Nichiren・Ikeda
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33 先駆(33)
南国・沖縄の空に真っ赤に輝く太陽にも増して、同志の胸には、喜びの太陽が燃え盛っていた。
メンバーは、今、若き山本会長を迎えた歓喜のなかで、我らの祖国沖縄の平和を建設するために、この信心の素晴らしさを、一人でも多くの友に伝えたいとの思いをいだいていた。
しかし、惜しむらくは、メンバーの大半は、その仏法の正しさを客観的に論証する術を知らなかった。
伸一は語っていった。
「それでは、なぜ人々が幸せになるには、日蓮大聖人の仏法でなければならないか。私どもは、自分たちが信心しているから、大聖人の仏法が正しく最高であると主張しているわけではありません。そうであるならば、独善にすぎないことになります……」
ここで、彼は、「文証」「理証」「現証」について述べ、この宗教批判の尺度に照らして、日蓮仏法が真実の民衆救済の大法であることを、理路整然と論じたのである。
そして、呼びかけた。
「この三つのなかで、一番大切なのは現証です。現実の生活のうえに、功徳の実証を示し、皆さんが幸福になることが、最大の証明です。あり余るほどの功徳を受け、今世の人生を楽しく、有意義に暮らしていただきたいのであります」
この指導は、沖縄の同志に強い確信を与えるとともに、教学の大切さを痛感させた。
沖縄支部結成大会は、午後一時、歓喜のなかに幕を閉じた。各地に散っていく友の足取りは弾んでいた。
この後、代表が参加し、近くのビルのホールで祝賀の集いが行われた。伸一は、苦労を重ねてきた同志を、心から労いたかった。
メンバーは、支部結成の喜びを託して、琉球舞踊や空手を披露していった。彼は一つ一つの演技が終わるたびに、称賛と励ましの言葉をかけた。それを見ている人たちも、いかにも踊りたい様子である。
「ほかの皆さんも、自由に踊ってください」
伸一が言うと、待ってましたとばかりに、飛び入りで民謡や歌などを披露する人が相次いだ。皆、嬉しくて仕方ないのである。
賑やかに舞い踊る友を目にすると、伸一も嬉しくてならなかった。
「みんなも一緒に踊るんだよ」
彼は、同行の幹部に言った。しかし、気恥ずかしさが先に立つのか、誰も自ら進んで、前に出て踊ろうとはしなかった。幹部には、同志のためなら、どんなことでもしようという姿勢がなくてはならない。
34 先駆(34)
幹部として、今、大事なことは、ともに沖縄の新出発を祝うことであった。しかし、その配慮が欠けていることが、山本伸一は残念でならなかった。
「さあ、原山さんも、十条さんも、みんな踊って」
伸一は、再び同行の幹部に促した。すると、十条潔が意を決したように、立ち上がった。
「では、私は『田原坂』を踊らせていただきます」
皆が『田原坂』を歌い始めた。
雨は降る降る
人馬はぬれる……
十条は懸命に踊り始めたが、しゃちこ張った不自然な動作になってしまった。
「だめだなあ、ロボットの踊りみたいで。もっと、にこやかに。せっかくのお祝いなんだから」
伸一が言うと、爆笑が広がった。
「はい。もう一度、初めからやります」
今度は、十条は、笑みを浮かべて踊り出したが、ますます体はぎごちなくなっていった。
「それじゃあ、お地蔵さんみたいじゃないか」
その言葉に、皆、腹をかかえて笑い出した。
十条は、また、初めから踊り始めたが、途中から手と足の動きが合わなくなってしまった。それが更に笑いを誘った。
「しようがないな。それでは私が舞いましょう」
伸一は、扇を手に『黒田節』を舞い始めた。
酒は飲め飲め
飲むならば……
それは、悠々として力強く、流麗な舞であった。皆、息を飲んで、彼の舞に見入った。
踊り終わると、盛んな拍手が起こった。
「先生、もっと踊ってください」
会場から声がした。
「踊りましょう。皆さんが喜んでくれるなら」
