Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第20巻 「信義の絆」 信義の絆

小説「新・人間革命」

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33  信義の絆(33)
 山本伸一は、ワルトハイム事務総長に何問かの質問を用意していた。それに総長が答えるかたちで会談は進められた。
 伸一は、まず、核廃絶の問題を提起した。
 「現在、核保有国は次第に増えています。これをどのように考えておられますか。また、日本は唯一の被爆国であり、その日本国民に対する率直なメッセージをお伺いしたいと思います」
 伸一の胸には、戸田城聖が一九五七年(昭和三十二年)九月八日に横浜・三ツ沢の競技場で行った、あの「原水爆禁止宣言」がこだましていた。
 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております」
 「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」
 伸一は、戸田の弟子として、その思想を世界に伝えるために、書きに書き、叫びに叫び、世界を巡っては、指導者たちと対話を重ねてきたのだ。
 師が示した指針を実現するのが弟子であり、そこに師弟の道がある。師から弟子へと精神が継承され、大河となっていくなかにこそ、大願の成就があるのだ。
 ワルトハイム事務総長は、静かだが、力のこもった口調で語り始めた。
 「核戦争はなんとしても回避したい。日本は唯一の被爆国として、核問題に強い関心をもっていることを、私はよく理解しております。
 国連の努力すべき方向は、核拡散防止条約の再検討であり、そのための会議を開始したいと考えております」
 簡潔で的を射た回答であった。
 伸一は、次の質問に移った。
 「中東に再び戦火が起きる危惧があります。これについては、どのようにお考えでしょうか」
 中東では、イスラエルが建国以来、アラブ諸国と激しく対立し、これまでに四度にわたって戦争が起こっている。
 一九七三年(同四十八年)の十月には、エジプト・シリア両軍がイスラエルに攻撃をしかけ、第四次中東戦争が勃発。ほどなく終結はしたものの、中東での戦争はいつ再燃してもおかしくない状況にあったのである。
34  信義の絆(34)
 中東の和平をいかに実現するのか――それは山本伸一の悲願であった。彼は中東で戦火が上がるたびに胸を痛め、人びとの幸福と平和を祈って、唱題を重ねてきた。
 伸一の質問に答え、ワルトハイム事務総長は語り始めた。
 「超大国の緊張緩和という現象があるので、直ちに世界戦争につながることはないと思います。
 しかし、一地域の問題は必ず広範囲に波及していきます。
 国連としては平和交渉によって、段階的に解決し、交渉が成功するよう念願していますが、今春までに和平交渉が実らなかったなば、国連軍駐留の期限が切れることになります。
 実は、そうなることが心配なのです。
 和平を樹立するための一つの焦点は、シナイ半島からイスラエル軍が撤退することです。
 私は、キッシンジャー米国務長官と連携をとりながら、話し合いで解決の条件が満たされていくようにしたいと考えています」
 伸一は、トルコ系住民とギリシャ系住民の紛争が続くキプロス島の問題や、飢餓に苦しむ国々の食糧問題、また、戦火が絶えないインドシナ情勢について見解を尋ねていった。
 そして、国連の役割に関しても、率直に質問をぶつけた。
 「ユネスコも、また、各国も、国連の役割について訴えておりますが、私は、世界平和のためにも、人類の繁栄のためにも、国連の役割は今後ますます重要になってくると思います。
 しかし、その国連についての世界の理解や関心は、いまだ十分とは言えないと思います。
 国連理解を進めるために、なんらかの対応が急務ではないでしょうか。
 私は、世界各国に友人がおり、また、各国に創価学会のメンバーがおります。そうした方々の協力も得て、『国連を守る世界市民の会』をつくる時がきているのではないかと考えています」
 ″人類は戦争という愚行と決別し、同じ地球民族として、力を合わせて生きねばならない。それには、国家や民族、宗教等々の枠を超えて、国連を中心に、世界市民として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ″
 それが伸一の信念であり、決意であった。
35  信義の絆(35)
 山本伸一は、さらに、なぜ「国連を守る世界市民の会」が必要かを力説していった。
 「二十一世紀を担う重要な使命をもつ国連が、形骸化するようなことがあってはならないし、大国のエゴによって、国連が私物化されるようなこともあってはならない。
 そこで、国ではなく、国連を支援する市民の手によって、国連を守る必要があると、私は提唱したいと思います。この点はいかがでしょうか。
 私はそのために、微力ではありますが、全力を傾けていく所存です」
 ワルトハイム事務総長は、目を輝かせながら語った。
 「国連の目的の周知徹底は、まさに山本会長が言われるように、世界中の市民の力でなされるべきものであります。
