Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「光彩」 光彩

小説「新・人間革命」

前後
36  光彩(36)
 翌十月十二日、山本伸一の一行は、ブダペストを発ち、スイスのチューリヒに到着した。
 街を歩き、レストランに入ると、同行のメンバーが伸一に語りかけた。
 「やはり、自由主義の国に来ると、なんだか、ホッとしますね」
 それは、皆の実感であったようだ。
 伸一は答えた。
 「しかし、自由主義の国も、本当の民主を実現するのは容易ではない。
 日本を見ても、かたちは民主主義でも、その実態には大きな疑問がある。
 指導者や政治家が、民衆に対する信頼と尊敬の念をもっているだろうか。
 選挙の時だけは、国民に頭を下げるが、その実、民衆を見下している政治家が、いかに多いか。
 『大衆即大智識』という吉川英治の言葉があるが、民衆に学ぼうという真摯な姿勢をもった政治家が、何人いるだろうか。
 また、民衆自身、主権者の自覚をもって、社会をどうするか、政治をどうするかと、真剣に考えているとは言いがたい」
 秋月英介が、頷きながら言った。
 「それだけに、一人の人間に光を当て、民衆同士が互いに磨き高めていく、学会の運動が、極めて大事になりますね」
 伸一の目が光った。
 「そうなんだよ。
 ロシア革命も革命であったが、私たちが今なそうとしていることは、人間革命を機軸とした総体革命だ。
 わが内なる悪と戦い、すべての根源である人間の内面を、生命を変革していく人間革命だ。
 そして、政治や経済に限らず、教育、科学、文化、芸術など、人間のもたらすいっさいの所産を、人間の幸福のためのものとしていく作業である。
 ゆえに、それは、過去の革命とは全く次元を異にしている。
 まず、その方法は、急進的な暴力革命ではない。どこまでも、漸進的な非暴力の革命である。
 強引に、性急に事を運ぼうとすれば、必ず無理が生じ、歪みが起こる。偉大なことは、一朝一夕にできるものではないからね。
 では、その武器は何か。一人ひとりとの対話だ。言論の力による革命だよ。
 そして、より根本的には、人格による触発作業といえる。したがって、自己の人格を磨くということが、私たちの運動の不可欠な要件となっていく」
 皆、伸一の話に、真剣に耳をそばだてていた。
37  光彩(37)
 山本伸一は、皆の顔を見ながら、言葉をついだ。
 「どこまでも一人の人間に光を当て、同苦しながら進む広宣流布の運動は、イデオロギーを優先する生き方や全体主義とは、対極にある。
 全体主義などの考え方は、人間を一個の人格としてとらえるのではなく、『階級』や『民族』といったように、抽象的にとらえていく。しかし、人間は、そんな枠でとらえきれるものではない。
 既にその時に、いかにスローガンとして、″民衆のため″と叫ぼうが、本当の人間、本当の人民を見失ってしまっている。
 そして、異なる意見の持ち主には、『人民の敵』などというレッテルを張り、『悪』として括り、排斥、抹殺していく。それがスターリニズムであり、また、ナチズムではなかったか。
 戦時中の日本も、そうだった。国を愛し、民衆を愛した、あの牧口先生、戸田先生も『非国民』とされたのだ。
 人間の真実を知る生命の哲学なきゆえの、根本的な人間不信が、次々と人間を分断していくことになる。
 私は、この分断こそが、最大の悪の要因であると断定したい。
 広宣流布は、一人ひとりの人間に、『仏』を見て、人間と人間を、信頼で結び合う尊き運動である。
 今、私たちは、人類の歴史上、類を見なかった、全く新しい、未聞の革命を起こそうとしている。しかも一人の犠牲者もなく。
 これは、壮大な実験だ。しかも、失敗が許されない実験といってよい。
 二十世紀は、『戦争と革命の世紀』といわれているが、同時に、人間革命の開幕の世紀となるだろう。
