Nichiren・Ikeda
Search & Study
32 正義(32)
静寂な夜であった。
山本伸一は、一九八一年(昭和五十六年)に執り行われる、日蓮大聖人の第七百遠忌法要を思った。彼は、その慶讃委員長であり、この式典を、僧俗一丸となって荘厳し、広宣流布への大前進を期す佳節にしようと、固く決意していた。それだけに、悪侶による僧俗和合の攪乱と広宣流布の破壊が、残念で残念でならなかった。魔軍を喜ばせるだけだからだ。
彼は、ホテルの机に向かった。
後世のために、この出来事の真実とわが思いを、書きとどめておきたかった。
ペンを手にすると、苦しみ抜いてきた同志の顔が浮かんでは消えた。
「宗門問題起こる。心針に刺されたる如く辛く痛し」――こう書くと、熱湯のごとき憤怒と激情が、彼の胸にほとばしった。
「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不盡の攻撃をなすのか」
そして、「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子」に、なぜ、このような迫害が繰り返されるのか、到底、理解しがたいとの真情を綴った。
「尊くして 愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起れり」
彼は、さらに、福井、兵庫、千葉などで、健気なる同志を迫害する悪侶が現れた無念を書き記し、第七百遠忌法要の成功を、「血涙をもって祈り奉りしもの也」と認めた。
ホテルの窓から外を見た。漆黒の空に、星々が美しく瞬いていた。
″これで、ひとたびは、事態は沈静化へ向かうであろう。しかし、広宣流布の道は、魔との永遠の闘争である。
ゆえに魔は、これからも、さまざまな姿を現じて、大法弘通に生きるわれらに襲いかかるであろう……″
彼は、安堵の情に酔うわけにはいかなかった。事実、既に、この時、学会と宗門を分断する謀略の次の矢が放たれていたのである。
33 正義(33)
一九七八年(昭和五十三年)の幕が開いた。
学会は、この年を、「教学の年」第二年とした。
山本伸一をはじめ創価の同志は、仏法の哲理を、社会、世界に大きく開き、広宣流布への前進を加速させようとの気概に燃えて、晴れ晴れと新年のスタートを切った。
伸一の満五十歳の誕生日となる一月二日、日達法主は、僧俗一致して日蓮大聖人の第七百遠忌に進む旨の「訓諭」を発表した。
それにもかかわらず、この一月、学会を敵対視する僧たちは総本山に集い、学会攻撃の続行を確認し合ったのである。
宗門と学会の和合を恐れる山脇友政は、事態が収束に向かいそうだと見るや、″学会は必ず宗門を攻撃してくる″などといった讒言を重ねていったのだ。
結局、和合は束の間に過ぎず、宗内にあっては学会を誹謗する僧らが勢いづき、その攻撃は、とどまるところを知らなかった。
伸一は、事態が紛糾するたびに、宗門と忍耐強く対話を重ねた。そして、また和合へと向かい始めると、決まって悪質な讒言が流され、宗門と学会の仲を引き裂く動きが起こるのであった。
宗門は、その讒言に踊ったのである。
やがて末寺では、学会員を脱会させ、寺につける、檀徒づくりも盛んに行われるようになっていく。
広宣流布を御遺命とされた日蓮大聖人の末弟たる僧たちが、死身弘法の戦いで広布を推進してきた学会を目の敵にして、悪口罵詈し、迫害を加える。それは、「師子身中の虫」以外の何ものでもなかった。
御聖訓には「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」と仰せである。
迫害は、創価の正義の証明である。
艱難辛苦を乗り越えずして、広宣流布の勝利はない。黄金の旭日を仰ぐには、烈風の暗夜を越えねばならぬ。正義の航路は、猛り立つ怒濤との戦いである。
34 正義(34)
山本伸一は、僧たちの学会への執拗な誹謗・中傷に、広宣流布を破壊することになりかねない魔の蠢動を感じた。
彼は、″今こそ会員一人ひとりの胸中に、確固たる信心と、広布の使命に生き抜く創価の師弟の精神を打ち立てねばならない″と強く思った。
また、″自分が直接、各地の僧と会い、誠意をもって、率直に対話し、学会について正しい認識、理解を促していこう″と決意したのである。
この一九七八年(昭和五十三年)の春から、全国各地で″合唱祭″が企画されていた。
四月十五日、伸一は、埼玉県・大宮の小熊公園で行われた埼玉文化合唱祭に出席した。これには、県内にある宗門の寺院から僧侶を招待していた。
桜花に蝶が舞い、小鳥がさえずる、春うららかな日であった。「理想郷・埼玉に歓喜の歌声」をテーマに掲げた文化合唱祭は、人びとの幸福と社会の繁栄のために、喜々として信仰に励む同志の、晴れやかな希望の出発を飾る舞台となった。
新女子部歌の「青春桜」をはじめ、「森ケ崎海岸」「母」「厚田村」など″歓喜の歌声″が、春風とともに樹間に響き渡った。
伸一は、この日のあいさつで、広宣流布と文化について語ろうと思っていた。
本来、文化・芸術と宗教とは、切り離すことのできない、不可分の関係にある。
文化・芸術は、宗教という土壌の上に開花してきた。宗教によって人間の生命の大地が耕されてこそ、文化・芸術の大輪が咲く。
英国の詩人で批評家のT・S・エリオットは、「広く一般に受け容れられている誤りは、文化というものが宗教なくして保存され、伸張され、発展せられることが可能であるという考えであります」と論じている。
また、フランスの女性哲学者シモーヌ・べーユは、「すべて第一級の芸術は本質からして宗教的なものである」との箴言を残している。
35 正義(35)
西欧の文化・芸術は、キリスト教という精神の水脈から創造の活力を得てきた。また、日本にあっても、仏教のもと、絢爛たる白鳳文化が花開いたことは、よく知られている。
では、なぜ、宗教の土壌の上に、絵画や彫刻、音楽等々、文化・芸術が開花するのか。
アメリカ・ルネサンスの思想家エマソンは、「最も美しい音楽は、生命からほとばしる慈愛と真実と勇気に満ちた人間の声の中にある」と述べている。
文化・芸術は人間の生命の発露である。その生命を磨き、潤し、希望と歓喜の泉にしていく力こそ、宗教であるからだ。
日蓮大聖人は仰せである。
「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」
釈尊の弟子である迦葉、舎利弗は、法華経で成仏の法を領解し、喜びに舞い踊る。また、地涌の菩薩は、末法の妙法流布の使命を担おうと、喜び勇んで、踊りながら出現しているのである。生命からほとばしる、その大歓喜の表出、表現こそが、文化・芸術の源泉にほかならない。
また、大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と言われている。自行化他にわたる南無妙法蓮華経の実践は、慈悲の生命を、勇気を、大歓喜を、わが胸中に涌現させる。創価の同志は、日々の学会活動を通して、それを実感してきた。
その生命の発露として、新しき人間文化を建設し、広く社会に寄与することは、仏法者の社会的使命といってよい。優れた文化・芸術を生み出すことは、仏法の偉大さの証明となる。また、その文化・芸術への共感と賛同は、大きく仏縁を広げていくことになろう。
ゆえに山本伸一は、「広宣流布とは″妙法の大地に展開する大文化運動″である」と定義してきたのだ。学会の合唱祭や文化祭、芸術祭も、その一環にほかならない。
36 正義(36)
妙楽大師の言葉に、「礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」とある。
「礼楽」とは、「礼儀」と「音楽」のことで、中国の伝統的な生活規範である。「礼」は、行いを戒め、社会の秩序を生み出し、「楽」は人心を和らげるものとして尊重された。「礼楽」とは、広い意味では「文化」といってよい。
中国では、この「礼楽」が流布していたために、人びとが真の道である仏法を理解することができたというのである。
キリスト教を見ても、それを土壌にして生まれた音楽や美術等々の文化が、キリスト教への関心や共感を促す力となっていった。
