Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第3章 強さと優しさを育む
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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何があっても挑戦しぬく人が「勝利者」
勝本
先生からの伝言を聞いた息子さんは、大変感激され、先生宛に決意の手紙を綴ったそうです。
「創価高校に入学させていただきながらも、中退するという形になりますが、決して悔いを残さず、十年先また二十年先と後悔せぬよう、これからの理容師になる一歩一歩を大切にして、必ずや池田先生の前に胸を張ってお会いできるよう頑張っていきます」
「どうせ理容師になるからには、一店や二店など、小さいことは言わないで、何十店と持てる、また海外にも行けるような、超一流の理容師をめざします。……十六歳の高校生が大きなことを言うようですが、いったん決めたことですので、どんなことがあっても、とことん貫いていきます」と。
池田
立派な決意だった。本人なりに、よくよく考えたうえでの結論だったと思います。最大に応援してあげたかった。
勝本
専門学校に進み、関西有数のチェーン店をもつ理容店に就職しました。
着実に技術を磨きましたが、コンクールに出るには、モデル役になってくれる人がいないといけないのです。
「よし、僕が」「よし、僕も」と、学園の同級生がモデル役を申し出ました。ハサミを持つ手が、喜びでふるえたといいます。そして、当時、三十数店舗あるチェーン店全体で行なわれたコンクールの「スタイリストの部」で、見事に優勝することができたそうです。
その後、社内でも実力が認められ、二十三歳の頃には、社内最年少の店長として新規の店を任されるまでになりました。現在、二十九歳になるそうですが、全店舗のなかで唯一、二〇カ月連続で売り上げを伸ばすなど、大きな信頼を勝ち取り、将来を嘱望されています。
池田
立派になって、本当にうれしい。見事に、社会で勝利の実証を示している。
何があっても、自分自身のゴールを見失わずに挑戦しぬく人、決してあきらめずに徹しぬく人が、人間としての「勝利者」です。
世間でいう、いい学校、いい就職という、“成功のレール”を歩むことだけが人生ではありません。仮に、そのレールどおりの人生を歩めたとしても、本当の充実感を味わえるかどうかは、まったく別問題でしょう。有名な大学を出ても、汚職に走ったりして、人生を台無しにしてしまう人も少なくない。
子どもというのは、自分自身で伸びる“芽”をもっているのです。だからこそ、お子さんが進むべき道を見つけたら、しっかり話し合った上で、全力で応援していく。親がたじろいだり、戸惑ったりしてはいけない。親が世間体を気にして、子どもを理解しなかったら、だれが理解してあげられるのか。
何があろうと、他人がどう言おうと、自分だけは、子どもの「絶対の味方」となり、「最大の支え」となってあげるのです。
勝本
彼女の息子さんも、先生の激励をはじめ、ご両親や家族、そして多くの友人の力強い応援があったればこそ、ここまでやってこれたと感謝していました。
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命を削って子どもに尽くす母の深き愛
池田
お子さんの心をくみとりながら、希望のもてる方向へ、向上していける方向へと励ましていく。可能性をどこまでも信じ、真剣に成長を祈ってあげるのです。家庭教育は、わが子を信頼することから始まるのです。
世間体や表面的な次元にとらわれた生き方では、いつまでたっても安心感は得られない。いつも何かに左右され、軸がなくなってしまう。すると、「困った」「どうしよう」と、グルグル回っているだけで前へ進まず、愚痴や心配が絶えなくなってしまう。
そうではなく、一念の“ハンドル”によって、すべてを幸福の方向へと、力強く回転させていく――これが信心の力なのです。
大曽根
すべては、親の一念次第なのですね。
私の母は、信心に一徹な人で、一日に題目を何万遍とあげる人でした。師弟一筋の信心も、母が教えてくれたものです。
でも信心を始めるまでは、どちらかといえば世間体を気にするほうだったと思います。
私がまだ幼い頃、父が仙台で医薬品販売の社長をしていた関係で、母も地域の名士の集まりによく呼ばれることがありました。
そんな時は、事前に必ず呉服屋さんを呼んで、わざわざ他人と違う着物をあつらえるなど気を配り、連れていく私にも、出かける前に「ああしてはいけない」「こう言ってはいけない」と細かいことまで注意しました。
