団体に、山本伸一との会見を、強く希望したのである。もともと、母の宗教である仏教に深い関心をもっていた彼は、民衆のなかに深く根を下ろし、急速に発展した、仏教徒の団体である創価学会に着目し、その運動や実態を研究していたようだ。そして、学会員が、仏法をもって人びとの苦悩を救おうと、精力的に活動していることに、感動していたという。
 来日前に、フランスのパリで、「東京新聞」のインタビューに応じた伯爵は、次のように語っている。
 「仏教の世界でも長い眠りから覚めて新しいルネッサンスが芽ばえている。(中略)日本でも創価学会の運動が伝えられているが、これは世界最初の友愛運動である仏教のよみがえりを意味している」(一九六七年九月二十三日付夕刊)
 伯爵のいう″友愛″とは、他者を思いやる″慈悲″を根本にした創価の運動の姿を、ヨーロッパの概念にしたがって表現したものであろう。
 ともあれ、伯爵は、学会のなかに、仏教の真実の精神と実践があることを、鋭く見抜いていたのである。また、そのリーダーである山本伸一にも、強い関心をもつようになっていったようだ。
 この日本訪問にあたって、クーデンホーフ・カレルギー伯爵が会見を希望したのは、天皇陛下、皇太子殿下、佐藤栄作首相、三木武夫外相ら、伸一を含めて七人であった。
 伸一は、会見の要請を受けると、快諾した。
 相互理解といっても、また、友情といっても、それは、直接会って、語り合うことから始まるからだ。対話には、人間と人間を結び合う、結合の力がある。
 彼は、仏法者として、人間として、人類の恒久平和の道を、探り当てていかなければならないと決意していた。そのためには、英知と英知の、触発の対話が不可欠であり、恒久平和を共通の目標として分かちもつ、堅固な意志と英知のネットワークを、国家や民族を超え、世界に広げていくしかないと考えていたのである。
44  天舞(43)
 彼は、クーデンホーフ・カレルギー伯爵の母親は日本人ではあるが、この語らいは、東洋と西洋との文明間の対話となるにちがいないと思った。
 伯爵は、伸一が深く敬意を抱いてきた人物の一人であった。伸一は、ヨーロッパ統合の先駆者として行動してきた伯爵から、その信念、哲学、経験を、謙虚に学びたかった。
 創価文化会館の玄関前で、伸一は、伯爵の一行を出迎えた。
 「ようこそ、おいでくださいました。お会いできて大変に光栄です。心から歓迎申し上げます」
 伸一は、握手を交わした瞬間から、旧知の間柄であるような思いがしてならなかった。それは彼が、日本語に翻訳されている伯爵の著作や関係書には、ほとんど目を通し、その主張や思想、生き方に、深く共感してきたからにほかならない。
 会見は、伯爵に同行してきた、招待団体であるNHKの関係者らも同席し、英語の通訳を介して行われた。
 最初に話題になったのは、世界平和に果たすべき日本の使命であった。
 伯爵は言った。
 「私が一番大事だと思っているのは、日本が先頭に立って、平和への理想を実現していくべきだということです。
 核時代の幕が開いたのは約二十年前ですが、現在、世界の多くの国が、次の戦争に向かって準備をしております。
 そのなかにあって、日本は、世界有数の経済力をもち、そして、世界に類例のない平和憲法をもっています。
 また、近代に至るまでの三百年間、日本には、国内でも、また、外国とも戦争がなかった時代があります。
 これは、平和の一つの先例といえます。
 さらに、現在の日本の文化には、西洋の文明、儒教、仏教が融合しています。
 これらを考えると、日本は世界に対して、平和への指導力を発揮していかなくてはならないというのが、私の考えです」
45  天舞(44)
 「大事なご意見です。全く、その通りであると思います」
 伸一は、伯爵の意見に、全面的に賛同することができた。彼も、「平和憲法」をもつ日本の使命の重さを、痛感していたからである。
 日本国憲法の前文と第九条には、平和主義と国際協調主義の理念が明確に謳われている。このうち、第九条の一項では、国権の発動たる戦争の放棄を宣言し、国家主権を、いわば自ら制限しているのである。
 伸一は、その条項に、国連などの国際機関に主権の一部を委ねようとする、憲法自身の″意志″ともいうべきものを感じていた。
 そこには、世界は一つという理想が内包されているといってよい。
 彼は、この憲法こそ、日本国民の最高の宝であると考えていた。