また、文化・芸術には、民族や国家を超えて人間を魅了し、人と人とを結ぶ力がある。優れた音楽が、世界の多くの人びとに愛され、人間の融和、心の結合の力となってきた例は少なくない。
山本伸一は、埼玉文化合唱祭で、それらを踏まえて、学会の推進する文化運動の意義について言及していったのである。
「埼玉の皆さんは、全国で開催される″合唱祭″の先駆けとして、見事な歌声を披露してくださった。心より御礼申し上げます。
信仰によって、わが生命を躍動させ、奏でる楽の音も、合唱の歌声も、万国共通の言葉であり、万人の心を結ぶ″文化の懸け橋″となります。
これから未来にわたって、日蓮大聖人の仏法を、どのように人びとの心に響かせ、世界に開いていくかという視点に立つならば、こうした運動が、その推進力になることは間違いありません。
また、出演した方々は、この文化合唱祭に、自身にとっての大きな意義を発見し、信心の跳躍台としてこられたことと思います。
学会の合唱祭や文化祭の重要な意味は、それを通して一人ひとりが信心を磨き、友情を深め、強い確信に立ち、発心の契機にしていくことにこそあります。自身の成長がなければ、華やかな催しも虚像にすぎません」
37 正義(37)
山本伸一は、個人に即して、創価学会の合唱運動、″合唱祭″の意義を語っていった。
「″合唱祭″に出演された皆さんは、歌の練習に取り組むなかで、苦手な課題を克服しようと懸命に努力されてきた。それを通して、挑戦の心を育んでこられた。
また、合唱というのは、自分が上手ならば、それでいいというものではない。大事なのは全体の調和です。したがって、最高の合唱にしようと努力していくなかで、広宣流布への異体同心の団結も培われていきます。
さらに、皆さんは、″合唱祭″の大成功をめざして、真剣に唱題してこられた。その題目は、信心向上の力となります。自身の大生命力を涌現させ、幸福境涯を開く偉大なる功徳の源泉となっていきます。
そして、家事や仕事、学会活動をしたうえで、忙しいなか、合唱の練習に通われた。
それは、有意義な時間の使い方を身につけ、すべてをやりこなす力を引き出す訓練になったことでしょう。
私どもは、何があろうが、どんな宿命の試練にさらされようが、″希望の歌″″勇気の歌″″喜びの歌″を、さわやかに、さっそうと口ずさみながら、幸せの航路を、勇躍、進んでまいろうではありませんか!」
文化合唱祭のあと、伸一は、会場を東大宮会館(現在の南大宮会館)に移して、文化合唱祭に招待した十人ほどの僧侶と懇談した。
彼は、学会は日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布をめざし、重層的な布石をしながら、一途に折伏・弘教の大波を起こしてきたことを語った。そして、今後も、力の限り宗門を守り、僧俗和合して広宣流布、令法久住のために進んでいきたいと訴えた。
また、僧侶方には、仏の使いである健気な会員を、慈悲の衣で包み込むように、大切にしていただきたいと念願したのである。
僧の反応は、さまざまであった。頷く僧もいれば、下を向いて視線を合わせぬ僧などもいた。しかし伸一は、心の扉を開こうとするように、誠意をもって語りかけていった。
38 正義(38)
四月十六日午後、山本伸一は、埼玉訪問を終えて東京に戻ると、すぐに聖教新聞社で執務を始めた。
すると、会館管理者のグループである「礎会」の関西・北陸婦人部のメンバーが、研修で学会本部に来ているとの報告が入った。
「そうか。皆さんとゆっくりお会いし、御礼を言いたいな。陰で苦労して、会館を守り支えてくださっている方々だもの。しかし、今日は、あまり時間がないので、皆さんがよろしければ、一緒に記念撮影をしよう」
多忙であっても、皆を励まそうという心があれば、激励の方法はいくらでもある。
午後五時前、伸一は、聖教新聞社の前で、五十人ほどのメンバーと記念のカメラに納まり、励ましの言葉をかけた。
「遠いところ、ようこそおいでくださいました。皆さんの陰ながらのご苦労は、よくわかっているつもりです。周囲への心配りも大変でしょう。また、近隣のお宅には、学会を誤解し、悪い印象をいだいておられる方もいるかもしれない。
しかし、″だからこそ、自分がいるんだ。私は、学会の全権大使なんだ″との自覚で、近隣に、地域に、学会理解の輪を広げていってください。
学会や仏法への理解といっても、それは、人を通してなされるものです。だから大聖人は、『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』とおっしゃっているんです。
皆さんの日々の振る舞いが、あいさつの一声が、広宣流布を開いていくんです。
建物の礎というのは、外からは見えにくいものです。しかし、その礎が、建物を支えている。同様に、創価学会を支えてくださっているのは、『礎会』の皆さんです。
学会の全幹部が、皆さんのように、″私は広宣流布の、創価学会の、会員の皆さんの礎になろう。自分の存在など、誰も気づかなくともよい″との気概をもてば、広宣流布の前進は、今の何倍も加速していきます」
39 正義(39)
山本伸一は、四月十九日に総本山大石寺を訪れ、日達法主と会談した。そして、翌二十日には、静岡県伊東市に誕生した伊東平和会館を訪問したのである。
平和会館では、開館記念の勤行会が、昼と夜の二回にわたって行われることになっていた。伸一は、この日、夜の勤行会に出席するため、午後三時半過ぎに平和会館を訪れた。
陽光を浴びた緑が、すがすがしかった。
伸一が到着した時、ちょうど昼の部の勤行会が終了するところであった。ここでも彼は、なんとかして皆を励ましたいと思い、共に記念撮影することを提案した。
予期せぬ朗報に、皆、大喜びであった。
伸一は、勤行会の会場となった広間で、全参加者と五回に分かれてカメラに納まった。その間にも、皆に声をかけ続けた。
「お幸せに! 幸せになるんですよ。そのための信心なんですから」「必ず人生の勝利者になってください」「『如蓮華在水』です。濁った、世知辛い現実社会にあっても、自分らしく、幸福を築いていけるのが信心なんです」
一度の励ましが、勇気の源となり、苦難克服の転機となることもある。
この一瞬に発心の種子を植え、永遠の大成長の道を開こうと、伸一は懸命であった。
彼は、さらに、記念植樹や、地元・伊豆圏の代表らとの懇談会に臨んだあと、伊東にある宗門寺院を訪問した。住職と会い、学会を正しく理解し、会員を守ってもらいたいとの思いからであった。
伸一が住職との語らいを終えて伊東平和会館に戻ったのは、午後七時五十分であった。彼は、休む間もなく、開館記念勤行会の会場に姿を現した。
日蓮大聖人は、「命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」と仰せになっている。一日、一瞬が、かけがえのない宝である。ゆえに彼は、限りある人生の時間を、片時たりとも無駄にはしたくなかった。常に全力を尽くそうと決意していたのだ。
40 正義(40)
伊東平和会館の開館記念勤行会で、山本伸一は皆と勤行したあと、懇談的に話をした。
彼は、日蓮大聖人の伊豆流罪、また、初代会長・牧口常三郎が、伊豆の下田で官憲に出頭を求められて、投獄、獄死した大弾圧に思いを馳せながら語り始めた。
「日蓮大聖人は、『如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべし』と仰せであります。釈尊は多くの難を受けたが、末法において正法を広宣流布していくならば、それ以上に、怨み嫉まれ、迫害を受けるとの意味であります。
これまで創価学会は、広宣流布に邁進してきたがゆえに、激しい非難中傷にさらされ、迫害され続けてきました。学会以外に、どの教団が真実の正法を弘め、迫害を受けてきたか――ほかにないではありませんか。
その事実は、御書に、また、経文に照らして、学会こそが、真実の広宣流布をしてきた証明であると思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