彼は、また舞い始めた。
その姿に目頭を潤ませる人もいた。同志を思う伸一の真心が、熱く友の胸に染み渡っていったのである。
この夜、宿舎の旅館に戻った一行は、伸一の提案で、支部結成を祝って寄せ書きをした。伸一は「沖縄の同志よ団結せよ」と記した。
平和の楽土・沖縄の建設は、そこにいる人たちの手で行うしかない。これまで所属していた支部は異なっていても、使命は一つである。心を一つにして、団結することから、新しき建設は始まるのである。
35 先駆(35)
その日の夜は、四カ所に分かれて、御書の講義が行われた。
そして、翌十八日は東京に帰る日であった。一行は午前中、バスを借りて、地元の同志の代表とともに南部戦跡を視察した。
──一九四五年(昭和二十年)三月二十三日、フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカ軍は、沖縄諸島への総攻撃を開始した。
沖縄には、南西諸島の防衛のために第三二軍が守備隊として配置されたが、既にその任務は、沖縄を守ることではなかった。戦いを持久戦に持ち込み、本土決戦のための時間をかせぐことにあった。
つまり、犠牲をものともせずに戦い、米軍の戦力を消耗させ、本土の捨て石となって玉砕することを余儀なくされていたのである。そのため、沖縄県民もまた多大な犠牲を強いられることになる。
三月二十六日、遂に米軍は、那覇沖合の慶良間諸島に上陸した。
守備隊は、米軍が上陸すると、住民の乏しい食糧を供出させた。しかも、彼らは、ガマと呼ばれる自然壕に身を潜めたが、住民が一緒に逃げ込むことを認めなかった。
身を隠す場所さえなく、米軍に包囲され、追い詰められた住民に残された最後の道は″集団自決″しかなかった。
手榴弾を使って爆死する人もいた。クワ、カマ、ナイフ等で互いの首や手首を切る家族もいた。凄惨な光景であった。
守備隊は、軍人ばかりでなく、住民にも皇民として″自決″を強いてきたのである。また「鬼畜米英」と教えられてきただけに、米軍に投降することなど思いもよらなかった。
米軍が沖縄本島に上陸したのは四月一日であった。米軍は、約千五百隻の艦船と、延べにして五十四万八千人の兵員をこの沖縄に投入した。それに対して日本側はわずか約四分の一の陣容でしかなかった。
米軍は、一週間で沖縄本島の西北部をほぼ制圧し、宜野湾、浦添、首里へと進撃を開始した。首里城の地下には、第三二軍の司令部があり、ここで激しい壮絶な攻防戦が展開された。
約二カ月にわたる戦いで、守備隊は六万人を超す死者を出し、五月末、首里は米軍の手に落ちた。
一方、米軍の死者は約五千三百人であった。
しかし、それでも、まだ沖縄戦は終結しなかった。玉砕のための、血で血を洗う凄惨な戦いが、続けられたのである。
36 先駆(36)
生き残った守備隊の兵士は、南部の喜屋武半島に撤退し、持久戦に入った。
これに対して、米軍は、空と海と陸からの総攻撃を続けた。″鉄の暴風″と呼ばれた砲爆撃によって、丘は削られ、大地は波のようにうねっていった。
また、守備隊が潜んでいそうな所を、火炎放射器で焼き尽くしたり、人々が逃げ込んだ自然壕の出入り口を占領し、ガス弾などを投入する、″馬乗り攻撃″と言われる戦法がとられたのである。
六月十一日、米軍司令官バックナー中将は攻撃を中止し、日本側に降伏を呼びかけたが、第三二軍の牛島満司令官は、それを拒否した。
そして、十八日、戦況視察中のバックナー中将が戦死すると、米軍の攻撃は更に激しさを増した。
ここに至って、牛島司令官らの司令部首脳が自決し、沖縄での組織的な戦闘は終結することになる。
しかし、その後も掃討戦などが続き、いっさいの戦いが終わるのは、なんと、終戦の八月十五日から二十余日が過ぎた、九月七日のことであった。
沖縄戦がとりわけ悲惨な戦いとなったのは、持久戦に持ち込み、時間をかせぐために、住民を巻き込んだ戦闘が行われたことにあった。