 この点に関して、会長がこれまで払ってきた努力に感謝いたします。
 一人ひとりの民衆の力を結集して、国連を守る必要があります。
 私が深刻に考えているのは、最近の現象として、国連にあっても、国家エゴが優先し、人類全体の利益、平和が考えられていないことです。
 山本会長をはじめ、市民の寄与に期待するしかありません」
 人類益をめざし、行動する創価学会への、国連の期待は限りなく大きいといえよう。
 「わかりました。ご期待に添えるように頑張ります。
 ところで、今日は、限られた時間のなかでの語らいですので、国連への提言として、核兵器絶滅の道、食糧問題や人口問題の見解、国連大学の方向性などについて、私の考え、意見を書簡にしてまいりました。
 ご一読いただければと思います」
 伸一は、こう言って書簡を手渡した。
 「最後に一つだけ、お伺いしたいと思います。
 事務総長は、世界平和を妨げている元凶は、なんであるとお思いでしょうか」
 即座に答えが返ってきた。
 「それは不信感です」
 伸一は深く頷くと、身を乗り出すようにして、大きな声で言った。
 「全く同感です。
 人間の心に巣食う疑心暗鬼の心をどう克服し、不信を信頼に変えていくか――私も、そこに平和実現の大事なカギがあると思います」
36  信義の絆(36)
 山本伸一の声に、力がこもった。
 「その『不信感』を『信頼』に変えていく道が、私は『対話』であり、さらに『文化の交流』『人間の交流』であると確信しています。
 私は、一人の民間人として、その対話と交流の道を開き続けていくことを、お誓いします」
 こう言うと伸一は、製本された三冊の署名簿をワルトハイム事務総長に差し出した。
 「これは『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』です。創価学会の青年部が戦争の絶滅と核廃絶の署名運動を展開し、日本全国で一千万人を超す人びとの署名を集めました。これは、その一部です。
 核廃絶は、私ども創価学会の魂の主張です。日本の民衆の心からの叫びです。
 その声を、日本の青年たちの悲願を、お受け止めいただき、国連としてさらに大きな、核廃絶への波を起こしていただくことを念願いたします」
 事務総長は、署名簿を受け取ると、ページを開いた。それから、署名簿を捧げ持つようにして、伸一に語った。
 「非常に価値あるものです。その行為に敬意を表します。感銘を受けました……
 ――国連事務総長に伸一が直接、署名簿を提出するようになった背景には、平和を願う青年たちの努力に精いっぱい報いたいとの、伸一の熱い思いがあったのである。
 この署名運動は、伸一が一九七二年(昭和四十七年)十一月の第三十五回本部総会で、人類の生存の権利を守る運動を青年部に期待したことに端を発していた。
 これを受けて、翌年二月の男子部総会で、まず男子部が「生存の権利を守る青年部アピール」を採択。そのなかの一つが「核兵器および一切の軍備を地球上から消滅させ、一切の戦争を廃絶する」ことであった。
 そして、そのための運動の一つとして、「核兵器、戦争廃絶のための署名運動」が発表されたのである。
 さらに、三月には、女子部、学生部も総会を開催し、平和運動への本格的な取り組みを開始していったのだ。
 まさに師弟共戦の平和運動である。それゆえに、師から弟子へと、永続的な平和の潮流となって広がっていくのだ。
37  信義の絆(37)
 「生存の権利を守る青年部アピール」を受けて各方面で決議し、方面ごとに「原水爆禁止署名推進委員会」が発足。一九七三年(昭和四十八年)の夏には、広島や長崎、沖縄などで有志による街頭署名が開始された。
 そして、戸田城聖が、あの「原水爆禁止宣言」を発表した九月八日には、神奈川県横浜市で男子部幹部会が行われ、署名運動の本格的な展開が打ち出され、全国的な広がりを見せていった。
 七四年(同四十九年)一月、青年部では年内を目標に、署名一千万をめざすことを決議し、七、八月には総力をあげて、署名運動に取り組んだ。
 青年が懸命になって動けば、必ず社会に大きな波動が広がる。青年は変革の力である。
 青年たちは、炎天下の駅頭などで、声を嗄らしながら、核廃絶を叫び、署名を呼びかけた。
 ある日、山本伸一は妻の峯子と共に、都内の繁華街を車で通った。そこには署名運動に汗を流す青年たちの姿があった。
 車を止めてもらい、しばらく車中から様子をながめていた。
 青年たちは懸命に署名を呼びかけていたが、通行人の反応は、さまざまであった。
 喜んで署名に応じ、いたわりの言葉をかけてくれる人もいた。しかし、無関心な人が多く、なかには顔をしかめたり、冷笑を浴びせて通り過ぎていく人もいた。
 メンバーは、何があっても笑顔を絶やさなかった。そして、核兵器の脅威を力強く訴えていた。その顔には、びっしょりと汗が噴き出ていた。
 伸一は峯子に言った。
 「みんな頑張っているな。平和のために戦う青年部は私の誇りだ」
 そして、彼は、同行していた幹部に、メンバーに冷たい飲み物を配るように指示するとともに、伝言を託した。
 「暑いなか、本当にご苦労様! 日射病にならないように注意してください。私も平和のために戦い抜きます。一緒に戦おう!」
 こうした青年たちの奮闘が実り、九月には、遂に署名は一千万を突破し、千百万となった。
