Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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七百年祭  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
35  ちょうどそのころ、客殿の付近に、数人の報道関係者が押しかけて来ていた。昨夜の笠原事件の取材であった。
 これには、青年部の幹部が応じ、昨夜のあらましを説明した。
 新聞記者としては、事件の発生とあれば、ともかく記事にして報道しなければならない。
 青年部の幹部は、笠原の宗門における叛逆を懸命になって説明したが、教義の理解という土台のない彼らには、短時間の説明では、さっぱりわからない。記者たちは、怪訝な面持ちで聞いていた。
 結局、慌ただしい客殿の外での取材は不得要領に終わって、彼らは夕刊の締め切り時間を気にして、退散していった。
 陽が西の山脈に近づくころ、七百年祭の参列者たちは、役員の指示に従って、名残を惜しみながら、次々と総本山を後にしていった。
 陽春四月――快晴に恵まれた、慶祝の行事であった。それはまた、立宗から七百年後における、新たなる広宣流布への出発の日でもあったといえよう。
 日蓮大聖人の御書全集を発刊し、「師子身中の虫」を断つ破邪顕正の戦いを開始したこの日を起点として、広宣流布の様相は色濃く一変していったのである。
 笠原慈行を謝罪させた一件は、その後、総本山との関係に、おいて、波瀾を呼んでいった。
 それは、逆にいえば、広宣流布は、まだ遥か先のこととしか考えられなかった人びとにとって、慈折広布の本格的在到来を告げる暁鐘であった。
 青年たちは、このことから、自らの行動を通して、日蓮大聖人以来の正法の清流を守ることが、いかに大事であるかを学び取っていった。彼らの意識と行動の奥には、日蓮大聖人の御在世の姿が、あたかも下絵のように、くっきりと浮かび上がっていたといってよい。そして、「大聖人の昔に還れ」「正法正義を守ろう!」と訴えずにはいられなかったのである。
 彼らは、その意識の底辺に浮かんだ下絵を、初めて見る思いであった。
 そして、その彼らの行動の規範となっていったのが、日蓮大聖人の正法正義を余すところなく網羅した御書全集であった。
 大聖人御在世と、今と、七百年の隔たりがあるとはいえ、その本質に、おいては、全く異なるところはない。いな、異なってはならぬ、と青年たちは決意したのである。
 日蓮大聖人は、広宣流布のために、ただ一人、末法の世に起ち上がられた。そして今、その達成には、志を同じくする無数の民衆の真心の結集がなければならない。
 男女青年部員たちは、この日、人びとが去って行ったあとも、最後まで総本山に残り、各宿坊をはじめ、境内の各所を清掃してから帰路に就いた。
 彼らが富士宮駅に着いた時は、既に夜となっていた。
 まる二昼夜にわたる活躍のあとである。若い彼らは、快い疲労のなかで、食事をとったり、土産物を買ったりしていた。駅の売店で、夕刊を買う人もいた。
 夕刊を広げた一人の青年は、地方ニュースのトップの活字を目にすると、周りの青年たちに呼びかけた。
 「おい! 出てるぞ、出てるぞ。案外、早いじゃないか」
 一同の顔がのぞき込んだ。
 「素裸にして吊し上げ、大石寺の若僧30名、前管長に暴行」
 これが見出しである。
 記事では、二十七日夜九時ごろ、開宗七百年祭に、「前管長」である笠原慈行師が、招かれないのにひそかに参列したところ、暴力事件が起こったとしていた。
 「……前管長に反感を持つ同寺若僧三十余名が発見、″宗門を汚した罪を償え″と寺の裏山に連出し素裸にして両足をしばり吊上げた上、わび状を書かした事件があった。
 このため全山は大騒ぎとなり、富士地区署で非常召集を行い暴行脅迫容疑で関係者の取調べを行っている。
 前管長が昭和十八年戦時の強制的な宗門合併で檀徒の意思を無視し犬猿の間柄である身延山に同寺を身売しようと印までおしたのを猛烈な反対によっで阻止したことがあり、それが原因と見られていいた。
 一読してもわかるように、恐るべき誤報といわなければならない。笠原は「前管長」になり、学会青年部は「若僧」になったばかりでなく、あたかも暴行事件が起こったかのように報道されていた。
 真相というものが、いかに伝えがたいか、この記事は、その典型的な一例と見ることもできよう。
 この記事は、笠原事件が、世間の目に、かくも歪んで映ったことを示している。宗門の多くの僧侶の目にも、さまざまな映り方をした。この事件が真実の姿をもって映るには、この後、なお絶大な努力と、若干の時の経過を必要としたのである。

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