Nichiren・Ikeda
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第20巻 「信義の絆」
信義の絆
小説「新・人間革命」
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42 信義の絆(42)
この日、ワシントンDCは、朝から雪がちらついていた。
ドームのある白亜の国会議事堂が、自由の国アメリカの威風を誇示するように、堂々とそびえ立っていた。
国務省は、リンカーン記念館の近くにあり、ホワイトハウスからも、一キロにも満たない距離である。
キッシンジャー国務長官と山本伸一の会談は、長官の執務室で午後二時半から行われた。
長官は、フォード大統領の年頭教書の発表を控えて多忙であったが、時間を割いてくれたのであった。
「ご多忙のなか、時間をつくっていただき、光栄です」
伸一が言うと、長官はメガネの奥の瞳を輝かせて語った。
「ようこそ! お待ちしておりました」
これまで、何度か書簡をやりとりしていたせいか、旧知の友と再会したように、和やかな雰囲気が執務室に広がった。
「最初に記念撮影をしましょう」
長官の笑顔に誘われ、共にカメラに納まった。
伸一はソファに案内された。二人の中間にはアラベスク模様の電気スタンドがあった。その明かりに照らされながら、会談は始まった。
室内には、キッシンジャーと伸一、アメリカ側の通訳の三人しかいなかった。
伸一は、まず、アメリカの都市や州から、これまで四十ほどの名誉市民称号を受けていることに対して、御礼を述べた。
キッシンジャー長官は「それは、私たちにとっても光栄で、嬉しいことです」と、笑みを浮かべて応じた。しかし、激務のゆえか、その顔には、疲労の色がにじんでいるように思えた。
伸一が現下の国際情勢について話を切り出すと、長官の目が光った。
伸一は、キッシンジャーが一九六九年(昭和四十四年)の一月にニクソン大統領の補佐官となって以来、その奮闘に目を見張ってきた。
彼には、時代を読む鋭い洞察力があった。緻密な計画性があった。そして、何よりも、エネルギッシュで果敢な行動力があった。
第三十五代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは述べている。
「変革というのは行動なのである」
43 信義の絆(43)
キッシンジャーは、冷徹な現実主義者であり、理想主義の対極にあるかのように評されてきた。
しかし、理想を実現しようと思うならば、現実を凝視せねばならない。現実から目をそらすならば、そこにあるのは「理想」ではなく、「空想」である。
キッシンジャーは、現実の大地にしっかと立って、理想の松明を掲げ持ってきた。だからこそ、不可能だと思われてきた現実を、次々と変えることができたといえよう。
山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)七月、キッシンジャーが大統領補佐官として密かに北京を訪問し、その後のニクソン訪中、米中対立改善への流れを開いたことが忘れられなかった。
それは、世界が驚き、息をのんだ、電撃的な中国訪問であった。
また、米ソ戦略兵器制限交渉でも大いに手腕を発揮した。
ベトナム戦争では、米軍の漸次撤退を推進し、さらに和平実現の陰の力となってきた。
伸一は、それらの行動のなかに、平和への屈強な信念を見ていた。
キッシンジャーは一九三八年(昭和十三年)、十五歳の時に、家族と共に、ドイツからニューヨークに渡ってきた。
当時、ドイツはヒトラーの政権下にあり、ユダヤ人への迫害は、日に日に激しさを加えていた。彼の一家も、そのターゲットになったのである。
財産の国外持ち出しは許可されず、一家は、着のみ着のまま、アメリカにやってきたのだ。
しかし、それでもまだ幸運であった。ドイツに残った親族のうち、十三人以上の人が強制収容所で亡くなっているのである。
時代の激浪に翻弄されながら、一家は懸命に生きた。
父親は教師であったが、アメリカでは教職に就くことはできなかった。工場で事務を担当し、必死に働いた。それでも生活は苦しかった。
キッシンジャーも、少年時代から、働きながら夜学に通った。苦闘の青春であった。
だが、それゆえに、彼の人生の勝利があったといえよう。
「肉体的にも、精神的にも、人生の苦しみを受けたものが強くなる。ゆえに、青年は、安逸を求めてはいけない」とは、戸田城聖の指導である。
44 信義の絆(44)