賛同の大拍手が轟いた。さらに伸一は、創価学会の同志の絆について語っていった。
「学会の同志は、久遠の縁によって結ばれた法友であります。
学会では、誰かが病などの悩みをかかえて苦しんでいると聞けば、多くの同志が題目を送ってくれます。さらに、同志が他界した折にも、皆が真心の唱題をしてくれます。
また、先輩の方々は、″少しでも信心を深めてほしい。幸せになってもらいたい″と、足しげく後輩の激励に通う。そして、悩みに耳を傾け、わが事のように心を痛め、涙しながら、懸命に励ましを送る。
そこには、なんの利害もない。これほど尊く、美しく、清らかな人間愛の世界はありません。学会の組織のなかでつくり上げてきた、この無形の宝を社会に開いていくのが、広布第二章です。不信と猜疑と嫉妬が渦巻く時代だからこそ、わが地域に、この伊豆の地に、麗しい人間共和の模範を築き上げていっていただきたいのであります!」
41 正義(41)
山本伸一が、この日、法難の地・伊豆で、最も訴えたかったことは、「確信こそ、信仰の根本である」ということであった。
戸田城聖は、第二代会長に就任して間もない一九五一年(昭和二十六年)夏、「創価学会の歴史と確信」の筆を執った。
そのなかで戸田は、軍部政府の弾圧と戦い、殉教した初代会長・牧口常三郎について、次のように記している。
「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌のためには国家諫暁よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである」
牧口は、日蓮大聖人の仏法への絶対の確信があった。ゆえに、大法難にも微動だにすることなく、正法正義を貫き通したのである。
牧口と共に捕らえられた戸田は、獄中にあって、法華経の精読と唱題のなかで、自分は師と共に、末法に妙法蓮華経の大法を弘めるために出現した地涌の菩薩であることを自覚する。いわゆる「獄中の悟達」である。
さらに戸田は、「われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとする」と綴っている。
そして、故会長の遺志を継ぎ、広宣流布に生涯を捧げる決意を記し、こう述べている。
「この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」
全会員が、地涌の菩薩として、大聖人の眷属、末弟子としての大確信をもち、広宣流布に生き抜いている事実をもって、戸田は、創価学会の「発迹顕本」としたのである。
42 正義(42)
戸田城聖は、「創価学会の歴史と確信」のなかで、学会は発迹顕本したとの確信に立って、大折伏大願成就のための御本尊を、法主・水谷日昇に請願したことを記述している。
日昇法主は、学会の決意を大賞讃して、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を認めたのである。広宣流布こそ、日蓮大聖人の大誓願にほかならない。そして、地涌の菩薩の使命に燃え、大聖人の眷属、末弟子の自覚に立った戸田の大誓願であり、創価の同志の大誓願であったのだ。
この御本尊のもと、喜々として弘教に走る会員の姿を、戸田は次のように綴っている。
「一大決意のうえ、実践運動にとりかかった会員は勇気に満ちみち、一糸乱れざる統帥のもとに、厳たる組織のうえに、足並みそろえて大折伏に行進しだしたのである。創価学会のごとき団体が、過去七百年の間に、どこにあったであろうか。各理事、各部長の勇敢なる闘争心、つづく負けじ魂の各会員、講義に、折伏に、火の玉のごとき状態である」
大法弘通を、慈折広宣流布を、わが使命と定めた同志は、皆が地涌の菩薩である。仏の使いである。したがって、その自覚に立つ時、自身の境涯革命がなされ、いかなる宿命の嵐をも勝ち越える、大生命力が脈動するのだ。
戸田は、こう宣言している。
「時は、まさに来れり。大折伏の時は、まさに来れり。
一国広宣流布の時は、まさに来れり。いな、いな、東洋への流布の時が来たのである」
創価学会の確信とは、日蓮大聖人の仏法への、御本尊への大確信である。
また、その大法を弘める、創価学会員の私たちこそ、地涌の菩薩であり、大聖人の眷属、末弟子であるとの大確信である。
さらに、断じて広宣流布の勝利の旗を打ち立てんとする大確信である。
山本伸一は、伊豆の同志に訴えた。
「信心とは、一言すれば、確信であるといえます。確信は、自身の確固不動な信念となり、それが生き方の骨格をなしていきます」
43 正義(43)
どうすれば、一人ひとりが、強い確信をもつことができるのか――。
山本伸一は、さらに語っていった。
「一つには、信心の力を痛感する、生活のうえでの体験を、どれだけつかんでいくかです。体験ある人は強い。それは、御本尊の力を生命で感じているからです。
理論的に、仏法を理解していくことも大切ですし、それが精進の力になることも事実です。しかし、それだけでは弱い。頭でわかっていることと、生命の実感とは異なります。
剣道や柔道にしても、単に試合のルールを覚え、練習の仕方がわかれば、それで強くなれるというものではない。
実際に、練習を重ね、試合も数多く経験していくなかで、″こうやれば勝てる!″″こういう場合には、こうすればよい″ということを体で覚え、生命で感じていくことができる。それで、技が磨かれていくんです。
信心も同じです。体験は確信を得る直道なんです。人生には、小さなことから、大きなことまで、さまざまな試練や悩みがあるものです。仕事や人間関係、子育てなどに行き詰まることもあれば、不慮の事故に遭遇したり、病で苦しんだりすることもある。
あるいは、″なかなか弘教が実らずに悩んでいる″という方もいるでしょう。
そうした一つ一つの悩みや試練を、自身のテーマとして見すえ、懸命に唱題し、学会活動に励んでいくんです。
そうすれば、悩みは必ず克服できます。一つ、また一つと解決していくこともあれば、大聖人が『地獄の苦みぱつときへて』と仰せのように、一挙に悩みが解決することもあるでしょう。
また、自分を悩ませていた問題は続いていたとしても、それに翻弄されて苦しんだり、そのことに負けたりしない自分を、確立していくことができるんです。境涯革命することができるからなんです。
そうした体験の積み重ねが、仏法への確信を深め、強めていくんです」
44 正義(44)
創価学会は、広宣流布の大使命を担った、地涌の菩薩の集いである。
日蓮大聖人は、その実践について、「我もいたし人をも教化候へ」と述べられている。
広宣流布をめざす自行化他の学会活動に励む時、自身の胸中には、大歓喜に満ちあふれた、地涌の菩薩の大生命が脈動する。
学会草創の時代、創価の同志は、病苦や経済苦、家庭不和などの悩みをかかえながら、喜々として折伏・弘教に歩いた。だが、素直に耳を傾ける人は、いたって少なかった。
嘲笑され、罵詈雑言を浴びせられ、なかには、村八分にされた人もいた。
それでも、草創の同志は負けなかった。
なぜか――難が競い起こったことで、先輩から聞かされてきた、御書、経文の通りであることを実感したからである。それが、歓喜と確信となり、ますます闘魂を燃え上がらせ、弘教の駒を進めてきたのだ。
勇気ある挑戦は、さらに大歓喜を呼び起こし、確信を強く、不動のものにしていく。その歓喜と確信が大生命力を涌現させ、あらゆる困難をはね返して、勇んで弘教へと突き進む原動力となっていくのだ。
一言すれば、草創の同志の強さは、ただひたすら、体当たりの思いで、折伏・弘教を実践していったことにある。それによって、地涌の菩薩の大生命が、大聖人の眷属たる大歓喜が、わが胸中に脈動していったのだ。
ゆえに、何があっても屈することなく、勇猛果敢に戦い続けることができたのである。
折伏行に勝る力はない。その実践の積み重ねのなかで、強き信心が培われていくのだ。
山本伸一は、伊豆の同志に訴えた。
「学会の強さは、全会員が、牧口先生、戸田先生の大確信を継承してきたことにあります。その仏法の正道を歩む私たちに、功徳の陽光が燦々と降り注がぬわけがありません。