 いや、むしろ、人間革命の開幕の世紀ゆえに、二十世紀は、人類史上、最も輝かしい、生命の光彩の世紀への序曲として記録されることになると、私は確信している。みんなは、そのヒーローだよ」
 話は、雄大な広がりを見せ、希望の光が差していくかのようであった。
 伸一たちは、チューリヒには二泊して、予定していた仕事をすませ、十月十四日に、パリに戻った。
 翌十五日は、ドイツの青年たちと会うことになっていた。
 ドイツのメンバーは、パリの川崎鋭治の家に、朝早く到着し、夕刻から開かれる指導会に出席して帰ることになっていた。
 伸一は、前夜、ドイツの青年たちのことを考え、カレーライスを作ってくれるように、川崎鋭治の妻の良枝たちに頼んだ。
38  光彩(38)
 朝、山本伸一が川崎鋭治のアパートに行った時には、既に、ドイツに留学している、女医の高石松子が到着していた。
 「いやー、よく来たね。ドイツから、ここまで、どうやって来たんだい」
 伸一が聞くと、高石は、頬を紅潮させて答えた。
 「自分で車を運転して来ました。私は、ペーパードライバーなもので、こんなに長い距離を運転するのは初めてだったんです。
 ところが、途中、濃霧だったので、必死になって、お題目を唱えながら運転して、なんとか無事に、パリにたどり着きました」
 「時間は、どのぐらいかかったの」
 「十八、九時間です。不眠不休でした」
 「そうか、それは、大変だったね。
 でも、無理をしては、絶対にいけないよ。こういう時は、ゆとりをもって、ゆっくり休みながら、運転するようにするんだ。
 もし、事故を起こしてしまったら、なんにもならないからね。事故を起こさないようにする知恵が大事であるし、それが信心だよ」
 伸一には、小柄な高石が、ハンドルにしがみつくようにして、必死になって運転している様子が、瞼に浮かぶようであった。
 「乗って来たのは、どんな車なの。車を見たいね」
 「はい」
 高石は先に立って、アパートの前に止めておいた車に、伸一を案内した。
 車は、青いフォルクスワーゲンであった。
 「いい車だね。名前はあるのかい」
 「はい、『若鮎号』と名づけました」
 「すばらしい名前だね」
 伸一が、車に近づいて見ると、なかに一人の女性が乗っていた。
 「この方は?」
 伸一は高石に尋ねた。
 「ドイツの女子部のメンバーで、波山広子さんといいます。先月の末にドイツに来られました。
 ドイツから一緒に来たのですが、ご招待を受けていないので、車で待機していたのです」
 「なんだ、そんなことは気にしなくていいから、一緒にいらっしゃい。
 車の中なんかで、待たせてしまって悪かったね」
 伸一は、部屋に戻ると、波山に声をかけた。
 「生活は大丈夫なの?」
 「はい。私は、日本で看護婦をしていたのですが、高石さんの紹介で、ドイツの病院に勤務することが決まっています。ドイツの広宣流布をしようと思ってやって来ました」
39  光彩(39)
 波山広子の話を聞くと、山本伸一は言った。
 「嬉しいね、そういう人が来てくれて。
 では、ドイツに、ずっといるつもりなんだね」
 「はい、骨を埋める決意でまいりました」
 「それならば、まず、ドイツ語をしっかり勉強することだよ。言葉は、最大の財産になるからね。あとは、体を大切にしながら、自分らしく頑張りなさい」
 波山や高石松子らと懇談していると、やがて、ドイツの支部長になった、佐田幸一郎たちが到着した。
 伸一は言った。
 「みんな、おなかが減っているだろうから、食事をしながら語り合おう。カレーライスを作ってもらっておいたんだよ。カレーライスは、みんな、懐かしいんじゃないかと思ってね」
 皆の顔がほころんだ。
 ドイツのメンバーのなかに、ミツコ・ナカハタという女性がいた。
 彼女は、日系二世で米軍の軍人である夫の仕事の関係で、一年ほど前に西ドイツ(当時)に来たが、それまではアメリカのケンタッキーで支部の婦人部長をしていた。
 夫は未入会であり、そのなかで、西ドイツに来てからも、懸命に、学会活動に励んできた。
