Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命を尊厳ならしめるもの 「『人間の世紀』第一巻」から

1973.1.0 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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32  侵蝕される生命の連鎖
 これは心理的、精神的な人間の崩壊現象であるが、生理的、肉体的にも人間をむしばむ恐るべき現象があらわれてきた。産業の発達によって、自然が破壊され、生活環境が著しく汚染されはじめたのである。産業が自然のリズムに秘められた力をそのまま活用していた段階では、破壊も小規模であり、汚染も、自然現象の流れの中で還元され、再生されることができた。しかるに、科学技術の発達によって本来、地上の生命的世界にとっては異物である重金属や石油を原料とする高分子化合物が、生命の連鎖の中にまぎれこみはじめたのである。
 中枢神経を冒す水銀、激痛をともなって骨を軟化させ、背丈が縮んでしまう″イタイイタイ病″を起こすカドミウムなどは、そうした重金属類の代表である。高分子化合物の例としては、DDTやBHCなどの殺虫剤、PCB等の薬品類がある。いずれも動植物の体内に吸収されるが、元素である重金属は当然、高分子化合物も、極めて安定した構造を持っているため、破壊されないまま、それらの動植物を食べた人間の体内に取り込まれ蓄積されていく。その蓄積量が、ある許容限度を超えると悲惨な症状を呈し、廃人にしてしまうか、死に至らしめるのである。
33  もとより、具体的にそうした症状があらわれたという例は、今のところ、限られた地域の、限られた人々にしかみられない。だが汚染は、地域差はあるにせよ地球的規模で進行しており、その進行の速度は、年々加速されている。もしこのまま進んでいくならば、やがて、被害は全人類の上にふりかかってくるに違いない。繁栄のための生贄というには、原始社会の生贄に比べても、あまりにも悲惨であり残酷ではないか。
 ともあれ、近代以後の科学技術の力による物質的豊かさへの努力は、それが人間の幸福、生命の尊厳を現実に保証するであろうと信じられたからこそ、あくことなく続けられてきたのである。ところが、その繁栄を謳歌している産業社会において、精神的にも肉体的にも、尊厳なるべき生命に対する深刻な破壊が生じてしまった。それは文明時代に入って以来、大部分の人々を導いてきた短絡的思考――すなわち、社会の体制、機構を変えれば幸福は保証されるとか、物質的に満たされれば幸せになれるといった考え方――の根本的欠陥を露呈したものといってよい。
34  社会体制と幸福、物質的豊かさと幸福感とは直接に結び付くものではなく、人間生命という、とらえがたいが無視することのできない実体が、その間にあることを意識せざるを得なくなったのである。否、それは単に中間にあるなどというものではない。実は、この″生命″こそ一切を包含する全体であり、生命の尊厳をこそ何よりも優先して考慮しなければならないことが明白となったのである。もとより、そうした考え方は過去にも幾多の優れた人々が提唱してきたことも事実である。言いふるされたことでもあり、当然の道理でもある。
 それにもかかわらず、なぜ言いふるされるのみで実現しなかったか。なぜ当然の道理が現実にならなかったか。それを私は、人間の原始以来の基本的思考と、社会原理、文明の理念の中にこれを根本的に否定する要因があることを示した。そして一方、この当然の道理を実現するために様々な形で変革の試みがなされたけれども、これらの人間の思考や社会原理、文明の理念そのものを変えることはできず、今日に至った失敗の歴史を明らかにした。この失敗の原因を一言で言うなら、人間生命の核心的把握がなされなかったことにあるということである。
