Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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3 苦節のドイツ留学時代
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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戦争の傷跡
季
ファシストによる体制が崩壊したあと、ドイツは廃撞となりました。私は、当時のハノーヴァーへ一度行ったことがあります。この百万の人口(=近郊の人口をのぞけば五十万人)を擁する大都市は、建物の骨組みだけが残り、ほとんど住民を見ることはありませんでした。
大通りの両側は破壊されたビルだらけで、外壁が少し残っているばかりでした。外壁にそった地下室の窓のそばには、どこも死者に手向ける花束が並べられていました。地下室に埋められた人は数千、数万にのぼるということでした。爆撃直後は、まだ助けを求める声が聞こえていました。
しかし、地下室を掘って彼らを救う方法はありませんでした。その声は日増しに衰えていき、ついには地下室の中で、無言で死んでいったのです。
戦争が終わっても、地下室を掘って死体を運び出すことは、まだできませんでした。家族の墓参りといっても、窓の外に花束を供えるしかなかったのです。この光景は、身の毛もよだつほど、恐ろしいものでした。
池田
戦争ほど、残酷なものはありません。戦争ほど、悲惨なものはありません。
幾百、幾千万の人々が虫けらのように殺されていく。戦争は、あまりに愚劣な、あまりに残忍な破壊行為です。その泥と炎の中で苦しみ、うめき、嘆くのは、いつも罪のない民衆なのです。
季先生はヨーロッパの戦場の硝煙がまだ消えきっていない一九四五年の秋、十年間過ごしたゲッテインゲン大学を離れ、スイスに半年間滞在したのち、フランス、ベトナム、香港を経由して、一九四六年夏、十一年ぶりに祖国に帰ってこられました。
ナチス政権下で、有色人種の留学生として、しかも戦時下で生き延びるだけでも大変ななか、世界最高レベルの学問研究をされたことは、奇跡にひとしいことではなかったでしょうか。
帰国の途中も、一緒に出発した船は、三艘のうち二艘が潜水艦に撃沈されるなど、危険と困難に満ちたものだったと、聞きました。留学前から、奥さまはじっと先生の帰国を待っておられました。帰国後、感動的な再会を果たされたとうかがっております。
季
ええ、そうです。私の長い流浪の生活はここで終止符が打たれたのです。
池田
一九四六年秋、先生は要請を受け、北京大学において教授兼東方言語文学学部学部長になられます。しかし、帰国の当初は、研究に専念できるような状況ではなかった……。
季
はい。仏教混淆サンスクリットの研究については、帰国してからというものは、必要な専門書が不足しているだけでなく、必要な雑誌も之しく、徒手空拳で何もない状態でした。
私は仏教混淆サンスクリットについて、まだ深い興味をもっており、研究への意気込みがまだ盛んでしたが、やむなくぺンをおくよりほかにはありませんでした。この分野の研究作業は、どのみち進めようがなかったのです。
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