勝負は一生です。また、三世の生命です。今は大変でも、″見ていてください″と、高らかに宣言して進もうではありませんか!」
45 正義(45)
静岡指導を終えた山本伸一は、四月二十一日午後、中部指導に向かった。
夕刻、中部入りした伸一は、午後六時前から、愛知、三重、岐阜の代表幹部と懇談会をもった。
参加者からは、この年一月の支部制発足以来、大きな弘教の波が広がり、支部の皆が功徳を受けているとの報告もあれば、青年の目覚ましい成長ぶりを語る人もいた。
伸一は、皆の報告を聞くと、自分の思いを語り始めた。
「学会員の皆さんが、元気はつらつと活動に励み、幸せを?み締めている報告を聞くことほど、嬉しいことはありません。
しかし、その一方で、信心を反対されて活動に参加できない方や、さまざまな悩みをかかえて、一人で悶々としている方のことを、どうしても考えてしまうんです。
どうか幹部の皆さんは、私に代わって、そうした方々とお会いし、包み込むようにして励ましていただきたい。手を取り、時には共に泣き、同苦して悲しみを分かち合っていただきたい。そして、真心を、全生命を注いで、粘り強く、力強く、信心のすばらしさを、仏法の偉大さを教えてあげてください。
そこに、民衆の蘇生があり、学会の使命があるんです。頼みます」
懇談が一段落したあと、皆で一緒に勤行することになった。
その時、二人の婦人が、「先生!」と言って、伸一のところへ来た。少しためらいがちに、婦人の一人が口を開いた。二十三日に、県の文化合唱祭を開催する三重の婦人部長・平畑康江である。
「あのう、文化合唱祭で、婦人部愛唱歌の『今日も元気で』を、どうして歌っては、いけないのでしょうか。
私たち婦人部員の思いがこもった、みんなが、いちばん好きな学会歌なんです。どうか、歌わせてください!」
いかにも切羽詰まったという表情であり、声も震えていた。
46 正義(46)
「今日も元気で」は、婦人部の愛唱歌として皆に親しまれてきた歌である。歌詞には、日々、喜びに燃えて広宣流布に走る婦人部員の、一途な心意気が表現され、曲も明るく軽快なリズムであった。
あかるい朝の 陽をあびて
今日も元気に スクラムくんで
闘うわれらの 心意気
うれしい時も かなしい時も
かわす言葉は
先生 先生 われらの先生
山本伸一の個人的な思いとしては、気恥ずかしさを感じる部分もあったが、婦人部にとっては、常に師と共に広宣流布に進もうという心を託した″師弟の共戦譜″であった。
三重県文化合唱祭では、当初、婦人部のメンバーが、「今日も元気で」を合唱することになっており、練習を重ねてきた。しかし、それが中止になったのである。
この文化合唱祭には、中部布教区の僧侶らも招待していた。当時、学会員が会長の山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧たちもいたのである。
そこで、そうした僧を刺激してはまずいと考えてか、この歌は歌わない方向に決まったようであった。
しかし、婦人部は納得できなかった。
″なぜ、いけないのだ! 師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!″
彼女たちには、山本会長の指導通りに信心に励み、さまざまな苦悩を乗り越えて、幸せになれたという強い思いがあった。そして、広宣流布の師弟の道を歩むことに、大きな誇りをいだいていた。
だから、ただ″歌が一曲、歌えなくなった″という問題ではなかった。自分たちの誇りが、いや、生き方そのものが、否定された思いがしてならなかったのである。
47 正義(47)
「母親の愛は優しく、穏やかで、温かみがあり、寛容でありますが、また同時に最も厳正であり、強烈であり、防護であり、正義感に富んでいるのです」――これは、二十世紀の中国を代表する女性作家・謝冰心が母について記した言葉である。
それは、創価の婦人部の特質でもあった。
三重の婦人たちは、実感していた。
「どうして、師匠を敬愛する心を隠さなければならないのか! どこかおかしい」
結局、婦人たちの主張が実り、「今日も元気で」は、三重県文化合唱祭で歌われることになったのである。
山本伸一は、力強い声で言った。
「婦人部の合唱を楽しみにしています」
県婦人部長の平畑康江の顔に、瞬く間に笑みが広がった。その目は涙に潤んでいた。
彼女は、すぐに総合リハーサルを行っている会場に電話を入れた。婦人部の出演者に、いっときも早く伝えたかったのである。
リハーサル会場で、「今日も元気で」を合唱できるようになったことが発表されると、大歓声と大拍手が響き渡った。ハンカチで涙を拭う婦人もいた。
学会の根幹を成すのは、崇高な師弟の精神である。それは、いかに批判されようが、時代がどんなに変わろうが、絶対に変わってはならない「創価の魂」である。広宣流布の大潮流も、この師弟という生命の脈動から生まれるのである。
戸田城聖は、青年時代から牧口常三郎を師と仰ぎ、いっさいを守り支えてきた。それゆえに、軍部政府の弾圧で、共に逮捕・投獄された。そして、自分だけでなく、一家もまた、近隣から「国賊の家」と罵られた。
その戸田は、牧口の三回忌法要の席で、感慨を込めて、こう語っている。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」
これが、広宣流布という大使命に生きる「師弟の絆」である。そこには、大難をも大歓喜へと変えゆく、高貴なる「魂の力」がある。
48 正義(48)
戸田城聖の弟子である山本伸一も、広宣流布という創価学会の使命を、自身のこの世の使命を果たし抜くために、師弟の道を貫き通してきた。師の事業が暗礁に乗り上げ、戸田が学会の理事長も辞任せざるを得なかった時、伸一は誓いの歌を認めて師に贈った。
古の
奇しき縁に
仕へしを
人は変れど
われは変らじ
伸一は、戸田に再び広宣流布の指揮を執ってもらうために、この歌の通り、病弱な体であることも顧みず、死にものぐるいで、戸田の事業再建へ苦闘を重ねた。まさに、「一念に億劫の辛労」を尽くす日々であった。
やがて伸一の奮闘は実を結び、戸田は、遂に苦境を乗り越えて、晴れて会長就任の日を迎える。そして、生涯の願業として会員七十五万世帯の弘教を掲げ、それを見事に成就していくのである。
思えば、誰人も想像さえしなかった、その後の広宣流布の世界的な大伸展も、すべて、初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖という師弟の、死身弘法の戦いが、その源であり、原動力となってきた。そして、それに連なる伸一の、また、弟子たちの不惜身命の実践があってこそ、未曾有の一閻浮提広宣流布の時代を迎えることができたのだ。
日蓮門下の最重要事は、広宣流布の大誓願の実現である。それを現実に推進してきたのが創価の師弟である。そのこと自体が、創価学会が仏意仏勅の団体であることの、まぎれもない証明といえよう。
学会の発展があってこそ、宗門を外護することができ、宗門も興隆してきた。これは、厳然たる事実であり、そこに広宣流布の確かな軌道があったのである。伸一は、この事実についても、僧侶たちと、根気強く徹底的に話し合わねばならないと思っていた。
49 正義(49)
みずみずしい若葉が、中部の新生を感じさせていた。
四月二十二日午後、会長・山本伸一が出席して、名古屋市の中部文化会館で、四月度本部幹部会が晴れやかに開催された。
伸一の会長就任十八周年の「5・3」を目前に控えた本部幹部会とあって、祝賀の思いを託し、壇上には花菖蒲が飾られ、この日の集いに彩りを添えていた。
席上、伸一は、全国の同志の絶大なる尽力と奮闘に衷心より感謝の意を述べ、「皆様方が安心して信心に励み、広宣流布に邁進できるように、常に矢面に立ち、勇んで戦いの指揮を執っていきたい」と抱負を語った。
そして、御書を拝して、いかなる大難が競い起ころうとも、前進の力へ、向上の力へ、発展の力へと転じていくなかに、真の仏法者の生き方があることを述べた。
さらに、渾身の力を込めて訴えた。