 伸一は、彼女が活動で、家を空けることも多いのではないかと思うと、ナカハタの家庭のことが心配でならなかった。
 彼は尋ねた。
 「ご主人は、お元気でしょうか」
 「はい、元気です。夫はこの二週間、演習に行っておりまして、今日、帰ってまいります」
 「それはいけない!」
 伸一は、こう言うと、諭すように語り始めた。
 「ご主人の身になってごらんなさい。
 二週間もの演習で、疲れ果てて、わが家に帰って来る。ところが、家には妻もいない。明かりもついていない。食事のしたくもできていない。
 誰もいない、冷たく、暗い家に帰ったご主人は、どんな思いをするか……。
 広宣流布のために全力を尽くすのは当然ですが、″信心のためだから、これでいいんだ″などと考えては、絶対にいけません。
 どんなに忙しくとも、家族への配慮を忘れてはならない。それが信心なんです。それが、一家和楽の勝利への道です。
 せっかく来たのに、残念かもしれないが、夜の指導会には出ずに、カレーを食べたら、すぐに帰ってあげてください。
 これが、あなたへの指導会です」
40  光彩(40)
 ミツコ・ナカハタは、目を潤ませながら、山本伸一の話を聞いていた。
 彼女は、皆と一緒に、夜の指導会に参加したいという思いで、いっぱいであったのであろう。
 伸一は、ナカハタの気持ちは痛いほどわかっていたが、彼女の家庭の事情を考えると、帰さないわけにはいかなかった。
 婦人が学会活動に励むには、当然、家族の理解と協力が必要になる。
 理解を得るには、家族を大切にすることである。自身の振る舞いを通して、仏法がいかなる教えであり、学会の指導がいかなるものであるかを、示していく以外にないからだ。
 つまり、家族の間にあって、信頼と尊敬を勝ち得ることだ。
 しかし、ともすれば、自分が信心に励み、学会活動をしているのは、一家の幸福のためなのだから、家のことは手を抜いても仕方がないと、考えてしまいがちである。
 それは、甘えであり、信心の利用といってよい。
 伸一は、彼女が、気づかぬうちに陥りがちな考えを、打ち破っておきたかったのである。
 最後に、伸一が「ご主人に、くれぐれもよろしく」と言うと、ナカハタの顔に笑みが浮かんだ。
 さらに、伸一は、佐田幸一郎に、後で彼女を、駅まで車で送るように頼んだ。
 青年部長の秋月英介らが、ご飯を盛って、カレーをかけ、皆に配った。
 部屋に、香ばしいカレーの匂いが漂った。
 「さあ、食べよう」
 今度は、カレーを食べながらの、和やかな懇談が始まった。
 佐田が伸一に報告した。
 「先生、実は、私は、十月いっぱいで、日本に帰ります」
 「そうか、それは残念だな。それで、日本に帰って、どうするんだい」
 伸一は尋ねた。
 「帰国するといっても、ドイツに滞在するための手続きをすませたら、すぐに戻って来る予定でおります。
 ドイツの広宣流布のためには、日本でしっかり信心を身につけた、力ある青年が、まだまだ、たくさん必要です。
 幸い、ドイツの場合、男性なら、炭鉱の仕事はいくらでもありますし、女性では、看護婦ならば、すぐに仕事があります。
 そこで、日本に帰って、ドイツの広宣流布のために頑張りたいという青年を、三十人ぐらい探して、連れて来ようと思うんです。
 青年がいなければ、未来は開けませんから」
41  光彩(41)
 山本伸一は、ドイツの広宣流布にかける、佐田幸一郎の気概が頼もしかった。
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「三十人も連れて来なくてもいいよ。十人ぐらいでいいから、世界に雄飛したいという青年を見つけて、活躍の舞台を開いてあげることだね。
 海外に来て、みんな、大変だと思っているかもしれないが、日本にいたって、つまらないよ。
 日本は狭いし、閉鎖的で、細かいことばかり気にして、嫉妬深いし、いやなところじゃないか」
 笑いが広がった。
 彼は、言葉をついだ。