いざその場に行ってみると、母は会う人ごとに気を使って愛想を振りまいており、子ども心にも、「あ、また母が見栄っ張りしているな」と感じ、“大人の社会っていやだな”と思ったものです。
勝本
そのお母さんが入会されるきっかけになったのは、どんなことだったのですか。
大曽根
私が小学校二年の頃でしたか、母がガンになり、入院しました。
私は、母のいない家にいるのがさみしくて、病院の三畳ぐらいの付き添い部屋でいっしょに寝泊まりし、食事も母といっしょに病院で食べました。
小学校が、ちょうど病院の目の前にあったので、一年間ほど、病院から学校に直接通っていたのです。
いろいろと治療を試みたのですが、「もうこれ以上、手だてはない」と覚悟した母は、残された時間をすべて娘たちのために使おうと決め、退院を希望しました。そして子どもたちにできるだけ最高の教育を受けさせようと、父を仙台に残し、東京に娘三人を連れて出てきたのです。
池田
必死の思いだったのだろうね。
自分の命を削ってまでも、子どものために生きる――母親の愛情というものは、それだけ深く大きいものです。
大曽根
母は、息子を二人も病気で亡くしているんです。
一人は死産で、もう一人は五歳の時にジフテリアにかかってしまいました。薬屋をしていたにもかかわらず、当時、戦争で血清が不足していたために助けられなかったことを、本当に悔やんでいました。
それだけに、私たち娘に対する思いは、人一倍強かったようです。とくに健康には、異常なほど気を使っていました。
冬の仙台は寒いのですが、私が小さい頃には、頭に毛糸の帽子をかぶり、マスクをして、ウサギの毛皮の白いオーバーを着て、厚手のタイツの下にも股引をはくといった“完全武装”で(笑い)、学校に行かされて……やりすぎなんです。
そんな格好ですから、学校で目立ってしまい、雪合戦ともなれば、格好の標的にされてしまいました。(笑い)
父も父で、天候が悪かったりすると、私がいやがるのにもかかわらず、車に乗せて学校の校門に横づけして。それで、上級生からもにらまれ、ある時は七、八人に突然取り囲まれたこともあり、必死に“中央突破”して逃げ帰ったこともありました。(笑い)
池田
それは、大変だった。(笑い)
でも、ありがたいじゃないか。ご両親は、お子さんのことを思い、何としても健康で長生きしてほしいと願う一心だったのだろうね。
私の父も母も、そうだった。生来の病弱だったからね。夜学から帰ると、寝ないで待っていた母は、「大変だったね、大変だったね」と言いながら、うどんを作ってくれた。
父は寡黙でしたが、私が戸田先生のもとで働き、家を出てアパート住まいをしている時など、これを持っていけと、母に当時の外食券を渡していたという。「元気でいてくれさえすれば」というのが、親の心なんだよ。
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赤裸々に生き触発し合いながら成長
大曽根
そう思います。
母は上京してからは、勉強の面でも厳しくなりました。
私も小学五年の時から二年間は、月・水・金は家庭教師、火・木・土は塾、日曜日は塾のテストと、勉強に追われる毎日でした。でもその甲斐あって、高校、大学まで一貫教育の私立中学に何とか合格でき、受験勉強から晴れて解放されましたけど……。(笑い)
病の身をおして奮闘する母の姿を見かねた叔母が、この信心の話をしてくれて。母が入会したのは、私が中学に入る少し前だったと思います。
元来、真面目な母は、その日からさっそく勤行するようになったのですが、起きられずに横になったまま勤行している姿が、子ども心にもかわいそうで、母の背を起こしてあげて、私もその後ろでいっしょに勤行しました。
母は、それから御書拝読にも挑戦し、数カ月で全編読了するまでになりました。その功徳でしょうか、ふとんを自分であげられるまでに病状がよくなったのです。
それでも私が、初めて創価学会の会合に出た時は、大変なカルチャー・ショックを受けました。
勝本
どんな印象だったのですか。
大曽根
それまで母から、「恥になることは、他人には決して話してはいけない」ときつく教えられていただけに、学会の人たちが赤裸々に、何のてらいもなく悩みや困ったことを口に出し、みんなで励まし合う。いっしょに泣いたり、笑ったり……。学会ってすごくあったかいな、すばらしい世界だなって、強く感じたんです。
三人の娘の教育だけに意識が集中していた母も、信心するようになってから、ものの考え方も大きく広がって。私にとっても負担が減ったというか(笑い)、よい転機になりました。