 また、第九条に込められた、戦争の根絶という人類の悲願の実現に、彼は生涯を捧げゆくことを決意していた。それが、とりもなおさず、仏法者の使命であるからだ。
 そして、日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、全世界に広げゆくことこそ、二十一世紀に向かって日本が歩むべき方向性であると、伸一もまた、結論していたのである。
 語らいは、冒頭から、核心に入っていったといえよう。
 伸一は、伯爵と会見できたことに、大きな喜びを感じた。
 世界平和を希求し、その方途を懸命に探求する伯爵は、まさに、彼にとって″同志″にほかならなかった。
 「今日は、日本の青年を代表して、文化国家としての日本の将来のために、大きくは世界平和のために、私の方から、何点か質問をさせていただきます」
 最初に伸一が尋ねたのは、世界の恒久平和の実現を考えた場合、ヨーロッパの統合を推進するだけでなく、さらに、もう一歩、考えを進める必要があるのではないかということであった。
 また、共産主義を排斥するだけの西欧の在り方では、東西両陣営の緊張はますます深まり、平和を達成することはできないのではないかとの、彼の率直な意見を伝えた。そして、感想を求めた。
46  天舞(45)
 伯爵は、最初、伸一の問いに答えていたが、やがて「私にも質問をさせてください」と言って尋ね始めた。
 「創価学会の仏教の復興の運動は、全世界にわたるものなのでしょうか、それとも、日本の国だけのものなのか、どちらでしょうか」
 「もちろん、日本だけではありません。日蓮大聖人の仏法の哲理をもとに、全世界の平和と人類の幸福を実現していくことが、私たちの目的です。
 万人が、『仏』という尊極無上の生命を具えていると説く、仏法の生命の尊厳や平等の哲理、また、『慈悲』という考え方は、世界の平和を築き上げるうえで、必要不可欠なものです。このヒューマニズムの哲理を、人類の共有財産として、世界に伝えていくことこそ、私ども創価学会の使命であると考えております」
 「そうですか。よくわかりました。実は、創価学会に対して、民族主義的であるとか、国家主義的であるといった批判を、よく耳にするんです」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。「日蓮というと、国家主義、民族主義のように思っている人がおりますが、それは、本質を見誤っています。日本の、いわゆる日蓮主義者たちの、誤った日蓮仏法の理解や言動から、そうした印象をつくられてしまったんです。
 日蓮大聖人は、鎌倉幕府の権力者を、『わづかの小島のぬしら主等』と言われているように、日本という国家の枠を超えて、広く人間の幸福を考えておられた。あの鎌倉時代に、仏法を『閻浮提えんぶだいに広宣流布せしめんか』と仰せになっているんです。『閻浮提』とは全世界の意味です。
 それは、一国家にとらわれた偏狭な発想とは、全く相反します。学会は、その御精神のままに、世界に仏法のヒューマニズムの運動を広げてまいりました」
 伸一の話を聞くと、伯爵は頷いた。
 「私は、創価学会の運動が、日本という一国家の民族主義的な運動ではないことが確認でき、大変に嬉しく思います。学会は、世界に大きく貢献できるでしょう」
47  天舞(46)
 伯爵は、さらに矢継ぎ早に、質問を発していった。
 「世界にメンバーは、どのぐらいいますか。そして、その人たちは、日本人ですか、それとも現地の人でしょうか」また、紛争の続くベトナムやカンボジア、さらにフランスなど、それぞれの国のメンバーの数や活動の様子などについて、丹念に尋ねるのであった。
 伸一は、それらの質問に丁寧に答えたあと、仏法とは何かについて言及した。
 「仏法というのは、人間と宇宙を貫く、生命の永遠不変の法則であり、また、人類の平和と幸福を実現するための指導原理といえます。したがって、現代科学とも、決して矛盾するものではありません。むしろ科学技術をリードし、人間の幸福に寄与するものにしていくための、哲学が仏法なんです。
 私たちの運動は、その仏法によって、人間自身の変革、つまり、人間革命をめざすものです。人間は、社会の担い手であり、創造の主体者です。ゆえに、その人間の生命、精神という土壌を耕していくならば、社会も変わっていきます。そして、陶冶された人格、生命の大地の上に、豊かな平和、文化の花を咲かせようというのが、創価学会の運動です。
 いっさいを育む人間の精神に、生命に、眼を向けよ――それが私たちの主張です」