キッシンジャーは、日々、辛酸をなめながら、感傷にも、憎悪にも、悲観にも左右されない強い人間に、自分を鍛え上げていった。
ハーバード大学で学位を取得して、国際政治学者として頭角を現し、やがて教授となった。
そして、ニクソン大統領の補佐官になると国家安全保障問題を担当し、政治の舞台に躍り出るようになるのである。
一九七三年(昭和四十八年)には、ベトナム和平協定を推進したことが高く評価され、ノーベル平和賞を受賞している。さらに、この七三年から、国務長官を務めてきた。
山本伸一は、そのキッシンジャー長官と、世界の平和のために、存分に語り合い、人類の進むべき新たな道を探り出したかったのである。
長官は、形式的な礼儀作法などにはこだわらない、合理的で、飾らない人柄であった。そして、決して急所を外さず、鋭い分析力をもっていた。至って話は早かった。
伸一が、日中平和友好条約についての見解を尋ねると、即座に「賛成です。結ぶべきです」との答えが返ってきた。
語らいのなかで長官は、伸一に尋ねた。
「率直にお伺いしますが、あなたたちは、世界のどこの勢力を支持しようとお考えですか」
伸一が、中国、ソ連と回り、首脳と会談し、さらに、アメリカの国務長官である自分と会談していることから出た質問であったにちがいない。
伸一は言下に答えた。
「私たちは、東西両陣営のいずれかにくみするものではありません。中国に味方するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。
私たちは、平和勢力です。人類に味方します」
それが、人間主義ということであり、伸一の立場であった。また、創価学会の根本的な在り方であった。
キッシンジャー長官の顔に微笑が浮かんだ。伸一のこの信念を、理解してくれたようだ。
会談では、中東問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などがテーマになっていった。
平和の道をいかに開くか――二人の心と心は共鳴音を響かせながら、対話は進んだ。
45 信義の絆(45)
この会談で、山本伸一は、風雲急を告げる世界の火薬庫・中東の問題について、和平実現のために、何点かにわたる提案をしようと思っていたのである。
中東問題は、決して中東地域だけの問題におさまらず、世界各国の政治・経済に影響を与え、第三次世界大戦の危険性さえもはらんでいる問題といってよい。
伸一は、キッシンジャー国務長官の中東和平への懸命な努力に、期待をいだいていた。そして、中東地域に恒久的な平和を実現してほしいと切望していたのだ。
伸一の提案は、具体的な和平交渉の次元を超えたものであり、より根本的で長期的な、平和のための理念を示すものであった。
いわば、中東の平和に関する基本原則を提示したのである。
中東問題は歴史的な深い原因があることから、もつれた糸のような状態になっていた。もはや一時的な対症療法的な対応策では、本質的な問題の解決は図れない状況であった。
だから伸一は、和平のための基本原則を提案しようと考えたのだ。
しかし、会談の席で、この問題を詳細に論じれば、長い時間がかかってしまう。そこで、多忙な長官が貴重な時間を長く使わなくてすむように、提案を四百字詰め原稿用紙十枚ほどにまとめ、その英訳を用意してきていたのである。
伸一は、常に相手の立場に立って心を配った。心遣いは人柄の発露といってよい。
彼は、中東和平についての自分の主張をかいつまんで語ると、この書簡を手渡した。
「今、拝見してもよろしいですか」
長官は言った。伸一が「どうぞ」と答えると、文書を読み始めた。
最後まで目を通した長官は、また、最初に戻って読み始めた。
中東和平の基本原則の一番目に伸一が示したのは、「力を持てる国の利益よりも、持たざる国の民衆の意見が優先されねばならない」ということであった。それが平和を実現する鉄則である。
次々と土地を奪われたパレスチナ人の権利を回復し、パレスチナの民衆の不幸を優先して解決しない限り、中東における恒久的な平和は達成できないからだ。
46 信義の絆(46)
山本伸一は、この書簡で、ユダヤ系ポーランド人のジャーナリストであるアイザック・ドイッチャーの、イスラエルとパレスチナの在り方についての考えを紹介した。
――これまで双方は民族主義を問題解決の手段に用いて失敗したのだから、平和の達成にはこの民族主義を乗り越えなくてはならない。
そこから伸一は論を展開し、イスラエルが「人間の思想、信条、宗教の自由を保障して、生まれや人種によって差別されることのない民主的な社会を創出していくならば、パレスチナ人との共存は可能である」と述べたのである。
