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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「天舞」 天舞

小説「新・人間革命」

前後
32  天舞(31)
 山本伸一は、若駒のように、さっそうと退場していく高等部員たちに、いつまでも、いつまでも拍手を送り続けた。そして、すぐにメンバーに伝言を託した。
 「高等部の人文字は満点です。来賓の方々も驚嘆していた。次代を担う世界的な創価の力を示す演技でした。本当にご苦労様でした。ゆっくり休んでください」
 山本会長のメッセージを聞くと、大成功に演技を終え、興奮の坩堝のなかにあった鳳雛たちは、手を取り合い、小躍りして喜び合った。
 「やったー!」「やったぞ!」その瞬間、練習の苦しさも、深夜の勉強の辛さも、すべては、歓喜と誇りと自信に変わり、黄金の青春の思い出に変わっていた。
 労苦の汗こそ、人生を飾る最高の宝石となる。
 グラウンドでは、男子部、女子部のマスゲーム「建設」が始まった。
 これは、この年の三月の臨時本部幹部会で山本伸一が発表した、「国際都市・東京」のビジョンをもとに、理想都市の建設を、マスゲームで表現しようというものだ。
 伸一は、東京を愛する都民の一人として、通勤ラッシュ、都市公害、住宅難などの行き詰まった現状を改革し、″都民のための東京″の視点から、日ごろ、考えてきたことを、十項目にわたって提案したのである。
 たとえば、「一人一室の高層住宅群の建設」をはじめ、「モノレール、高速道路が縦横に走る立体交通網」「都民に健康と、いこいを与える森林公園」「芸術性豊かな総合文化施設の建設」「公害のない快適な工業地帯」などである。そして、その総括的なイメージとして、彼が語ったのが「緑の森と噴水のなかにそびえる高層都市・大東京」であった。
 さらに、この臨時本部幹部会で彼は、東京の住民のなかに、郷土愛を育てることの大切さを訴えたのである。
 東京は、仕事の関係等で、やむなく居住している人も多いことから、地域への愛着心も乏しく、近隣同士の連帯感も希薄であった。いや、隣に住んでいる人の顔や名前さえ知らないケースも、決して珍しくなかった。
33  天舞(32)
 東京を、人びとが心から誇れる理想都市にしていくためには、何が大切か――。
 住宅の建設や、都市公害対策など、政治面での対応も不可欠であることはいうまでもないが、何よりも必要なことは、住民の郷土愛であるといってよい。
 御聖訓には「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清し」と仰せであるが、地域がどうなるかの鍵は、ひとえに人間自身にある。
 政治を動かしていくのも、人間である。心と心を結び合い、友情と連帯を広げていくのも人間である。人びとが郷土愛をもたず、心がすさみ、自分勝手になれば、町も地域も荒廃していく。その郷土愛を育み、一人ひとりに地域建設の主役としての自覚を促していくことこそ、創価学会が担わなければならない社会的使命であると、伸一は痛感していた。
 青年たちは、その伸一と同じ思いで立ち上がり、この東京文化祭で、「国際都市・東京」のビジョンを訴えようとしたのである。
 銀の輪を手にした、赤いワンピース姿の女子部の「花組」八百人が、グラウンドに可憐なる花の舞を広げた。
 次いで、青いシャツに白いトレーニングパンツの男子部の「ハシゴ隊」千四百四十人が入場。四メートルの、二百数十本のパイプハシゴを駆使して、高層都市などを思わせる、美しい幾何学模様を、次々とつくり上げていった。時には、ハシゴを二本つないで、その上で演技をする場面もあった。
 高度な技術が求められる演技である。まかり間違えば、大怪我につながりかねない。
 これらの演技を成功させるには、ハシゴの迅速な上り下りが不可欠であった。そのために、メンバーは、脚力と握力を鍛えることから取り組んできたのである。
 練習では脚力をつけるためのウサギ跳びや、拳を握って開くという、握力増強の運動が繰り返された。また、家に帰ってからも、皆、ボールを握るように心がけ、入浴中もタオルをギュッと握り締めるようにしてきたのだ。
34  天舞(33)
 「ハシゴ隊」の演技には、鍛えの成果が、いかんなく発揮された。
 天高くそびえ立ったハシゴの塔に、観客は大歓声をあげた。
 続いて、緑のワンピースに黄緑色のポンポンを持った、女子部「森組」千五百人のダンスが始まった。それは、まさに、風にそよぐ緑の森を思わせた。
 この緑の「森組」に、赤の「花組」が加わり、幾重にも緑と花の輪が広がっていった。
 そして、最後に、その中央に、「ハシゴ隊」によって、大噴水がつくられたのだ。
 白と水色のユニホームで、噴水塔に見立てたハシゴのてっぺんで倒立したり、体を上下させるメンバーの姿が、噴き上げる水を思わせる。
 まさに、緑なす森に花々が微笑む、噴水のある平和都市が現れたのだ。人文字も、水を噴き上げる大噴水や高層ビル、芝生に樹木、咲き薫る花々を描き出した。
