Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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序
季羨林
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
前後
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私がこの見解を提起したとき、読者の間では賛成派と反対派の二派に分かれました。これはきわめて正常な現象であります。古今東西、賛成者しかいないという考え方は皆無であります。賛成者について、私は当然のことながらうれしいが、反対者についても、不機嫌になるということはないのです。私は論争しないし、反論もしません。私は「真理は議論を重ねるほど明らかになる」ということは信じていないのです。中国の春秋戦国時代、百家が争鳴し、議論は熾烈をきわめました。しかし、どの思想家も論争に敗れたことによって自分の主張を放棄することはなかったのです。
私は、皆で一緒に『
三岔口
さんちゃこう
』(訳者注・京劇の演目。相手を殺そうと思って格闘する二人がじつは不正を憎む同志であったことが最後にわかり、誤解がとける物語)を演じることを主張するものです。あなたは、あなたの主張をし、私は、私の主張をする。最終的には観衆自身に是非を判断してもらえばよいのです。
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最近、私は『文明と経済の衝突』(第二海援隊、中国語訳書題『東西文明沈思録』)という書物を読みました。原作者は日本の有名な学者である歴史家の村山
節
みさお
氏と日本の経済評論家で作家の浅井隆氏です。また、訳者は中国国際ラジオ局日本語部の
夏文達
か ぶんたつ
等の諸氏です。出版年月は
二〇〇〇年四月、出版社は中国国際広播出版社です。
出版社は、次のように、簡潔かつ的確に本書を紹介しております。
「作者は、時空を超越した大きな視野に立って、世界文明発展の歴史やグローバル経済の現状について研究し、さまざまな文明には、誕生、生長、繁栄および消滅の過程があることを指摘しています。東西文明間には衝突があるとともに、相互補完性があるのです。文明の衝突は文明の中心の推移に表れます。作者は、世界の歴史は、文明の中心で勝手、気ままに起伏する盛衰の連続のなかで、たえず上演されるものであると考える」と。
続けて、出版社は、村山節氏が提起する「世界文明八年周期説」を紹介し、「現在、世界文明の中心はまさに東洋へ向かって推移しつつある。二十一世紀は東西文明の衝突、融合、および交替の時代である。二十二世紀以降は、アジアの時代になるであろう」と。
さらに本書の浅井隆氏の「序言」注〔6〕の中で、作者は「東西文化のもっとも根本的な相違は、思考方式の違いにある。東洋の思考方式、東洋文化の特徴は『総合』であり、西洋の思考方式、西洋文化の特徴は『分析』である。哲学者の言葉を借りれば、西洋は一を二に分け、東洋は二を合わせて一とするのである」(寵桝)と述べています。
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もし、私が本書に自分を重ね合わせるととをお許し願えるならば、これはまさに私の主張そのものであります。私のこの主張は、過去七、八年にわたって、多くの論文や発言、さらには厳粛で盛大な国際会議のなかで、公開し、発表してきたものです。本書の中にもふれられているとおりであります。
世界文化の中心が東洋に向かって推移するのに、どのくらいの時間を要するかという問題について、今世紀にはその兆しが現れるであろうというのが私の考えです。『文明と経済の衝突』の作者の予言によれば、それは二十二世紀であると言います。この問題については、論争しようがないので、歴史にその結論をゆだねることにしました。
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現在、世界のある大国は、右手に警棒を持ち、左手に原子爆弾をのせ、他の国を「悪の枢軸国」などと指摘して責めているのです。天下唯我独尊であります。平和を愛する世界市民には、それはまるで道化役者のように映っているのです。
ここで私は東西の諺をそれぞれ一句ずつ、つつしんでこの国の人民におくります。中国の古い言葉「多くの不義を行えば必ずみずから
斃
たお
る」(多くの不正を行えば必ず自滅する)、そして、西洋の諺「神がだれかを滅ぼそうとすれば、必ず先にそのだれかを狂わせる」です。これらは、長年にわたる経験にもとづく結論であり、絶対に間違いないものであります。
先の言葉は意味もなく発したわけでは決してないのです。これらは東西文化の盛衰と関係があるからこそ、思わず心が高ぶって発したわけであります。私は、その大国のなかでも、真に国を愛し、平和を愛する人民は、それらの言葉に反発を感じることはないであろうと信じています。世界中どの国であれ、国を愛し、平和を愛する人民の心と心は、つねに相通じているものです。
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振り返って、ふたたびわれわれの「てい談」を読むと、三人の作者のうち、一人は日本人、二人は中国人です。国籍は異なるが、志は同じであります。われわれはともに世界人民が平和、幸福で、そこには理解と友情だけがあり、憎しみや対立がないことを願っています。
仏教では「浄土」と説き、儒教では「大同の世界」と説いております。それぞれ名異実同で、手段は異なっても目的は同じなのです。私は、われわれのこの一書がその分野で貢献してくれるであろうことを祈っております。善哉! 善哉!
二〇〇二年六月七日
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