 「佐田さんは、日本とドイツの懸け橋となり、ドイツの人びとの幸福の大道を開こうとしている。尊いことだね。私も、全力で応援するよ」
 伸一は、若き広布の英雄たちを、称え、元気づけたかった。
 午後から、伸一は、パリの建築物の視察に出かけ、夜には、再び川崎宅で開かれた指導会に臨んだ。
 指導会では、何人かの、フランスのメンバーの体験が感動を呼んだ。
 そのなかに、ジャンヌという名の女性がいた。
 彼女は子供のころから、喘息や脊椎の病気で苦しんできた。
 喘息の発作で、何度も死ぬ思いをし、学校にも、満足に通えなかった。
 母親は彼女の病を治そうと、病院を転々とし、よい治療法があると聞けば、すべて試みた。
 しかし、喘息は治らず、何年も、自宅で、ゼーゼーと喘ぎながら、寝て過ごす生活が続いた。
 寝るといっても、横になると苦しいために、クッションを体の下に置き、体を斜めにしていなければならず、熟睡することもできなかった。
 生きること自体が、地獄の苦しみであった。
 ジャンヌの母親のフランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、画廊を経営していたが、娘の治療に使う金は膨大であった。
 次第に、借金が膨らんでいった。
 この画廊に、画家の長谷部彰太郎が出入りするようになった。
 ある時、ウォールトン・ビオレは、長谷部に金策の相談をもちかけた。
 彼は答えた。
 「私は、金はありませんし、金を持っている人も知りません。しかし、あなたが経済苦を克服し、幸せになる方法は知っています」
 そして、彼女を川崎の家に案内し、川崎と一緒に、仏法の話をしたのである。
42  光彩(42)
 フランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、経済苦が乗り越えられるのならと、入会を決意したが、その帰り、長谷部彰太郎に、こう打ち明けた。
 「実は、私は、資金繰りの問題よりも、もっと大きな悩みを抱えているのよ。
 娘が病気で、子供のころから苦しみ続けているの。
 これも、信心で乗り越えることができるのかしら」
 長谷部は、確信をもって答えた。
 「もちろんです」
 彼女は、家に帰ると、早速、娘のジャンヌに、仏法のことを語った。
 ジャンヌは、母親が勧めるので、入会してもよいと思ったが、信心に期待はしていなかった。これまで、さまざまなものを試みてきたが、一向に治らなかったからである。
 しかし、題目を唱えてみると、その夜は、ぐっすりと眠ることができた。
 唱題すると、次の日も、その次の日も熟睡できた。かつてないことである。
 次第に彼女は、体力を回復していった。
 幾日か過ぎたころ、病院への通院以外で、初めて外に出ることができた。
 やがて、喘息の発作も治まり、日ごとに、健康になっていったのである――。
 ジャンヌは、随喜の涙を浮かべながら、体験を語り終えた。温かい拍手が彼女を包んだ。
 その姿を見ながら、目を真っ赤に腫らし、嗚咽する銀髪の婦人がいた。母親のフランソワーズであった。
 山本伸一は声をかけた。
 「お母さんですか」
 川崎鋭治が通訳をすると、彼女は「ウィ」(はい)と答え、そして、自分の来し方を語り始めた。
 ――父親が裁判所の長官を務める名門の家に育ち、パリ大学で哲学を学んだこと。
 ナチス・ドイツによってフランスが占領下に置かれた時には、夫とともにレジスタンス(抵抗)運動に身を投じ、夫はゲシュタポに捕らえられ、非業の死を遂げたこと……。
 彼女は言った。
 「私は、レジスタンス運動に加わりながら、″フランスが解放されれば、平和が訪れる。平和が訪れれば、私たちは幸せになれる″と信じてきました。
 事実、フランスは解放され、平和になりました。
 しかし、私は、娘の病に苦しんできましたし、娘を幸福にしてあげることもできませんでした。私の心には、いつも暗雲が垂れこめていました。
 ところが、仏法に巡りあうことによって、長年、苦しみ続けてきた病に、娘が打ち勝ったのです」