 観客席からは、感嘆の声が漏れ、拍手が大空に吸い込まれていった。
 自分たちの手で、東京を新しき理想の国際都市にしようという、青年たちの郷土愛と情熱を、来賓の多くは感じ取ったにちがいない。
 その若人の心意気こそが首都・東京の希望であり、建設の原動力であるといえよう。人間の心が、人間の自覚が、人間の連帯が、街を、地域を、社会を変えていくのだ。
 東京文化祭は、いよいよクライマックスを迎えようとしていた。
 「シュー、ドドーン!」という効果音が轟き、花火の人文字が浮かび上がった。新時代の到来を祝福する花火だ。
 白いユニホーム姿の青年二千五百人が、続々と入場して来た。
 男子部のマスゲーム「新時代」である。
 新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である――彼らは、生命の尊厳と自由と平等の、民衆勝利の新時代を開きゆく誓いを、この演技で表現しようとしていた。
 音楽に合わせ、五段に積み上げられた人間ピラミッドと三段円塔が、一瞬にして崩れる。そして、人間風車が林立し、一斉に回転を始めたかと思うと、人間ロケットが高々と宙を飛び交い、さらに、人間ブリッジをつくり上げる。
35  天舞(34)
 「新時代」は、息も継がせぬほど、意表を突く演技の連続であった。
 その演技の一つ一つに歓声が起こり、ため息が漏れた。
 「どうせやるなら、世界一をめざそう!」
 それが、メンバーの合言葉であった。
 世界最高のマスゲームといえば、チェコスロバキア(当時)のスパルタキアードであると言われていた。だが、それは国家の力で行われるものである。すべて民衆の力で行われる学会の文化祭で、スパルタキアード以上のものができれば、民衆の無限の可能性を世界に示すものとなる。
 「断じて、それ以上のものをやろう!」
 青年たちは、こう誓い合った。
 スパルタキアードの映画を見て、研究も重ねた。そして、演技の一つ一つに、最高のものをめざした。
 「新時代」の圧巻は、五段円塔であった。
 この演技の最後の場面は、正本堂の建設をテーマにしていた。
 グラウンドに人間によって、正本堂前にできる八葉蓮華の形をした池と噴水をつくりあげ、噴水の中心に、五段の人間円塔を打ち立てようというのである。
 それまで、学会の文化祭では、四段円塔までは立てたことがあったが、五段というのは、初めての挑戦である。
 社会でも成功したという話を、彼らは耳にしたことがなかった。
 体育の専門家の見解も聞いてみたが、「器具を利用して五段円塔を立てることはできるかもしれないが、人間だけでは極めて難しい」という結論であった。
 だが、むしろ、メンバーは燃えた。
 「だからこそ挑戦しよう!ぼくらの手で、限界を打ち破るんだ!」
 困難に挑んでこそ、新時代の扉は開かれる。
 研究を重ね、最下段は向かい合うかたちで二十人が二重の輪で支え、二段目は十人、三段目は六人、四段目は三人とし、最上段に一人が立つことにした。
 しかし、五段円塔は、なかなか立たなかった。何度やっても崩れ、失敗を繰り返した。重量計算もしてみた。肩の組み方、手の置き方も考え抜いた。
 「なんでなんだ!」
 皆、頭を抱えた。
36  天舞(35)
 五段円塔が崩れる原因を分析していくと、腰のふらつきにあった。
 もう一度、基本に立ち返って、下半身の鍛錬が行われた。肩に人を乗せ、しゃがんで歩く訓練も重ねられた。
 だが、それでも五段円塔は立たなかった。
 ″やはり、無理なのかもしれない……″
 そんな思いが、メンバーの頭をよぎった。
 「題目だ!最後は題目しかない!」
 誰かが叫んだ。皆、そうだと思った。練習後の真剣な唱題が始まった。
 文化祭の九日前の、十月六日のことであった。今日こそは、断じて五段円塔を立てようと、皆、必死で挑戦した。
 誰からともなく、唱題が起こった。
 自分の足が、下の人の肩から滑り落ちそうになっても、懸命に踏ん張り続けた。上にいる人の足が、顔を蹴る。それでも、じっと支え続けた。不屈なる闘魂の唱題が響くなか、一段、また一段と円塔は上がり、遂にこの日、五段円塔が完成したのだ。
 翌日の練習でも、再び立った。この日は雨で、足も滑りやすい、最悪な条件であったが、そのなかで五段円塔を立てたことが、メンバーの大きな自信となった。
 困難を乗り越えた数だけ、人間は自信と誇りに輝いていくものだ。
 バックスタンドには、正本堂が人文字で描き出され、グラウンドには、八葉蓮華の形の池がつくられていった。
 そして、力強く荘重な文化祭のテーマソングの「新時代の歌」の調べにのって、五段円塔が積み上げられていく。
 一段、二段……。やがて四段目が立った。
 最後の五段目である。
 すべての観客が息をのみ、手に汗を握って、この一瞬を見つめていた。
 最上段の青年が、静かに立ち上がった。
 ゆっくりと、両手を大きく広げた。学会の文化祭史上初となる、五段円塔の完成の瞬間であった。
 スタンドから、「オーッ」という歓声がわき起こり、拍手がうねった。
 ″やったぞ!俺たちはやったぞ!″