「仏法の眼を開いて見るならば、私どもは、宿縁深くして、広宣流布の尊き使命を果たすために、今、末法に出現したのであります。それは、久遠の昔からの、われらの誓願にほかなりません。自らこいねがい、仏に誓ったことなのであります。
われわれは、ひとたび決めたこの道――すなわち『信心の道』『一生成仏の道』『広宣流布の道』『師弟の道』『同志の道』を、生涯、貫き通して、ともどもに勝利の人生を飾ってまいろうではありませんか!」
誓いの大拍手が湧き起こった。
中部の同志が、断固、″この道″を進みゆかんと心を定めた瞬間であった。
「既に広宣流布の基盤は出来上がっております。いよいよ本格的な地域建設の時代を迎えました。しかし、それだけに、広布を阻もうとする障魔の嵐も激しさを増してくることは間違いありません。ゆえに、『日々発心』であり、『日々精進』であります。
″わが人生に悔いなし″と言える前進を、今日から再び開始しようではありませんか!」
さらに、大拍手が場内に轟いた。
50 正義(50)
本部幹部会の翌日にあたる四月二十三日、三重研修道場(旧・中部第一総合研修所)の白山公園で、初の「三重文化合唱祭」が、「創価の歌声で開く万葉の天地」をテーマに、はつらつと開催された。この文化合唱祭は、午前、午後の二度にわたって行われたが、山本伸一は、そのいずれにも出席し、出演者、参加者らを励ましたのである。
文化合唱祭は、勇壮な音楽隊のファンファーレ、華やかな鼓笛隊の演奏で幕を開けた。
第一部「郷土に輝く共戦譜」では、広布の歩みが語られるなか、「威風堂々の歌」や「同志の歌」「新世紀の歌」など、懐かしい学会歌の合唱が繰り広げられた。
第二部「我ら三重家族」では、「鯉のぼり」の曲にのって少年・少女部員が登場。「ぼくら師子の子」を元気に合唱したあと、代表が伸一に花束を手渡した。
「ありがとう! お父さん、お母さんを大切に。しっかり勉強して、立派に育つんだよ。皆さんを、ずっと見守っています」
伸一は、子どもを抱き締めて励ましながら、三十年後、四十年後に思いを馳せた。
″二十一世紀は、この子たちの時代だ。世界広布の本当の朝を開かねばならない!″
舞台で、少年・少女部員が声を合わせ、「おかーさん!」と呼ぶと、婦人部の合唱団が登場する。そして、子どもたちと肩を組みながら、「お月さまの願い」の合唱が始まる。ほのぼのとした創価家族の温もりが会場を包んでいく。
また、女子部は、さわやかな「緑の栄冠」のコーラスを披露。男子部は、力強い体操の演技とともに、愛唱歌「原野に挑む」を合唱し、参加者を魅了していった。どの合唱、どの演目にも、信心の喜びがあふれていた。
学会の世界とは、″歓喜の世界″である。″歓喜のドラマ″″歓喜の思い出″″歓喜の友情″を育んでいくための信仰である。
「幸運の鍵はわが手中に歓喜のあることである」とは、アメリカの偉大なる思想家・エマソンの名言である。
51 正義(51)
「三重文化合唱祭」の舞台は、婦人部の合唱「今日も元気で」となった。婦人部員の満面の笑みが開花し、あの限りなく明るく、軽やかな調べが流れた。
三重の婦人部員にとって、それは″喜びの歌″であり、″勝利の歌″であった。
皆、はつらつと、誇らかに、胸を張って熱唱していった。嬉し涙に目を潤ませて歌う人もいた。
♪真昼の太陽 身に受けて
汗にまみれて ペダルもかるく
幸せ求める 幾山河……
歌に合わせて、参加者の打つ力強い手拍子が広がった。
空は、雲に覆われていたが、婦人たちの心は、晴れやかであった。仏法という太陽をいだく人の心には、一点の雲もない。
午後の部には、宗門の支院長や住職ら僧侶と、その家族も招待していた。山本伸一は、演目の合間には、隣の席にいた支院長に何度も礼を言い、歌の説明などもした。
「それぞれの学会歌には、皆の深い思い出があります。
――折伏に行って、誠実に、懸命に仏法を語り説く。しかし、水や塩を撒かれて追い返される。時には終電車に乗り遅れ、一時間、二時間とかけて、歩いて帰らなければならないこともある。その時に、学会歌を歌いながら、自らを鼓舞してきたんです。
みんなが、そうした体験をもっています。学会員は、ただただ、広宣流布のために、死身弘法の心で生き抜いてきたんです。私は、そこに、現代における如来の使いの姿を見る思いがします。
どうか、ご僧侶の皆さんも、健気な学会員を、衣の袖で包み込むように、慈愛を注ぎ、温かく励ましていただきたいんです」
伸一は、ありのままの創価の世界を、本当の学会の心を、真実の同志の姿を、全精魂を注いで、語り、訴えた。
52 正義(52)
「三重文化合唱祭」の午後の部が始まる前から、糸のような雨が断続的に降っていた。 文化合唱祭の最後に、山本伸一がマイクに向かった。彼は、雨の中での出演者の熱唱と熱演を讃えたあと、出席した地域の来賓や僧侶らに深く感謝の意を表した。そして、各部の友に、一言ずつ指針を贈った。
「ご結婚され、子どもさんのいらっしゃる婦人部の方々は、家庭にあっては、良き母であっていただきたい。また、良き妻であり、明るく快活で賢明な主婦であっていただきたい。自分の立場、自分の世界で、太陽のごとく、温かく皆を包みゆく人になっていくことが、信仰の実証になります。
また、壮年部の方々は、社会人として力ある存在になっていただきたい。周囲から『さすがに信心している人は立派である』と言われ、信頼を勝ち取っていくことが、広宣流布なんです。
女子部の皆さんは、体を大事にし、聡明にして、花のごとく美しい人間性の輝きを放つ人であってください。一輪の花が、人びとの心に希望の光を投げかけるように、『女子部員が一人いれば、皆が明るくなる』と言われる存在となるように祈っております。
男子部、そして、そのあとに続く学生部の諸君は、社会の各分野を担う名士に育っていただきたい。君たちが社会で実力をつけた分だけ、学会の前進があるんです。
少年・少女部、中等部、高等部の諸君は、しっかり勉強してもらいたい。『今に必ず立派な人になって親孝行してみせます』と、両親を安心させるようでなくてはいけない。諸君は、未来の人です。学会の後継者です。私は、君たちのために道を開きます。何ものも恐れません。創価のバトンを託します」
愛する法友の崩れざる幸せと、三重の広宣流布を願い、伸一は訴えた。一言一言に、万感の思いがこもっていた。
彼の胸中には、″何があろうが、わが同志は、断じて私が守り抜く″との決意の火が、赤々と燃え盛っていた。
53 正義(53)
山本伸一は、文化合唱祭のあと、出席した僧侶と懇談会をもった。
彼は、″学会は、どこまでも広宣流布のために、死身弘法の誠を尽くしながら、宗門を守り抜く決意であり、さらに連携を取り合い、前進していきたい″との思いを語った。
そのあとも、出演者や運営に携わったメンバーの代表と懇談し、労をねぎらった。
翌四月二十四日、伸一は、わずかな時間を見つけては、妻の峯子と共に三重研修道場周辺の理容店や日用品店に足を運び、日ごろの学会への尽力に対して、御礼を述べた。地域への貢献といっても、近隣の方々と交流し、大切にしていくことから始まる。
それから伸一たちは、研修道場を擁する三重県・白山町の、三沢カツ子の家に向かった。
彼女は、この地域の婦人部本部長をしており、研修道場で大きな行事がある時には、三沢の家が婦人部のさまざまな準備の会場として使われてきた。今回の文化合唱祭でも、準備のための拠点となってきたことを、伸一は聞いていたのだ。そこで、″ご家族の方々にも、御礼に伺わなければ申し訳ない″と考えていたのである。
また、三沢の母親・波多光子は、この地域の学会の草創期を切り開いた一人であった。伸一が、地元の会員に、「あなたは、どなたから仏法の話を聞いたんですか」「誰の激励で立ち上がったんですか」と尋ねると、たいてい波多光子の名が出るのだ。伸一は、波多にも会って、ぜひ、広布開拓の苦闘を聞き、その功績を賞讃したかったのである。
一人ひとりと会って対話し、心を結び合っていく。そして、友情のスクラムを組み、広宣流布へ、崩れざる幸せの城へと、共に歩みを運んでいく――それが創価学会である。
組織という機構、制度に、温かな人間の血を送り、信心の鼓動を伝えるのは、人と人との信頼の絆である。ゆえに、個人と個人の語らいなくして、創価の人間組織はない。
