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日蓮大聖人・池田大作

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1 豊臣秀吉による半島侵略  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

前後
4  食い違った使節の主張
  ええ。国家間の礼儀をわきまえないばかりか、「明を征伐するために日本軍の道案内をせよ」と要求したのです。
 当然、通信使は困惑しました。
 またも、宗義智とその義父である小西行長が機転を利かし、「明に使節を送るので道を貸してほしい」と、文面を変更する手を打ち、最悪の事態を切り抜けたのです。
 池田 しかし、穏やかな表現に変更された要求でも、朝鮮側に拒否されました。当然のことです。
 振り返ってみると、この当時から、「島国根性」は根深く定着しています。
 いわゆる「視野狭窄」に陥り、外が見えなくなってしまったのです。そして秀吉はその後、公然と侵略の準備を進めていった。権力の魔性は、民衆が「生きる」か「死ぬ」かについての感覚さえも麻痺させてしまう。結局、苦しむのは民衆です。
  ただ、朝鮮側にもまったく問題がないわけではありませんでした。
 当時、宮廷内には派閥争いがありました。
 その一つが、「西人派ソイン」「東人派トンイン」の争いです。
 通信使の正使・黄允吉は「西人派」に、副使・金誠一は「東人派」に属していました。
 秀吉に謁見し帰国した後、黄は「秀吉による侵略の被害がありうる」と警告を発したのに対し、金は「それは民心を動揺させる虚説にすぎない。そのような兆候はまったくなかった」と報告したのです。
 当時、「東人派」の勢力が優勢であったため、宮廷内も金の主張に次第に傾くようになり、結果として、戦争に対して何の準備もしない状況を生み出してしまいました。
 池田 どちらが本当に「愛国者の眼」を持っていたのか。
 ともあれ、正確な情報が一切の根幹となりますね。
5  壬辰倭乱イムジンウェランの勃発
 一五九二年四月十二日の夕刻、ついに釜山の沖に、日本からの七余隻の大船団が現れます。
 「壬辰倭乱」の勃発です。
 第一軍の小西行長はまず、改めて「假道入明かどうにゅうみん(明に入るために道を貸してほしい)」と迫りましたが、朝鮮側はこれを拒否しました。
 翌十三日、小西軍は釜山鎮城に一斉に攻撃を加えます。日本で戦国時代を勝ち抜いてきた武将らを前に、釜山鎮城はあっさり陥落します。
 それというのも当時、朝鮮には鉄砲隊はなかったのです。また、先に述べたとおり、金誠一の報告を真に受けた王朝は、戦争への準備をほとんどしていませんでした。
 池田 「平和の民」「文化の恩人」に、恥ずべき愚行です。
 ただ、「假道入明」と求めたところに、小西行長の逡巡を感じることはできます。
  ええ。小西はこの後も、まず「假道入明」を求め、できるだけ戦争を避けたいという努力を続けました。長年、両国の仲介役となってきた婿・宗義智の意見もあったのではないでしょうか。
 しかし、小西の本心とは裏腹に、戦火は進み、被害も拡大しました。
 東莱城トンネソンの戦いでは、小西の「假道入明」との呼びかけに、府使ブサ(首長)だった宋象賢ソンサンヒョンは、「戦死易チョンサイ假道難カドナン(戦って死ぬのは易しいが、道を貸すのは難しいこ)との名言を残し、一歩も退かずに戦って戦死しました。釜山上陸の二日後、四月十五日のことでした。
 日本軍はその後も破竹の勢いで進軍し、上陸のわずか二十日後、五月二日には、首都・漢城ハンソン(現在のソウル)を占領しました。
 名護屋城(現在の佐賀県内)の前線本部でこの知らせを聞いた秀吉は狂喜したといいます。