43  光彩(43)
 フランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、最後にこう語った。
 「私の仕事である、画廊の経営も、軌道に乗り始めました。今、私の胸には、希望が輝いています。
 一人ひとりが幸福になってこそ、本当の平和です。
 私は、この仏法を人びとに教え、悲願としてきた真実の平和のために、生きようと決意しています」
 会場に、再び大きな拍手が起こった。
 山本伸一は、フランソワーズに言った。
 「どうか、世界一、幸せになってください。最も苦しんできた方だもの、そうなる権利があります」
 婦人は、瞳を輝かせ、にこやかに頷いた。
 指導会は、山本会長を囲んでの、質問会となった。
 伸一は、十問ほどの質問に、懇切丁寧に答えた。
 そのあと、彼は、青年部の人事を発表した。ヨーロッパに、新たに、男女青年部の部制が敷かれることになったのである。
 そして、男子部欧州部長には、これまでヨーロッパの男子部の責任者をしてきた諸岡道也が、また、女子部欧州部長には、女子部の責任者をしてきた高石松子が就任したのである。
 伸一は、ヨーロッパの組織の基盤が、着々と築かれつつあり、新しい人材が、陸続と育ってきたことが嬉しかった。
 時代は動き、常に時代は変わっていく。春になれば、花が咲くように、ヨーロッパの大地にも、さらに多くの地涌の友が育ち、人華の花園が広がるにちがいない。
 彼は、その確かな手応えを感じていた。
 十月十六日、伸一の一行は、パリを後にし、ノルウェーのオスロに向かって旅立った。
 今回の海外訪問は、かなりのハードスケジュールであった。伸一の体調を気遣った同行の幹部は、あまり学会員のいないノルウェーへの訪問は、中止にしてはどうかと意見を述べた。
 しかし、伸一は、予定通りノルウェーに行くことを主張して譲らなかった。
 この国には地区があり、調理師をしている橋本浩治と、妻の恵子が、地区部長・地区担当員になっていた。といっても、彼ら二人だけで、一年九カ月前に発足した地区である。
 この夫妻の双肩に、ノルウェーの広布の未来はかかっているといってよい。
 伸一は、橋本夫妻が、頼るべき同志もいないなかで、必死になって頑張っていることを思うと、なんとしても、会って励ましたかったのである。
44  光彩(44)
 オスロに向かう途中、デンマークのコペンハーゲンの空港で、一行が待機していた時であった。
 テレビのニュースで、ソ連のフルシチョフ首相の辞任の報道が流れた。
 十月十六日の午前零時過ぎから、ソ連のタス通信が伝えたものらしかった。
 それによると、ソ連共産党が十四日に開いた、中央委員会の緊急総会の席上、フルシチョフから、党第一書記、首相、党幹部会員の辞任の申請があり、党としても、彼の高齢、健康悪化を考慮し、これを承認したというのである。
 さらに、後任の党第一書記にはブレジネフが、首相にはコスイギンが就任したと発表された。
 フルシチョフは、独裁者スターリンが死去した一九五三年に、党第一書記に就任。以来、十一年にわたり、東西冷戦下の一方の雄であるソ連の最高権力を握ってきた。
 彼の辞任が、高齢などによるものであるとするなら、あまりにも唐突である。辞任の背景には、激しい政争があったにちがいないと、山本伸一は思った。
 やがて、フルシチョフの首相辞任の真相は、キューバ危機や経済の失政などの責任をとらされての、「解任」であったことが明らかになっていくのである。
 ところで、この十月十六日は、いくつもの重大ニュースが、飛び交った日であった。
 この日、中国は、初の核実験を行ったことを発表したのである。
 ソ連に続き、東洋の社会主義国からも、世界に激震が伝えられたのだ。
 さらに、海を隔てたイギリスでは、前日の十五日に投票が行われた総選挙の結果、ウィルソン党首の率いる労働党が僅差で保守党を破り、十三年ぶりに政権に返り咲いた。
