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日蓮大聖人・池田大作

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4 文化遺産の保存  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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4  デルボラフ 歴史的遺産にも、さまざまなものがあります。多くは、あなたがおっしゃるように、原形のまま保存されている宮殿、教会、広場、あるいは都市区画等、さまざまな文化期の建築が、遺産として残っています。
 この文化遺産のなかには、博物館や個人の収集物として保存されている彫像、絵画、版画、図案等もふくまれます。さらに、詩文、音楽、学問といった精神的創造の所産も入ります。これは先にあげた物品と異なり、ながめる対象ではなく、精神的・感性的に追体験して、はじめて蘇生するものです。
 教育が人間にとって「第二の自然」であるのと同様、この伝承された文化財を、人間の「第二の故郷」と名づけることができるでしょう。人は、何年か過ぎて、ふたたび生まれ故郷の町へもどってみると、最初は建造物の変化に当惑をおぼえるかもしれませんが、子どものころを思いださせる多くの美しいものも見いだします。食べなれた食べ物がいちばんおいしいように、美学の客観的基準には即さないかもしれませんが、親しみを感じる場所や通り、家や広場等に、なによりの喜びを感じるのです。
5  池田 おっしゃるとおりです。私が生まれたのは東京の南のはずれで、当時はのどかな田園と漁村が広がっていましたが、いまは完全に都市化し、海もよごれてしまい、かつてのように漁業や海産物で生活をいとなむ家は、なくなってしまいました。
 幼いころのままの面影を残しているものは、ほとんどゼロといってよいくらいです。それでもわずかに残っている昔のままの一角や建造物を見ると、言葉にあらわせない懐かしさをおぼえます。
6  デルボラフ 現代のような高度に洗練された時代には、こうした過去への結びつきの副次的表現である“骨董品の収集”が、市民のあいだでふえつづけています。私の青少年期には、骨董品収集家というのは変人であって、骨董品店もあまり人が出入りしていませんでした。今日では、自分の家にバロック調の家具をおいたり、ゴシック彫刻で飾り、壁に時代ものの版画や絵画をかけてあれば、生活水準の高さの印になり、作法にかなうわけです。
 多くの場合は、たんなるスノビズム(俗物根性)か、商業的計算高さによるものかもしれませんが、それでも一つの「歴史意識」と呼べるような、伝統に対する新しい自覚が徐々に増していることを物語っています。とくに、かつては、そのときどきの流行の波であったのが、すでに持続的性格をもつにいたっているからです。
 いずれにせよ、骨董品店には本物などほとんどありませんし、あっても法外な値段です。類似品の生産は、工業化にまではいたっていないとしても、もうかる手工業となっています。
 もっとも、音楽のような芸術の場合は、いつでも再現できますが、再現のスタイルが変わるわけです。それに対し、建築物とか彫刻、絵画、版画などは時の流れの犠牲となり、戦争や天災によって破壊されたり、破損することがあります。価値が減ったり、天候の変化や、排気ガスや種々の汚染物質の放出のためによごれた空気が、作品をだめにすることもあります。
7  こうしたもろい文化遺産には、計画的な保全、保護、またときどきの修復作業が必要です。今日の西ドイツには、この種の専門家が不足していて、ポーランドとか、他の民族の助けを借りているようです。いずれにせよ、この「復興作業の親方たち」が一九四五年以降、第二次世界大戦で徹底的に破壊された文化財の修復に果たした業績は、いたるところで見ることができます。
 多くの破壊された建造物、広場、また都市の一画の全体がたんに技術的・建築学的のみならず、美学的にも原形を凌駕するかたちで、修復されています。たとえば、ケルン市の十二のロマネスク様式の教会は、第二次大戦でほとんど全壊したのですが、最高級のかたちで仕上がっています。
8  池田 世界的にも、保全、維持のために膨大な費用を必要とする遺跡がたくさんあります。エジプトのアブ・シンベルは、国際的協力が実を結んだその一つの例ですが、カンボジアのアンコール・ワットやアンコール・トム、パキスタンのモヘンジョ・ダロやハラッパ等々が、いまや壊滅の危機にさらされていると聞きます。