以来、母の病状も持ち直し、自分から進んでいろいろな所に出かけて、病気の体験を話すまでになって……。世間体を気にしていた以前からは、まったく想像もできない変わり様でした。
池田
赤裸々に生きることが大切だね。学会は虚飾や誇張のない、ありのままの世界です。
人間と人間が、ぶつかり合い、触発し合って成長していける。「
苦をば苦とさとり楽をば楽とひら
」いていける世界なのです。
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不幸な人のいちばんの味方に
勝本
私が入会したのも中学生の頃でした。両親が先に入会したのですが、少し抵抗感があって一年遅れたのです。
さっそく、女子部の先輩が毎日のように通ってくれました。本当に親身になって面倒をみてくれて、一人っ子だったせいもあって、私も、いつしか「お姉さん」のように慕うようになったのです。その方のおかげで、楽しく活動に参加できるようになりました。
また当時、運送業をしていた父の三輪のミゼットに乗って、よく親子三人で活動に出かけました。帰りの車中でも「今日、よかったな」とか、「ほんま、ええ話やったな」と感想を言い合ったり、いっしょに学会歌を歌ったり、「家族座談会」です。
大学に行こうと思ったのも、高等部の時に、学生部の会合に誘われ、「ここにいるメンバーは全員、世界に雄飛を」との先生の指導を、先輩からうかがったからです。全身に衝撃が走り、その時、初めて進学を決意しました。
池田
よき先輩の存在というのは、本当にありがたいね。
創価学会は、ともに信心を深め、ともに幸福になっていこうと、互いに励まし合う「善知識」の集まりなのです。
成長のために、親が果たしてくれる役割は大きい。しかし、他人でなければ、果たせない役目もある。いろんな人がいる学会の強さです。
徹して一人の人を大切にしてきたから、学会は強い。不幸な人、悲しんでいる人、苦しんでいる人を放っておくことなく、一番の味方になって、ともに手を取り合って乗り越えてきたからです。
御書には、日蓮大聖人が門下を思いやり、「魂を無くすほど、心配しました」(御書185㌻、趣意)と仰せになっている箇所がある。弟子を思う御本仏の限りない御慈愛が伝わってきます。
大聖人の御心を受け継ぐ学会の根本精神も、まったく同じです。「君が憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」――これが、“学会家族”の麗しい心なのです。
大曽根
自分がつらく苦しい時に、かけつけ、励ましてくれる学会の同志の存在は、本当にありがたいですね。
私の家も、病気の母を抱えていただけに、いざ大変だという時、支部や地区の方々が来てくれて、唱題を送ってくださいました。それが、どれほど心強かったことか……。
また、ふだんから同志の方が「お母さん、大丈夫?」とか、「パン、焼いて持ってきたわよ」と、まめに立ち寄ってくださったことが、何よりもありがたかったのです。
なかなか外出できなかった母も、訪ねてきた人たちに声をかけてもらい、いろんな話をすることで心が癒されていたようです。
池田
お母さんの介護もあるなか、頑張ってきたね。
私も多くの人を見てきたが、介護に徹し抜いた人は皆、境涯を大きく広げている。そういった人は、本当に信用できる。人間としての心の優しさと強さをもっています。
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周りの未来っ子を、わが子と思って
大曽根
ありがとうございます。
平成六年(一九九四年)に母が亡くなるまで、私は小学校の頃からあわせると三〇年近く、入退院を繰り返してはそのつど元気になるという母を看病し、介護を続けてきました。
そうこうするなかで、「大曽根さんは、まるで准看護婦の資格でももっているみたいですね」と言われるまで、経験を積むことができました(笑い)。薬屋に生まれ育ち、もともと衛生面の知識があったことも、幾分、役立ったかと思うのですが。
長い介護生活のなかでは、付き添った病院で、年末の「紅白歌合戦」を見ながら、年を越すこともしばしばだったのです。
それでも、学会活動だけは何としてもやり抜こうと決め、今日まで頑張ってきました。それが、母の喜んでくれることでもありましたから。
池田
娘さんが学会活動で頑張ることを望まれ、快く送り出してくれたお母さんは、本当に立派です。
介護されながらも、自分の使命を果たしていたんだよ。
親子で心が通じ合っていたからこそ、大曽根さんも力を出すことができたんだね。
大曽根
はい。本当にそう思います。
