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日蓮大聖人・池田大作

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第85回本部幹部会、第30回婦人部幹部… 「喜びの五月三日」へ賢者の行進を!

1995.2.25 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

前後
4  女史に対する一審の裁判では、ウソの証言がなされ、女史は有罪の判決を受ける。自分のために証言する場さえ与えられなかった。
 利害のために、平気でウソをつく人間は今も大勢いる。あらゆる手段で、いやがらせが続いた。何度も脅迫電話を受けた。女史も、女史の夫も、仕事を失った。(女史は解職。夫は「ローザ・パークスのことは口にするな」と命じた職場に憤慨し辞職した)
 女史と一緒に戦っていたリーダーたちの家や拠点が、次々に爆破された。しかし女史側は、ひるまなかった。控訴した特別連邦地方裁判所で勝利したのである。
 すると、負けた相手側の市当局は、最高裁判所に上訴した。
 長引く裁判は、あらゆる点で女史を圧迫した。いやがらせもひどくなった。何かにつけて苦しめられた。黒人が大きな声で歌を歌い他人の迷惑になっているから「公的不法妨害」に当たると、市長が言いがかりをつけ、裁判所に訴えたりした。
 手を変え、品を変えての攻撃が続いた。しかし、女史は逃げなかった。パークス女史は、自分の戦う場所を離れて、どこか他の土地に行こうなどとは考えなかった。″この土地″″この場所″で戦う決意であった。
 闘争の開始から一年──。ついに最高裁判所は″バスの人種隔離は違憲である″との判決を下した。戦いは、どこまでも、粘りである。忍耐である。
 パークス女史たちの勝利──永遠に輝く歴史的瞬間であった。この勝利の一波が万波となって、全米へ広がっていったことは、皆さまもご存じの通りである。
5  「楽をしようと思わない」「もっと正義を実現したい」
 この偉大なる人権闘争の歩みを、女史は今も各地で語り続けておられる。それらの珠玉の言葉をまとめた本が、このほどアメリカで出版された。
 タイトルは『Quiet Strength(静かなる強さ)』。女史はさっそく私にも温かな献辞を添えて贈ってくださった。この中で、女史は語っている。
 「私が全国を歩いて公民権運動について話すのは、決して過去に生きているからではありません。
 私はもっと正義を実現したいのです。力の続く限り、自由と平等のために戦い続けます」
 常に未来へ、常に前へ──立派な信念であられる。
6  こんなエピソードも紹介されている。
 一九八八年、女史はそれまで勤めていた事務所を退職された。七十五歳であった。
 七十五歳という年齢。女性でもあり、迫害の連続を乗り越えてこられた女史。しかし女史は″退職が人生からの引退である″などとは毛頭、考えなかった。ここが偉いと思う。
 ″むしろ人々のために尽くす時間が増えるではないか″──これが女史の心であった。
 多くの人々は「今まで頑張ったのだから、少し休むべきだ。もっとペースを落とすべきだ」と口々に言った。
 しかし女史は、きっぱり答えた。
 「私は楽をしようとは思いません。どのようにしてペースを落としたらいいのか、私にはわかりません。私はもっと活動を広げたいのです。可能な限りのペースで動き続けます」
 人生、何が大切か。それは「最後まで戦い続ける」ことである。「戦い続ける」その人が偉いのである。
 人生に引退はない。いわんや信仰には当然、引退などありえない。
 「定年だから」「年だから」──そんなことで信心は左右されてはならない。
 仏法は厳しい。「師弟の道」は厳しい。戦い切った人生。その人は、荘厳なる夕日に包まれて一生を飾るのである。何と崇高な人生であろうか。
7  戸田先生は、ある時、語られた。
 「わたしも命は惜しいです。けれどわたしは、いま御本尊様に命が惜しいとは願いません。たとえ五分でも十分でも、生きている限り、ご奉公させていただきたいと願っているのです」(「先生を囲む想い出の質問会」、「聖教新聞」昭和三十四年六月五日付)
 これが、師匠の遺言である。この心を私は受け継いだのである。
 ″人生の最後の最後まで、生きている限り、広宣流布のために戦わせてください″──これが学会精神である。日蓮大聖人の仏法の真髄である。そして戸田先生の祈りであった。