 そして、「都を京都から北京に移し、天皇の行幸(=訪問)を仰ぐ」「養子・秀次を明の関白にする」など、誇大妄想としか言いようのない「中国大陸征服論」を打ち出します。
 池田 一説には、「端午の節句(=五月五日)は日本で迎えたが、重陽の節句(九月九日)は北京で迎えたい」ともらしていたとも伝えられています。
 この侵略に対する執着は、いったい何か。
 この「誇大妄想」は、二十世紀に入り、再び日本の指導層の心に入り込み、愚昧な侵略戦争を引き起こしました。その足跡を思い起こす時、私の胸には、日本を「一闡提いっせんだいという悪人の産み落としたる国」と喝破された、日蓮大聖人の言葉が去来します。
 じつに、秀吉から遡ること三百年以上前、日本の敗戦からは、およそ七年前の、大確信に満ちた警鐘でした。
6  韓国人の理想のリーダー・李舜臣イスンシン
  そうでしたか。
 大義のない、民衆を苦しめるだけの戦争など、長く続くはずもないと、秀吉よりもはるか昔に、見通されているかのようです。
 秀吉軍の破竹の勢いも、平壌侵攻までの二カ月ほどのことでした。
 その後の戦況は、各地でゲリラ的に生まれた「義兵」や、名将・李舜臣将軍率いる水軍の活躍、さらに明軍の参戦により、秀吉の意図する方向には進みませんでした。
 とくに李将軍は、韓国人が尊敬する最大の英雄として、必ず上位に挙げられる人物です。
 将軍は、もともと首都・漢城の貧しい両班やんばんの家に生まれ、科挙試験に合格。早くから秀吉の陰謀に気づいていました。
 侵略が開始されたころには、秀吉軍のルートにならなかった全羅道チョルラに本拠地を置いていました。
 首都が陥落したその日に、進軍命令を受けて出陣。その後、日本の水軍を壊滅させ、半島の侵略軍への物資輸送の道を断ちました。
 「忠武公チュンムゴン」と呼ばれ、釜山を中心とする韓国南部の主要都市に、数多くの銅像、記念館、ゆかりの史跡などが残されています。
 池田 李将軍については、私も何度か会合でスピーチさせていただいたことがあります。
 実直で、正義感が強く、仲間の裏切りや嫉妬も悠然と乗り越え、ただひたすら愛する国のために生涯を戦い抜いた、有名な勇者ですね。
 二度目の侵略(丁酉再乱チョンユジェラン)でも日本軍に壊滅的な打撃を与えた後、流れ弾に当たり最期を迎える。「私の死を秘密にして戦い抜け」(李舜臣『乱中日記』3、北島万次訳、平凡社、参照)との遺言を残してーー。まさに「リーダーの中のリーダー」と言えましょう。
  そうですね。李将軍は韓国人にとって、永遠に「理想のリーダー像」なのかもしれません。
 一方で、部下三人を連れて朝鮮に寝返り、帰化した日本人がいました。
 名を沙也可さやかといい、慶州キョンジュでの戦いで功績をあげ、国王から金忠善キムチュンソンの名をもらって両班にもなった。まさに英雄です。朝鮮国(李朝)の正史『李朝実録」にも登場します。
 しかし、日本側の記録には残っておらず、だれか別の日本の武将を「沙也可」と誤記したのではないかなど、諸説があります。
 池田 確かにそうしたことは、日本であまり知られていません。
 結局、漢城の占領のほうはわずか一年で終わり、日本軍は再び釜山に引き返す。破壊するだけ破壊して、最後は敗走した。
 心ある武士は、「何のための遠征か」と悔やんだことでしょう
 しかし明との講和では、秀吉は再び、「明の王女を日本の皇女にする」「朝鮮の南四道を日本に割譲し、北四道を朝鮮に返還する」など、無理難題の七つの条件を提示した。まったく「講和条件」になっていません。
 命令に従ったものの、異国の地に夫や息子を送り込まれ、戦況も居場所さえも伝えられないまま、悲しみに胸をつまらせた日本の庶民の女性も大勢いたことでしょう。
 貴国では、おびただしい数の、何の罪もない人びとが殺されました。