そんな私にも、一つだけ悩みがありました。なかなか、子どもができなかったのです。
なかばあきらめかけていた時、昭和五十七年(一九八二年)の二月でしたか、鎌倉にいらっしゃった先生にお会いする機会があったのです。
役員をねぎらってくださった先生は、私と、もう一人の婦人部の方を見るなり、「何か悩んでいることあるの」と聞かれ、私たちの顔を見て、「あっ、二人ともお子さんがいないんだね」と言われたのです。
池田
いつも明るい二人なのに、少しさみしそうな顔をしていたね。
大曽根
先生は私たちをつつみこむように、激励してくださいました。
「子どもがいないからといって、卑屈になってはいけない。御本尊様をいただいて、学会活動を一生懸命やっているのだから、その時点で、すべて宿業転換しているんだよ」
「子どもが生まれたとしても、子どもによって、地獄のような苦しみを味わう親もいる。子どもに殺されてしまう親もいる。こうやって一生懸命信心して、活動していて子どもが生まれない、というのは、意味がある。そこを、信心で確信できるか、確信できないか、どっちかなんだよ」と。
勝本
私も少し晩婚だったこともあり、子どもがいなくて、先生からご指導をいただいたことがありました。
その時の先生のお話が忘れられません。
「周りに、未来っ子や青年部がたくさんいるじゃないか。全部、わが子と思って、大事に育てさせていただくんだ。ちょっとした、一念の微妙な差だけども、そう思っていくと、人生、全然違ってくるよ」と、温かく激励してくださったのです。
また、先生の奥様も「子どものいない分、人のため、社会のために頑張れるわね!」と励ましてくださいました。
私は、“本当にそのとおりだ、どのような形にしろ、自分らしく広宣流布のために何でもさせていただこう、全力で戦ってお役に立つことこそが大事なんだ”と、心の底から決意できたのです。
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ポケベルが結んだ母と子の心の絆
大曽根
私も、子どもに関するご指導をうかがって以来、何か気持ちが大きく広がって、それから心晴れ晴れと戦えるようになりました。
待望の子どもが生まれたのは、不思議なもので、それから間もなくのことでした。
ダブルベッドを買って、娘を母の横に寝かせて………。二人の世話をいっしょにする生活が始まりました。
娘の誕生は、母にとっても元気の素になったようで、病状が安定している時は、自分が娘を見ているからといって、送り出してくれました。娘を連れて出かけようとした時にも、母は娘といっしょにいたいからと言うので、留守の間はお願いすることも多かったのです。
その娘が小学生になった頃、母が急に高熱を出したことがありました。
私は派遣で、車で一時間ほどかかるところの区の婦人部長をしていたものですから、母に留守を頼んでいて……。幸い、大事にいたらなかったのですが、小さい娘でしたから、おびえてしまったのでしょう。「もう、お母さん。出かけないで」「出かけちゃ、いやだ」と泣いて、私のそばを離れませんでした。
どうしたらよいか、私はずっと考え、その頃、出始めていたポケットベルを買おうと思いついたのです。それで、すぐに娘といっしょに買いに行き、契約しました。ポケベルで呼ぶ方法を教えながら、「もう大丈夫よ。何かあったら、電話して。必ず、お母さん、飛んで帰ってくるから」と言い聞かせ、娘を安心させたのです。
池田
ポケベルというよりも、お子さんといっしょに買いに行ったことで、娘さんも安心できたのだろうね。
私のことを忘れていない。いつも、お母さんとつながっている――このことが、どれだけ、お子さんの心を安定させ、明るくするか、はかりしれません。とくに、お子さんが小さい場合は、なおさらです。
私も会長になって、日本中、世界中を回ることが多く、家にいることは少なかった。だから旅先で、子どもに手紙を書くことを忘れませんでした。それも連名ではなく、三人の子どもそれぞれに宛てて、別々に書いたのです。
いつもいっしょにいられないとしても、知恵を働かせ、工夫することが大事です。お子さんは、その心遣いで、自分への愛情を確認するものなのです。
大曽根
それからしばらくは、しょっちゅう娘からポケベルで呼び出されました。
急いで電話してみると、「あ、つながった」とか、「本当に、つながるんだね」とか(笑い)、何でもないことも多かったのですが……。たしかに、そうやって安心していたんですね。
ある時、ポケベルで呼ばれ、家に電話をしてみると、母がまた発作を起こしたということで、娘に手洗いの水とかタオルとか、点滴に必要なものを準備するように頼んで、私は医者の手配をして急いで帰ったり、時には近所の人に来てもらったりすることもありました。