その実証として、かつては、パレスチナ地域において、イスラム教徒も、キリスト教徒も、またユダヤ教徒も、諸民族が平和的に共存していたことをあげたのである。
基本原則の二番目に伸一が訴えたのは、「中東和平を進めるにあたり、あくまで武力解決を避けて、交渉による解決を貫くべきである」ということであった。
中東地域で数多くの戦闘が繰り返されてきたが、なんら問題は解決することなく、一層、事態は泥沼化し、深刻化しているのだ。
伸一は、それは、既に武力的解決が不可能であることを示していると指摘し、大国の指導者は、武力行使を起こさせないようにしてほしいと、強く要請した。
さらに、「この中東の危険な発火地に、これ以上の火薬を近づけてはならない」「武器供給に代えて、非軍事面での資金援助、技術援助をこそ行うべき」であると訴えた。
そして、米ソ英仏をはじめ、多くの石油消費国も参加して、中東地域の平和的な発展を保障し、推進する、「中東平和建設機構」を設けるよう提案したのである。
三番目には、「平和的解決のための具体的な交渉は、あくまで当事者同士の話し合いによって決定されるべき」であると記した。
大国の武力を背景にした交渉では、″戦争の合間の和平状態″にしかならない。
また、双方の軍事力の均衡に破れが生じた時は、前の戦争の和平条件や停戦協定を不満として、新たな戦争が起こってきたからである。
47 信義の絆(47)
山本伸一は書簡のなかで、さらに、次のように訴えた。
――米ソ両国は、紛争当事者を交渉のテーブルにつかせるよう努力することは大切である。しかし、具体的な交渉内容については、「民族自決」の原則を重んじ、双方が直接の話し合いによって決める必要がある。
彼は、あえて、具体的な兵力の引き離しや国家の承認問題については、触れなかった。それも、当事者同士の話し合いによって決定すべきであるとの考えによるものであった。
伸一は、書簡に、この提言を「人類の平和を願ってやまない一人の友人からの真心」として受け取ってもらえれば幸いであると記した。
そして、世界平和への自らの決意を述べ、こう書簡を結んでいた。
「今、世界は、中東情勢の刻一刻の動静とともに、あなたの一挙手一投足に固唾をのんで注目しております。
私もまた、あなたの中東和平への努力が大きく花を咲かせ、実を結び、戦乱の絶え間なかった中東の民衆から、そして全世界の持たざる国の貧しい不幸な人びとからも、感謝と喜びの喝采の拍手があなたに注がれるよう、陰ながら祈りたいと思います」
キッシンジャー国務長官は、この書簡を、三回繰り返して読んだ。
そして、顔を上げた。
「数日、思索させてもらいます。今度は、石油問題についても、ぜひ提言してください。
山本会長のご意見は、ニクソン大統領にも、必ずお伝えします」
伸一は、感謝と尊敬の思いを込めて語った。
「大変にありがとうございます。長官は激務に次ぐ激務で、お疲れのことと思います。また、さまざまなご苦労がおありでしょう。しかし、勇気をもって、人類の平和のために進んでください。
私も、もし、必要とあれば、どこへでも飛んでいきます」
最後に伸一は言った。
「奥様にくれぐれもよろしくお伝えください」
すると、長官は柔和な微笑を浮かべ、「サンキュー、サンキュー」と言って頷いた。
はにかむような、その笑顔に、ヘンリー・キッシンジャーという人間に触れた思いがした。
笑顔のある対話は、人の心を一層結びつける。
48 信義の絆(48)
キッシンジャー国務長官は、笑みを浮かべて、山本伸一に語った。
「また、友人としてお会いしたい。これからも連携を取り合いましょう。アメリカに来たら、ぜひお寄りください」
この日から、伸一とキッシンジャーの友好は、一段と深まっていった。
キッシンジャーが国務長官を辞めた後も、二人の交流は続き、東京・渋谷区の国際友好会館や聖教新聞社などで、世界の平和を願って語らいを重ねていった。
そして、一九八七年(昭和六十二年)九月には、二人の対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』が出版されたのである。
また、九六年(平成八年)六月、二人はニューヨークのホテルで会談した。伸一がアメリカからキューバに行き、カストロ国家評議会議長と会見する予定であることを知ったキッシンジャーが訪ねて来たのである。
当時、ソ連をはじめ、東ヨーロッパの社会主義政権は相次ぎ崩壊し、社会主義国キューバは、国際的に孤立化していた。