 やがて署名簿は全国から集められた。一万人分で約六センチの高さである。もし全員の署名簿を積み上げれば、六十六メートルの高さということになる。
38  信義の絆(38)
 一九七四年(昭和四十九年)の年末のことであった。
 学会本部の一室に青年部の首脳幹部が集まり、長い時間、議論を重ねていた。テーマは、″一千万の署名″を、どのようにして国連に届けるかということであった。
 青年の一人は言った。
 「国連事務総長あてに手紙を添えて郵送したとしても、みんなの核廃絶という思いが、どれほど伝わるかは疑問ですね。決して大きなインパクトがあるとはいえない」
 一千万を超す人びとの核廃絶への願いが込められた署名簿である。青年部の首脳幹部たちは、最も有効な方法で国連に渡そうと、検討していたのである。
 別の青年が語った。
 「たとえばわれわれの代表が、国連に署名簿を持っていったとしても、おそらく事務総長に直接お会いして、署名の趣旨を説明することは難しいと思う。
 しかし、署名者の平和への熱願を伝えるには、どうしても事務総長にお会いして、手渡す必要がある」
 名案は浮かばなかった。皆、頭を抱え込んだ。
 その時、ドアがノックされ、学生部長の田原薫が入ってきた。
 「山本先生から、ご伝言をお預かりしてきましたので、お伝えします。
 先生は、青年部の署名運動を、じっと見守ってくださっておりました。
 そして、私たちが″この署名簿をどうやって国連に届けようか″と考え悩んでいたことも、よくご存じでした。
 それで、ただ今、こうおっしゃってくださいました。
 『私は、来年一月にアメリカに行き、ワルトハイム事務総長にも会うから、私が持っていってあげるよ。安心しなさい。
 君たちの苦労は、決して無駄にはしません。弟子のやってきたことに、画竜に点睛を入れてあげたい。それが師匠の戦いである。
 署名簿の一部だけでも、私が直接、国連に届けてあげたい』
 これで、間違いなくワルトハイム事務総長に届きます!」
 その言葉を聞くと、皆の目が輝き、拍手がわき起こった。
 師は、弟子の行動を凝視しているものだ。
 弟子の苦労に最大限に報いようというのが、伸一の心であった。
39  信義の絆(39)
 ワルトハイム国連事務総長との会談を終えた山本伸一は、国連本部内で記者会見した。
 詰めかけた五十人ほどの記者たちの質問に答えながら、伸一は国連への期待と、国連を守る決意を語った。
 さらに彼は、日本の国連大使と懇談した後、日本協会(ジャパン・ソサエティー)主催の歓迎レセプションに向かった。
 日本協会は、一九〇七年の創立である。日米の民間人で構成され、両国民の相互理解と協力関係の推進に尽力する団体である。
 日本協会のジャパン・ハウスで行われたレセプションには、学界、経済界などのリーダーら八十人が集った。伸一は、この席でスピーチをするように依頼されていたのである。
 彼は約四十分にわたって、新しき時代を開く人間哲学について語った。
 仏法は智慧の宝庫であり、そこには時代のかかえる難題の解答がある。
 伸一は、科学技術の進歩に伴うさまざまな人類の危機が指摘されているが、今こそ、「人間」に眼を向けることの大切さを強調。そして、ローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイが述べているように、新しいヒューマニズム、人間の心のルネサンスが求められていることを語った。
 「核兵器にしろ公害にしろ、現代がかかえる巨大な問題は、突き詰めてみると、欲望とエゴに突き動かされ、自己をコントロールしえない『人間』そのものの問題に行き着くからであります」
 伸一は、人間の心のルネサンスのためには、人間とは何かを解明し、生命変革の実践法理を打ち立てた仏法哲理が不可欠であると訴えた。
 また、仏法には「一切衆生」という言葉があるが、そこには、人間すべてを平等に見て、万人を根源的に救済し、幸福にしていくためにはどうすればよいかという慈悲と責任感が込められていると述べた。
 次いで、その仏法の理念に立脚して、人類が究極的にめざすべき新しい方向を示したのである。
 「一つには、二十世紀後半の人類がもたなければならない価値観とは、単に一つの社会、国家に基盤をおいた狭隘なものではなく、全人類的な視点、全地球的な視野に立ったものでなければならない」
40  信義の絆(40)
 山本伸一の声は、次第に熱を帯びていった。
 「二つには、人間が生命的存在であるという認識に立つことであります。
 人間が生命的存在であるということは、いかなる社会、国家、民族をも超えて普遍的であり、かつ絶対的な事実であります。
 それに対して、社会的存在としての人間は、時代、民族、国家の違いによって異なってくる。
 その意味で人間が真に人間らしく生きるためには、まず自らの原点であるこの生命的存在という大前提を確認して、そこに立脚点をおかねばならない。
 つまり『タテには人間存在の根源である生命的存在に立脚し、現実行動のうえでは、ヨコに、その生命的存在を共通とする地球人類という普遍の連帯をもつこと』こそ、現代に必要な視座であると訴えたいのであります」
 皆、初めて聞く話である。仏法の生命観を根本にした伸一の話に、参加者は、頷きながら、真剣に耳を澄ましていた。