伸一と峯子が、三沢の家に着いたのは、午後一時前であった。
54 正義(54)
三沢カツ子の家は、伊勢と関西を結ぶ街道沿いにあり、かつて一帯は宿場で、三沢家も旅館を営んでいたという。
彼女は、午前中、「もし、よろしければ、お宅におじゃまさせていただきます」との山本伸一からの伝言を受けていた。
三沢の家の中には、文化合唱祭で使用した備品があふれていた。急いで大きな荷物だけは片付けたところへ、伸一たちが到着した。
玄関で出迎えたカツ子と夫の光也は、少し緊張しているようであった。
伸一は、夫妻に笑みを向け、光也と握手を交わした。
「今日は、御礼に伺いました。いつも婦人部がお世話になっております。ありがとうございます」
伸一たちは、仏間に案内された。部屋には、鴨居の上に、羽織姿の遺影が飾られていた。光也の亡くなった父親であるという。
それを聞くと、伸一は言った。
「では、お父様の追善の勤行をしましょう」
厳かに勤行が始まった。
彼の訪問を聞いた近隣の学会員も、次々と集まってきた。仏間の隣の部屋は、人で埋まっていった。
勤行を終えた伸一は、皆に語った。
「せっかく皆さんがおいでくださったんですから、今日は座談会にしましょう」
皆が歓声をあげた。
光也は、追善の勤行のお礼を述べたあと、近所に住む、カツ子の母親の波多光子を紹介した。
「実は、私たち夫婦が信心するようになったのも、この義母のおかげなんです」
「初めまして、山本です。あなたが、地域広布にどれほど尽力されてきたかは、よく伺っています。お会いできて光栄です」
一家一族に、地域の人びとに、仏法を弘め抜いてきた功労者である。伸一は、立って仏を迎える思いで、深く頭を下げた。
弘教の実践者に最大の敬意を表するのが、仏法者の生き方である。
55 正義(55)
波多光子は、七十六歳であった。
山本伸一は、彼女が入会にいたった経緯や、広宣流布の苦闘の幾山河について、次々と尋ねていった。波多の体験を通して、集ってきた同志と共に、″本当の信心とは何か″を確認しておきたかったからである。
彼女は、伸一の質問に対して、「あのな、私はな」と、柔和な笑顔を輝かせながら語っていった。
戦争が終わり、平和と希望の時代が訪れることを期待していた時、杖とも柱とも頼む夫が、九人の子どもを残して他界する。一番下の子は、まだ一歳であった。
波多は必死に生きた。貧しさのなかで、もがくような毎日であった。さまざまな信仰にもすがった。水垢離もした。しかし、なんの希望も見いだせぬ、暗澹たる日々が続いた。
そんなころ、近所の人から、仏法についての話を聞いたのである。一九五六年(昭和三十一年)の夏のことであった。七十五万世帯の達成をめざす、広宣流布の弘教の潮は、三重の山村にも、滔々と広がっていたのだ。
波多に仏法の話をしたのは、露崎アキという婦人であった。彼女は結婚して大阪で暮らしていたが、夫を亡くし、実家のあるこの白山町に帰ってきたのだ。魚の行商をしながら、女手一つで三人の娘を育てる苦労人であった。露崎は、入会間もなかったが、「絶対に、幸福になれる信心やに」と、確信をもって訴えるのである。
波多は思った。
″この人は、私と同じような境遇なのに、なんでこんなに、明るいんやろう。学会の信心の力なんやろうか……″
露崎の確信と、生き生きとした姿に魅了され、波多は入会を決意したのである。
経済的な豊かさを手に入れることも、信心の実証にはちがいない。しかし、最重要の実証とは、何があっても負けることのない、人間としての強さと、人を思いやる心をもち、はつらつとした生き方を確立することだ。生命の輝き、人格の輝きを発することだ。
56 正義(56)
入会した波多光子に、露崎アキは、勤行とともに弘教に励むことの大切さを力説した。
「日蓮大聖人の仏法は、自行化他にわたる信心や。自分も、周りも、共に幸せにならんと、本当の幸せはないやろ。たとえば、周りの人が飢え死にしとるなかで、自分だけうまいもん食べて幸せになれると思う? なれんやろう。自分だけ極楽に行くために祈っとる宗教なんて、本当の宗教やあらへんに。
大聖人の仏法は、自分が今世で仏さんになる信心なんやに。それを成仏いうんやに。自分の幸せしか考えない仏さんなんておらへんに。一人でも多くの人に仏法を教え、幸せにしていくことで、仏さんになれるんやに」
その言葉に、波多は感心した。その通りだと思い、仏法対話に歩いた。すると、周囲の人たちから、猛反発が起こった。
まず怒りだしたのが他宗の僧であった。それに煽られ、周囲の人たちも、「頭がおかしいんと違うか!」と罵り、仏法対話に行けば、水や塩を撒き、石を投げつけるのだ。
″なぜ、こんな目に遭うんやろう″
水垢離などをする他の信仰をしていた時には、全くなかったことである。
波多は露崎と一緒に、所属組織である大阪の堺支部の幹部と会い、指導を受けた。
「日蓮大聖人は、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし』と仰せになっているんです。末法という、衆生の生命が濁り切り、人びとは悪法が正しいと信じている時代に正法を説くのだから、反対されたり、弾圧に遭うのは当然ではないですか。
また、大聖人は御書の随所で、『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る』との、天台大師の言葉を引かれ、本気になって信心していれば、それを妨げようとする障魔が競い起こると断言されているんです」
仏道修行に励めば魔が競い起こると、覚悟を定めることこそ、信心の第一歩である。
新入会者に、弘教の実践とともに、それを徹底して教えてきたことによって、広宣流布の組織の盤石な基盤がつくられたのだ。
57 正義(57)
堺支部の幹部は、さらに話を続けた。
「経文に、御書に照らして、魔も、難も起こらない正法なんてありません。難を避けるうまい方法はないかなどと考えてはだめです。覚悟を決めることですよ。
実は、魔にも、難にも、大きな意味があるんです。大聖人が、『魔競はずは正法と知るべからず』と言われているように、魔が競い起こるか否かによって、その教えが正しいかどうか、自分の信心が本物かどうかを、見極めることができるんです。
また、正法を流布して法難に遭うことによって、過去世からの悪業を今世で消して、一生成仏することができる。だから、難を呼び起こしていく信心が大事なんです。
もちろん、配慮を欠く非常識な言動で、無用な摩擦を生むようなことは、厳に慎まなければなりません。しかし、どんなに慎重に誠心誠意、対応しても、正法を弘めるならば、必ず難は起こります。その理由は、この世界は第六天の魔王の所領であり、そこに、妙法受持の人が現れ、浄土に変えようというのだから、難が競い起こるのは当然なんです」
法難を回避することはできない。ゆえに大聖人は、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と叫ばれたのだ。
しかし、大聖人の門下のなかにも、正義ゆえに大難が競い起こることを、受けとめられぬ者がいた。師である大聖人が、竜の口の法難、佐渡流罪と、命に及ぶ大難に遭うと、恐れと、師への不信をいだいたのだ。
彼らは、「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし」と言いだしたのだ。
経文の随所に、法難が起こることは間違いないと記されているにもかかわらず、大聖人の折伏が剛直すぎるからだと、法華経の行者である師を批判したのだ。
退転の本質は、臆病であり、保身にある。しかし、自己を正当化するために、問題を方法論などにすり替えて、正義の人を攻撃するのが、退転の徒の常套手段である。
58 正義(58)
いかに時代は変わろうが、信心ある人には、広宣流布の前進あるところには、必ず魔が競い、難が襲う。
波多光子は、周囲のいかなる仕打ちにも、迫害にも挫けまいとの決意を固めた。入会した友を、その決意に立たせてこそ、本当の折伏である。それが、広宣流布の大いなる拡大の原動力になるのだ。
彼女が信心に励めば励むほど、家族は激しく反対するようになり、「おかしな宗教に凝って!」と、学会を目の敵にした。