今思えば、本当に“綱渡り”の毎日でしたが、母はそれでも「行きなさい」「広布のために働きなさい」「先生の弟子でしょう」って。日頃から組織の方の温かい応援や励ましがあったおかげで、活動を悔いなくやりきることができました。
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親の生き方が子どもの心を鍛える
勝本
どんな時でも助け合う、学会の組織というのは、本当にありがたいですね。
最も苦しんでいる人、最も悲しんでいる人のために行動する――この学会精神は、三年前(一九九五年)の阪神・淡路の大震災の時にも光りました。
私も、翌朝、救援物資を積み込んだ船で、ドクター部や白樺グループの皆さんといっしょに、着の身着のままで、大阪から神戸へと向かいました。
現地では、自分も被災者であるにもかかわらず、「困っている人を見ると、じっとしてられへんかった」と、茫然自失する人々のなかを、身も心も挺して働き続けるメンバーが大勢いました。
とくに被害の大きかった神戸市長田区では、小学校の講堂に避難していた、ある婦人部員に会いました。話を聞いたところ、自宅は倒壊し、お孫さんまで亡くされたといいます。
それなのに、たえず周りの被災者の方々を気遣い、温かく声をかけながら、力強く励まされている姿を目の当たりにして……。
学会員は強いなあと、胸が熱くなりました。
大曽根
阪神大震災といえば、ある婦人部の方からこんな話をうかがったことがあります。
被災地への救援物資を出そうと用意している様子を見ていた、まだ幼稚園のお子さんが、「お母さん、ボクのおもちゃも、いっぱい入れてあげて」と言ったというのです。
それも、いつもお子さんが大切にしているものばかりを出してきたので、お母さんが心配して「本当にいいの」と聞くと、お子さんは一言、「(被災した)あの子たちのほうが、もっとさみしいよ」と。
お母さんは、その優しい言葉に胸がつまり、お子さんを思わず抱きしめた、と。
池田
そのお子さんも、お母さんが日頃から「人々のために」と行動する後ろ姿を見ながら、そうした他人を思いやる「心の優しさ」を自然と育んでいったのだろうね。
子どもというのは、本来、優しい心の持ち主です。その清らかな心を、大人のドロドロしたエゴの社会が汚してしまっている。
他人の心の痛みが分かる――それが、真の「優しさ」です。それと「強さ」も必要です。何としても救ってあげようとする一念の強さ、励ましの強さ、悪と戦う強さ。
人の心が分かり、行動できる人こそが、本当に「心の強い」人間なのです。
家庭教育の最大にして、最重要の眼目は、そうした心を育むことです。親の生き方をとおして、子どもの心を鍛えることが大切なのです。
その急所さえ外さなければ、ほかのことはいくらでも後で取り返しがきくものです。
人間の社会は、最後は「心」です。お金でも、立場でも、名誉でもない。心の世界なのです。
だからこそ私も、「真心には真心で応える」――そこに徹してきました。
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子どものことを、どこまで思えるかが大切
勝本
こんなことがありました。
関西文化会館の職員として、池田先生を大阪にお迎えした時のことでした。ある時、先生が私に、「陰で戦っている人の名前を挙げなさい」と言われたことがあったのです。
私が、何人かの名前を挙げると、先生は「ほかには、ほかには」「まだ、もっと挙げなさい」と、それこそ何度も何度も、徹底して聞かれるのです。
先生はその方々に、激励をしてくださった後で、一言、こう言われました。
「これからは、あなたが、陰で頑張っている人を讃えて、守っていくんだよ。会員の方々の手となり、足となり、目となり、耳となり、やっていくんだよ」と。
どこまでも「一人の人」を大切にされる、先生の姿に、胸が熱くなりました。
池田
大切な仏子を、どこまでも守り抜く――私にはこの心しかありません。その一点に、私はいつも心血を注いできました。
創価学会はどこまでも、信心のうえに、「真心」と「人間性」で結ばれた“心の世界”です。
そこには、だれが上とか下とか、差別は一切ないのです。むしろ、地道な実践に、懸命に取り組んでいる人こそが偉いのです。
だからこそ私は、陰で頑張っている人に光を当てて最大に讃えてきました。
目には見えない心を、どう感じ取り、どう応えていくのか。難しいことのように思われますが、大切なのは、相手の立場に立って、その心をとことん思い、考えることです。