 実体への核心的把握と程遠い、単なる抽象的な言葉や盲目的、受動的に身をゆだねた信念では、現実変革の力とはなり得ない。生命とは何か、なぜ尊厳であるのか、また、いかに行動し、どのように社会と文明を創造することが、生命の尊厳という原理を保証するのかという、明確な意識と能動的な行動があって、初めて生命の尊厳は確たる実体性を持つことができるのである。
35  三、生命の尊厳性を考える視点
 規範としての尊厳観
 既に述べたように″生命の尊厳″という理念を確固たるものにするには、生命とは、一体、何であるのか、を明らかにしなければならない。ただその前に、尊厳とはどういうことなのかという点について、明確にしておく必要がある。文字通りの意味は「尊く、厳かなこと」であるが、それだけでは、あまりにも漠然としている。これについて、カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』で次のように述べている。
 「目的の王国においては、すべては価格を有つか、あるいは尊厳を有つかである。価格を有つものは、その代りに、他の何ものかを等価物としておくことができる。それに反し、すべての価格を越えて尊いもの、したがっていかなる等価物をも認め得ないものは、尊厳を有つのである」(高坂正顕訳)
 つまり、カントによると、尊厳とはいかなる等価物をも置くことができないこと、あらゆる価格を超えたものということである。とするならば、尊厳性ということは、そのもの自体において付随する特質ではなく、そのかけがえのなさを感じてくれる意識者との関係において成り立つものである。卑近な例で言えば、極めてありふれた万年筆であっても、長い間使って愛着があるとか、それがその人にとって生涯忘れることのできない思い出の記念であるとかいった場合、どんなに大金を積まれても手放せないということもあろう。それは、その人にとって、それなりに″尊厳性″を持っていることになる。
36  同様のことは動物についてもいえるし、人間についてはなおさらである。一人の人間は様々な意味で、いろいろな人と深いつながりがある。そうした関係のある人々にとって、その人の存在は他に代えられないものである。このため、その人が死んだり遠い土地へ去ったりすると、心の中に空洞が生じたように感ずるのである。関係が親密で心の中に占めていた比重が大きければ大きいほど、そのあとの空洞も大きいわけである。そういう意味では、あらゆる人がそれなりに尊厳性を持っているし、あらゆる動植物や物体も尊厳性を秘めているということができる。ただ、その尊厳性が事実のうえで、つまり実感的な意識として具現するかどうかは、それを感ずる人の心によると言わなければならない。
 しかしながら、いわゆる″生命の尊厳″ということは、こうした感情と同等に論ずべきものではない。個人的な性向や生活経験の結果として、具体的な個々の人間・生命に感ずる尊厳性ではなく、普遍的な理念として、具体的な行動や態度の起因となるものである。もしそうでなければ、その生活経験や個人的性向から、ある物体や人間あるいは理想に尊厳性を認める人が、そのゆえに他の人々の生命を犠牲にするといったことも当然ありうるし、それを容認することは、生命の尊厳という理念にかけられている期待を裏切ることになってしまうからである。
37  宗教的信念の問題
 生命の尊厳ということは、あらゆる生命は尊厳であるということである。そこには尊厳視すべきであるという意味を含んでいる。尊厳視すべきだということは、尊厳性を感じうる意識を持たないものには、しょせん無意味であるから、人間をその主体として初めてこの理念が存在しうることも言うまでもない。そして「あらゆる生命」ということは、自己の生命のみであってはならない。自己と関係の深い人々の生命のみであってもならない。更に人間生命のみであってもならない、ということである。
 ところが、現実問題として、同じ人間同士でも好意を持てる人もいれば、どうしても好意を持てない人もいる。単に感情的な好悪の問題でなく、生命の安全を脅かしてくる人の場合もある。まして他の動物などにいたっては、その生命を尊厳と認めようといっても、とうてい無理だという場合が少なくはない。従って、あらゆる生命に尊厳性を認めるということは、それを信念とする以外にない。そうと決めるということである。これは、もはや、経験的な次元から帰納的に出てくることではない。自ら定めた信念であり、そこから演繹的にこれを規範として行動し、生きる姿勢を確立していくのである。