 さらに伸一は、自分が「教育国連」の設置を提唱してきたのも、各分野での国際協力を底流で支える、″われら地球人″という意識を根付かせる啓発的教育のためであることを述べた。
 地球人類という普遍の連帯を築くことは、厳しいイデオロギーの対立、国家エゴの渦巻く現実から見る時、あまりにも理想的すぎると一笑されるかもしれない。
 しかし、彼は、「あえて、このインポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)を、私の生ある限り追い求めていきたい」と宣言したのである。
 詩聖タゴールは、人間に全幅の信頼を寄せ、「不可能なことをみずからの力で可能にするのが人間の働きである」と叫んだ。それは、伸一の確信でもあった。
 大いなる理想へと突き進むなかで、人間は輝くのだ。
 彼はこう話を結んだ。
 「これからも人類の頭上には幾たびも冬の季節が猛然と襲ってくるでありましょう。
 人間連帯の平和の拠点を不屈の信念と勇気で築き上げていかねば、人類の輝かしい明日はありえません。志を同じくするすべての人びとと手を取り合い、平和へ、果敢なる挑戦をしていきたいというのが私の偽りのない心情です」
41  信義の絆(41)
 山本伸一のスピーチが終わると、大拍手が会場に響き渡った。
 参加者からは、「学会の理念とするヒューマニズムの意味を理解することができ、大変に感銘を深くした」など、多くの共感の声が寄せられた。
 伸一は、すべてに真剣勝負であった。このスピーチも、世界の指導者たちに語りかける思いで、仏法の英知から導き出された時代開拓の道を、全力で訴えたのである。
 原稿の作成にも何日も費やし、推敲に推敲を重ねた。
 ″集ってくる日本協会の方々は、私のスピーチを聴かれるのは初めてであろうし、ほとんどの参加者は、もう、こうした機会はないにちがいない。まさに一期一会といえよう。それならば、仏法哲理との鮮烈な出合いとなる講演にしなくてはならぬ″
 彼は、その思いで、ここに臨んだのだ。
 いや、このスピーチに限らず、各国の要人と会う時も、メンバーを激励する時も、学会のさまざまな会合に出席する時も、常にその覚悟で準備にあたり、渾身の力を振り絞ってきたのである。
 だからこそ、魂を揺さぶるのだ。だからこそ、共感があり、感動が広がるのだ。それが、人と会い、会合に臨む、すべての幹部の心構えでなければならない。
 翌十一日、伸一は、ニューヨークから列車でワシントンDCへと向かった。そして、十三日、彼は国務省を訪問した。ヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談するためである。
 伸一の胸は躍った。
 ″ぜひお会いして、世界の平和のために語り合わねばならぬ″と思っていた人であったからだ。
 一九七三年(昭和四十八年)一月、伸一は、ニクソン大統領宛のベトナム戦争の終結を呼びかける書簡を、人を介して、当時、大統領補佐官であったキッシンジャーに託し、届けてもらっていた。
 以来、何度か、キッシンジャーと手紙のやりとりをしてきた。
 そのなかで、「渡米の折には、ぜひとも立ち寄ってほしい」と言われていたのである。
 今回の渡米について連絡したところ、喜んで迎えたいとの話があり、キッシンジャーとの初の会談が実現することになったのである。
42  信義の絆(42)
 この日、ワシントンDCは、朝から雪がちらついていた。
 ドームのある白亜の国会議事堂が、自由の国アメリカの威風を誇示するように、堂々とそびえ立っていた。
 国務省は、リンカーン記念館の近くにあり、ホワイトハウスからも、一キロにも満たない距離である。
 キッシンジャー国務長官と山本伸一の会談は、長官の執務室で午後二時半から行われた。
 長官は、フォード大統領の年頭教書の発表を控えて多忙であったが、時間を割いてくれたのであった。
 「ご多忙のなか、時間をつくっていただき、光栄です」
 伸一が言うと、長官はメガネの奥の瞳を輝かせて語った。
 「ようこそ! お待ちしておりました」
 これまで、何度か書簡をやりとりしていたせいか、旧知の友と再会したように、和やかな雰囲気が執務室に広がった。
 「最初に記念撮影をしましょう」
 長官の笑顔に誘われ、共にカメラに納まった。
 伸一はソファに案内された。二人の中間にはアラベスク模様の電気スタンドがあった。その明かりに照らされながら、会談は始まった。
 室内には、キッシンジャーと伸一、アメリカ側の通訳の三人しかいなかった。
 伸一は、まず、アメリカの都市や州から、これまで四十ほどの名誉市民称号を受けていることに対して、御礼を述べた。
 キッシンジャー長官は「それは、私たちにとっても光栄で、嬉しいことです」と、笑みを浮かべて応じた。しかし、激務のゆえか、その顔には、疲労の色がにじんでいるように思えた。
 伸一が現下の国際情勢について話を切り出すと、長官の目が光った。
 伸一は、キッシンジャーが一九六九年(昭和四十四年)の一月にニクソン大統領の補佐官となって以来、その奮闘に目を見張ってきた。
 彼には、時代を読む鋭い洞察力があった。緻密な計画性があった。そして、何よりも、エネルギッシュで果敢な行動力があった。