子育ても同じです。子どものことを、どこまで思ってあげられるか、どこまで考えてあげられるかです。そこが分かれ目なのです。
大曽根
私も人生を振り返ってみて、つくづく、母あっての自分だな、と感じます。
亡くなった後に、娘に聞いて初めて知ったのですが、母は娘に対し、「お母さんの活動の足を、絶対に引っ張ってはいけない」と、繰り返し語っていたそうです。
思えば、母は私にもいつも、「うちを出たら、家のことは忘れていい」と言ってくれていました……。
母のおかげで、心おきなく広布のために戦うことができたと、本当に感謝しています。
その母がいよいよ危篤状態になった時に、イタリアに行かれていた池田先生が、研修道場で母のために植樹をしてくださったとのご連絡をいただいて、そのことを母に伝えると、とても喜んでいました。
朦朧とする意識のなかで、時折、目が覚めると、「今、イタリアに行ってきたよ。先生といっしょだったよ」と、楽しそうに話していた母の笑顔は忘れられません。
母が亡くなってから、遺書が見つかったのですが、そこには、「私は、先生の弟子として悔いのない一生だった。これからは子どもとともに、広布の道をしっかり歩むように」と、綴ってありました……。短いながらも、母の生き方が“凝縮”した言葉でした。
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母のありがたさを実感できる人は幸せ
勝本
私も、母を昨年(一九九七年)亡くしましたが、大曽根さんと同じように、私のことを最大に理解し、応援してくれたのが母でした。
私は二十八歳の時に、交通事故にあい、九死に一生を得た時がありました。車に乗せてもらい、土手の上を走っていた時、反対側の車と接触し、車が土手下に転落してしまったのです。
転がる車の中で、わずか数秒間のことだったと思いますが、パノラマのようにこれまでの人生を振り返っていたんです。そして、「先生の弟子として、何一つお応えできる戦いをしていない。こんなところで犬死にしてなるものか」との思いがこみあげ、“絶対に生きてみせる”と題目を唱えていました。
そのせいでしょうか、大怪我をしていたにもかかわらず、意識を失わずにすんだのです。
先生と奥様からも、白百合とリンドウの花をお見舞いにいただいて。「この花が枯れないうちに、退院しよう」と固く決意した私を、母は懸命に励ましながら、必死に看病してくれました。
当時は、父もリューマチを患い、入院していただけに、本当に心労も重なっていたと思います。母は、いつ休んでいるんだろうと……。
その時、初めて私は、母親のありがたさを、身にしみて感じることができました。
池田
どれほど、母親の愛情がありがたいか――それが実感できる人は、幸せです。
人間は、一人で成長できるものではない。親をはじめとして、数え切れないほどの多くの人たちの支え、励ましがあればこそ、大成できるのです。
そのことを、絶対に忘れてはならない。感謝の心がある人には、常に喜びがあり、歓喜がある。幸福の軌道に乗っていけるのです。
勝本
私の結婚が決まった時、先生が、母を呼んでくださったことがありました。
母は、呼んでいただいたことを本当にありがたいと感謝し、恐縮していました。先生は「いい娘さんに育ててくれて、ありがとう」と、母に優しく声をかけてくださって……。私も母も、胸がいっぱいになりました。
池田
お二人が今日、広布の庭で思う存分、戦えるのも、お母さんの陰の支え、祈りがあったことを忘れてはならないのです。
その深い愛情をかみしめながら、今度は、自分たちが、その思いをお子さんに、そして多くの未来部員たちに注いであげるのです。
忍耐強く徹すれば、後で子どもが立派に成長した時、後継の人材が育った時に、「本当によかった」と心から思えるものなのです。
戸田先生はよく、「組織は偉大な勇者をつくるか、さもなくば、幼稚な愚者をつくる」とおっしゃっていたが、子育てもまったく同じです。中心者の一念であり、信心です。家庭でいえば、母親の一念がどう定まっているかです。
私の長い信仰歴から見て、母親がしっかりしている家庭は、子どもにも信心をしっかり教え、世のため人のために行動できるようになっている。母親で決まるのです。だからといって、何も特別なことをしなければならないというわけではありません。
母親が自信をもって、生き生きと人生を歩んでいく。希望に向かって、朗らかに成長していく――。
その輝く姿こそが、子どもに生きる原動力を与え、子どものすばらしい可能性を育む“大地”となっていくのです。
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