 そう叫びたい衝動を抑えながら、メンバーは、歯を食いしばり、互いに友を支え合っていた。
37  天舞(36)
 拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。
 メンバーは、人間の力の極致といわれた五段円塔を完成させることによって、信仰という無形の力を、ダイナミックに表現したのだ。
 そびえ立った五段円塔は、信仰と友情によって築き上げた、″青春の勝利の金字塔″であった。
 ――以来、五段円塔は、学会青年部の団結の象徴として、多くの文化祭で立てられてきた。
 しかし、青年たちの挑戦に終わりはなかった。
 一九八二年(昭和五十七年)三月、大阪市の長居陸上競技場で行われた第一回関西青年平和文化祭では、なんと六段円塔が打ち立てられることになるのである。まさに、創価の青年たちの、生の歓喜の表現がもたらした、世界的な壮挙といってよい。
 東京文化祭は、フィナーレに移っていった。
 人文字は、鮮やかな色彩で、世界各国の風景を次々と浮かび上がらせていった。
 アメリカの自由の女神やゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)、インドのタージ・マハル、中国の万里の長城、フランスの凱旋門やエッフェル塔、エジプトのピラミッド……。
 この文化祭には、四十五カ国の大使館関係者が出席していたが、自国の絵が出ると、ひときわ大きな歓声をあげ、拍手を送っていた。
 その間に、フィールドには、鉄の塔や立体交差のできるブリッジが運び込まれ、出演者たちの行進が始まった。
 ダンスの女子部員が、体操の男子部員が、徒手体操の高等部員が、鼓笛隊などが、黄、緑、赤、青の旗を振りながら、満面に笑みを浮かべ、胸を張り、さっそうと進む。青春の栄光を打ち立てた若人の凱旋行進だ。
 バックスタンドには、「世界平和」の人文字が浮かんだ。
 そして、「WORLD PEACE」(英語)をはじめ、ロシア語、スペイン語、イタリア語、フランス語、中国語、ヒンディー語、アラビア語など、″世界平和″を意味する各国の言葉が、次々と描き出されていった。
 長い戦争が続く、ベトナムの文字も出た。
 創価の友の、平和への強き、熱き、誓いの人文字であった。
38  天舞(37)
 行進の列は、「8」の字を描くようにグラウンドを進み、中央のブリッジで立体交差していく。グラウンドの左右に置かれた鉄塔には、「ハシゴ隊」のメンバーが上がって、波をつくり出す。鉄塔は、王冠のようにも、大輪の花のようにも見えた。
 バックスタンドに、金色の地に、赤い「世界平和」の筆文字が浮かび上がった。山本伸一の文字である。
 この文字を、人文字の座席図のマス目に転記する作業を担当したのは、膠原病と闘う一人の女子部員であった。
 彼女は、涙腺の炎症により、涙が涸れ、目のなかに砂が入っているような痛みに苦しんできた。また、唾液もほとんど出ず、口のなかは口内炎だらけであった。
 だが、デザインを学んでいた彼女は、東京文化祭が開催されることを知ると、人文字の手伝いをしたいと、自ら願い出たのである。
 やせ細った体を見て、担当幹部たちは心配したが、彼女は言った。
 「私は自分と戦いたいんです。私自身への挑戦なんです」
 そして、約三カ月間、睡眠時間を削って作業に取り組み、伸一の「世界平和」の文字も、彼女が描き写したのである。
 四万二千のマス目を、一日で埋めなければならない作業は、彼女にとっては、精神力と体力の限界への挑戦であった。
 だが、この挑戦が、彼女の人生の大きな自信となった。そして、その後、病と闘い抜き、健康を取り戻していくことになる。
 それぞれが、自己の壁に挑み、それぞれの、限界を打ち破った、青春の勝利の文化祭であった。
 五段円塔を支えた青年のなかには、九月に入って愛知県に長期出張を命じられた人もいた。一度は、文化祭の出場をあきらめようかと迷うが、彼は、やり遂げてみせると決意し、新幹線で練習に通い続けた。
 その姿が、仕事との両立に悩んだり、体力的に限界を感じるなど、壁に突き当たっているメンバーを奮い立たせていったのである。皆が、自身に打ち勝った勝者であった。
 皆が、感動の青春ドラマを演じたヒーローであり、ヒロインであった。
39  天舞(38)
 天を舞いゆくがごとき青春乱舞の感動の大舞台は、今まさに終わろうとしていた。
 文化祭の歌となった「新時代の歌」が、秋空高く響き渡った。
  新たなる理想の時代は
  我が前に今開けたり…………
 バックスタンドには、「世界平和」の赤い文字とともに、金色の色彩板が、太陽の光に、キラキラと輝いていた。
 世界の平和とは、与えられるものではない。人間が、人間自身の力と英知で、創造していくものだ。戦い、勝ち取っていくものだ。ゆえに、人間が、自身を磨き、自分の弱さに挑み、打ち勝つことこそが、平和建設の要諦といえる。つまり、自己の境涯を開き、高めゆく、人間革命の闘争なくして平和はない。