 第三十五代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは述べている。
 「変革というのは行動なのである」
43  信義の絆(43)
 キッシンジャーは、冷徹な現実主義者であり、理想主義の対極にあるかのように評されてきた。
 しかし、理想を実現しようと思うならば、現実を凝視せねばならない。現実から目をそらすならば、そこにあるのは「理想」ではなく、「空想」である。
 キッシンジャーは、現実の大地にしっかと立って、理想の松明を掲げ持ってきた。だからこそ、不可能だと思われてきた現実を、次々と変えることができたといえよう。
 山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)七月、キッシンジャーが大統領補佐官として密かに北京を訪問し、その後のニクソン訪中、米中対立改善への流れを開いたことが忘れられなかった。
 それは、世界が驚き、息をのんだ、電撃的な中国訪問であった。
 また、米ソ戦略兵器制限交渉でも大いに手腕を発揮した。
 ベトナム戦争では、米軍の漸次撤退を推進し、さらに和平実現の陰の力となってきた。
 伸一は、それらの行動のなかに、平和への屈強な信念を見ていた。
 キッシンジャーは一九三八年(昭和十三年)、十五歳の時に、家族と共に、ドイツからニューヨークに渡ってきた。
 当時、ドイツはヒトラーの政権下にあり、ユダヤ人への迫害は、日に日に激しさを加えていた。彼の一家も、そのターゲットになったのである。
 財産の国外持ち出しは許可されず、一家は、着のみ着のまま、アメリカにやってきたのだ。
 しかし、それでもまだ幸運であった。ドイツに残った親族のうち、十三人以上の人が強制収容所で亡くなっているのである。
 時代の激浪に翻弄されながら、一家は懸命に生きた。
 父親は教師であったが、アメリカでは教職に就くことはできなかった。工場で事務を担当し、必死に働いた。それでも生活は苦しかった。
 キッシンジャーも、少年時代から、働きながら夜学に通った。苦闘の青春であった。
 だが、それゆえに、彼の人生の勝利があったといえよう。
 「肉体的にも、精神的にも、人生の苦しみを受けたものが強くなる。ゆえに、青年は、安逸を求めてはいけない」とは、戸田城聖の指導である。
44  信義の絆(44)
 キッシンジャーは、日々、辛酸をなめながら、感傷にも、憎悪にも、悲観にも左右されない強い人間に、自分を鍛え上げていった。
 ハーバード大学で学位を取得して、国際政治学者として頭角を現し、やがて教授となった。
 そして、ニクソン大統領の補佐官になると国家安全保障問題を担当し、政治の舞台に躍り出るようになるのである。
 一九七三年(昭和四十八年)には、ベトナム和平協定を推進したことが高く評価され、ノーベル平和賞を受賞している。さらに、この七三年から、国務長官を務めてきた。
 山本伸一は、そのキッシンジャー長官と、世界の平和のために、存分に語り合い、人類の進むべき新たな道を探り出したかったのである。
 長官は、形式的な礼儀作法などにはこだわらない、合理的で、飾らない人柄であった。そして、決して急所を外さず、鋭い分析力をもっていた。至って話は早かった。
 伸一が、日中平和友好条約についての見解を尋ねると、即座に「賛成です。結ぶべきです」との答えが返ってきた。
 語らいのなかで長官は、伸一に尋ねた。
 「率直にお伺いしますが、あなたたちは、世界のどこの勢力を支持しようとお考えですか」
 伸一が、中国、ソ連と回り、首脳と会談し、さらに、アメリカの国務長官である自分と会談していることから出た質問であったにちがいない。
 伸一は言下に答えた。
 「私たちは、東西両陣営のいずれかにくみするものではありません。中国に味方するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。
 私たちは、平和勢力です。人類に味方します」
 それが、人間主義ということであり、伸一の立場であった。また、創価学会の根本的な在り方であった。
 キッシンジャー長官の顔に微笑が浮かんだ。伸一のこの信念を、理解してくれたようだ。
 会談では、中東問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などがテーマになっていった。
 平和の道をいかに開くか――二人の心と心は共鳴音を響かせながら、対話は進んだ。
45  信義の絆(45)
 この会談で、山本伸一は、風雲急を告げる世界の火薬庫・中東の問題について、和平実現のために、何点かにわたる提案をしようと思っていたのである。
 中東問題は、決して中東地域だけの問題におさまらず、世界各国の政治・経済に影響を与え、第三次世界大戦の危険性さえもはらんでいる問題といってよい。
 伸一は、キッシンジャー国務長官の中東和平への懸命な努力に、期待をいだいていた。そして、中東地域に恒久的な平和を実現してほしいと切望していたのだ。
 伸一の提案は、具体的な和平交渉の次元を超えたものであり、より根本的で長期的な、平和のための理念を示すものであった。
 いわば、中東の平和に関する基本原則を提示したのである。