しかし、波多は負けなかった。野良作業に出る時、しんぐり籠(竹籠)に外出用の服を入れ、作業が終わると、さっさと着替え、露崎アキと一緒に学会活動に出かけた。
″この信心で、必ずわが家の宿命を転換してみせる! 子どもたちにも信心を教え、幸せにしてみせる!″
彼女は燃えていた。貧困に喘ぎ、汲々として生きてきた自分が、人びとを幸福にするために情熱を燃やしていること自体、不思議な気がするのである。経済状態は依然として厳しかったが、何かが変わっていった。いかに周囲が反対しようが、強い確信があり、あふれんばかりの歓喜と希望があるのだ。
「楽して、楽してかなわんわ」
それが、彼女の口癖であった。
子どもたちが育ち、働くようになると、暮らしは楽になっていった。また、苦労に耐えながらも、明るく、はつらつとした健気な母親の生き方を見て、やがて、子どもたちも、全員、信心に励むようになった。さらに、家も新築することができたのである。
――その話を聞くと、山本伸一は、娘である本部長のカツ子に言った。
「あなたも、お母さんの信心に反対したんですか」
「はい。後悔しております」
「それなら、お母さんに感謝し、大事に、優しく接していくことですよ。お母さんは、晩年の今、すべてに勝った。人生の晩年に勝利してこそ、人生全体の勝利なんです」
59 正義(59)
三重研修道場周辺の地域に住む人たちの多くが、波多光子と露崎アキの弘教である。
三沢光也の父も、波多の勧めで入会したという。肝臓と胆嚢(たんのう)を病み、″もう長くはない″と周囲の人たちが噂し合っているなかで、信心を始めたのだ。そして、法華経に説かれた「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の実証を示し、十年も元気に生き抜いたのである。
そうした一つ一つが、波多の信心の支えとなり、確信となった。
何を言われようが、どんな目に遭おうが、自分が弘教した人が、功徳を受け、幸せになっていくことに勝る喜びはなかった。
「折伏ほど、楽しいもんはない。今生最高の思い出や」
たとえ身なりは貧しくとも、喜々として弘教に歩く人には、尊き菩薩の歓喜の生命が脈打ち、金色の仏の輝きがある。
山本伸一は、波多に尋ねた。
「信心をしてきて、いちばん辛かったこと、悔しかったことはなんですか」
彼女は、少し口ごもりながら答えた。
「葬式に、正宗の坊さんが来てくれんだことですわ……」
波多と露崎が弘教した夫妻の夫が、不慮の事故で他界した。当時、三重県には宗門の寺院はなかったため、波多は、自分の所属支部がある大阪の寺院に電話し、僧侶に葬儀に来てほしいと頼んだ。しかし、「三重は遠いので、とても行けません」と、そっけなく断られてしまった。何度、懇願してもだめだった。
やむなく、露崎と二人で、葬儀を行うことになった。旧習の深い地域である。
「坊さんは来えへんのやて」
「学会の女二人が坊さんをするんやげな」
隣近所の人たちが、興味津々といった顔で集まってきた。
嘲笑の眼差しを浴びながら、二人は、生命力を振り絞るようにして、朗々と勤行した。緊張のあまり、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。野辺送りを済ますと、全身から力が抜けていくような気がした。
60 正義(60)
波多光子は、自分としては、露崎アキと二人で一生懸命に葬儀を執り行ったつもりであった。しかし、それでも歳月を経るごとに、″本当にあんなんで、よかったんやろうか。故人の一家に惨めな思いをさせたのではないか″という気持ちが、心の底に、澱のようにたまっていったのである。
山本伸一は、彼女の話を聴き終わると、大きく頷いた。
「おばあちゃんは偉い! 最も清らかで、尊い、真心の葬儀です。それが本当の葬儀です。故人も、最高に喜んでいるでしょう。あなたは、広宣流布の大功労者です」
そして、同行の幹部らに語った。
「君たちは、大学を出て、若くして幹部になったことで、自分は偉いかのように思ったりしてはいけません。そんな考えが微塵でもあるなら、既に生命が慢心に毒されている証拠です。君たちには、地域広布に命をかけてきた、このおばあちゃんのような戦いはできていないではありませんか!
誰が、本当に広宣流布を推進してくださっているのか、創価学会を支えてくださっているのか――私は、じっと見ています。
もしも、要領主義がまかり通り、捨て身になって戦いもせず、人の努力を自分の手柄のように報告だけしている者がリーダーになって君臨していけば、真面目な会員がかわいそうです。そんな創価学会にしてはならない」
厳しい口調であった。
それから伸一は、包み込むような笑みを、波多に向けて言った。
「おばあちゃん、ほかに何かありますか」
瞬間、彼女の表情が曇った。
「先生。実はな、私を折伏してくれた露崎アキさんが、心臓病で入院しとりますんや。あの人はな、私なんどより、もっともっと信心強盛でな。『先生に会いたい、会いたい』と、いつも言うとりました。元気なら、今日、一緒に、先生とお会いできましたのにな」
同志を思う謙虚な言葉であった。謙虚さは境涯の高さ、大きさの表れといえよう。
61 正義(61)
山本伸一は、露崎アキと聞いて、二年前に三重研修道場が中部第一総合研修所としてオープンした折の、彼女との出会いを思い起こした。伸一が役員のメンバーなどを励ますために構内を回っていた時、凜とした声であいさつをした老婦人がいた。
「先生! 露崎アキと申します。よろしくお願いいたします」
その時、三重の幹部から、彼女は地元の白山町の草分けとして、地域広布の開拓の鍬を振るい続けてきたと聞かされたのだ。
伸一は、明治生まれの、この老婦人の手を取りながら言った。
「本当に、ご苦労様です。あなたの今日までの苦闘が、研修所の完成として実を結んだんです。勝ちましたね」
すると露崎は、苦節の来し方を思い起こしたのか、目を潤ませた。
「尊い、″広布のお母さん″です。これまでに折伏はどのぐらいされたんですか」
伸一が尋ねると、彼女は誇らかに答えた。
「信心をした方は、百世帯は超えています。それ以上は、ちょっと数えきれません」
「そうですか! 偉大な功績です。敬意を表します。あなたのことは、一生、忘れません。永遠の同志です。人びとの幸せのため、広宣流布のために流してこられた苦闘の汗は、すべて福運となります。子孫末代までも繁栄していきます。それが、仏法なんです。御本尊は、一切をご存じですよ」
伸一の言葉を聞くと、露崎の目から、涙があふれた。
――その露崎が入院中であることを、三沢宅で波多光子から聞いた伸一は、入院先の病院や病状について詳しく尋ねた。そして、直ちに、伝言と見舞いの品を幹部に託した。
″瞬時″を逃さぬ、迅速な対応であった。
一つ一つの報告や情報に対して、いかに素早く、いかに的確な手を打っていくか――そこに新しい価値の創造があり、一切を勝利へと導く力がある。そして、その迅速さと的確さは、真剣さから生まれるのである。
62 正義(62)
露崎アキは、山本伸一からの伝言と見舞いの品に、跳び上がらんばかりに驚き、喜んだ。
″こんな病魔になんか、負けとれん! 一日も早う元気になって広宣流布のために、そこら中、歩き回らな! 山本先生にお応えせなあかん!″
彼女の病状は、健康に向かっていった。そして、ほどなく退院し、伸一の激励から九日後の五月三日には、津市の三重文化会館(現在の津文化会館)で波多光子と共に、第二回「広布功労賞」を受賞している。
伸一は、三沢宅に集った一人ひとりに視線を注いだ。
彼は、皆が「学会の宝」であり、御本仏から、この世に召し出された「使命の人」であると、しみじみと思った。
「皆さんの奮闘があってこその、広宣流布です。広布の使命をもって生まれてきた皆さんは、もともと仏の子であり、地涌の菩薩なんです。
だから、これから先、どんな試練が待ち受けていようが、勝てないわけがありません。幸福になれないわけがありません。何があっても、この確信だけは忘れないでください。