 また、戦争が″死の恐怖″の世界なら、平和は″生の歓喜″の世界でなければならない。東京文化祭の出演者たちには、″生の歓喜″がみなぎっていた。人生の輝きがあり、人間の讃歌があった。それは、平和の光であった。
 午後三時五十五分、絢爛たる人間絵巻は、怒濤のような大拍手と大歓声のなかに、幕を閉じた。
 この文化祭を通して、創価学会への深い理解と共感をもつに至った来賓も多かった。
 日本を代表する実業家の松下幸之助は、後日の取材にこう答えている。
 「一歩、会場に足を踏み入れた瞬間から興奮を覚え、荘厳華麗な人絵や演技が進行していくにつれて、会場全体が一つの芸術作品のるつぼと化し、躍動の芸術とでもいうか、筆舌し難い美の極致という感に打たれた。
 これも信仰から自然にわき出る信念により、観覧者をして陶酔境に浸らしめ、自分としても得るところ大なるものがあり、感銘を深くした」
 そして、やがて、彼と山本伸一との交流が始まり、後に往復書簡集『人生問答』を出版するようになるのである。
 また、あるジャーナリストは、「あの偉業を成し遂げたものこそ、創価学会の本質であるにちがいない。それは一口にいえば、多数の人間が、共通の目的に向かって自発的に共通の行動に参加することであろう」と、鋭く洞察している。
40  天舞(39)
 東京文化祭の感想を問われた、ある財界人は、文化祭の陰の力として活躍した役員の姿を讃えながら、こう評している。
 「華やかな舞台はもとより、それ以上に感動を深めたのは、陰の方々のご努力です。あれだけの大人数の催しでも、実にすがすがしく整理、整備し、それこそ会場の周りには紙屑一つ落ちてない。そこまで周囲に配慮し、実行することは、深い信仰なくしてはできるものではありません」
 「毎日新聞」の十月十八日付のコラム「余録」には、文化祭について次のような記述がある。
 「会場内外の秩序はみごとだった。中央線千駄ケ谷駅を降りると、白い運動帽の青年が『ご苦労さま』と、脱帽してあいさつし、道順を指示してくれる。ひとをよぶ以上、そんなことは当たり前かもしれないが、その当たり前のことに、いまは、なかなかお目にかかれないのである」
 山本伸一が、最も心にかけていたのも、陰で文化祭を支えてくれた、整理や清掃、設営などの役員の青年たちのことであった。
 彼は文化祭が終了し、来賓と丁重にあいさつを交わすと、外で黙々と整理や清掃に取り組んできた青年たちのもとに足を運んだ。陰の力に徹した彼ら、彼女たちこそが、この東京文化祭を成功に導いた、偉大なる功労者であると考えていたからだ。
 汗を滲ませ、懸命に走り回る整理役員の青年たちに向かって、彼は手を振り、声をかけた。
 「ご苦労様! ありがとう!」
 その声に振り返った青年たちの顔が、夕日を浴びて赤らみ、輝いた。
 さらに、近くで清掃作業に励む女子部員にも言葉をかけ、深々と頭を下げた。
 「ありがとう! 皆さんが黙々と頑張ってくださったお陰で、大成功の文化祭となりました」
 喜びを満面にたたえ、会釈を返し、また作業を続ける役員の女子部員の姿には、使命に生きる青春の誇りが満ちあふれていた。
 御聖訓には、「陰徳あれば陽報あり」と仰せである。
 それを確信できるかどうかに、信心は表れ、また、それが、一生成仏を決するといってよい。
41  天舞(40)
 この日の夜、いっさいの後片付けを終えた青年部の幹部が、学会本部の山本伸一のもとに、意気揚々と、終了の報告にやって来た。
 「本日は、大変にありがとうございました」
 伸一は、微笑みを浮かべた。
 「どうも、ご苦労様。すばらしかったよ」
 青年たちは、興奮ぎみに語り始めた。
 「はい。最高の文化祭になりました。ほかのどんな団体も、これだけの文化祭を行うことはできないと思います」
 「この文化祭を見て、どの来賓の方も、学会を大変に高く評価しておりました」
 「さっきも、これほど大規模で、完成度の高い文化祭は、空前絶後だろうと、みんなで話し合っていたところなんです」
 皆の感想を聞いていた伸一の顔は、次第に曇っていった。
 彼は尋ねた。
 「青年部長は、清掃の役員のところへは、御礼に行ったのかい」
 「いいえ」
 伸一は、青年部の首脳たちが、文化祭の成功に酔い、本人たちも気づかぬうちに、心に、うぬぼれと油断が兆しているのを感じた。
 伸一の厳しい声が響き渡った。
 「みんな、自分たちは、大したことをやったと思っているんだろう!」
 皆、黙って伸一に視線を注いだ。
 「君たちが文化祭の成功に酔っている間に、私は懸命に作業に励んでくれた場外の役員を全力で激励してきたよ。陰の力として働いてくれた人がいたから、成功したんだ。
 また、東京文化祭というのは、既に、もう過去のことなんだ。過去の栄光に陶酔していれば、待っているのは敗北だ。勝って兜の緒を締め、間断なく、前へ、前へと進むことだ。その心を忘れてしまえば、慢心と油断が生じ、そこから崩れていくことになる」
 ″青春錬磨″の舞台ともいうべき文化祭の、最後の最後まで、伸一は、青年の育成に全魂を傾けていたのである。
 青年部の首脳幹部たちは、厳しい伸一の指摘のなかに、自分たちへの限りなく大きな期待を感じ取り、目頭を潤ませるのであった。
42  天舞(41)