 人生には、大変なこともある。しかし、大変なことを乗り越えていくからこそ、「偉大な歴史」ができる。そして「偉大な人間」となるのである。
 平々凡々として、何の苦労も障害もなければ、どうして自分が鍛えられようか。どうして「修行」になるであろうか。
 私どもは、仏道修行をしているのである。それは、永遠の勝利のための修行である。
 学会も、皆さま方も、大変ななかを乗り越え、勝ち越えてきた。それで「偉大」となった。世界一になった。すべてを、戦い抜いて、乗り切ってきたからである。
8  「年は若くなり福は重なる」
 大聖人は、三十三歳の厄年にあたっていた四条金吾の夫人を、こう励まされた。有名な御言葉である。
 「年は・わかうなり福はかさなり候べし」──年は若くなり、福徳は重なっていくでしょう──。
 厄年は、病気や、災いにあいやすい年齢とされ、嫌われていた。(古代中国の伝統的な考え方による)
 それに対し、法華経を持つ女性は、厄をも幸いへと転じ、年は若くなり、福運をさらに重ねていける──こう大聖人は教えられたのである。これが信心である。これが妙法の力である。
9  私が会長になって、最初に祈ったことは、「地震がないように」「豊作であるように」──この二つであった。かつて長野の松代で、地震が続いたことがある。(松代周辺で、一九六五年八月から七〇年末ごろまで続いたとされる群発地震。建物の損壊、地すべり、地割れなどが相次いだ)
 そのときも駆けつけて現地の友と一緒に勤行し、懸命に激励した。
 一番大事なのは会員である。会員を守るのが幹部である。
 だれが何と言おうと、私は会員を守る。そのために生きる。皆さまもまた、そうであっていただきたい。(拍手)
10  「不滅の財宝」はわが胸
 ローマの有名な哲人セネカ(前四年頃〜六五年)。彼は、次のような話を書き残している。(『セネカ わが死生観』草柳大蔵訳、三笠書房。以下、引用は同書から)
 あるとき、マケドニアの国がギリシャの古都を陥落させた。
 勝ち誇ったマケドニアの軍隊に囲まれて、一人の哲学者(スティルボ)が王(デメトリオス)の前に引き立てられた。
 マケドニアの王は、ふんぞり返って、その哲学者に尋ねた。
 ──「何か失ったものがあるか」
 実際、哲学者は、ありとあらゆる辛酸をなめていた。負ければ、みじめである。同胞は殺害され、家族は侮辱され、愛する故郷は、無残に蹂躙された。家や屋敷もすべて奪われた。今日まで積み上げてきた財産も安穏な生活も、全部が踏みにじられた。
 それをあざわらうように、王は質問したのである。
 しかし、哲学者は、この傲慢無礼な権力者に対して答えた。
 ──「いいえ」
 彼の答えは、「ノー」であった。失ったものなど何もない、と。
 ──「自分の持ち物は全部自分の中にありますから」
 自分の財産は自分の中にある。これだけは、だれびとも奪うことはできない。破壊することもできない、と。
 「仏法」の生き方も同じである。いくら攻められようとも、いくら絶望的な状況に置かれようとも、我が強靱なる「信心」「信念」は変わらない。勇気は壊れない。自分自身は、断じて揺るがない。
 私には、信心がある! 誇りがある! 使命がある! 希望がある! それが、我が「財産」である!──そう叫びきって生きて生き抜くのが、まことの信仰者なのである。(拍手)
 日蓮大聖人は説かれている。
 「南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり
 ──南無妙法蓮華経と唱え奉れば自分自身の生命の宮殿に入るのである──。
 宮殿は、我が胸中にある。幸福は我が生命にある。名声で自分を飾るのでも、権力や地位で外面を飾るのでもない。
 唱題によって、自分の中の「金剛不壊の幸福の宮殿」を開き、そこに住して生きるのが最高の人生なのである。
 今、関西の同志の皆さま方も、大確信を胸に、敢然と戦っておられる。
 関西は、本当に強い。皆さま方の姿が、どれほど多くの人々の希望となり、社会の励ましになっていることか。
 これは、厳然たる事実である。私のもとにも多くの人々から感謝の報告が寄せられている。
 その人が本物かどうか──いざという時に、わかるものである。その意味で、皆さまの不屈の信心を、日蓮大聖人が深く、深く賛嘆しておられると確信する。(拍手)
11  セネカの話に戻りたい。セネカは語る。