 古来、こうした尊厳観が本来、宗教や哲学を基盤として出てきたのは、このためといってよい。また、こうした人生の規範、人間としての拠りどころを説き示したものが宗教であり、その本質を探究しようとしたものが哲学にほかならない。
38  宗教はそれぞれに、尊厳とすべきものを立てた。多くの場合、人間は罪を負ったものであり、悪業に染まった存在とし、尊厳なるものは天上あるいは彼岸にあると説いた。そして、そうしたはるか彼方の尊厳なるものに自己の生命を帰することによって、罪の重荷を取り除き、浄化されて、その栄光にあずかることができると教えたのである。この救いの約束のもとに、人々は現実の人生に規範を定め、一種の安心感と充足感をもって生活を営むことができた。今日、そうした宗教が凋落してしまった原因は、もちろん宗教自身にもあるが、人々の関心が現実生活に集中してしまったことにもよる。秩序や法を失った社会が成り立たないように、人間の精神世界も拠るべき規範を失った時には、混乱し停滞して行き詰まってしまうものである。
39  生命の尊厳観と自己変革
 ちょうど現代人の心は、法と秩序の復活が自由の喪失になることを危惧しつつ、しかも、その再建を願わずにいられないといった状態にあるといえないだろうか。従って、ここで明らかにしなければならないのは、人間の自由が抑圧され奪われるのは、いかなる場合であり、どのような宗教であれば、いわゆる人間としての自由を奪うことなく、しかも確固たる基盤を人間存在に与えてくれるかということである。その場合、尊厳なるものを外界の事物や超越的な存在に求めるのでなく、生命そのものを尊厳とするのでなければならないことは既に述べたとおりである。これまでの宗教において、人間の自由が抑圧され歪められたのは、その説く尊厳なるものの実体が、あくまで現実の人間性を否定したところにあったからである。
40  人間の自由への願望を満たしつつ、しかもその精神の拠りどころとなるべき宗教は、生命それ自体を、そのあるがままの全体において尊厳とするものでなくてはならない。もとより、それだけでは一切が自由である代わりに、それを自己の昇華のための規範とすることは不可能である。生命とは、あらゆる要素と可能性を秘めた複雑にして多様な存在であるが、どのようになることが望ましいかを描くことはできるはずである。例えて言えば、種々の欲望はあらゆる生命に本然的に備わる特質である。だからといって欲望に無制限に身を委ねれば、周りの人々を傷つけ、我が身を滅ぼしてしまう。そこに欲望を賢明にリードできる理性なり道徳律といったものが、その人の生命に内在化しなければならない。
41  これは誠に複雑にして難解な課題であるが、そこに生命ないし人格の理想像を描き、この理想を自己の生命に実現することを目指して、自己変革に挑むのである。それは自身における″尊厳性″を、単なる一般的原理としてのそれから、具体的現実としてのそれへ転換するものとなろう。それと同時に、他に対してはどこまでもその生命を尊厳と認め、その幸福を願って行動していくべきである。なぜなら、その人の信念から行動として体現化されたものは、同時にその信念をより深め、生命自体を変革していくからである。
42  カントが「君は、君の人格の中にある人間性と、また他のすべての人の人格の中にある人間性とを、常に同時に目的として取扱い、けっして単に手段として取扱わないように行為せよ」と言い、「人間にとって、目的であるとともに、同時に義務であるところのもの」は「自己自身の完全性と――他人の幸福である」というのも、全くこの意味であると思う。しかしながら「自己自身の完全性」とは一体どういう状態をいうのか。これが明らかにされなければ、この議論は単なる概念の提示に終わってしまうであろう。
43  十界論に見る生命観