 一九六七年(昭和四十二年)の十月三十日、山本伸一は、東京・信濃町の創価文化会館に、ヨーロッパから賓客を迎えていた。
 血色の良い、気品をたたえた柔和な顔の、銀髪の老紳士であった。
 老紳士は、目を輝かせて語った。
 「私は、今日、世界で最もすばらしい宗教をもち、それを根底に平和の運動を実践されている山本会長にお会いできました。心から尊敬の意を表すると同時に、非常に嬉しく思っております」
 その人こそ、「ヨーロッパ統合の父」として知られる、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵である。
 彼は、この四日前の二十六日、日本の大手建設会社の会長が設立した平和研究所並びに、NHK(日本放送協会)などの招待で来日した。訪日の主な目的は、招待者である平和研究所から贈られる、第一回の平和賞の授与式に出席することであった。
 この訪日は、日本で生まれて、生後まもなく父の国オーストリア・ハンガリー帝国(当時)へ渡った七十二歳の伯爵にとって、実に七十一年ぶりの″里帰り″であった。
 彼の父は、ヨーロッパの由緒ある貴族の出であり、オーストリア・ハンガリー帝国の外交官であった。代理公使として日本に駐在中に、日本人女性の青山光子と結ばれたが、その結婚は、明治の社会の国際ロマンスとして話題を呼んだ。
 夫妻は、東京で二人の男児をもうけた。一八九四年(明治二十七年)に誕生した次男こそ、エイジロウという日本名をもつ、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーであった。
 やがて、一家は、父親の祖国に移り住むが、それから十年後に、父が他界するのである。子ども七人を残して。
 だが、リヒャルトが父から受けた影響は、計り知れないものがあった。
 父親は、ユダヤ人排撃に反対し、また、アジアを愛し、アラビア文化やインド文化にも造詣が深く、十八カ国語に通じているコスモポリタン(国際人)であった。そして、子どもたちと散歩する時には、さまざまな国の風俗や歴史を語って聞かせた。
 リヒャルトは、この父から、世界性を、平和の精神を学んだのである。
43  天舞(42)
 そして、彼は、二十八歳で自著『パン・ヨーロッパ』を出版。ヨーロッパ統合への行動を開始し、平和建設の旗手として活躍してきた。
 そのクーデンホーフ・カレルギー伯爵が、来日にあたり、招待した団体に、山本伸一との会見を、強く希望したのである。もともと、母の宗教である仏教に深い関心をもっていた彼は、民衆のなかに深く根を下ろし、急速に発展した、仏教徒の団体である創価学会に着目し、その運動や実態を研究していたようだ。そして、学会員が、仏法をもって人びとの苦悩を救おうと、精力的に活動していることに、感動していたという。
 来日前に、フランスのパリで、「東京新聞」のインタビューに応じた伯爵は、次のように語っている。
 「仏教の世界でも長い眠りから覚めて新しいルネッサンスが芽ばえている。(中略)日本でも創価学会の運動が伝えられているが、これは世界最初の友愛運動である仏教のよみがえりを意味している」(一九六七年九月二十三日付夕刊)
 伯爵のいう″友愛″とは、他者を思いやる″慈悲″を根本にした創価の運動の姿を、ヨーロッパの概念にしたがって表現したものであろう。
 ともあれ、伯爵は、学会のなかに、仏教の真実の精神と実践があることを、鋭く見抜いていたのである。また、そのリーダーである山本伸一にも、強い関心をもつようになっていったようだ。
 この日本訪問にあたって、クーデンホーフ・カレルギー伯爵が会見を希望したのは、天皇陛下、皇太子殿下、佐藤栄作首相、三木武夫外相ら、伸一を含めて七人であった。
 伸一は、会見の要請を受けると、快諾した。
 相互理解といっても、また、友情といっても、それは、直接会って、語り合うことから始まるからだ。対話には、人間と人間を結び合う、結合の力がある。
 彼は、仏法者として、人間として、人類の恒久平和の道を、探り当てていかなければならないと決意していた。そのためには、英知と英知の、触発の対話が不可欠であり、恒久平和を共通の目標として分かちもつ、堅固な意志と英知のネットワークを、国家や民族を超え、世界に広げていくしかないと考えていたのである。
44  天舞(43)
 彼は、クーデンホーフ・カレルギー伯爵の母親は日本人ではあるが、この語らいは、東洋と西洋との文明間の対話となるにちがいないと思った。
 伯爵は、伸一が深く敬意を抱いてきた人物の一人であった。伸一は、ヨーロッパ統合の先駆者として行動してきた伯爵から、その信念、哲学、経験を、謙虚に学びたかった。
 創価文化会館の玄関前で、伸一は、伯爵の一行を出迎えた。
 「ようこそ、おいでくださいました。お会いできて大変に光栄です。心から歓迎申し上げます」
 伸一は、握手を交わした瞬間から、旧知の間柄であるような思いがしてならなかった。それは彼が、日本語に翻訳されている伯爵の著作や関係書には、ほとんど目を通し、その主張や思想、生き方に、深く共感してきたからにほかならない。