 いずれも巨大な遺跡の修復や維持に必要な費用を、自国でまかなうことは困難だといわれています。これらは、たんにその一国の栄光の遺産といったものではなく、人類そのものの栄光を象徴しているものですから、全世界が協力すべきだと思うのです。
 しかも、そうした国際的協力を遂行することによって、人種や国家のちがいを超えた人類全体の共同体意識も強まっていくでしょうし、それが、戦争への抑止力となっていくことが期待できます。しかも、貴重な文化財を大切に保存して未来に伝えることが、未来における新しい文化の創造への種子を残すことにもなる、と信じます。
9  文化とは、過去の歴史を土壌として、そこから養分を得て未来へ枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結んでいく、木のようなものである、と私は思います。過去への尊敬心、そこから養分を吸いあげるための根を失った木は、やがて枯れつきてしまうでしょう。
 さまざまな歴史的文化財は、人々に過去に眼を向けさせるよすがとなり、過去を具体的に実感させる、過去からの使者でもあります。その意味で、未来の世代のために、大事に文化的遺産を伝えていくことが、現代の私たちの責任であると考えます。
10  デルボラフ おっしゃるとおり、文化財を保持し、再生しようとすれば、膨大な費用を負担しなければならないばかりでなく、復元化の質を守る適正な建築基準を制定する公的責任が、必要となります。
 西ドイツの場合には、連邦政府、各州、そして各地方自治体で、文化財保護のための予算項目をもっており、文化財保護法で規定されている規則にしたがうことになっています。文化財保護年の一九七五年には、共通の文化遺産に対するヨーロッパ人の責任感が、強く認識されました。
 ここに明らかなことは、感覚的な美しさや芸術的質の高さだけが、保護すべき遺産の価値を決めるのではなく、それにくわえて、希少性であるとか、その建造物の特異性といった、歴史的・地方的視点が、さらに重要となります。こうして、保護すべき文化財のリストにのっているものは、公私ともに破壊の危機からまぬかれることになります。
11  池田 その意味では、美術鑑定家だけでなく、歴史家や、幅広い有識者が検討・討議して、保護すべき文化財を決定することが望まれますね。
12  デルボラフ 西ドイツでは、二百万の建築物が文化財保護の対象になっています。その内訳は、単体の記念碑が五十万件、建物や全施設が百五十万件で、西ドイツにある全建築物の一五%に相当します。
 このように膨大な数の建物を維持するためには、国庫の財政だけでは不十分です。担当官が直接管轄するのは公共建築物で、それ以外の私有財産となっているものや、個人の保護のもとにおかれているものについては、監視するだけです。さらに、住民による財政的支援が訴えられていますが、全般に、その反応はかなり好意的です。当該機関も、財政面で援助してくれます。
 民間建築の身勝手ぶりと趣味の悪さの最たるものは、コンクリートとガラスでつくられる大企業の建物に見られる巨大主義であり、これはいまや、都市の中心部までも様相を一変させています。この傾向に歯止めをかけるには、国家だけでは十分ではありません。
 国家自体も、たとえば、まだ保護指定を受けていない重要な伝統文化財をダメにしてしまうような建設案を、もちだしてくることがあります。この場合は、市民運動やデモ行進等のかたちで、より注意深い住民の反対を受けることになります。
13  池田 文化財破壊の元凶は、むしろ国家であることが少なくありません。いうまでもなく戦争はその最たるものですが、平和時においても、国家は経済優先の立場に立って、文化財を平気で破壊して、経済的効率の高い施設を、そこに建設することがしばしばあります。とくに日本では為政者が、文化人や市民の声には耳をかたむけようとしない傾向があります。
14  デルボラフ 建造物の保護について、先進工業国はかならずしも開発途上国より優れているわけではありませんが、政策決定機関の勝手な干渉を別にすれば、文化財保護の問題は専門的に、また責任感をもってあつかわれているように思えます。ただし、全体として見ると、豊かな工業国と第三世界諸国のあいだの落差が、それを阻止する結果となっています。
