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日蓮大聖人・池田大作

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2 民衆の言葉で語る  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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4  経典が示す釈尊の心
  おっしゃることはよく理解できます。まったく同感です。
 さらに、『四分律』巻五十二には次のようにあります。(大正二十二巻、参照)
 あるとき、字を勇猛という比丘がいました。バラモンから出家し、世尊の所に行って、頭面礼足ずめんらいそくし、退いてかたわらに座り、世尊に次のように言いました。
 「大徳よ。このもろもろの比丘たちは、さまざまな種姓より出家し、名字もまた異なり、仏の教義を破っています。願わくは世尊、われらが世間の好ましい言語(=サンスクリット)によって、仏経を正しく整えることを聞き入れられますように」
 仏は言いました。
 「お前たち、愚か者よこれはすなわち殻損である。外道の言語をもって、仏経を錯雑させようとするとは」
 さらに、仏は言ったのです。
 「国の一般大衆の言葉の理解の範囲内で、仏経を誦し、習学し・なさい」
 さらに『五分律』巻二十六には、次のようにあります。(同前、参照)
 バラモンの兄弟二人がいました。闡陀鞞陀せんだべいだ(『リグ・ヴェーダ』などの四つの主要『ヴェーダ』を補助するバラモン教の学問の一つ。前述の闡陀至と同じ)の書をそらんじていました。
 のちに正法により出家しました。もろもろの比丘の誦している経が正しくないことを聞いて、責めとがめて言いました。
 「もろもろの大徳は出家して久しいにもかかわらず、男女語、一語多語、現在・過去・未来語、長短音、軽重音もわきまえず、このように仏経を読誦するなどとは」
 比丘たちはそれを聞いて恥じました。二人の比丘が仏の所へ行き、つぶさに仏に語りました。
 仏は次のように言いました。
 「国の音によって読誦するのを聞いても、仏意を違えたり、失ったりすることになりません。仏の言葉を外道の言語に直したものを聞いてはなりません。これを犯した者は偸蘭遮ちゅうらんじゃ(=トゥラッチャヤ、粗罪。「悪作」と同じく微罪)となります」
 池田 この伝承も興味深いですね。バラモンの二人組は、文法の規則などの言葉の形式にとだわりをみせていますね。
 それに対して、釈尊が重要視するのは、あくまで「意」です。また、そこにこめられた仏の心です。
  この伝承には、サンスクリット文法用語がいくつか見られます。そのうち三つの「語」という文字の意味は、「言葉」という意味ではなく、それぞれ異なっています。
 池田 三つの「語」とは、季先生が先ほど引用された『五分律』の中にある「男女語」「一語多語」「現在・過去・未来語」ですね。
  現代漢語のなかで、第一の「語」は、「文法上の性」を表し、「男女語」とは、「男性」と「女性」に相当します。
 第二の「語」は、「数」を表し、「一語多語」は「一語」「多語」に分かれ、現代の「単数」と「複数」に相当します。
 第三の「語」は「時制」を表し、「現在語」「過去語」「未来語」とは、現代の「現在時制」「過去時制」「未来時制」に相当します。
 サンスクリット文法はきわめて複雑で、長期的に専門の訓練を受けないと、マスターするととはむずかしいものです。
 古代インドの言い伝えによれば、サンスクリットをマスターするには十二年かかる、と言われていました。
 古代インドですらサンスクリットに精通した人は、おそらく、社会の上層階級に属する一握りの人々に限られ、広範な民衆ではなかった、と考えられます。
 ですから、釈尊が、サンスクリット使用に反対する言語政策をとり、比丘たちにそれぞれ自身の言語で語ることを許したことは、自身が創始した宗教を、広大な民衆に近づけ、広大な民衆の需要に適応させ、広大な民衆のなかへ広く伝播させるうえで、つごうが良かったわけです。

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