 会見は、伯爵に同行してきた、招待団体であるNHKの関係者らも同席し、英語の通訳を介して行われた。
 最初に話題になったのは、世界平和に果たすべき日本の使命であった。
 伯爵は言った。
 「私が一番大事だと思っているのは、日本が先頭に立って、平和への理想を実現していくべきだということです。
 核時代の幕が開いたのは約二十年前ですが、現在、世界の多くの国が、次の戦争に向かって準備をしております。
 そのなかにあって、日本は、世界有数の経済力をもち、そして、世界に類例のない平和憲法をもっています。
 また、近代に至るまでの三百年間、日本には、国内でも、また、外国とも戦争がなかった時代があります。
 これは、平和の一つの先例といえます。
 さらに、現在の日本の文化には、西洋の文明、儒教、仏教が融合しています。
 これらを考えると、日本は世界に対して、平和への指導力を発揮していかなくてはならないというのが、私の考えです」
45  天舞(44)
 「大事なご意見です。全く、その通りであると思います」
 伸一は、伯爵の意見に、全面的に賛同することができた。彼も、「平和憲法」をもつ日本の使命の重さを、痛感していたからである。
 日本国憲法の前文と第九条には、平和主義と国際協調主義の理念が明確に謳われている。このうち、第九条の一項では、国権の発動たる戦争の放棄を宣言し、国家主権を、いわば自ら制限しているのである。
 伸一は、その条項に、国連などの国際機関に主権の一部を委ねようとする、憲法自身の″意志″ともいうべきものを感じていた。
 そこには、世界は一つという理想が内包されているといってよい。
 彼は、この憲法こそ、日本国民の最高の宝であると考えていた。
 また、第九条に込められた、戦争の根絶という人類の悲願の実現に、彼は生涯を捧げゆくことを決意していた。それが、とりもなおさず、仏法者の使命であるからだ。
 そして、日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、全世界に広げゆくことこそ、二十一世紀に向かって日本が歩むべき方向性であると、伸一もまた、結論していたのである。
 語らいは、冒頭から、核心に入っていったといえよう。
 伸一は、伯爵と会見できたことに、大きな喜びを感じた。
 世界平和を希求し、その方途を懸命に探求する伯爵は、まさに、彼にとって″同志″にほかならなかった。
 「今日は、日本の青年を代表して、文化国家としての日本の将来のために、大きくは世界平和のために、私の方から、何点か質問をさせていただきます」
 最初に伸一が尋ねたのは、世界の恒久平和の実現を考えた場合、ヨーロッパの統合を推進するだけでなく、さらに、もう一歩、考えを進める必要があるのではないかということであった。
 また、共産主義を排斥するだけの西欧の在り方では、東西両陣営の緊張はますます深まり、平和を達成することはできないのではないかとの、彼の率直な意見を伝えた。そして、感想を求めた。
46  天舞(45)
 伯爵は、最初、伸一の問いに答えていたが、やがて「私にも質問をさせてください」と言って尋ね始めた。
 「創価学会の仏教の復興の運動は、全世界にわたるものなのでしょうか、それとも、日本の国だけのものなのか、どちらでしょうか」
 「もちろん、日本だけではありません。日蓮大聖人の仏法の哲理をもとに、全世界の平和と人類の幸福を実現していくことが、私たちの目的です。
 万人が、『仏』という尊極無上の生命を具えていると説く、仏法の生命の尊厳や平等の哲理、また、『慈悲』という考え方は、世界の平和を築き上げるうえで、必要不可欠なものです。このヒューマニズムの哲理を、人類の共有財産として、世界に伝えていくことこそ、私ども創価学会の使命であると考えております」
 「そうですか。よくわかりました。実は、創価学会に対して、民族主義的であるとか、国家主義的であるといった批判を、よく耳にするんです」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。「日蓮というと、国家主義、民族主義のように思っている人がおりますが、それは、本質を見誤っています。日本の、いわゆる日蓮主義者たちの、誤った日蓮仏法の理解や言動から、そうした印象をつくられてしまったんです。
 日蓮大聖人は、鎌倉幕府の権力者を、『わづかの小島のぬしら主等』と言われているように、日本という国家の枠を超えて、広く人間の幸福を考えておられた。あの鎌倉時代に、仏法を『閻浮提えんぶだいに広宣流布せしめんか』と仰せになっているんです。『閻浮提』とは全世界の意味です。
 それは、一国家にとらわれた偏狭な発想とは、全く相反します。学会は、その御精神のままに、世界に仏法のヒューマニズムの運動を広げてまいりました」
 伸一の話を聞くと、伯爵は頷いた。
 「私は、創価学会の運動が、日本という一国家の民族主義的な運動ではないことが確認でき、大変に嬉しく思います。学会は、世界に大きく貢献できるでしょう」
47  天舞(46)