 「戦争ほど、残酷なものはない
 戦争ほど、悲惨なものはない」
 私が小説『人間革命」の冒頭で記した一節は、いかなる時代でも、いかなる国でも変わらない、人類共通の魂の叫びとして書き残したものです。犠牲になるのは、常に民衆だ。
  そうですね。この対話も世界平和への道を開くものにしていきたいと切に願います。
7  暴君を諌めた「明からの国書」
 池田 侵略は、その後も続いたのですね。
  明との講和は、当然のように破綻しました。秀吉は激怒して、明からの国書を破り捨てたといいます。もっとも、「破り捨てた」というのは史記ではないようですが。
 池田 そうですね。私も三十年以上前になりますが、大阪歴史博物館(旧・大阪市立博物館)で、その図書の実物を見たことがあります。
 精織な文字、詩的な偈文、美麗な布。すばらしい文化を感じさせる国書でした。さすがの秀吉も、これを破り捨てることはできなかった。
  そうでしたか。
 池田 結局は、「文化の力」「教育の力」です。平和を築く根本の力がそこにあります。
 二〇〇一年にソウルにオープンしたばかりの「芸術の殿堂」博物館では、開館を記念する日韓文化交流特別展「韓国の名宝」を開催しました(=二〇〇二年三月十六日から五月六日まで)。
 この特別展は、両国の「国民交流年」の文化交流の一環として行なわれたもので、その後、東京国立博物館でも開催されました。
  今年(二〇〇二年)はサッカーのワールドカップをはじめとして、本当に、両国民がさまざま理解を深めていくチャンスですね。文化交流、教育交流、スポーツ交流……理解を深め合うには、触れ合うことが一番です。
 池田 まったく、そのとおりです。
8  秀吉の言動を利用した日本軍部
  さて、秀吉は軍を再編成し、一五九七年、ついに第二次朝鮮侵攻を開始します。「丁酉再乱」です。
 結局、この戦争も、李将軍らの大活躍と、秀吉自身の死によって終末を迎えます
 少々気味の悪い話ですが、韓国人が秀吉を憎む理由の一つとして挙げられる、残虐なエピソードがあります。
 秀吉は当初、討ち取った敵の首を塩漬けにして名護屋城に送るよう命じていましたが、その数が大変多くなったため、途中から鼻を切り取って送れと命じました。
 現在、京都の豊田神社近くにある「耳塚」は、実はこの時のおびただしい数の鼻を供養した「鼻塚」であると言われています。耳が含まれているという説から、「耳塚」と呼んだのかもしれません。
 また、日本軍が手柄のために、生きた人間の鼻まで切り落とし、乱のあとしばらくは、鼻のない人が多くいたという話も伝わっています。
 池田 あまりにも、残虐な話です。
 朝鮮国が、善隣を篤く願い、両国の「信」を希求したのに対し、秀吉は極限の「暴力」で報いてしまいました。
  しかし、韓国人としてもっと許しがたく思うのは、二十世紀に入り、その秀吉の言動を利用し、自分たちの正当化を図った、「韓国併合」当時の日本の軍部だろうと思います。
 併合直後、『京城日報』を指導していた朝鮮総督府の徳富蘇峰は、半島の実情を調査しながら、文献に「すべての朝鮮人は、秀吉の侵略を記憶しており、今日の状況に禍を残している」という趣旨を記録しています。
 「禍を残している」という表現から分かるとおり、少なくとも徳富自身は、半島の生身の人びとのことを比較的理解していたと考えられます。
 しかし、この文献は、結果的に日本の軍部によって巧妙に利用された節があります。
 つまり、緊急避難でもなく、正当防衛でもない、大義名分もない残虐極まる侵略の罪を、豊臣家だけに背負わせたのです。
 現状の植民地支配に対し、弁明にもならない弁明を弄したのです。
 池田 権力の邪知です。だからこそ、未来を担う青年は真実の歴史を学んでいかねばなりません。
  結局、歴史を見据えるにも、愛情が必要になってくるのではないでしょうか。