 伸一は、世界の激動を肌で感じながら、愛する同志のために、ノルウェーへと向かっていた。
 オスロの空港では、橋本浩治が一行の到着を待っていた。
 彼は緊張していた。山本会長が、わざわざ自分のために、オスロまで足を運んでくれることが、夢のようでもあり、信じられないような気持ちであった。
 ″今や、学会といえば、日本では、既に五百万世帯になろうとする、実質的には日本第一の宗教団体だ。
 その会長の山本先生が、一介の調理人で、なんの力もない、自分に会いに、わざわざオスロまで来てくれるのだ″
 橋本は、いよいよ山本会長が到着するのだと思うと、感慨無量であった。
45  光彩(45)
 橋本浩治は、自分のしてきたことを思うと、反省することばかりであった。
 ″前回の山本会長のヨーロッパ訪問の時に、ノルウェーに地区をつくってもらったが、ほとんど発展はしていない。
 学会員といっても、自分たち夫婦と、自分が信心をさせた、もう一人のメンバーがいるにすぎない″
 そう考えると、彼は、山本会長に対する申し訳なさを覚え、胸がいっぱいになった。
 「橋本さん!」
 彼は、自分を呼ぶ声で、ふと、われに返った。
 見ると、山本会長をはじめ、秋月英介たちが、手を振っていた。
 橋本は、慌てて駆け寄って行った。
 「先生! ようこそおいでくださいました……」
 彼は、あいさつもそこそこに、山本伸一の手を、ぎゅっと握り締めた。
 伸一が笑顔で言った。
 「さっきから、みんなで何度も、君のことを呼んでいたんだよ。どうしちゃったんだい」
 「はい、緊張しておりまして、申し訳ありません」
 外に出ると、既に夜になっていた。北欧のオスロは、さすがに寒く、吐く息が白かった。
 それぞれ、持参して来たオーバーやコートを着た。
 一行は、橋本が手配してくれた車に分乗し、ホテルに向かった。
 車のヘッドライトが街路樹を照らすと、木々が鮮やかな黄色に染まっていた。
 昼間見れば、紅葉が美しいにちがいない。
 車中、橋本は、車を運転している青年を、伸一に紹介した。
 「先生、彼は、パーク君といって、今年の一月に入会したメンバーです」
 伸一は、青年に、深々と頭を下げて言った。
 「そうですか。お世話になります」
 橋本は、改まった口調で、伸一に語り始めた。
 「先生が、わざわざノルウェーまでおいでくださるなんて、まるで、夢のようです。
 昨年の一月、パリの空港で、ノルウェーに来ていただきたいと申し上げた時、先生は、訪問のお約束をしてくださいました。
 その約束を、本当に果たしてくださり、申し訳ない限りです。
 それに対して、私の方は、何も先生にお応えすることができません。
 しかし、そんな私のために、おいでくださったと思うと、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます」
 橋本の声は、喜びのためか、涙声になっていた。
46  光彩(46)
 山本伸一は、橋本浩治に言った。
 「いや、感謝しなければならないのは私の方だ。橋本さんに苦労をかけるんだもの……」
 それから、伸一は、こう語った。
 「それはそれとして、何事につけても、その感謝の心は大切だね。
 感謝があり、ありがたいなと思えれば、歓喜がわいてくる。歓喜があれば、勇気も出てくる。人に報いよう、頑張ろうという気持ちにもなる。
 感謝がある人は幸せであるというのが、多くの人びとを見てきた、私の結論でもあるんです。
 また、裏切っていく人間には、この感謝の心がないというのも真実だ。
 感謝がない人間は、人が自分のために、何かしてくれてあたりまえだと思っている。結局、人に依存し、甘えて生きているといってよい。
 だから、人が何かしてくれないと、不平と不満を感じ、いつも、文句ばかりが出てしまう。そして、少し大変な思いをすると、落ち込んだり、ふてくされたりする。
 それは、自分で自分を惨めにし、不幸の迷路をさまようことになる。