 中東問題は歴史的な深い原因があることから、もつれた糸のような状態になっていた。もはや一時的な対症療法的な対応策では、本質的な問題の解決は図れない状況であった。
 だから伸一は、和平のための基本原則を提案しようと考えたのだ。
 しかし、会談の席で、この問題を詳細に論じれば、長い時間がかかってしまう。そこで、多忙な長官が貴重な時間を長く使わなくてすむように、提案を四百字詰め原稿用紙十枚ほどにまとめ、その英訳を用意してきていたのである。
 伸一は、常に相手の立場に立って心を配った。心遣いは人柄の発露といってよい。
 彼は、中東和平についての自分の主張をかいつまんで語ると、この書簡を手渡した。
 「今、拝見してもよろしいですか」
 長官は言った。伸一が「どうぞ」と答えると、文書を読み始めた。
 最後まで目を通した長官は、また、最初に戻って読み始めた。
 中東和平の基本原則の一番目に伸一が示したのは、「力を持てる国の利益よりも、持たざる国の民衆の意見が優先されねばならない」ということであった。それが平和を実現する鉄則である。
 次々と土地を奪われたパレスチナ人の権利を回復し、パレスチナの民衆の不幸を優先して解決しない限り、中東における恒久的な平和は達成できないからだ。
46  信義の絆(46)
 山本伸一は、この書簡で、ユダヤ系ポーランド人のジャーナリストであるアイザック・ドイッチャーの、イスラエルとパレスチナの在り方についての考えを紹介した。
 ――これまで双方は民族主義を問題解決の手段に用いて失敗したのだから、平和の達成にはこの民族主義を乗り越えなくてはならない。
 そこから伸一は論を展開し、イスラエルが「人間の思想、信条、宗教の自由を保障して、生まれや人種によって差別されることのない民主的な社会を創出していくならば、パレスチナ人との共存は可能である」と述べたのである。
 その実証として、かつては、パレスチナ地域において、イスラム教徒も、キリスト教徒も、またユダヤ教徒も、諸民族が平和的に共存していたことをあげたのである。
 基本原則の二番目に伸一が訴えたのは、「中東和平を進めるにあたり、あくまで武力解決を避けて、交渉による解決を貫くべきである」ということであった。
 中東地域で数多くの戦闘が繰り返されてきたが、なんら問題は解決することなく、一層、事態は泥沼化し、深刻化しているのだ。
 伸一は、それは、既に武力的解決が不可能であることを示していると指摘し、大国の指導者は、武力行使を起こさせないようにしてほしいと、強く要請した。
 さらに、「この中東の危険な発火地に、これ以上の火薬を近づけてはならない」「武器供給に代えて、非軍事面での資金援助、技術援助をこそ行うべき」であると訴えた。
 そして、米ソ英仏をはじめ、多くの石油消費国も参加して、中東地域の平和的な発展を保障し、推進する、「中東平和建設機構」を設けるよう提案したのである。
 三番目には、「平和的解決のための具体的な交渉は、あくまで当事者同士の話し合いによって決定されるべき」であると記した。
 大国の武力を背景にした交渉では、″戦争の合間の和平状態″にしかならない。
 また、双方の軍事力の均衡に破れが生じた時は、前の戦争の和平条件や停戦協定を不満として、新たな戦争が起こってきたからである。
47  信義の絆(47)
 山本伸一は書簡のなかで、さらに、次のように訴えた。
 ――米ソ両国は、紛争当事者を交渉のテーブルにつかせるよう努力することは大切である。しかし、具体的な交渉内容については、「民族自決」の原則を重んじ、双方が直接の話し合いによって決める必要がある。
 彼は、あえて、具体的な兵力の引き離しや国家の承認問題については、触れなかった。それも、当事者同士の話し合いによって決定すべきであるとの考えによるものであった。
 伸一は、書簡に、この提言を「人類の平和を願ってやまない一人の友人からの真心」として受け取ってもらえれば幸いであると記した。
 そして、世界平和への自らの決意を述べ、こう書簡を結んでいた。
 「今、世界は、中東情勢の刻一刻の動静とともに、あなたの一挙手一投足に固唾をのんで注目しております。
 私もまた、あなたの中東和平への努力が大きく花を咲かせ、実を結び、戦乱の絶え間なかった中東の民衆から、そして全世界の持たざる国の貧しい不幸な人びとからも、感謝と喜びの喝采の拍手があなたに注がれるよう、陰ながら祈りたいと思います」
 キッシンジャー国務長官は、この書簡を、三回繰り返して読んだ。
 そして、顔を上げた。
 「数日、思索させてもらいます。今度は、石油問題についても、ぜひ提言してください。
 山本会長のご意見は、ニクソン大統領にも、必ずお伝えします」
 伸一は、感謝と尊敬の思いを込めて語った。
 「大変にありがとうございます。長官は激務に次ぐ激務で、お疲れのことと思います。また、さまざまなご苦労がおありでしょう。しかし、勇気をもって、人類の平和のために進んでください。
 私も、もし、必要とあれば、どこへでも飛んでいきます」
 最後に伸一は言った。
 「奥様にくれぐれもよろしくお伝えください」
 すると、長官は柔和な微笑を浮かべ、「サンキュー、サンキュー」と言って頷いた。
 はにかむような、その笑顔に、ヘンリー・キッシンジャーという人間に触れた思いがした。