さらに、この年二月には、キューバによるアメリカ民間機撃墜事件が起こり、両国の間には、緊張状態が続いていたのである。
キッシンジャーは、アメリカとキューバの関係改善を願う真情を述べ、伸一の訪問に、強い期待を寄せたのである。
伸一は、そのキッシンジャーの心を携えてキューバを訪問し、カストロ議長と会見した。キッシンジャーの思いも伝え、平和への実り多い対話がなされたのだ。
エマソンは叫ぶ。
「友情と協力はじつにすぐれた要素である。そうだ、人類のうちで最良の人びとがある普遍的な目的のために結合して、偉大な隊列を敷くことは、りっぱな行動である」
対話は、新しき友情の道を開く。
友情を結ぶことが、世界を結び、人類を結合させることになるのだ。
国務省で、キッシンジャー国務長官と会談した伸一は、引き続き、同省内で、前駐日大使のロバート・インガソル国務副長官にあいさつした。
それから、日本大使館に向かった。訪米していた大蔵大臣の大平正芳と会見することになっていたのである。
49 信義の絆(49)
先進国蔵相会議などに出席するため、前日、ワシントン入りした大平正芳蔵相から山本伸一に、日本大使館で会いたい旨の連絡があったのである。
大平大臣とは、初対面であった。
伸一が大使館に到着し、あいさつをすますと、大平は、淡々とした口調で切り出した。
「日中平和友好条約について、山本会長のご意見をお聞きしたい」
大平は、前月の一九七四年(昭和四十九年)十二月に、三木内閣の大蔵大臣となった。
七二年(同四十七年)に日中国交正常化を果たした時の田中内閣では外務大臣を務め、日中航空協定にも尽力してきた。
そして、いよいよ日中平和友好条約の締結が、彼にとっても最大のテーマとなっていたのだ。
平和友好条約については、七二年九月に発表された日中共同声明のなかで、締結に向けて交渉していくことが明記されていた。
七四年十一月には、両国の政府間で、平和友好条約のための第一回予備交渉が行われ、この七五年(同五十年)一月に、再開されることになっていたのである。
三木首相も平和友好条約の締結を望んでいた。だが、党内では難色を示す勢力が強く、前途は多難であった。
それを押し切るには、三木首相の党内基盤は脆弱すぎた。
日中友好を推進することは、命がけの作業といっても過言ではない。
大平は、外相として国交正常化を推進していた時には、自宅に脅迫状も投げ込まれたという。
しかし、彼は、「たとえ八つ裂きにされても、やる」との壮絶な決意を固めて、事に当たってきたのである。
日中航空協定でも、党内の反対派から、何度もつるし上げられた。
伸一もまた、日中友好の架橋作業に突き進んだ日から、幾度となく、脅迫や非難、中傷の嵐に打たれ続けてきた。
それだけに、大平蔵相の心も、決意もよくわかった。
「信ずるところある我々は、何を恐るべきことがあるか」とは、ユゴーの叫びであり、伸一の信念でもあった。
大業に生きるならば、苦難を覚悟せねばならぬ。勇気なくして大願の成就はない。
50 信義の絆(50)
山本伸一は、大平正芳蔵相に、忌憚なく、自分の思いを語った。
「日中平和友好条約については、早急に締結していただきたいと私は切望しています」
条約の締結は、伸一がかねてから主張し続けてきたことであった。
彼は、「日中国交正常化提言」を行った翌年の一九六九年(昭和四十四年)には、連載中の小説『人間革命』第五巻「戦争と講和」の章のなかで、平和友好条約の締結を提案したのである。
七二年(同四十七年)の日中国交正常化によって、両国に橋は架けられたが、まだ簡粗で不安定な「吊り橋」のような橋である。子々孫々にわたって崩れぬ堅固な「金の橋」を架けるための土台となるのが、この平和友好条約なのである。
伸一は言葉をついだ。
「さきほど、キッシンジャー国務長官とお会いしてきました。長官は、日本と中国は、ぜひ平和友好条約を結ぶべきだというご意見でした」
「そうなんです。キッシンジャーさんは周総理から、条約締結の応援を頼まれているようです」
伸一の脳裏に、北京の病院で周恩来総理が、命を振り絞るようにして語った言葉が蘇った。
「中日平和友好条約の早期締結を希望します」
その声には、″自分の命が尽きる前に、なんとしても……″という気迫があふれていた。
伸一は、周総理を思いながら蔵相に言った。
「これは、断固、成し遂げなければならないテーマです。
大平先生への皆の期待は大きいといえます」
蔵相は、決意をかみしめるように語った。
「日中平和友好条約は必ずやります。
しかし、若干、時間はかかります。年内は無理かもしれません。