 すべての人に対し真心からの愛情を持ち、苦痛に耐える人を常に援護しようという心がなければ、真の歴史の検証などできないと思うのです。
9  陶工たちを連行した「焼物戦争」
 池田 秀吉が行なった侵略戦争は、「焼物戦争」とも呼ばれるようですね。この戦争で、貴国の多くの陶工たちが日本に連れ去られたといいます。
 その中には、日本で初めて磁器を焼いたと言われる李参平イチャムビョンも含まれていた。今の「有田焼」の、発展の基礎をつくった人です。
 それどころか、九州の名窯のほとんどは貴国からの陶工が開いたものであるといいます。
 陶工ばかりではなく、多くの学者や技術者も連れてこられたと聞きます。
  そのようですね。
 島津藩だけ見ても、連行してきた朝鮮人は二万人を超えるという記録もあります。
 池田 優れた文化人が多く含まれていたでしょう。結局、侵略はしたものの、文化レベルは貴国に及ばなかった。
 以前、『聖教新聞』のインタビューに答えていただいた韓国現代舞踊の第一人者・金梅子キムメジャさんは、「九州の祭りで見た神楽が、韓国の「農楽」にそっくりだった」という旨のお話をされていました。
 貴国から、多彩な文化がもたらされた一つの証左です。
10  両国の学者たちの交流
  文化人・知識人たちは、九州だけでなく、京都や江戸にも、連れて行かれました。連行された知識人の中で最も有名なのは、おそらく姜沆カンハンでしょう。
 姜沆は、丁酉再乱の際、一家ともども日本の藤堂高虎軍の捕虜になり、伊予(愛媛県)に抑留されます。脱出はすべて失敗。しかも縁者を次々と病で亡くし、失意の日々を送るようになります。
 そんななか、日本の近世儒学(朱子学)の開祖と言われる藤原惺窩と親交をもつようになります。
 二人の交流によって、日本の儒学が発展したと言われているのです。
 池田 当時のわが国の学者が、儒教だけでなく、姜沆との対話をとおして、平和の思想を学んでいったことは有名です。
 それが、後に江戸幕府の人びとを感化し、貴国からの文化の通信使の招聘にもつながったと言われています。彼がようやく帰国できたのは、秀吉の死後でしたね。
  ええ。姜沆は一六〇〇年、漢城に戻ることができました。その後、日本での見聞と対日国防策をまとめて「肴羊録」に著し、これは当時の日本の様子を知る貴重な文献となっています。
 一方、藤原惺窩の門下には一六〇四年、林羅山が入り、深き師弟関係を結びました。翌年、林羅山は初めて徳川川家康に謁見して、それが発端となって幕府の文教を任されるようになり、家康の没後も秀忠、家光、家綱らに重用されます。
 林羅山もまた、早くから朝鮮の朱子学者の書物を愛読し、少なからずその影響を受けていたといいます。
 池田 徳川川家康については、私が対談した歴史家のトインビー博士も、高く評価されておりました。
 「朝鮮通信使」を復活させた功績は、誠に重要です。
11  「朝鮮通信使」の復活
  家康は一六〇〇年、関ケ原で勝利すると、すぐに、対馬藩主・宗義智に対して、朝鮮国との和平交渉を命じていますね。
 この一点で、家康と秀吉の人間的な度量の違いが鮮明に表れます。
 かつて、宗義智は、本意でなかったとはいえ、秀吉軍の先兵隊になってしまったと思っていたのに裏切られた、という朝鮮側の不信は、根深いものがありました。
 四年後にようやく、朝鮮からの使節が日本に向かいましたが、偵察の目的が強いものでした。
 使節は将軍・秀忠と、駿府(静岡市)に隠居していた家康に謁見しました。この時、家康は倭乱の際には関東にいて、兵役に参加していない旨を告げて理解を求め、日本にいた捕虜を多数、釈放しました。