 「本当に無敵なものは、攻撃されないということではなくて、攻撃されても傷つかないということだ」(前掲書『セネカ わが死生観』)
 「賢人の精神は、何ものにも動ぜず、何ものにも傷つかず、敢然としていられる強さを宿しているのだ」(同前)
 創価学会は、強き強き「賢者の集い」である。「王者の教団」である。正義に生きるゆえに、何があろうと、動じない。何を言われようと、傷つかない。その誇りに胸を張り、「五月三日」へ向かって、勇気ある「賢者の行進」を始めていただきたい。(拍手)
12  エジプトは世界最古の文明を誇る。その英知の言葉を紹介したい。
 古代エジプトの文献に、メリカラーという王への教訓が記されている。
 「力あるために話(術)に巧みであれ。〔人〕にとって舌は剣であり、言葉は、いかなる戦闘にもまして勇敢である。心聡きものを誰もだしぬくことはできぬ」(『筑摩世界文学大系1古代オリエント集』屋形禎亮訳、筑摩書房)
 また、こうある。「一日(といえども)永遠を開き、一時間(といえども)未来のために(何かを)成就できるのだ」(同前)
 わずか一日で、永遠の価値を生むこともできる。一時間でも、運命を変えてしまう場合もある。一瞬の″ひとめぼれ″で人生が決まることもある(笑い)。こうしたスピーチも、たった一時間である。しかし、だからこそ私は、この一時間を大事にする。全魂を打ち込む。また五分でも十分でも、真剣に励ませば、必ず立ち上がる人はいると信じ、実践してきた。
13  エジプトといえば、有名なのはクレオパトラ(前六九年〜前三〇年)である。約二千年前のエジプトの女王で、″世界一の美女″とうたわれてきた。
 彼女はアレクサンドリアで活躍した。
 そのアレクサンドリアで、私はムバラク大統領と会見した(一九九二年六月)。地中海を眺めながら──。忘れ得ぬ一時であった。
 さて、「美の中の美」と言われたクレオパトラだが、容貌が特別美しかったのではないという。
 『プルターク英雄伝』で有名なプルターク(四六年頃〜一二〇年頃)がそう言っているのである。
 彼はクレオパトラをよく知っていた人に取材した。そしてこう書いている。
 「彼女の実際の美しさそれ自体は、けっして何人も比べがたいとか、あるいは何人もその美しさにうたれずに彼女を見ることができないとかいうほどにいちじるしいものではなかった」(『プルターク英雄伝』8、鶴見祐輔訳、潮文庫)
 彼女より美しい人は、ほかにもいたというのである。それでも彼女には、不思議なほど人を引きつける力があったという。
 その秘密はどこにあったのか。なぜ「美の女王」といわれたのか。
 プルタークによれば、それは「声」と「会話」の魅力であった。
 プルタークはつづっている。
 「彼女の声音を聞くだけでも一個の快楽であった」
 「彼女の談話の魅力と結びつけらるる人柄の引力と彼女の一言一行に付きまとう気品が好惑的のものであったのである」(同前)
 声を聞くだけで気持ちがよくなる。話をすると、人柄に引きつけられ、気品に好感がもてたというのである。
 彼女の対話には知性と機知もあふれていた。
 声がいい。話すと、ほっとする。素晴らしい世界が広がっていく──つまり聡明だったのである。こうした資質をまとめ合わせた結果、世界史上の「美女」と言われるようになったのかもしれない。
 「世界一美しい女王」は「声と対話の女王」であった。
 ただ、彼女は権力闘争の世界に生き、死んだ。
 栄華もはかなく最後は悲劇──追いつめられた末の自殺だった。権力の世界とは、そういうものである。
 これに対し、婦人部・女子部の皆さまは、「永遠の福徳の女王」である。
 人々を「声」と「対話」で蘇生させている「励ましの女王」である。その周囲には、美しい″心の宮殿″が広がっていく。
14  釈尊は説いた。
 「悩める人に尽くすことには、仏に尽くすことと同じ福徳があるのだ」(『増一阿含経』大正二巻、参照)
 悩める人を励まし、広宣流布に戦う同志を励ます皆さま方の功徳は、どれほど大きいか、計り知れない。(拍手)
 ともどもに晴れやかな「五月三日」を、ともどもに健康で堂々たる「五月三日」を、またともどもに喜びに満ちた勝利の「五月三日」を迎えていただきたい。
 こう申し上げ、私のスピーチを終わりたい。長時間ありがとう。ご苦労さま!
 (東京牧口記念会館)

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