 文学を意識の流れとしてとらえたマルセル・プルーストの言葉に、次のような一節があった。
 「私は、ただ一人の男ではない。私の心の中を、ぴったりと列を組んだ兵隊の行進が、何時間も何時間もよぎってゆくのである。ある瞬間に私の心をよぎる兵隊の性格が、その時の私の心なのである。ある時には、ひどく興奮した男たちが、または無関心な男たちが、さらに次の瞬間には嫉妬ぶかい男たちが私の心を通りすぎてゆく。だが驚いたことに、嫉妬ぶかい男たちは、それぞれ別な女に嫉妬の炎をもやしているのである」
 たしかに、私達は、自分の心を冷静に振り返ってみる時、瞬間瞬間、様々な心が入れかわり立ちかわりして、とどまることがないのに気づく。スポーツや娯楽に興じている時の自分と、不愉快なことがあって怒っている時の自分、不幸な人のために役立ってあげることができて満足している自分と、のどが渇いたとか空腹だとかで、飲み物や食物を欲している時の自分等々というように様々に異なる。そのような変化の中にも一貫した自分があるのに違いないが、瞬間瞬間の変化は自分でも驚くばかりである。
44  私は本論で人間の尊厳への第一段階の思想運動として、旧約聖書を基盤とした一神教と、仏教そして中国の孔子、老子を挙げ、その後、一神教世界がどういう変遷をたどったかを通観した。そして仏教と孔子、老子の思想については″神″ではなく″法″を根幹にしたものであることのみ述べておいたが、この中でも仏教は生命そのものを解明し、そこから自己完成の原理を導き出そうとしたものであるといえる。この仏教の説く哲理はいかにも深遠で複雑なのであるが、こうした生命の多様性を分析し整理した法理に十界論がある。十界の名称は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏で、この一つ一つの名前は、日本人には馴染みの言わば抹香臭さを感じさせるものだが、生命の多様な実体を、見事に分析してみせた合理的な思索の結晶であると私には思える。
45  簡単に、この内容、特質を紹介すると、地獄とは苦悶する生命であり、餓鬼とは貪欲な衝動の生命である。畜生とは目先のことにとらわれる愚かさ、修羅は闘争の心、いわゆる平常の静かな人間らしい心が人間界、喜び楽しむ生命が天界である。以上を六道と言い、日常的な人間生活は、この六道を転々としているというのが「六道輪廻」である。このように瞬間瞬間、生命が変転するのは外界の縁によるが、受動的にあるがままに生きている限り、この六道の範疇は出られないというのが「六道輪廻」ということである。声聞以上の生命は、自ら自己変革の意志をもって、能動的、主体的に縁をつくり実践していく時に、初めて覚醒させることができる。声聞とは先覚者の教えを求め、それに習って自己を変革しようとする心であり、縁覚とはいわゆる飛華落葉の自然現象、宇宙の姿に想いを凝らし、自ら悟りを得ようとする心である。広い意味では書を読み学問することに喜びを見いだしていく生命も声聞と言えるし、芸術的創造活動や自然界や社会の現実の中から真理を究めることに無上の喜びを覚えるのは縁覚と言えるであろう。
46  仏界とは宇宙と生命の本質、究極的真理を体得し、自己の不滅と宇宙との一体性を悟り究めた絶対的な心の状態である。それは一切を包容し、一切を生かしていく無限の智慧をともなう。仏教が説く究極の理想、自己の完全性とは、この仏界の生命を確立することである。ここに理想をおいて、自己変革に挑む道程の生命を仏教は菩薩と呼ぶのである。広い意味では、すべての生命に尊厳性を認め、その幸福のために尽くす無辺の慈悲が菩薩の生命である。母が我が子の幸せを願う限られた対象に向ける慈愛も、「菩薩の一分」と説かれる場合もある。
47  ともあれ仏教は、仏界の生命を顕現することを理想と説くが、元来この十界は、すべての人、すべての生命体に備わっているものであって、例えば地獄の生命が苦悶の心であるからといって、これをなくすことはできないとする。生命体として現実に存在する限り苦しみ悩むことは避けられない。欲望もまた生命体の機能として必然的に備わっているものである。逆説的な言い方になるが、こうした苦悩があればこそ、楽しみが楽しみとして感じられるのであり、欲望があればこそ満足感が味わえるのである。