 さらに二年後の一六〇六年、朝鮮王朝は国交回復の条件として、「家康から先に、朝鮮に国書を送ること」「先の倭乱で王陵を暴いた犯人を差し出すこと」の二点を通告。日本側はこれを受け入れ、ついに一六〇七年、「朝鮮通信使」が復活します。
 池田 秀吉の侵略と対比して、なんと寛大な条件でしょう。
 ここでもまた、貴国の「大きさ」がうかがえるというものです。
 鎖国制のもと、通商の相手国は清(中国)とオランダだけでしたが、この通信使も「信」を「通」わす特別な友好使節であったと聞いています。
  そのとおりです。ただ、正確には、最初の三回の名称は「通信使」ではなく「回答兼刷還使」でした。「回答」とは日本からの国書に対する「答え」であり、「刷使」とは捕虜を「連れ戻す」という意味です。
 池田 なるほど。この「朝鮮通信使」実はもっと古い時代、日本でいえば室町時代からあったとも聞きました。
 済州島出身の高得宗コドウクチョンも十五世紀中ごろ、通信使として室町幕府に派遣されていますね。
12  五百年にわたる友好関係
  高麗がモンゴルの支配下で弱体化し、海賊・倭冠が盛んになると、室町幕府に取り締まりを要請するための高麗の使節が日本にやって来ました。
 つまり、倭冠は両国の悩みの種であると同時に、一面では「友好交流の促進剤」でもあったのです。
 「通信使」という言葉を初めて使ったのは、朝鮮王朝の成立後、一四二八年の使節からのようです。
 池田 予想以上に古いおつき合いだったわけですね。
  ここで強調したいのは、「通信使」が誕生してから十九世紀末までの四百数十年間、いえ、高麗時代から考えれば五百年以上の長きにわたる間、長い目で見れば韓国と日本は極めて友好的な関係であり続けたという事実です。
 多人数の使節団単位では、すべての通信使を数え上げても二十回ほどでしょうが、当然、使節はそれがすべてではなく、小規模のものなら数え切れないくらいの記録が残っています。
 秀吉の侵略の話が多かったので、逆説的に聞こえてしまうかもしれませんが、こんなに長い時間をかけて、こまめに使節を行き来させた国と国は、他にないのではないでしょうか。
 秀吉の侵略はむしろ、長い友好の時代の中で、ほんの短い期間で最悪の関係となってしまった、特殊な事例とも捉えられます。
 加えて二十世紀の前半は、両国が最も不幸な関係に陥るわけですが、それもこの友好の時代に出べたら、長さとしては「十分の一」にも満たない期間なのです。
 池田 寛大なお心です。私もお会いしたき貴国の元文化相の李御寧イオリヨン先生は、「朝鮮通信使」をはじめとする韓半島との文化の往来が、江戸時代の日本を「武力主義」から「文化主義」へと変えていったと考察されていました。
 具体例として挙げておられたのは、関ケ原の戦いの時、日本には十万丁の鉄砲があったという事実です。
 十万丁といえば、当時の「ヨーロッパのすべての鉄砲」を集めた数より多い。
 その日本が、江戸時代になって、鉄砲を使わなくなりました。
 李先生は、こう指摘されています。それは幕府が、「文化主義」「教養主義」に、生きる道を見いだしたからである。刀や鉄砲を使わなくても、「文の力」で治めることができるーーと。
 その劇的な変化の背景に、韓半島との文化交流があったと指摘されているのです。
 歴史を検証すれば、悠久の友好の時代は、確かに長く続いていた。
 ただ、両国民が、それを「忘れつつある」時代となってしまった。
 もう一度、受け継がれてきた友好の絆を呼び覚ますには、「朝鮮通信使」の歴史を、もう少し掘り下げて検証することが必要ですね。
  そうですね。
 とくに「朝鮮通信使」の往来が、最大の規模で
 行われるころーー雨森芳洲と申維翰シュンユハン、そして新井白石らが織りなす交流史は、もう一度深く、語り合いたいと思います。

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