 笑顔のある対話は、人の心を一層結びつける。
48  信義の絆(48)
 キッシンジャー国務長官は、笑みを浮かべて、山本伸一に語った。
 「また、友人としてお会いしたい。これからも連携を取り合いましょう。アメリカに来たら、ぜひお寄りください」
 この日から、伸一とキッシンジャーの友好は、一段と深まっていった。
 キッシンジャーが国務長官を辞めた後も、二人の交流は続き、東京・渋谷区の国際友好会館や聖教新聞社などで、世界の平和を願って語らいを重ねていった。
 そして、一九八七年(昭和六十二年)九月には、二人の対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』が出版されたのである。
 また、九六年(平成八年)六月、二人はニューヨークのホテルで会談した。伸一がアメリカからキューバに行き、カストロ国家評議会議長と会見する予定であることを知ったキッシンジャーが訪ねて来たのである。
 当時、ソ連をはじめ、東ヨーロッパの社会主義政権は相次ぎ崩壊し、社会主義国キューバは、国際的に孤立化していた。
 さらに、この年二月には、キューバによるアメリカ民間機撃墜事件が起こり、両国の間には、緊張状態が続いていたのである。
 キッシンジャーは、アメリカとキューバの関係改善を願う真情を述べ、伸一の訪問に、強い期待を寄せたのである。
 伸一は、そのキッシンジャーの心を携えてキューバを訪問し、カストロ議長と会見した。キッシンジャーの思いも伝え、平和への実り多い対話がなされたのだ。
 エマソンは叫ぶ。
 「友情と協力はじつにすぐれた要素である。そうだ、人類のうちで最良の人びとがある普遍的な目的のために結合して、偉大な隊列を敷くことは、りっぱな行動である」
 対話は、新しき友情の道を開く。
 友情を結ぶことが、世界を結び、人類を結合させることになるのだ。
 国務省で、キッシンジャー国務長官と会談した伸一は、引き続き、同省内で、前駐日大使のロバート・インガソル国務副長官にあいさつした。
 それから、日本大使館に向かった。訪米していた大蔵大臣の大平正芳と会見することになっていたのである。
49  信義の絆(49)
 先進国蔵相会議などに出席するため、前日、ワシントン入りした大平正芳蔵相から山本伸一に、日本大使館で会いたい旨の連絡があったのである。
 大平大臣とは、初対面であった。
 伸一が大使館に到着し、あいさつをすますと、大平は、淡々とした口調で切り出した。
 「日中平和友好条約について、山本会長のご意見をお聞きしたい」
 大平は、前月の一九七四年(昭和四十九年)十二月に、三木内閣の大蔵大臣となった。
 七二年(同四十七年)に日中国交正常化を果たした時の田中内閣では外務大臣を務め、日中航空協定にも尽力してきた。
 そして、いよいよ日中平和友好条約の締結が、彼にとっても最大のテーマとなっていたのだ。
 平和友好条約については、七二年九月に発表された日中共同声明のなかで、締結に向けて交渉していくことが明記されていた。
 七四年十一月には、両国の政府間で、平和友好条約のための第一回予備交渉が行われ、この七五年(同五十年)一月に、再開されることになっていたのである。
 三木首相も平和友好条約の締結を望んでいた。だが、党内では難色を示す勢力が強く、前途は多難であった。
 それを押し切るには、三木首相の党内基盤は脆弱すぎた。
 日中友好を推進することは、命がけの作業といっても過言ではない。
 大平は、外相として国交正常化を推進していた時には、自宅に脅迫状も投げ込まれたという。
 しかし、彼は、「たとえ八つ裂きにされても、やる」との壮絶な決意を固めて、事に当たってきたのである。
 日中航空協定でも、党内の反対派から、何度もつるし上げられた。
 伸一もまた、日中友好の架橋作業に突き進んだ日から、幾度となく、脅迫や非難、中傷の嵐に打たれ続けてきた。
 それだけに、大平蔵相の心も、決意もよくわかった。
 「信ずるところある我々は、何を恐るべきことがあるか」とは、ユゴーの叫びであり、伸一の信念でもあった。
 大業に生きるならば、苦難を覚悟せねばならぬ。勇気なくして大願の成就はない。
50  信義の絆(50)
 山本伸一は、大平正芳蔵相に、忌憚なく、自分の思いを語った。
 「日中平和友好条約については、早急に締結していただきたいと私は切望しています」
 条約の締結は、伸一がかねてから主張し続けてきたことであった。
 彼は、「日中国交正常化提言」を行った翌年の一九六九年(昭和四十四年)には、連載中の小説『人間革命』第五巻「戦争と講和」の章のなかで、平和友好条約の締結を提案したのである。
 七二年(同四十七年)の日中国交正常化によって、両国に橋は架けられたが、まだ簡粗で不安定な「吊り橋」のような橋である。子々孫々にわたって崩れぬ堅固な「金の橋」を架けるための土台となるのが、この平和友好条約なのである。
 伸一は言葉をついだ。
 「さきほど、キッシンジャー国務長官とお会いしてきました。長官は、日本と中国は、ぜひ平和友好条約を結ぶべきだというご意見でした」
 「そうなんです。キッシンジャーさんは周総理から、条約締結の応援を頼まれているようです」
