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日蓮大聖人・池田大作

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5 恩師の存在  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

前後
4  後継者の育成
 池田 季先生は、北京大学教授を長い間続けられ、学生や後輩に対しても、慈父の情愛をもって育成指導しておられます。
 先生は『散文集』の中で、北京大学のようすを、深い情愛をこめて書いておられますね。
 「今朝早く、わたくしはまた学園のなかを歩んだこのとき、朝の光は露にさし初めていたが、暁の風はまだ起らず、あたりは静寂につつまれていた(中略)まだ歩く人もまれであったが、緑したたる湖畔、丁香ちんちょうげのくさむら、楊柳の木の下、築山の頂上から、外国語を音読する一陣の声が伝わって来た。
 耳をかたむけると、ロシア語、英語、サンスクリット、アラビア語などであり、かすかにそれを聞きわけることができた。(中略)微かな声のなかにも、飢えたように知識を吸収しようとして、そのわざをまな、ぽうとする熱意が感じられた」
 「わたくしが大図書館まで歩いてゆくと、またも一群の男女の青年たちが、そのなかに座り、頭をたれて数学あるいは物理・化学などを学習しているのを見たこれも全身全霊をかたむけ、声一つたてなかった。(中略)これよりも人を動かす情景が、またとあろうか? わたくしの心は、言葉にはいいあらわせない喜びであふれた」(『中国知識人の精神史』下、依田憙家訳、北樹出版)
 先生は、師弟とはどうあるべきだと、お考えでしようか。教育も、研究も、本来、師弟なくして成り立たないでありましょう。
  韓愈は次のように言っています。
 「古の学ぶ者には必ず師有り」(古くから学ぶ者には必ず師がいる)。また、「弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。師は必ずしも弟子より賢ならず」(星川清孝『唐宋八大家文読本』1、『新釈漢文体系』70、明治書院)ーー弟子は必ずしも師におばないのではなく、師も必ずしも優れているとはかぎらないーーとも言っています。
 池田 師にとって、弟子が成長する姿ほど、うれしいものはないでしょう。
 仏典には次のようにあります。
 「たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず、火はたきぎ・かくればたへぬ、草木は大地なくして生長する事あるべからず」(御書900ページ)
 仏教学の泰斗であられた故・中村元博士が、季先生がどのように後継を育成されているかを、ある本の「序」に書いておられました。
 「北京大学における南亜研究所を再度訪れたときには、門下一同を召集して歓迎会を開いて下さった。
 微笑をたたえながら『ここには四世代がいるのですよ。四世同堂だ!』と言われた。つまり季羨林博士の教えた人々が、次の世代の学者を育て、その世代の学者がまた次の世代を教えているから、四世代になるというのである。愛児、愛孫を見るがごとく、博士の眼を細めた顔つきは、明るく楽しそうであった」(前掲『中国知識人の精神史』上)
 先生は今回の「てい談」に加わっていただいている蒋忠新先生はじめ、優れた多くの弟子を輩出し、後継の道を開かれました。
5  教育と教師
 池田 教育こそ最極の人生の聖業です。
 私も、牧口先生、戸田先生の遺志を受け継ぎ、創価大学、創価学園を創立しました。また、教育にはわが身を惜しまぬ信条でまいりました。
 季先生の門下のように、四世代、五世代、次の人材、そのまた次の人材というように、若人が陸続と成長してほしい。それが、私のなによりの喜びであり、願望です。
 季 池田先生の教育にかける精神に感動します。
 どのような国であれ、どのような民族であれ、必ず教育を最優先しなければなりません。教育は最も神聖な事業です。
 教育の目的は「継承」と「発揚」にあります。先人の創造と智慧を継承し、またそれを発揚し、さらに光り輝かせていく。そして後世に伝えていく。このようにして人類はたえず進歩し、精神境涯もたえず高まっていくことができるのです。
 池田 同感です。季先生は、ご自身の研究をどのような弟子に受け継いでほしいとお考えでしょうか。
 また、弟子、学生と接するさい、心がけていることは何でしょうか。
  私は後継の弟子には、「才能」があり、「勤勉」で、学術研究に対して「根気強い」人でなくてはならないと言っています。
 また、教師は学生と接するさいは、身をもって範を示さなければなりません。中国では古くから「身の教えは言の教えに勝れたり」(身をもって教えることは、口先で教えることよりも勝れている)と言われています。
 学生に「一杯の水」ほどの知識を授けようと思えば、教師はまず「一桶の水」ほどの知識を用意しなければなりません。教師は、決して「空の桶」をさげて、授業に臨もうと思ってはなりません。
 師弟には共同の偉大な目標があります。学生たちは弟子でもあり、同志でもあるのです。
 池田 まったく同感です。黄金の輝きを放つ言葉です。
 小学校の校長であった牧口先生も「教育の目的は児童の幸福にある」(『創価教育学体系』上、『牧口常三郎全集』6、第三文明社、趣意)と、また、教師は「尊敬の的たる王座」ではなく、「王座に向かうものを指導する公僕」であるべきだ(同前、下、同全集6、趣意)と、教育革命を叫ばれました。
 教師が、”今は未完成の学生たちも、いつか必ず、自分など及びもつかない偉大な人物になるのだ”と、信じて育てていくことですね。教師は決して学生を下に見てはいけません。同じ人間として、また学問を志す同志として、学生を励まし、わが子のごとく心から愛していきたいものです。
 「教育革命」は「教員革命」から始まると言えましよう。教員が良くならなければ、学生は良くなりません。学生が良くならなければ、未来の指導者は育ちません。
 私も、創価大学、創価学園の先生方と、つねに教育の原点に立ち戻ろうと確認しあっております。

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