日中問題は、実は『日日問題』なんです。日中友好に慎重な勢力の強い抵抗があります。三木総理はやりたくとも味方は少ない」
伸一は、ひときわ大きな声で言った。
「国民が味方ですよ。平和を望む国民はみんな味方です。応援します」
正しい決断であれば世論は、必ず最後は味方する。ゆえに、不屈の行動を貫くのだ。
伸一は条約締結のために、陰ながら全精力を注いで応援しようと心に誓っていたのである。
51 信義の絆(51)
大平正芳蔵相は、山本伸一をじっと見つめ、何度も頷いた。
伸一は話を続けた。
「この日中平和友好条約は、日中のみならず、世界にとっても極めて大事です。社会主義の中国と資本主義の日本が『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。
人類は、いつまでも、『冷戦』を続けている時代ではありません」
「それは、その通りです。『地球はひとつ』の時代です」
大平蔵相との語らいは、日中友好への決意を固め合う対談となった。
日中平和友好条約の締結への道のりは険路であった。蔵相の言っていたように、二月になると、条約に覇権反対の条項を盛り込むかどうかで、交渉は、暗礁に乗り上げることになる。
「反覇権条項」は、日中共同声明でうたわれたもので、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とある。
この共同声明が発表されると、ソ連は、日本政府に、「反覇権条項」はわが国に対するものであり、″反ソ共同声明″ではないかと、強硬に抗議してきた。
すると、日本国内には、日中平和友好条約から、「反覇権条項」を外すべきであるとの声が起こったのである。
しかし、中国側は「反覇権条項」は、断じて入れなければならないとの姿勢を貫いていた。
意見調整は難航した。
ソ連に配慮しつつ、「反覇権条項」が盛り込まれた日中平和友好条約が調印されたのは、伸一の「日中国交正常化提言」から十年後の、一九七八年(昭和五十三年)八月のことである。福田赳夫首相、大平自民党幹事長の時代であった。
日中の歴史は、さらに大きく動いたのだ。
時代の底流には、既に滔々たる平和の流れがつくられていたのである。
伸一は喝采を送った。
かのアインシュタインは、平和創造の道について、こう述べている。
「恒久の平和は脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」
52 信義の絆(52)
山本伸一は、翌一月十四日、アーリントン墓地を訪れ、「無名戦士の墓」に献花した。
青空が広がっていたが、零下二度の冷え込みである。
伸一は、失礼になってはならないと、コートを脱いで献花に向かった。寒さで耳が痛んだ。
彼は思った。
″ソ連にも、そして、ここにも、多くの若き戦士たちが眠っている。
戦争には、敗者も、勝者もない。皆が犠牲者なのだ。なんのための戦争なのか! 誰のための戦争なのか!
いかなる国でも、愛する人を失った遺族の悲しみに変わりはない。人間のなしうる最大の悪は戦争だ。その戦争を引き起こす、「魔性の心」を打ち砕く道を示しているのが仏法なのだ。
ゆえに、仏法者の使命は、この地球上から戦争をなくすことにある。それを成し遂げることが、この犠牲者にこたえる唯一の道であるはずだ!″
伸一は、恒久平和を、深く、深く、心に誓いながら、儀仗兵が見守るなか、「無名戦士の墓」に献花し、黙祷した。
そして、厳粛に題目三唱を三回繰り返した。
彼は言った。
「永遠に戦争のないことを祈りました」
さらに伸一は、墓地内にある、第三十五代大統領のジョン・F・ケネディ、その弟のロバート・F・ケネディの墓を訪れ、冥福を祈った。
ケネディ大統領とは会談が決まっていたにもかかわらず、実現せずに終わってしまったことが悔やまれてならなかった。
伸一はこのあと、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイを訪問し、一月二十三日、グアムに向かった。
グアムでは、二十六日に世界五十一カ国・地域からメンバーの代表が集い、第一回「世界平和会議」が開催されることになっていた。いよいよ平和の新章節の幕が開かれようとしていたのだ。
ジョン・F・ケネディは叫んだ。
「われわれが結束するとき、新しく協力して行なう無数の事業において、なしえないことは何もない」
人類が結束して行うべき最大の事業――それは恒久平和の建設である。伸一は、そのための人類結合の「芯」となる絆を創ろうと、固く強く、心に決めていたのである。