 伸一の脳裏に、北京の病院で周恩来総理が、命を振り絞るようにして語った言葉が蘇った。
 「中日平和友好条約の早期締結を希望します」
 その声には、″自分の命が尽きる前に、なんとしても……″という気迫があふれていた。
 伸一は、周総理を思いながら蔵相に言った。
 「これは、断固、成し遂げなければならないテーマです。
 大平先生への皆の期待は大きいといえます」
 蔵相は、決意をかみしめるように語った。
 「日中平和友好条約は必ずやります。
 しかし、若干、時間はかかります。年内は無理かもしれません。
 日中問題は、実は『日日問題』なんです。日中友好に慎重な勢力の強い抵抗があります。三木総理はやりたくとも味方は少ない」
 伸一は、ひときわ大きな声で言った。
 「国民が味方ですよ。平和を望む国民はみんな味方です。応援します」
 正しい決断であれば世論は、必ず最後は味方する。ゆえに、不屈の行動を貫くのだ。
 伸一は条約締結のために、陰ながら全精力を注いで応援しようと心に誓っていたのである。
51  信義の絆(51)
 大平正芳蔵相は、山本伸一をじっと見つめ、何度も頷いた。
 伸一は話を続けた。
 「この日中平和友好条約は、日中のみならず、世界にとっても極めて大事です。社会主義の中国と資本主義の日本が『平和友好』を宣言することは、画期的なことです。
 人類は、いつまでも、『冷戦』を続けている時代ではありません」
 「それは、その通りです。『地球はひとつ』の時代です」
 大平蔵相との語らいは、日中友好への決意を固め合う対談となった。
 日中平和友好条約の締結への道のりは険路であった。蔵相の言っていたように、二月になると、条約に覇権反対の条項を盛り込むかどうかで、交渉は、暗礁に乗り上げることになる。
 「反覇権条項」は、日中共同声明でうたわれたもので、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とある。
 この共同声明が発表されると、ソ連は、日本政府に、「反覇権条項」はわが国に対するものであり、″反ソ共同声明″ではないかと、強硬に抗議してきた。
 すると、日本国内には、日中平和友好条約から、「反覇権条項」を外すべきであるとの声が起こったのである。
 しかし、中国側は「反覇権条項」は、断じて入れなければならないとの姿勢を貫いていた。
 意見調整は難航した。
 ソ連に配慮しつつ、「反覇権条項」が盛り込まれた日中平和友好条約が調印されたのは、伸一の「日中国交正常化提言」から十年後の、一九七八年(昭和五十三年)八月のことである。福田赳夫首相、大平自民党幹事長の時代であった。
 日中の歴史は、さらに大きく動いたのだ。
 時代の底流には、既に滔々たる平和の流れがつくられていたのである。
 伸一は喝采を送った。
 かのアインシュタインは、平和創造の道について、こう述べている。
 「恒久の平和は脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」
52  信義の絆(52)
 山本伸一は、翌一月十四日、アーリントン墓地を訪れ、「無名戦士の墓」に献花した。
 青空が広がっていたが、零下二度の冷え込みである。
 伸一は、失礼になってはならないと、コートを脱いで献花に向かった。寒さで耳が痛んだ。
 彼は思った。
 ″ソ連にも、そして、ここにも、多くの若き戦士たちが眠っている。
 戦争には、敗者も、勝者もない。皆が犠牲者なのだ。なんのための戦争なのか! 誰のための戦争なのか!
 いかなる国でも、愛する人を失った遺族の悲しみに変わりはない。人間のなしうる最大の悪は戦争だ。その戦争を引き起こす、「魔性の心」を打ち砕く道を示しているのが仏法なのだ。
 ゆえに、仏法者の使命は、この地球上から戦争をなくすことにある。それを成し遂げることが、この犠牲者にこたえる唯一の道であるはずだ!″
 伸一は、恒久平和を、深く、深く、心に誓いながら、儀仗兵が見守るなか、「無名戦士の墓」に献花し、黙祷した。
 そして、厳粛に題目三唱を三回繰り返した。
 彼は言った。
 「永遠に戦争のないことを祈りました」
 さらに伸一は、墓地内にある、第三十五代大統領のジョン・F・ケネディ、その弟のロバート・F・ケネディの墓を訪れ、冥福を祈った。
 ケネディ大統領とは会談が決まっていたにもかかわらず、実現せずに終わってしまったことが悔やまれてならなかった。
 伸一はこのあと、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイを訪問し、一月二十三日、グアムに向かった。
 グアムでは、二十六日に世界五十一カ国・地域からメンバーの代表が集い、第一回「世界平和会議」が開催されることになっていた。いよいよ平和の新章節の幕が開かれようとしていたのだ。
 ジョン・F・ケネディは叫んだ。
 「われわれが結束するとき、新しく協力して行なう無数の事業において、なしえないことは何もない」
 人類が結束して行うべき最大の事業――それは恒久平和の建設である。伸一は、そのための人類結合の「芯」となる絆を創ろうと、固く強く、心に決めていたのである。

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