 伯爵は、さらに矢継ぎ早に、質問を発していった。
 「世界にメンバーは、どのぐらいいますか。そして、その人たちは、日本人ですか、それとも現地の人でしょうか」また、紛争の続くベトナムやカンボジア、さらにフランスなど、それぞれの国のメンバーの数や活動の様子などについて、丹念に尋ねるのであった。
 伸一は、それらの質問に丁寧に答えたあと、仏法とは何かについて言及した。
 「仏法というのは、人間と宇宙を貫く、生命の永遠不変の法則であり、また、人類の平和と幸福を実現するための指導原理といえます。したがって、現代科学とも、決して矛盾するものではありません。むしろ科学技術をリードし、人間の幸福に寄与するものにしていくための、哲学が仏法なんです。
 私たちの運動は、その仏法によって、人間自身の変革、つまり、人間革命をめざすものです。人間は、社会の担い手であり、創造の主体者です。ゆえに、その人間の生命、精神という土壌を耕していくならば、社会も変わっていきます。そして、陶冶された人格、生命の大地の上に、豊かな平和、文化の花を咲かせようというのが、創価学会の運動です。
 いっさいを育む人間の精神に、生命に、眼を向けよ――それが私たちの主張です」
 伯爵は、何度も大きく頷いた。
 「大事なことです。私は、仏教の、時代を超越した、科学と矛盾することのない、普遍妥当性を信じます。創価学会による日本における仏教の復興は、世界的な物質主義に対する、日本からの回答であると思います。これは、宗教史上、新たな時代を開くものとなるでしょう」
 そして、伸一をじっと見つめながら、感慨のこもった声で言った。
 「あなたは、常に非難中傷されながら、日本中の、いや世界の、実に多くの敵と戦っていることを、私は知っています。
 しかし、偉大な人というのは、皆、そうです。ただ、あなたの場合は、その敵でさえも、あなたが、天才的なリーダーであることを認めざるをえません」
48  天舞(47)
 当時、日本国内でも、また、諸外国でも、創価学会、そして、山本伸一への非難と中傷が、しばしば繰り返されていたのである。
 ナチス・ドイツに戦いを挑んで迫害を受け、亡命せざるをえなかったクーデンホーフ・カレルギー伯爵は、正義の旗を掲げ立った者の宿命を、知悉していたのだ。
 伸一は、毅然として語った。
 「今、私が、世界の多くの敵と戦っていると言われましたが、イデオロギーや宗教が異なっているからといって、私にとっては、本来、敵ではありません。
 もちろん、暴力やテロは絶対に悪ですし、民衆を支配し、隷属化させる権力とは、どこまでも戦います。
 しかし、人間の幸福、救済をめざす思想、宗教には、本来、人間を尊重するという共通項があります。それがある限り、必ず通じ合い、共感し合うはずであり、相互理解は可能であると思います。
 さらに、仏法で説く、万人が等しく『仏』の生命をもっているという考え方は、人間を貫く、内なる普遍の世界を開示するものといえます。
 人類がそこに着目し、人間の共通項に目を向けていくならば、分断から融合へと発想を切り替える、回転軸となっていくと確信しています。
 また、宗教の違いによって生じた文化的な差異は、違いを認めるというだけでなく、むしろ尊重すべきです」
 伯爵は、両手を広げて、賛同の意を表した。
 その瞳が輝き、顔には、屈託のない微笑が浮かんでいた。
 伯爵は、宗教戦争を、大きなテーマの一つにして、解決の道を探求してきた。
 そして、この時、伸一の話から、解決のための、なんらかのヒントを、得たのかもしれない。
 会見は、さらに、西洋哲学と仏法思想、国連の在り方、ベトナム問題などに及んだ。
 一時間の語らいは、あっという間に終わってしまった。
 伯爵は、名残惜しそうに席を立った。実りある会見であったが、伸一も、語りたいことや尋ねたいことが、まだ、たくさんあった。
 二人は固い握手を交わし、再会を約し合った。
49  天舞(48)
 日本を発った、クーデンホーフ・カレルギー伯爵から、十一月十八日、伸一のもとに、丁重な礼状が届いた。
 そこには、次のように綴られていた。
 「……貴殿とともに過ごしたあの会見は、私の日本訪問中、最も貴重な時間でありました。私は貴殿の偉大なる業績に賞讃の辞を送るとともに、私が心から敬服してやまない仏教のルネサンスによって、日本一国のみならず、アジアと世界の進路に貢献されんことを、衷心より期待するものであります」
 創価学会への伯爵の期待に、伸一は、世界平和への決意を新たにしたのであった。
 彼は、早速、返書を出した。
 そのなかで、三年後に、伯爵を日本にぜひ招待したいと述べ、次のように結んだ。
 「閣下がご指摘になり、また期待しておられます『仏教のルネサンス』を通じて、また全世界の平和勢力に協力を求めつつ、戦争なく軍備なき恒久平和を樹立することこそ、創価学会に課せられた最高の使命であると自覚し、ますますその決意を固めております。
 何とぞ閣下も長生きをされて、有意義な運動と重要な著作活動をお続けになられるよう、心からお祈り申し上げます。
 再び、近くお目にかかれる日を、楽しみにしております」