 自国で保全、維持できない重要文化財については、世界の共同責任として協力すべきである、というあなたのご意見に、私は全面的に賛成いたします。こうした共同の責任感がすでに生まれていることは、とくにあなたが例としてあげておられる、ナイル川流域のアブ・シンベルの修復工事が示しています。
 ヨーロッパ諸国でも、その修復量の大きさゆえに、ときには国際的財政援助を必要とするものが、いくつかあります。たとえば、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿は、大気汚染などによる損傷を受けており、早急に救いの手をさしのべる必要があります。また、徐々に地盤が沈下しているヴェニスの場合には、広大な地盤そのものを修復しなければならず、その財政を自己負担することは、とうていむりです。
 すでに国際的、国家的、また個人レベルの援助がなされており、注目に価しますが、全世界に散在する潜在的パトロン(後援者)にもっとマトをしぼって訴え、彼らの文化的良心を、強く動かすようにすべきではないでしょうか。
15  池田 いずれも、強力に推進する必要があります。ただし、そのまえに、パルテノン神殿の風化をひきおこしているのは、自動車の排気ガスなどによる大気汚染であり、ヴェニスの地盤沈下をもたらしているのは、工業用水としての地下水くみあげです。これらの原因になっていることに対し、ただちに対策を講ずることが大切です。
 これを早急に具体化しないかぎり、どんなにパルテノン神殿を修復しても、たちまち、またも大理石は風化していくでしょう。ヴェニスも沈下をつづけていくことは、目に見えています。それを前提としたうえで、あらゆる人々が協力していくことが大事であることは、いくら強調しても強調しすぎることはありません。
16  デルボラフ 公共への協力ということで、私自身がアメリカで見聞きしたところでは、大きな博物館の全フロアが、金持ちの収集家の貴重な財産で飾られており、それらは、その一角に自分の名前をつけてもらうという代償だけで、寄贈されたものです。彼らの行為は、昔の封建領主、皇帝、王子、貴族等が自分の収集した貴重な芸術品を、自分の死後に公共施設に寄贈する、という伝統にならったものです。
 博物館に陳列されている文化遺産が、豊富かどうか、さまざまな時代の文化的作品が、比較的完全にそろっているかどうかということは、根本的にいって、個人レベルでの設立者や寄贈者の願望と公共の関心とがどこまで一致したか、を示すものです。たとえば、封建時代の終焉期に――フランスでは一七八九年、ドイツとオーストリアでは一九一八年ですが――貴族の所有であった豪華な宮殿や城などが、寄進、売却、没収によって新制共和国の手にわたったときなどは、国家の収容能力に無理がかかることもあります。
17  もっとも大事なのは、そうした遺産を見捨てるのでなく、教会や寺院などの場合のように、その本来の使い方に即して保存することです。宮殿や城も部分的に住むことができますし、政治的・外交的目的に役立てることも、博物館とすることもできます。それらを、たんに観光用の呼び物とするだけでは、もったいないと思います。
 とうぜん、旅行者のなかには、あらかじめ書物で勉強しており、見学することによって、自分の想像を実際に確かめることができる専門家や博識者もいることでしょう。そこで、個々の国々のなかで、また全世界を通じて、こうした過去の芸術的遺産に対するわれわれの関係を、より内面化するには何が必要か、というあなたの問題提起に対しては、歴史意識、歴史への関心の奨励である、とお答えしたいと思います。
 これに関連して、学習知識の「歴史文学的」次元についてふれたいと思います。先に、私は、学校で学ぶ知識の実践的意義について語り、そこから道徳教育との関連性を示しました。
 しかし、歴史・文学上の学習知識は、かならずしも暗記するためだけの、無用の長物ではありません。その意図からすれば、むしろわれわれの文化を人生の根本と結びつけるような、あなたが、文化の系図と名づけたものに対する理解を、呼びおこすものであるべきなのです。
 それにくわえて、われわれの文化遺産の中心的位置を占める文学と音楽にたずさわることは、文芸と音楽の伝統というかたちで客体化された精神への、導入部となります。この科目の教育は、自然科学や技術といった科目の偏重による歴史感覚の欠如を埋めあわせるばかりでなく、あなたの表現を借りると、積極的に青少年の創造性を、また、真正な文化的要請に対する感受性を高めるのに、とくにかなっているように思います。

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