 御書に『妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず』と仰せだ。
 人がどうだとか、何もしてくれないと文句を言うのは、己心の外に法を求めていることになる。
 結局、精神の弱さだ。すべては自分にある、自分が何をなすかだという、人間としての″自立の哲学″がないからなんだ。その哲学こそが、仏法なんだよ。
 橋本さんは、調理師として厳しい修業に耐え、苦労を重ねてきたから、感謝の心をもてるんだね」
 間もなく、車はホテルに着いた。
 伸一が橋本を伴って、ホテルの部屋に入ると、運転をしてくれたパークが、荷物を運んできてくれた。
 「どうも、ありがとう」
 伸一は、お礼を言うと、この青年に、入会した感想を聞いた。
 青年は、ヨーロッパ人でありながら、東洋の宗教に入ったことに、どことなく恥じらいを感じているような口ぶりであった。
 伸一は言った。
 「この仏法は、全世界の民衆を幸福にするための教えなんです。
 まだ、今は、ノルウェーのメンバーで、ヨーロッパ人はあなたしかいないから、違和感を感じているかもしれない。しかし、仏法に国境はありません」
47  光彩(47)
 山本伸一の言葉には、情熱があふれていた。
 「フランスでも、アメリカでも、たくさんの欧米人が信心に励んでいます。これから、ますます増えていくでしょう。
 あなたは、ノルウェーの先駆者なんです。
 先駆者の道には、苦労はつきものです。でも、道ができれば、みんながついて来ます」
 青年の目が輝いた。
 「まず、しっかり題目を唱え、生命力をみなぎらせて仕事に取り組み、職場になくてはならない人になることが大事です。信心の実証を示すことが、仏法理解の先駆の道を開くことになります。
 また、一度、日本にいらっしゃい。そして、学会の姿を、よく見てください。
 あなたには、一年間、私から『ザ・セイキョウ・ニューズ』をプレゼントしましょう。しっかり、仏法を学んでください」
 パーク青年は、喜びにあふれた顔で言った。
 「わかりました。私も、しっかり信心に励んでまいります。今日は、私の人生の出発の日となりました」
 伸一は、彼と固い握手を交わした。
 翌日は、オスロ市内を視察し、午後四時前の便で、コペンハーゲンに向かうことになっていた。
 一行が最初に見学したのは、フログネル公園であった。
 そこには、黄色に燃える森の木々をバックに、随所に、人間の裸像の彫刻が立っていた。
 そのすべての作品を制作したのが、ノルウェーが生んだ大彫刻家グスタフ・ビーゲランである。
 これらの彫刻群は、「人間の一生」をテーマにつくられ、生々流転の様が、生き生きと表現されていた。
 なかでも目を引くのが、丘の上に立つ、約十七メートルの高さの、一本の円柱に刻まれた彫刻(モノリッテン)であった。
 そこに刻まれた百二十一人の老若男女が、もがくようにして、下から上へと向かっていく姿は、「生」そのものであるかのように感じられてならなかった。
 伸一は、石柱の前に、しばらく立っていた。
 ビーゲランのつくり上げた像は、特別な人間ではない。民衆であり、権威も権力もまとわぬ、裸の人間である。
 民衆こそ、力である。
 民衆こそ、主役である。
 ビーゲランは、民衆のなかに、人間の尊貴なる″光彩″を見いだしていたのであろう。
 伸一は、その真実を見抜く眼に感嘆したのである。
48  光彩(48)
 一行は、橋本浩治らの案内で、バイキング船博物館や、北極と南極に行ったことで知られるフラム号を展示した、フラム号博物館なども見学した。
 昼過ぎにホテルに戻り、オスロの空港に行くと、橋本の妻の恵子も、子供を抱いて、見送りに来てくれていた。
 山本伸一の妻の峯子が、恵子に声をかけた。
 「どうも、橋本さん、このたびは、大変にお世話になりまして、ありがとうございました」
 そして、恵子が抱いている子供を見て尋ねた。
 「かわいいお子さんですね。いつ、お生まれになったんですか」