そのために、沖縄守備隊は、住民を根こそぎ召集していった。
一九四五年(昭和二十年)に入ると、満十七歳から四十五歳の健全な男子は、ほとんど召集された。三月には「国民勤労動員令」が公布され、満十五歳から四十五歳の男女が動員されるに至った。
更に、中等学校等の生徒で学徒隊も編成され、男子生徒は「鉄血勤皇隊」として、女子生徒は「ひめゆり学徒隊」など看護要員として戦場へ送られた。これは、それまでの陣地構築などの勤労動員と異なり、戦火のなかへの投入であった。
こうして、沖縄県民の戦没者は、軍人軍属二万八千余人、一般住民約九万四千人(推定)という、膨大な犠牲を払うことになったのである。
この犠牲者のなかには、守備隊にスパイとして、殺された住民も少なくなかった。沖縄の方言や外国語を話したというだけで、スパイとされた人もいれば、守備隊が食糧を略奪するために、スパイの汚名を着せて処刑するケースもあった。
また、食糧がなくなり、飢餓のために死んだり、山に逃げ込んでマラリアに罹り、命を失う人も続出したのである。
37 先駆(37)
山本伸一は、「ひめゆりの塔」の前に立った。
そこは、県立第一高等女学校と師範学校女子部の生徒・職員を合掌する慰霊塔であった。
塔の前には、壕がポッカリと口を開けていた。
伸一の傍らで、沖縄戦で生き残った関係者が、当時の模様を説明してくれた。
──両校の生徒は、米軍の攻撃が始まると、動員され、負傷者の看護にあたった。置かれた死体からは腐臭が漂い、負傷者の傷口にはウジがわいた。薬も包帯もなく、「水をくれ」とうめく破傷風患者にも、水に浸したガーゼで、口を潤すことしかできなかった。
やがて、首里城の攻防が始まると、彼女たちは、南部の喜屋武半島に撤退し、激しい攻撃のなかで、自然壕で看護を続けた。
六月十八日、米軍が包囲するなか、学徒隊の解散命令が出された。
それは、勝つと信じ込まされて戦ってきた乙女たちにとって、寝耳に水のような命令だった。皆、茫然自失していた。
壕を脱出しても、敵の砲撃のなかに身を投じるしかなかったのである。
彼女たちのある一団は、戦場をさまよい、荒崎海岸にたどりついたが、そこで目にしたものは、海に浮かぶ無数の敵艦だった。
岩穴にじっと身を潜めていると、近くで、米兵の発砲が始まった。一緒に逃げていた教師は手榴弾を取り出すと、そこにいた九人の生徒を道連れに自決したのである。爆発音とともに瑚礁は鮮血に染まった。
また、別の壕にいた乙女たちは、壕から脱出しようとした時、投降を勧める米軍の声を聞いた。しかし、誰も壕からは出なかった。
ほどなく黄燐弾が投げ込まれ、続いてガス弾が炸裂した。
一瞬にして、そこにいた四十六人の乙女らの命が奪われ、生き残ったのはわずか五人に過ぎなかった。
伸一の足下に口を開け、ゴツゴツとした岩肌を覗かせているのが、その壕であった。
彼は、関係者の説明を聞き終わると、つぶやくように言った。
「残酷だな……、あまりにも残酷だ」
そして、合掌すると、題目を三唱した。それは平和への深い一念を込めた祈りであった。
一行は、更に摩文仁丘に向かった。
バスを降りて、岩山に沿って下って行くと、青年というにはまだ若すぎる三人の像が目についた。「健児之塔」であった。
38 先駆(38)
「健児之塔」は、「鉄血勤皇隊」として部隊に配属された十五歳から十九歳の学徒隊の慰霊塔である。
彼らは、伝令や、食糧調達の任務を負わされ、砲爆撃のなかを奔走した。従軍した男子生徒のうち、約半数が戦死している。
しかも、これらの学徒隊は、法的な根拠もないままに、組織されていったのである。
山本伸一は、人々が身を隠したという洞窟や、いくつかの慰霊碑を見た後、摩文仁丘に立った。
切り立った断崖の向こうには、青く澄んだ瑚礁の海が広がっていた。
太陽の光を浴びて、岸の緑は鮮やかに映え、海の彼方は、銀色に輝いていた。