 会見の九カ月後、伯爵は、訪日の思い出を綴った、『美の国―日本への帰郷―』(鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会)を発刊した。
 そのなかで、山本伸一に「強く感銘した」として、こう記していた。
 「やっと39歳の、この男から発出している動力性に打たれたのである。彼は生まれながらの指導者である。鎌倉の大仏の模像ではないのである。生命力の満ち溢れている、人生を愛する人物である。率直で、友好的で、かつ非常に知性の高い人物である」
 「この会談は私にとっては、東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つであった」
 伸一と伯爵の交流は続き、書簡のやりとりが重ねられた。
 そして、東西の文明論をテーマにした対談集を出版する話が持ち上がり、次回の来日の際に、その対談を行うことが決まったのである。
50  天舞(49)
 クーデンホーフ・カレルギー伯爵と山本伸一が再会したのは、一九七〇年(昭和四十五年)の十月であった。
 対談の第一回は、七日、創価文化会館で、約三時間にわたって行われた。
 さらに、十七日には、創価学園(一九六八年開校)で、伯爵が「私の人生」と題する講演を行ったあと、四時間以上にわたって語り合った。
 また、二十五日、二十六日の両日は、落成間もない聖教新聞社の新社屋で行われ、対談は、延べ十数時間に及んだ。
 二十一世紀に向かって進みゆく青年のために、指標を残したい――その一心で、伸一は会見に臨んだ。
 対談は、伸一から問題提起をするというかたちで進められた。
 話は、日本論に始まって、国際情勢、国連論、国家論、自然と人間、公害問題、宗教の復権、指導者像、太平洋文明、民主主義、生命の尊重、青年論、女性論、教育論等々、多岐にわたった。
 その底流には、いかにして世界平和を実現するかという、明確な問題意識があった。伯爵は語る。
 「第三次大戦の回避は、なんらかの精神運動によって、人種、宗教、イデオロギー、国籍などによるあらゆる違いと対立を超えて、人類の共存と相互信頼の重要性が徹底された場合にのみ可能だと思います」
 伸一が答える。
 「私が主張する思想的条件とは、まさにその精神的な運動のことです。
 共存への機運がいかに高まったとしても、国家間の対立を止揚するものがなければ、第三次大戦は阻止できないかもしれません。この、あらゆる対立を超えさせるものを、人類の精神の中に構築しなければならないと思います。
 ……つまり、地球民族としての普遍的な精神を打ち立てなければならないと思います。あなたのパン・ヨーロッパ運動が果たした役割も、そこにあったと思うのです。私は、パン・ヨーロッパ主義は、やがて全人類を含めたインターナショナリズムへのワンステップとなるべきものと考えるのですが」
 「おっしゃる通りです」
 魂と魂が触れ合い、発光するかのように、二人の語らいは、人類の暗夜を照らし出す、英知の光となって輝いていった。
51  天舞(50)
 日本を「独自の文明をもつ、太平洋に存在する大陸」であると位置づける伯爵の、日本への期待は大きかった。
 伯爵は、力を込めて、伸一に訴えた。
 「大事なことは、偉大な思想を(日本が)外国に向かって、世界に向けて紹介することです。私は、その時が、すでにきていると信じます。その偉大な思想とは、インドに起こり、中国を経て、日本で大成した、平和的な、生命尊重の仏教の思想です」
 それは、伯爵の熱願であったにちがいない。
 伸一には、その言葉が遺言のように感じられてならなかった。
 現代社会の不幸の元凶は、人間生命が尊厳なる存在であるという、本源的な考えが欠如していることだ。この思考を欠いては、人間の復権はありえない。
 生命の尊厳とは、人間の生命、人格、個人の幸福を、いかなることのためにも、手段にしないということである。そして、それを裏付ける大哲理が世界に流布されなくては、本当の人類の幸福も平和もない。
 伯爵は、それを痛感していたのであろう。
 伸一は、誓いを込めて語った。
 「それは、私自身、これまでも真剣に取り組んできた問題です。これからも、生涯の念願として、世界の平和のため、人類の幸福のために、微力をつくす決意でおります」
 伯爵の口もとがほころび、顔には幾重にも深い皺が刻まれた。
 この対談は、翌一九七一年(昭和四十六年)の二月から、サンケイ新聞に、「文明・西と東」のタイトルで、半年間にわたって連載された。
 週二回、五十三回にわたって、紙面を飾ったのであった。
 さらに、七二年(同四十七年)には、対談集『文明・西と東』として、サンケイ新聞社出版局から発刊されたのである。
 この書を手にした人びとは、世界的な知性が創価学会を渇仰していることに驚愕した。また、同志は、いよいよ仏法という希望の旭日が、世界の海原に昇りゆく、時代の到来を感じるのであった。

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