 「今年の二月です」
 峯子は、その子を抱き上げた。子供は、無邪気な笑い声をあげた。
 伸一を囲んでの、和やかな語らいが始まった。
 伸一は、橋本夫妻に語りかけた。
 「ノルウェーは、いいところだね。何度も来たいところです」
 すると、恵子が喜びの声をあげた。
 「本当ですか! ぜひ、そうしてください」
 伸一は、恵子に微笑を向けて言った。
 「ありがとう。でも、残念ながら、そうもいかないので、私は、いつも、いつも、皆さんのことを祈っていきます」
 それから、橋本の目を見つめ、力を込めて語った。
 「橋本さん、あなたは、このノルウェーの地で、人生の幸福の大輪を咲かせていってください。
 それぞれの国で、誰か一人が立ち上がれば、幸福の波が広がっていきます。あなたが立てばいいんです。
 あなたは、南国のセイロン(現在のスリランカ)から、北欧のノルウェーに、調理人としてやって来た。しかし、それは、決して偶然ではない。
 仏法の眼で見るならば、この地で幸せの実証を示すとともに、この国の社会に貢献していくためです」
 橋本は、真剣な顔で、伸一の話を聞いていたが、決意のこもった声で言った。
 「先生、私は、生涯、ノルウェーの人びとの幸福のために、生き抜いていきたいと思います」
 「あなたの、その言葉を聞けば、ここに来た私の目的は、すべて達せられた。
 ありがとう!」
 伸一と橋本は、固い、固い握手を交わした。
 魂を注がずしては、人に触発をもたらすことは、決してできない。
 全生命を振り絞り、一念を尽くして、一人ひとりへの励ましを続ける、伸一の旅であった。
49  光彩(49)
 山本伸一の一行は、ノルウェーのあとは、デンマークのコペンハーゲンに一泊し、ここでも建築物の視察などをすませ、午後六時半、空路、帰国の途についたのである。
 人を励まし、勇気づけ、使命の種子を芽吹かせる作業は、地味であり、多大な労力を必要とする。
 皆、なかなか、その尊き意義に気づかない。
 たとえ、気づいたとしても、労作業ゆえに、回避しようとする。
 だが、どこまでも、一個の人間を見つめ、人間を信じ、人間の光彩を引き出すことからしか、人類の平和の夜明けは始まらないというのが、伸一の不動の信念であった。
 機内は、食事が終わって間もなく、明かりが消された。眠りにつく人も多かった。
 伸一は、一人、思索のひと時を過ごした。
 ――結成の決まった公明党をどうするか、この年の総仕上げをどうするかなど、彼の頭は、目まぐるしく回転していた。
 しばらくすると、機内放送が、オーロラ(極光)が見えると伝えた。
 伸一の隣の席にいた正木永安が、後ろに座っていた白谷邦男に語りかけた。
 「白谷さん、オーロラが見えますよ」
 しかし、白谷は、眠っているようであった。
 「白谷さん、起きた方がいいですよ。こんな機会は、滅多にありませんよ」
 起こそうとする正木を、伸一は笑いながら制した。
 「寝かしておいてあげなさい。疲れているんだよ」
 それから、伸一は、窓の外を眺めた。彼は、思わず息をのんだ。
 見事なオーロラであった。暗闇のなかに雲海が広がり、その上に、白いベールに似た美しい光が、波のようにうねっていた。
 じっと、目を凝らしていると、その光は、黄色みを帯び、また、青みがかっても見えた。
 きらめく星々が、ベールにちりばめられた、ダイヤモンドのようである。
 オーロラの妙なる光は、刻々と変化していく。それは大宇宙の詩を思わせた。
 伸一は、思った。
 ――かくも美しく、オーロラは輝く。宇宙は、こんなにも輝きに満ちている。小宇宙である人間もまた、本来、まばゆい光に満ちているはずである。
 その人間の光彩をめざして、人間のなかへ、生命のなかへ、私は励ましの旅を、断固として続けよう。
 人類の闇を開くために、輝ける人間の勝利の時代を開くために――。
 (この章終わり)

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