 要は地獄の生命に覆われ埋没してしまったり、餓鬼界の貪欲な衝動に支配されるのでなく、仏界の生命の確立を目指し、菩薩界の生命活動を基軸として、こうした十界の生命を賢明に主体的にリードしていくことである。ここにカントの言う「自己自身の完全性と――他人の幸福」を同時に具現する実践的哲学の原理があると私は考えたい。
48  「殺」の心を殺す
 人間は、生きるためには他の生物の生命を犠牲とせざるを得ない。厳密な意味で生命の尊厳とは、生きとし生けるあらゆる生命体について、その尊厳性を認めるということである。ところが人間は、一方で″生命は尊厳なものである″と言いながら、他方ではその尊厳なる生命を大量に屠ることによって、自己の生命を維持している。いや人間ばかりではない。ほとんどの動物は、その対象が動物であれ植物であれ、生命体を自分の生命維持のための資源としているのである。
 自己の生命の尊厳性と一般的な生命の尊厳性とは、ここで重大なジレンマに陥ることになる。これは人間を中心にした場合、人間の尊厳という問題と生命一般の尊厳という問題との矛盾になる。これに関連して、釈尊の言動をとどめた書に一つの興味深い問答がある。それは――ある人が、「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と問うた。これに対して、釈尊は「それは殺す心を殺せばよいのだ」と答えたというのである。
49  質問のポイントは、殺してよい生き物と殺してはならない生き物との区別を示せということにある。釈尊は、直接にはこの質問に答えていない。だがそれは、はぐらかしたのではなく、より本質的に生命の尊厳というものを明らかにしているのだと私は考える。
 生命の尊厳とは、あらゆる生命を尊厳と認める自身の心の中にある。客観的にみるだけなら、いかなる生命も無常のはかない存在であり、苦悩に覆われ悪業に支配された存在にすぎないであろう。それが人の心に尊厳と映るのは、その人自身がこれを尊厳とみるからである。そして、その一切の生命を尊厳とみる心が、自己の生命を尊厳ならしめるのでもある。この客観性と主観とが一体となったところに、真実の尊厳性が現実化するのだと言ってもよい。
50  こう言えば、それでは尊厳とみたうえでなら、何をどのように殺してもかまわないのかという疑問が起こるかもしれない。私はそれは違うと思う。生命は、自己に関して少しでも生きながらえようとする、自己維持の特質を本然的に持っている。いわゆる生存本能というように、意識下の意識にもそれはあるし、更に深く生命体の機能にもそれは備わっている。他の生命を殺すということは、自己の生命の持っている、そうした特質、法則といったものへの違背になるわけである。そこには単に、意識のうえでの作為では変えられないものがあると思われるのである。
 周知のごとくキリスト教の原罪説は、アダムとイブが悪魔にだまされて、知恵の実を食べたことから人類の罪が始まったとする。その知恵とは善と悪とを判別する知恵であったという。このことは善悪の意識が人間の心に罪を刻むのだということになろう。もしそうであるなら、人間は人間としての高度な精神機能を営み続ける限り、罪の消えることはあり得ないことになる。私は、そうではなくて善と悪とをよく判断し、自らの醜さを深く省みながら、しかもその本源にある生命の尊厳性を実感しうるところに、人間の尊さがあるのだと考えるのである。
     (昭和48年1月 「人間の世紀」第一巻『生命の尊厳』所収)
 〔参考文献〕
 L。マンフオード『機械の神話』河出書屋新社
 L・マンフオード『生活の智恵』福村出版
 E・H・フロム『正気の社△L社会思想社
 速水敬二『ルネッサンス期の哲学』筑摩豊房
 ライフ人間世界史『古代アメリカ』タイムライフ社
 カント『人倫の形而上学の基礎づけ』

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