私たちは、広宣流布に生き抜こうと心を定め、自行化他にわたる信心を実践していくなかで、仏の生命を、地涌の菩薩の生命を涌現させていくことができるんです。そして、それによってわが生命が変革され、宿命の嵐に敢然と挑み勝つ力が湧き、毒を薬となし、苦を楽と開いていくことができるんです。
大聖人から、わが地域の広宣流布を託された皆さんです。皆さんが語った分だけ、仏縁が、仏法への理解が広がっていきます。皆さんが歩いた分だけ、広宣流布の道を開くことができます。皆さんが汗を、涙を流し、弘教の旗を打ち立てた分だけ、幸福の宝城が築かれます。
どうか、この白山町の、三重県の広宣流布を、よろしくお願いします」
彼は、仏を敬うように、深く頭を垂れた。
63 正義(63)
山本伸一を囲んでの″座談会″は、一時間ほどに及んだ。彼は、三沢光也・カツ子夫妻に見送られ、三沢宅をあとにした。
伸一は、この日の夜は、津市にある三重文化会館で、県の代表との懇談会に続いて、三重支部結成十八周年記念幹部会に出席することになっていた。
津に向かって、車が走り始めると、彼は、同乗していた三重県の幹部に言った。
「研修道場のある地域の、支部婦人部長のお宅は、わかりますか。もし、ご迷惑でなかったら、短時間でも、御礼のごあいさつに伺いたいんです」
県の幹部は、腕時計を見ながら答えた。
「三重文化会館での懇談会もございますので、時間はあまりございませんが……」
「五分でも、十分でもいいんです。相手のご都合もおありでしょうから、玄関先のあいさつでも、一緒にお題目を三唱するだけでもかまいません。今日を逃せば、訪問の機会はなくなってしまうかもしれない。できる時にできることを、全力でやりたいんです。
失敗や敗北の、すべてに共通している要因は、できる時に、できることをやらなかったという点にあります」
劇作家シェークスピアは記している。
「いたずらに好機を逸するのは、その人間の怠慢だ」
伸一も、まさに、そう感じていた。
同行していた県の幹部は言った。
「支部婦人部長さんは、多喜川睦さんといいまして、お宅は、この国道沿いにあり、すぐ近くです。長年、自宅を会場として提供してくださっています。その自宅を、最近、新築されたんです。先生に訪問していただければ、大喜びすると思います」
伸一たちが、多喜川宅を訪れると、睦の義母と小学生の娘が、留守番をしていた。
義母は、「まあ、先生!」と、満面の笑みで伸一たちを迎え、仏間に通した。
「では、新築記念の勤行をしましょう」
伸一の導師で勤行が始まった。
64 正義(64)
支部婦人部長の多喜川睦は、さきほどまで山本伸一が訪れていた三沢宅にいた。彼女も三沢宅での″座談会″に参加しており、終了後も、皆で伸一の指導を確認し合い、決意を語り合っていた。
そこに、一本の電話が入った。伸一に同行していた県の幹部からであった。
「多喜川さんの家に、山本先生がいらしています。すぐに戻ってください!」
多喜川は、驚きのあまり、受話器を持つ手が震えた。
彼女が自宅に到着したのは、義母と娘が、伸一と一緒に勤行している最中であった。
勤行が終わるや、多喜川は伸一に言った。
「今日は、わざわざおいでいただき、ありがとうございました」
「すばらしい家ですね。近代的で、時代の先端を行く流行作家の家のようですね。
今日は、突然ですが、一言、支部婦人部長さんに御礼を言おうと思っておじゃまし、新築記念の勤行をさせていただきました。
これから、すぐに三重文化会館へ向かうので、ゆっくりお話しすることはできませんが、いつも、お題目を送り続けます。どうか、くれぐれもお体を大切にしてください」
多喜川の家をあとにした伸一は、車中、県の幹部に語った。
「幹部は、寸暇を惜しんで、皆の激励に回ることです。″もう一軒、もう一軒″と、力を振り絞るようにして、黙々と個人指導を重ねていくんです。
それが、幸せの花を咲かせ、組織を強化し、盤石な創価城を築くことになります。ほかに何か、特別な方法があるのではないかと考えるのは間違いです。
作物をつくるには、鍬や鋤で丹念に土地を耕さなければならない。同様に、何度も何度も、粘り強く、個人指導を重ねてこそ、人材の大地が耕されていくんです」
皆が広布の主役である。ゆえに、一人ひとりにスポットライトを当てるのだ。友の心を鼓舞する、励ましの対話を重ねていくのだ。
65 正義(65)
二十四日の午後二時半、三重文化会館に到着した山本伸一は、居合わせた近隣の会員と記念撮影し、皆で一緒に勤行をした。
さらに、県の代表幹部との懇談会に臨み、意見に耳を傾け、質問に真心を尽くして答えた。また、移動の車中で作った歌などを、参加者に贈った。
そして、三重支部結成十八周年の記念幹部会に出席したのである。彼は、この席でも、個人指導の重要性について訴えた。
「日蓮大聖人は、四条金吾や南条時光をはじめ、多くの弟子たちに御手紙を与えられた。その数は、御書に収録されているものだけでも、実に膨大であります。
それは、何を意味するのか。一言すれば、広宣流布に生きる一人ひとりの弟子に対して、″何があろうが、断じて一生成仏の大道を歩み抜いてほしい。そのために、最大の激励をせねばならない″という、御本仏の大慈大悲の発露といえます。
一人でいたのでは、信心の触発や同志の激励がないため、大成長を遂げることも、試練を乗り越えていくことも極めて難しい。
私どもが、個人指導を最重要視して、対話による励ましの運動を続けているゆえんも、そこにあるんです。
また、聖教新聞などの機関紙誌を読み、学ぶことも、信仰の啓発のためであり、信心の正道に生き抜いていくためです。
自分一人の信仰では、進歩も向上も乏しい。我見に陥り、空転の信心になりやすい。ゆえに広宣流布のための和合の組織が必要不可欠であることを、私は強く訴えておきたい」
伸一にとっては、一回一回の会合が、一人ひとりの同志との出会いが、生命触発の″戦場″であった。真剣勝負であった。広布破壊の悪侶らは次第に数を増し、牙を剥き、愛する同志を虎視眈々と狙っていたからである。
伸一は、翌二十五日には、舞台を関西に移し、ここでも同志の激励に全生命を注いだ。
魔の執拗な攻撃を打ち破るには、正義の師子吼を発し続けるしかない。
66 正義(66)
山本伸一は、関西では、創立者として創価女子学園を訪問したほか、関西牧口記念館、兵庫文化会館などを次々と訪れた。
行く先々で同志と記念のカメラに納まり、懇談会等をもち、入魂の励ましに徹した。
四月二十八日には、関西センターでの立宗記念勤行会に出席。創価の風雪の歴史は、法華経に説かれた「猶多怨嫉。況滅度後」(猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや)の通りであり、学会こそ如説修行の教団であると力説した。
また、二十九日は、関西戸田記念講堂での大阪女子部の合唱祭に臨んだあと、招待した南近畿布教区の僧侶たちと懇談した。
この日の夜、東京に戻った伸一は、翌三十日、「’78千葉文化祭」を観賞した。ここでも文化祭に招待した県内の僧侶と語らいをもった。彼は、僧侶たちに、讒言に惑わされることなく、宗門を外護して一心に広宣流布をめざす学会の心を理解してほしかった。仏子である会員を大切にしてほしかった。
会長就任十八周年となる五月三日をめざして、伸一は懸命に走り続けた。烈風が、怒濤が襲いかかるなか、自ら盾となって同志を守り、敢然と「正義」の旗を掲げ続けた。
学会は、戦時中、軍部政府による大法難にさらされた。戦後も、夕張炭鉱労働組合や、大阪府警・地検による不当な弾圧と戦った。
そして、牧口、戸田の両会長が日蓮仏法に帰依して満五十年を迎えようとする今、本来ならば、最も創価学会を賞讃すべき僧のなかから、死身弘法の決意で広宣流布を進める学会を悪口し、その仏意仏勅の組織を攪乱しようとする悪侶たちが出たのだ。
伸一は、時の不思議さを感じた。そして、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」との御文を、噛み締めるのであった。
″すべては、経文に、大聖人の御書に、仰せの通りではないか!
長い嵐の夜は続くかもしれない。しかし、その向こうには、旭日が輝く、飛翔の朝が待っているはずだ!