 伯爵は、何度も大きく頷いた。
 「大事なことです。私は、仏教の、時代を超越した、科学と矛盾することのない、普遍妥当性を信じます。創価学会による日本における仏教の復興は、世界的な物質主義に対する、日本からの回答であると思います。これは、宗教史上、新たな時代を開くものとなるでしょう」
 そして、伸一をじっと見つめながら、感慨のこもった声で言った。
 「あなたは、常に非難中傷されながら、日本中の、いや世界の、実に多くの敵と戦っていることを、私は知っています。
 しかし、偉大な人というのは、皆、そうです。ただ、あなたの場合は、その敵でさえも、あなたが、天才的なリーダーであることを認めざるをえません」
48  天舞(47)
 当時、日本国内でも、また、諸外国でも、創価学会、そして、山本伸一への非難と中傷が、しばしば繰り返されていたのである。
 ナチス・ドイツに戦いを挑んで迫害を受け、亡命せざるをえなかったクーデンホーフ・カレルギー伯爵は、正義の旗を掲げ立った者の宿命を、知悉していたのだ。
 伸一は、毅然として語った。
 「今、私が、世界の多くの敵と戦っていると言われましたが、イデオロギーや宗教が異なっているからといって、私にとっては、本来、敵ではありません。
 もちろん、暴力やテロは絶対に悪ですし、民衆を支配し、隷属化させる権力とは、どこまでも戦います。
 しかし、人間の幸福、救済をめざす思想、宗教には、本来、人間を尊重するという共通項があります。それがある限り、必ず通じ合い、共感し合うはずであり、相互理解は可能であると思います。
 さらに、仏法で説く、万人が等しく『仏』の生命をもっているという考え方は、人間を貫く、内なる普遍の世界を開示するものといえます。
 人類がそこに着目し、人間の共通項に目を向けていくならば、分断から融合へと発想を切り替える、回転軸となっていくと確信しています。
 また、宗教の違いによって生じた文化的な差異は、違いを認めるというだけでなく、むしろ尊重すべきです」
 伯爵は、両手を広げて、賛同の意を表した。
 その瞳が輝き、顔には、屈託のない微笑が浮かんでいた。
 伯爵は、宗教戦争を、大きなテーマの一つにして、解決の道を探求してきた。
 そして、この時、伸一の話から、解決のための、なんらかのヒントを、得たのかもしれない。
 会見は、さらに、西洋哲学と仏法思想、国連の在り方、ベトナム問題などに及んだ。
 一時間の語らいは、あっという間に終わってしまった。
 伯爵は、名残惜しそうに席を立った。実りある会見であったが、伸一も、語りたいことや尋ねたいことが、まだ、たくさんあった。
 二人は固い握手を交わし、再会を約し合った。
49  天舞(48)
 日本を発った、クーデンホーフ・カレルギー伯爵から、十一月十八日、伸一のもとに、丁重な礼状が届いた。
 そこには、次のように綴られていた。
 「……貴殿とともに過ごしたあの会見は、私の日本訪問中、最も貴重な時間でありました。私は貴殿の偉大なる業績に賞讃の辞を送るとともに、私が心から敬服してやまない仏教のルネサンスによって、日本一国のみならず、アジアと世界の進路に貢献されんことを、衷心より期待するものであります」
 創価学会への伯爵の期待に、伸一は、世界平和への決意を新たにしたのであった。
 彼は、早速、返書を出した。
 そのなかで、三年後に、伯爵を日本にぜひ招待したいと述べ、次のように結んだ。
 「閣下がご指摘になり、また期待しておられます『仏教のルネサンス』を通じて、また全世界の平和勢力に協力を求めつつ、戦争なく軍備なき恒久平和を樹立することこそ、創価学会に課せられた最高の使命であると自覚し、ますますその決意を固めております。
 何とぞ閣下も長生きをされて、有意義な運動と重要な著作活動をお続けになられるよう、心からお祈り申し上げます。
 再び、近くお目にかかれる日を、楽しみにしております」
 会見の九カ月後、伯爵は、訪日の思い出を綴った、『美の国―日本への帰郷―』(鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会)を発刊した。
 そのなかで、山本伸一に「強く感銘した」として、こう記していた。
 「やっと39歳の、この男から発出している動力性に打たれたのである。彼は生まれながらの指導者である。鎌倉の大仏の模像ではないのである。生命力の満ち溢れている、人生を愛する人物である。率直で、友好的で、かつ非常に知性の高い人物である」