この美しい島で、わずか十五年前に、凄惨な地獄絵が展開されていたかと思うと、無残さは、なおさらつのった。
「戦争は悲惨だな……」
伸一は、誰に語るともなく、しみじみとした口調で言った。
彼は、生前、恩師戸田城聖が、「もう、二度と戦争を起こしてはならん。そう誓って、私は敗戦の焼け野原に一人立ったのだ」と、しばしば語っていたことを思い起こしていた。
まさに、戸田の生涯は、その戦争を遂行しようとする権力の魔性との、壮絶な闘争であった。
信教の自由を貫き、正法正義を守り抜いたがゆえの二年間にわたる獄中生活。過酷な軍部政府の弾圧は、彼の体を衰弱の極みにいたらしめたのみならず、敬愛してやまぬ恩師牧口常三郎の命をも奪った。
そして、出獄した彼は、焼け野原に立って、「大悪をこれば大善きたる」と、御聖訓に照らして広宣流布の時の到来を自覚したのである。
彼の起こした戦いは、人間の生命の魔性の爪をもぎとり、一人一人の胸中に平和の砦を打ち立てる戦いであった。
その波は、一波が万波を生むように、戸田の晩年には、彼の念願であった七十五万世帯の民衆の平和のうねりとなって、日本全国、津々浦々にまで広がったのである。
その戸田の遺訓が、逝去の前年の九月八日、横浜・三ツ沢の競技場で発表された「原水爆禁止宣言」であった。
彼はこの宣言で、世界の民衆は生存の権利をもっており、原子爆弾を使用するものは、それを脅かす魔もの、サタンであると断じ、その思想を、全世界に広めゆくことを、青年たちに託したのであった。
39 先駆(39)
今、戸田城聖の起こした平和の大潮流は、慟哭の島・沖縄にも波の花となって広がり、友の歓喜は金波となり、希望は銀波となったのである。
山本伸一は、その恩師の偉業を永遠に伝え残すために、かねてから構想していた、戸田の伝記ともいうべき小説を、早く手掛けねばならないと思った。
しかし、彼には、その前に成さねばならぬ誓いがあった。戸田の遺言となった三百万世帯の達成である。伸一は、それを恩師の七回忌までに見事に成就し、その勝利の報告をもって、恩師の伝記小説に着手しようとしていた。
戸田は「行動の人」であった。ゆえに弟子としてその伝記を書くには、広宣流布の戦いを起こし、世界平和への不動の礎を築き上げずしては、恩師の精神を伝え切ることなどできないと彼は考えていた。文は人である。文は境涯の投影にほかならないからだ。
伸一は、恩師の七回忌を大勝利で飾り、やがて、その原稿の筆を起こすのは、この沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと、ふと思った。
彼の周りに、見学を終えた友が集まって来た。
伸一は語りかけた。
「かつて、尚泰久王は、琉球を世界の懸け橋とし、『万国津梁の鐘』を作り、首里城の正殿に掛けた。沖縄には、平和の魂がある。その平和の魂をもって、世界の懸け橋を築く先駆けとなっていくのが、みんなの使命だよ」
高見福安が答えた。
「必ずそういたします。沖縄はアメリカの統治下にあるので、海外に行く手続きは本土より簡単なため、世界に羽ばたこうとしている人がたくさんいます。また、基地に働くアメリカ人で、信心する人も増えております」
「そうか。そこからまた広がっていくね。沖縄は広宣流布の″要石″だ。この美しき天地を、永遠の平和の要塞にしていこう。
仏法には三変土田という原理がある。そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ。やろうよ、力を合わせて」
「はい!」
決意を込めた友の声が、潮騒のなかに響いた。
伸一は、ニッコリと頷くと、彼方を仰いだ。
ここに、新しい沖縄の、輝く未来への歴史のページが開かれたのである。
それは、″汝自身″の使命を自覚した人間による、民衆のための平和と文化を創りゆく戦いの始まりであった。
彼は、沖縄の天地に、生命の世紀の太陽が昇るのを見る思いであった。