 「この会談は私にとっては、東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つであった」
 伸一と伯爵の交流は続き、書簡のやりとりが重ねられた。
 そして、東西の文明論をテーマにした対談集を出版する話が持ち上がり、次回の来日の際に、その対談を行うことが決まったのである。
50  天舞(49)
 クーデンホーフ・カレルギー伯爵と山本伸一が再会したのは、一九七〇年(昭和四十五年)の十月であった。
 対談の第一回は、七日、創価文化会館で、約三時間にわたって行われた。
 さらに、十七日には、創価学園(一九六八年開校)で、伯爵が「私の人生」と題する講演を行ったあと、四時間以上にわたって語り合った。
 また、二十五日、二十六日の両日は、落成間もない聖教新聞社の新社屋で行われ、対談は、延べ十数時間に及んだ。
 二十一世紀に向かって進みゆく青年のために、指標を残したい――その一心で、伸一は会見に臨んだ。
 対談は、伸一から問題提起をするというかたちで進められた。
 話は、日本論に始まって、国際情勢、国連論、国家論、自然と人間、公害問題、宗教の復権、指導者像、太平洋文明、民主主義、生命の尊重、青年論、女性論、教育論等々、多岐にわたった。
 その底流には、いかにして世界平和を実現するかという、明確な問題意識があった。伯爵は語る。
 「第三次大戦の回避は、なんらかの精神運動によって、人種、宗教、イデオロギー、国籍などによるあらゆる違いと対立を超えて、人類の共存と相互信頼の重要性が徹底された場合にのみ可能だと思います」
 伸一が答える。
 「私が主張する思想的条件とは、まさにその精神的な運動のことです。
 共存への機運がいかに高まったとしても、国家間の対立を止揚するものがなければ、第三次大戦は阻止できないかもしれません。この、あらゆる対立を超えさせるものを、人類の精神の中に構築しなければならないと思います。
 ……つまり、地球民族としての普遍的な精神を打ち立てなければならないと思います。あなたのパン・ヨーロッパ運動が果たした役割も、そこにあったと思うのです。私は、パン・ヨーロッパ主義は、やがて全人類を含めたインターナショナリズムへのワンステップとなるべきものと考えるのですが」
 「おっしゃる通りです」
 魂と魂が触れ合い、発光するかのように、二人の語らいは、人類の暗夜を照らし出す、英知の光となって輝いていった。
51  天舞(50)
 日本を「独自の文明をもつ、太平洋に存在する大陸」であると位置づける伯爵の、日本への期待は大きかった。
 伯爵は、力を込めて、伸一に訴えた。
 「大事なことは、偉大な思想を(日本が)外国に向かって、世界に向けて紹介することです。私は、その時が、すでにきていると信じます。その偉大な思想とは、インドに起こり、中国を経て、日本で大成した、平和的な、生命尊重の仏教の思想です」
 それは、伯爵の熱願であったにちがいない。
 伸一には、その言葉が遺言のように感じられてならなかった。
 現代社会の不幸の元凶は、人間生命が尊厳なる存在であるという、本源的な考えが欠如していることだ。この思考を欠いては、人間の復権はありえない。
 生命の尊厳とは、人間の生命、人格、個人の幸福を、いかなることのためにも、手段にしないということである。そして、それを裏付ける大哲理が世界に流布されなくては、本当の人類の幸福も平和もない。
 伯爵は、それを痛感していたのであろう。
 伸一は、誓いを込めて語った。
 「それは、私自身、これまでも真剣に取り組んできた問題です。これからも、生涯の念願として、世界の平和のため、人類の幸福のために、微力をつくす決意でおります」
 伯爵の口もとがほころび、顔には幾重にも深い皺が刻まれた。
 この対談は、翌一九七一年(昭和四十六年)の二月から、サンケイ新聞に、「文明・西と東」のタイトルで、半年間にわたって連載された。
 週二回、五十三回にわたって、紙面を飾ったのであった。
 さらに、七二年(同四十七年)には、対談集『文明・西と東』として、サンケイ新聞社出版局から発刊されたのである。
 この書を手にした人びとは、世界的な知性が創価学会を渇仰していることに驚愕した。また、同志は、いよいよ仏法という希望の旭日が、世界の海原に昇りゆく、時代の到来を感じるのであった。

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